15
王宮の広間に、春の陽が柔らかく差し込んでいた。
エリスは静かに窓の外を眺めながら、ゆるやかに扇をたたく。
「——正式に、婚約続行を決めましたわね」
「そうだな」
アドリアンは彼女の隣に立ち、同じように外を見やる。
「殿下、私はまだ、恋というものを完全に理解したとは思えませんの」
エリスの声は、どこか微笑を含んでいた。
「だが、お前は俺を手放したくないと言った」
「ええ。でも、それが『恋』なのかは、まだ確信が持てません」
エリスは、静かに扇を閉じる。そして、アドリアンを見上げた。
「恋愛小説のように、胸が高鳴るとか、世界が変わるとか、そういう劇的なものではないのです。ただ、私は殿下がここにいることを当たり前だと思い、それがなくなったときに、とても困ると感じました」
「それでいいんじゃないか?」
アドリアンは、穏やかに微笑む。
「俺も最初は、お前のことをただの婚約者だと思っていた。けれど、お前がいなくなったとき、初めてお前の存在がどれほど大きかったかを知った」
エリスは、しばらく彼を見つめたあと、ふっと小さく笑う。
「殿下はいつも、私より先に気づかれるのですもの」
「悪いか?」
「ええ、少し悔しいですわ」
アドリアンはその言葉に、わずかに眉を上げた。
「……そうか」
彼は、ゆっくりと手を伸ばし、エリスの手を取る。
エリスは驚いたように目を瞬かせたが、彼の手の温もりを感じると、自然と指を重ねた。
「なら、お前が『これは恋だ』と確信できるまで、俺は待つ」
エリスは、しばらく黙っていたが——やがて、小さく頷いた。
「では、私ももう少し、殿下のことを知る努力をしてみますわ」
二人の間に、静かな風が吹く。
それは、情熱的な恋ではなく、激しい愛の囁きでもない。けれど、確かにここに「共に歩む」意志があった。
エリスとアドリアンの婚約は、もう義務ではない。
二人は、まだ「恋の形」を知らないままかもしれない。
けれど、それでもいい。
時間をかけて、少しずつ、お互いを知っていけばいいのだから。
***
そして数ヵ月後——
エリスは、王宮の庭でアドリアンと並んで歩いていた。
「殿下」
「なんだ?」
「今日、ふと思ったのですが……」
エリスは立ち止まり、ふわりと微笑む。
「殿下が他の方と踊るのを見るのは、少しだけ嫌でした」
アドリアンは驚いたように彼女を見つめた。
エリスは、扇を開きながら静かに続ける。
「これは、少しは恋に近づいたと言えるのではなくて?」
アドリアンは一瞬沈黙し——やがて、くすりと笑った。
「……そうだな」
エリスの指に触れるように、そっと手を添える。
「じゃあ、お前がそう確信できるように、これからも俺は努力しよう」
きりっとした顔で宣言したアドリアンを見て、エリスは軽く彼の腕に触れる。
「また先を行かれてますわ」
「そうか?」
「ええ。でも、今度はそれほど悪くは思いませんわ」
静かな笑みが交わされる。
恋に気づくまでの道のりは長かった。
けれど、二人の物語は、これからもゆっくりと続いていく。




