第8話 家族といても心はオフィス:氷室翔③
チームリーダー就任2週間後、月曜日の朝9時。チームの朝会が始まる。
6人のメンバーが集まる。ベテランの大塚(45歳)、中堅の森田(35歳)と加藤(32歳)、若手の野村(28歳)と川口(26歳)、そして翔(35歳)。
「今日は重要な発表がある」と翔が切り出す。「今日から、新しいルールを導入する。情報共有の徹底だ」
ホワイトボードに大きく書く。「全てのメールに私、翔をCCに入れること」。
「社内メール、社外メール、すべてだ。クライアントとのやり取り、他部署との連絡、チーム内の相談。すべてのメールに、私をCCに入れてほしい」
会議室の空気が変わる。メンバーたちの表情が曇る。大塚が手を上げる。「翔さん、それは...全部ですか?」
「全部だ」と翔。「チーム全体の状況を把握する必要がある。誰がどの案件を進めているか、どんな問題があるか、どんな成果が出ているか。すべてを知っていないと、適切な指示が出せない」
( これで完璧だ...全員の動きが見える...問題が起きる前に手を打てる...15億円の目標も、これで達成できる... )
中堅の森田が不安そうに質問する。「でも...翔さん、それって膨大な量のメールになりませんか?私たち、一日に何十通もメールを送りますよ」
「問題ない」と翔。「私はすべて目を通す。それがリーダーの責任だ」
若手の川口が小さな声で「監視じゃないですか...」とつぶやく。翔の耳に届く。
「監視じゃない」と翔が即答する。「情報共有だ。ホウレンソウを徹底するにはメールにCCを落としてもらうのが一番効率的と判断した。そして透明性のある組織運営だ。チーム全体の最適化のためだ。15億円という目標を達成するために必要なことなんだ」
ベテランの大塚の目に、失望の色が浮かぶ。説得なんて到底できそうもない。そして言った「翔さん...あなた、変わりましたね」。その言葉が、翔の胸に刺さる。でも翔は表情を変えない。「成果を出すために必要なことだ。理解してほしい」
朝会が終わり、メンバーたちは無言で席に戻る。誰も翔に話しかけない。いつもなら、朝会の後に雑談が始まるのに。今日は、誰も何も話さない。
( みんな、今は理解できないかもしれない...でも結果が出れば、分かるだろう...これがチームのためなんだ... )
—その日の午前中
若手の野村がクライアントの山田商事にメールを書き始める。以前なら5分で終わる簡単な日程調整のメール。しかし今は違う。
宛先:山田商事 佐藤様
CC:翔、大塚、鈴木(関係者)
件名:次回打ち合わせ日程のご相談
本文を書き終わる。でも送信ボタンを押す前に、野村は立ち止まる。「翔さんがこのメールを読んだら、どう思うだろう?」。文面を見直す。もっと丁寧に。もっと詳しく。背景説明も入れよう。翔さんが状況を理解できるように。
15分後、ようやくメールを送信する。本来5分で済む作業が、3倍の時間がかかった。
—その日の午後
中堅の加藤が緊急の案件でクライアントの鈴木様に連絡する必要がある。納期変更の相談。急いで対応しないと、プロジェクト全体に影響が出る。
しかし、翔がCCに入ることを考えると、いきなり本題に入るわけにはいかない。クライアントも「なぜ急に上司がCCに?何か問題があったのか?」と不安になるかもしれない。
加藤は決断する。まずクライアントの鈴木様に事前連絡のメールを送る。「鈴木様、いつもお世話になっております。納期の件で至急ご相談がございます。次のメールで詳細をお送りしますが、情報共有のため弊社のチームリーダー・氷室もCCに入れさせていただきます。何卒よろしくお願いいたします」。
そして10分後、本題のメールを送る。宛先:鈴木様、CC:翔。納期変更の相談内容を詳しく説明する。
