14
エリスは書斎で読書をしていたが、侍女がそっと差し出した封筒を受け取り、淡々と開封する。
「……王宮からの正式な招待?」
書簡には、「婚約を続けるか解消するか、判断のためにしばらく王宮で共に過ごしてほしい」と記されていた。
両親の意見も聞き、少し考えた後、エリスは静かに頷く。
「……わかりました。お受けします」
恋とは何か。自分の気持ちはどこにあるのか。
まだ答えは出ていないけれど、考える機会を持つのは悪くない——そう思ったのだった。
***
王宮に戻ったエリスは、以前と同じように王太子の側に控えていた。けれど、決定的に違うのは「王太子妃としての役割」を求められていないことだった。
それが、妙に落ち着かない。
アドリアンもまた、今までとは違った形でエリスとの時間を持とうとするが、不器用すぎて逆に空回りしていた。
「お前、これが好きだったな」
ある日の食事の席で、アドリアンが妙にぎこちなく料理を取り分ける。エリスは扇を軽くたたきながら、それをじっと見つめた。
「殿下……そんなに慎重にならなくてもよろしいのでは?」
「いや、こういうことも大事だと聞いた」
「どなたから?」
「……ルイスだ」
エリスは小さくため息をつく。
「殿下が不自然なほど気を遣うと、むしろ落ち着きませんわ」
「そうか?」
「ええ。むしろ、今までのように自然にしていただいたほうが、私は過ごしやすいです」
「……難しいな」
アドリアンは少し考え込んだようだったが、やがて苦笑した。
「まあ、お前がそう言うなら」
エリスは、何か言いたげにアドリアンを見つめた後、ふっと目を伏せる。
彼が不器用ながらも「エリスと向き合おう」としていることはわかっていた。
今までの彼なら、こんなふうにわざわざ気を配ることはなかったはずだ。
それなのに、今の彼は——。
「殿下、また先を行かれていますわね」
エリスは扇を閉じながら、呆れたように微笑んだ。
***
その頃、アドリアンは近衛騎士ルイスに呆れられていた。
「殿下、そんなにエリス様を意識されていて、まだ気づかないんですか?」
「気づくとは?」
「もうすっかり惚れ込んでいるじゃないですか」
アドリアンは口を開きかけたが、ルイスが先に続ける。
「でも、エリス様がまだ答えを出していないのに、焦りすぎるのはよくありませんよ?」
「焦ってなどいない」
「そうですか? では、もしエリス様が、やっぱり婚約を解消しましょうと決めたら?」
アドリアンの表情がわずかに揺れた。
ルイスは、じっと彼の顔を見つめ、にやりと笑う。
「……そうなったら、困るんでしょう?」
アドリアンは答えなかった。
それが答えだった。
***
その後、アドリアンは数週間の公務のために王宮を離れた。
エリスは、王宮で変わらぬ日々を過ごしていたが——不思議なことに、少しだけ違和感を覚え始める。
王宮の廊下を歩きながら、ふと考える。
「……いつもなら、殿下がこの辺りを歩いていたはずなのに」
彼の姿がないことが、妙に静かに感じられた。
食事の席でも、なぜか「彼だったらこう言うだろう」と考えてしまう。
そして、ふと気づく。
「……私は、殿下がいないことに寂しさを感じているのかしら?」
それは、王太子妃としてではなく、「エリス・ロウェル」としての感情だった。
***
数週間後、アドリアンが離宮から戻る日。
エリスは、彼が馬車を降りた瞬間、思わず一歩踏み出していた。
「……?」
彼がこちらに歩いてくる。
エリスは、自分の鼓動が妙に速いことに気づいた。
「おかえりなさいませ、殿下」
アドリアンは、しばらく彼女を見つめた後、静かに口を開く。
「俺がいない間、どうだった?」
エリスは、ゆっくりと扇を閉じた。
「殿下がいないことに、少しだけ違和感を覚えました」
「違和感?」
「ええ。私が王宮にいた間、殿下は常にそこにおられました。だから、当たり前のように思っていたのかもしれません」
彼女はふと、扇を握る手に力を込める。
「でも、それがなくなったとき、私は——」
言葉が詰まる。けれど、心の中ではもう答えが出ていた。
「私は、殿下がここにいることを望んでいました」
アドリアンの目が、驚いたように見開かれる。
「……それは?」
エリスは、彼の目をまっすぐに見つめる。
「私が、殿下を手放したくないと思った証拠です」
アドリアンの胸が、大きく高鳴る。
エリスが、ついに彼を求めた。
それは、明確な「恋している」という言葉ではないけれど、アドリアンにとっては十分だった。
彼は、静かに微笑みながら、一歩近づいた。
「……俺も、お前を手放すつもりはない」
エリスの表情が、わずかに緩む。
二人の間に、もう迷いはなかった。
婚約は、もう「義務」ではなくなった。
それは、「互いを求めるもの」となり、新たな関係を築く第一歩となる——。




