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王宮の広間に差し込む陽の光は、真珠のように滑らかな大理石の床に反射し、淡い輝きを放っていた。その中心に立つエリスは、端正な横顔を変えることなく、扇を静かに開く。
「エリス、すまない。待たせた」
王太子アドリアンが、軽く息を切らせながら扉をくぐった。その傍らには、当然のようにレイナ・ヴェルトナーが寄り添っている。
「いえ、殿下のお時間を頂いている身ですから」
淡々とした返答をしながら、エリスは視線を落とした。今日の午前中は王太子妃教育の一環として、王宮での公務の報告を受ける予定だった。アドリアンが遅れるのは珍しいことではない。だが、その理由が毎回レイナとの会話や散策であると知っていても、エリスは何の感情も抱かなかった。
「今日の予定は、王城の書簡整理と次回の宴の確認です。王妃陛下より、後宮の改装についてもご相談がありました」
「そうだったな。ああ、でも、レイナも一緒に聞いていいか?」
「……ええ、もちろん」
エリスは微笑みながら、椅子を勧めた。レイナは嬉しそうに席に着き、アドリアンは当たり前のように彼女の隣に腰掛ける。エリスは正面に座り、机上の書類を整えた。
「昨日ね、庭園の改修についても少し話したのよ。噴水の位置をもう少し奥にすれば、薔薇園が映えるんじゃないかって」
「確かに。それなら、今よりも空間が広く見えるな」
レイナが笑顔で話し、アドリアンがそれに相槌を打つ。二人の会話は自然で、どこか息の合った心地よさがあるように見えた。エリスは書類を指でなぞりながら、静かにそれを聞いていた。
「それでは、後宮改装の件は王妃陛下と相談のうえ、工房へ指示を出しておきます」
「助かるよ、エリス。いつも任せてばかりで悪いな」
「殿下の大切なお仕事を支えるのが、王太子妃としての役目ですから」
その言葉に、アドリアンは何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。レイナはそんな二人のやり取りを見て、柔らかく微笑む。
「エリスって、本当に何でもきちんとしてるのね」
「当然のことをしているだけです」
「でも、もっと殿下に甘えてもいいんじゃない?」
ふとしたレイナの言葉に、エリスはまばたきをした。
「甘える、とは?」
「だって、婚約者なんだから。私みたいに、もっと自然に接すればいいのに」
エリスは、淡く微笑んだ。
「私と殿下の関係は、国の未来のために定められたもの。レイナ嬢のように気楽に接するのは、少し難しいですわ」
レイナは驚いたように目を見開き、アドリアンは口を閉ざした。部屋に、しんと静寂が落ちる。
エリスは、何か間違ったことを言ったのだろうか。婚約者として、必要な役割を果たしているだけ。それ以上の感情が必要だとは、誰からも教わらなかった。
「そ、そうかもしれないけど……」
レイナがぎこちなく笑う。アドリアンは何かを考えるように視線を落とし、机に指を滑らせた。
「そういうものなのか……」
「ええ。殿下も、そのつもりでおられるのでは?」
アドリアンは、何も答えなかった。
エリスはゆるやかに立ち上がり、机上の書類を整える。義務としての婚約。義務としての支え。自分はただ、それを果たせばいい。
エリスは微笑みを絶やさぬまま、そっと扇を閉じた。




