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手放したくない理由  作者: つむぎ


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2/7

2

王宮の回廊は白く磨かれ、窓から差し込む陽の光が光沢のある床に映る。その輝きの中を進むエリスの足音は、誰にも邪魔されることなく、ただ静かに響く。


アドリアンが隣にいないのは、いつも通りのことだった。


ふと、曲がり角の向こうから微かな囁き声が聞こえた。


「王太子殿下、本当はレイナ嬢をお選びになりたいのではなくて?」


「そうよね。でも、公爵令嬢との婚約が決まっているから……」


「気の毒よね。あんなに仲が良いのに」


足が止まる。


それは、エリス自身が考えたこともなかった視点だった。アドリアンがレイナを大切にしていることは知っていたし、彼女を優先するのも見慣れた光景だった。けれど、それが「気の毒」とは思わなかった。


婚約とは務めであり、国のために決められた関係。アドリアンも、それを当然のこととして受け入れていたはずだった。だが、もしかすると——。


エリスは視線を少し落としながら、考えを巡らせた。


——もしも、彼が本当にレイナ嬢と結ばれたかったのだとしたら?


——けれど、その道を塞いでいるのが私だったとしたら?


その可能性に思い至ったとき、エリスは初めて「自分が身を引く」という選択肢に気づいた。


婚約が解消されれば、アドリアンは自由になる。そうすれば、レイナと結ばれる道が開けるのではないか。ならば、私が婚約を解くよう申し出るのが、最も良いのでは——。


エリスは、回廊の窓から庭園を見下ろした。そこで、鮮やかな光の中で並んで話す二人の姿が見える。アドリアンとレイナ。


彼らの距離は、近すぎず、けれど遠すぎもしない。言葉を交わすときの自然な笑顔。身を寄せるわけではなくても、確かに心を通わせている雰囲気があった。


エリスは、ほんの少し考えた後、小さく頷いた。


「婚約を解消して差し上げましょう」


親切心だった。それが最も理にかなっている。そうすることで、アドリアンもレイナも、周囲の人々も幸せになるのなら、何の問題もない。


彼女の中に、迷いはなかった。




エリスは翌日、話を切り出すことにした。王宮の応接室に柔らかな陽が差し込んでいた。豪奢な装飾が施された天井、壁にかけられた格式ある絵画——エリスはそんな部屋の一角に静かに立ち、正面に座る王太子アドリアンを見つめた。


「婚約を解消したいと思います」


そう告げたとき、アドリアンの表情がわずかに揺れた。


「……今、なんと?」


「婚約を解消するべきだと考えました」


エリスは落ち着いた声で繰り返した。事務的な報告のような口調だった。


アドリアンは息を飲み、しばらくの間、言葉を探すようにエリスを見つめた。その隣にはレイナがいた。彼女もまた驚いたようにエリスを見つめている。


「なぜ、そんなことを言う?」


「殿下はレイナ嬢を大切にされております。それは、傍から見ていても明らかですわ。そして、私との婚約がその障害になっているのであれば、それを取り除くのが最善ではないでしょうか?」


淡々とした声だった。それがかえってアドリアンを動揺させたのかもしれない。


「……違う、そんなことは——」


「私にとっても、王太子妃の座は義務であり、務めです。しかし、それが殿下やレイナ嬢を縛るものならば、私は不要ですわ」


レイナが戸惑ったようにアドリアンの顔を見上げた。


「ちょっと待って、エリス……私たちはそんなつもりじゃ——」


「エリス、お前は……俺がレイナを愛していると思っているのか?」


アドリアンが初めてその言葉を口にした。


エリスは彼を見つめる。その瞳には迷いがなかった。


「そうではないのですか?」


アドリアンは何かを言おうとしたが、答えられなかった。その沈黙が、エリスの疑念を確信へと変える。





「お話は聞かせてもらいました」


広間に場を移し、話し合いが行われることとなった。王妃が静かにきりだす。その後ろには王もいた。事態が王宮全体を巻き込んでいることがはっきりとわかる。


「エリス、辛い思いをさせてしまってごめんなさいね」


王妃はそう言いながらエリスの手を取った。しかし、エリスは何の感情も浮かばず、ただきょとんとする。


「……辛い思い? 私は、何も」


エリスが心からの疑問として首を傾げると、部屋の空気が微かに揺らいだ。王妃は困惑し、アドリアンも、レイナも、周囲の貴族たちも、何とも言えない表情を浮かべる。


「……王太子殿下への愛は、芽生えていなかったのですか?」


貴族の一人が恐る恐る尋ねた。


エリスはほんの少し考えた後、静かに答えた。


「愛とは……?」


再び、沈黙。


その言葉に、今度はアドリアンが口を開く。


「エリス、お前は……俺に対して何の感情も抱いていなかったのか?」


エリスは、彼の瞳をまっすぐに見つめる。


「殿下の婚約者としての役割を果たすことが、私の務めでした。私情を挟む理由はございません」


その言葉に、王妃は小さく息を呑み、王は眉間に深い皺を寄せる。そして、今度はアドリアンが周囲の人々に問いかけられる番だった。


「殿下は、レイナ嬢に恋をされていたのでは?」


アドリアンもまた、ぽかんとしながら「恋……?」と首を傾げる。


部屋にいた大人たちは、一斉に顔を曇らせた。


「……まさか、二人とも……?」


その場にいた全員が、教育の偏りを深く後悔した瞬間だった。


「と、とにかく、すぐに婚約を解消するのはやめようか」


王がようやく口を開き、部屋の空気が落ち着きを取り戻した。


「まずは、お互い少し距離を置いて考える時間を持つのがよい。エリス、お前は一度公爵家へ戻りなさい」


「……承知いたしました」


エリスは静かに頭を下げる。


アドリアンは何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。ただ、彼女がこの場からいなくなることに、奇妙な違和感を覚えていた。


婚約者とは、王太子妃とは、愛とは何か。


この宮廷の中で、当の二人だけが、その答えを持っていなかった。


こうして、婚約解消は一旦保留となり、エリスは王宮を離れることになった。


アドリアンは初めて、彼女のいない王宮を過ごすことになる——。

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