本来1通で済む緊急連絡が、2通のメールと20分の時間がかかった。しかも鈴木様からの返信には「氷室様もご覧になっているとのことで、少し緊張しますね」という一文が添えられていた。クライアントにも余計な気を使わせてしまった。
( これ...本当に効率的なのかな?取引先にまで気を使わせてしまった...なんかメール送るのに、すごく時間かかるようになった気がする... )
—午後5時
ベテランの大塚が翔の席に来る。「翔さん、少しお時間いいですか?」
翔は画面から目を離さずに答える。「今メールを処理してる。後でもいい?それかメールでくれる?」
大塚の表情が曇る。「...分かりました」。そう言って、大塚は自分の席に戻る。翔は画面を見続ける。メール、メール、メール。読んでも読んでも、新しいメールが届く。単なる日程調整で往信が10件続くものから経費処理といったものも届く。
( メールの量が多すぎる...本当に重要な情報が埋もれてしまう...でも、すべて読まないと...これがリーダーの仕事なんだ... )
夜9時、翔は帰宅する。玄関を開けると、寝巻き姿の結衣が駆け寄ってくる。「パパ、おかえり!」。でもすぐに立ち止まる。「パパ...怖い顔してる」
「え?」と翔。「どういうこと?」。結衣が少し後ずさる。「なんか...怒ってるみたいな顔」
翔は洗面所に行って、鏡を見る。確かに、眉間に深いシワが刻まれている。口角も下がっている。険しい表情。いつからこんな顔になったのか。
リビングに戻ると、美咲が夕食の準備をしている。「お疲れ様」と美咲。でもその声は、どこか冷たい。
夕食を食べながら、美咲が言う。「最近、あなた変わったわ」。「え?」と翔。「どういう意味?」
「リーダーになる前は、もっと穏やかだった。でも今は...いつもイライラしてる。家族と話していても、上の空。結衣が話しかけても、適当に返事してる」
「そんなことない」と翔が反論する。「仕事が忙しいだけだ」
「それは分かってる」と言い、美咲は問いかける「でも...仕事のこと少し考えすぎじゃないかと自分でも思わない?」
翔は答えられない。美咲が続ける。「あなた、最近笑ってない。いつも仕事と数字のことばかり考えてる。家族と一緒にいても、心はオフィスにある」
その言葉が、翔の胸に深く刺さる。でも翔は反論できない。なぜなら、美咲の言う通りだから。
夜11時、翔は眠れずに近所を散歩する。3月の夜は冷たい。コートを着て、マンションの周りを歩く。住宅街は静かで、街灯だけが道を照らしている。
公園を通りかかる。滑り台、ブランコ、砂場。街灯に照らされた遊具たちが、静かに佇んでいる。誰もいない。風だけがブランコを揺らしている。
翔は立ち止まる。この公園。8年前、このマンションに引っ越してきた時、美咲と二人で散歩した。まだ結衣が生まれる前。「ねえ、子供ができたら、この公園に通うことになるわね」と美咲が言った。「そうだね。滑り台を一緒に滑ったり、ブランコを押してあげたり」と翔が答えた。二人で笑った。温かい未来を想像していた。
でも現実は違った。結衣が生まれて、成長して、今は6歳。この公園の前を何度も通っているのに、結衣と一緒に遊んだ記憶がほとんどない。翔が通っているのは、この公園ではなく、オフィスだ。毎朝7時に家を出て、毎晩10時に帰る。土日も仕事。
( あの時、美咲と約束したのに...子供ができたら一緒に公園に通うって...でも…家族を幸せにするためにも今は仕事を頑張らないと…戦いは続いている)
翔は公園を後にして、マンションに戻る。自宅のドアを開ける。リビングは暗い。美咲と結衣は、もう寝ている。
翔はリビングで、気合を入れ直し、PCを開く。明日の資料を念入りに確認する。数字、グラフ、戦略。それが翔の世界のすべて。今は目標達成が最優先。家族のことは後で考える。
ただ、その後でが、いつになるかも、そして本当に来るかも分からない。
続く




