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手放したくない理由  作者: つむぎ


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エリスは書斎で読書をしていたが、侍女がそっと差し出した封筒を受け取り、淡々と開封する。


「……王宮からの正式な招待?」


書簡には、「婚約を続けるか解消するか、判断のためにしばらく王宮で共に過ごしてほしい」と記されていた。


両親の意見も聞き、少し考えた後、エリスは静かに頷く。


「……わかりました。お受けします」


恋とは何か。自分の気持ちはどこにあるのか。


まだ答えは出ていないけれど、考える機会を持つのは悪くない——そう思ったのだった。


***


王宮に戻ったエリスは、以前と同じように王太子の側に控えていた。けれど、決定的に違うのは「王太子妃としての役割」を求められていないことだった。


それが、妙に落ち着かない。


アドリアンもまた、今までとは違った形でエリスとの時間を持とうとするが、不器用すぎて逆に空回りしていた。


「お前、これが好きだったな」


ある日の食事の席で、アドリアンが妙にぎこちなく料理を取り分ける。エリスは扇を軽くたたきながら、それをじっと見つめた。


「殿下……そんなに慎重にならなくてもよろしいのでは?」


「いや、こういうことも大事だと聞いた」


「どなたから?」


「……ルイスだ」


エリスは小さくため息をつく。


「殿下が不自然なほど気を遣うと、むしろ落ち着きませんわ」


「そうか?」


「ええ。むしろ、今までのように自然にしていただいたほうが、私は過ごしやすいです」


「……難しいな」


アドリアンは少し考え込んだようだったが、やがて苦笑した。


「まあ、お前がそう言うなら」


エリスは、何か言いたげにアドリアンを見つめた後、ふっと目を伏せる。


彼が不器用ながらも「エリスと向き合おう」としていることはわかっていた。


今までの彼なら、こんなふうにわざわざ気を配ることはなかったはずだ。


それなのに、今の彼は——。


「殿下、また先を行かれていますわね」


エリスは扇を閉じながら、呆れたように微笑んだ。


***


その頃、アドリアンは近衛騎士ルイスに呆れられていた。


「殿下、そんなにエリス様を意識されていて、まだ気づかないんですか?」


「気づくとは?」


「もうすっかり惚れ込んでいるじゃないですか」


アドリアンは口を開きかけたが、ルイスが先に続ける。


「でも、エリス様がまだ答えを出していないのに、焦りすぎるのはよくありませんよ?」


「焦ってなどいない」


「そうですか? では、もしエリス様が、やっぱり婚約を解消しましょうと決めたら?」


アドリアンの表情がわずかに揺れた。


ルイスは、じっと彼の顔を見つめ、にやりと笑う。


「……そうなったら、困るんでしょう?」


アドリアンは答えなかった。


それが答えだった。


***


その後、アドリアンは数週間の公務のために王宮を離れた。


エリスは、王宮で変わらぬ日々を過ごしていたが——不思議なことに、少しだけ違和感を覚え始める。


王宮の廊下を歩きながら、ふと考える。


「……いつもなら、殿下がこの辺りを歩いていたはずなのに」


彼の姿がないことが、妙に静かに感じられた。


食事の席でも、なぜか「彼だったらこう言うだろう」と考えてしまう。


そして、ふと気づく。


「……私は、殿下がいないことに寂しさを感じているのかしら?」


それは、王太子妃としてではなく、「エリス・ロウェル」としての感情だった。


***


数週間後、アドリアンが離宮から戻る日。


エリスは、彼が馬車を降りた瞬間、思わず一歩踏み出していた。


「……?」


彼がこちらに歩いてくる。


エリスは、自分の鼓動が妙に速いことに気づいた。


「おかえりなさいませ、殿下」


アドリアンは、しばらく彼女を見つめた後、静かに口を開く。


「俺がいない間、どうだった?」


エリスは、ゆっくりと扇を閉じた。


「殿下がいないことに、少しだけ違和感を覚えました」


「違和感?」


「ええ。私が王宮にいた間、殿下は常にそこにおられました。だから、当たり前のように思っていたのかもしれません」


彼女はふと、扇を握る手に力を込める。


「でも、それがなくなったとき、私は——」


言葉が詰まる。けれど、心の中ではもう答えが出ていた。


「私は、殿下がここにいることを望んでいました」


アドリアンの目が、驚いたように見開かれる。


「……それは?」


エリスは、彼の目をまっすぐに見つめる。


「私が、殿下を手放したくないと思った証拠です」


アドリアンの胸が、大きく高鳴る。


エリスが、ついに彼を求めた。


それは、明確な「恋している」という言葉ではないけれど、アドリアンにとっては十分だった。


彼は、静かに微笑みながら、一歩近づいた。


「……俺も、お前を手放すつもりはない」


エリスの表情が、わずかに緩む。


二人の間に、もう迷いはなかった。


婚約は、もう「義務」ではなくなった。


それは、「互いを求めるもの」となり、新たな関係を築く第一歩となる——。

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