第7話 いいね100個、その先にあるもの:白石陽③
11月下旬、秋晴れの土曜日。朝9時、陽は目覚ましより30分早く目を覚ます。今日は「完璧な投稿」の日。スマホのアラームをオフにして、Instagramを開く。
フォロワーのタイムラインをスクロールする。綺麗なカフェの写真、紅葉狩りの投稿、友達との楽しそうな集合写真。秋の行楽シーズン、みんな充実した週末を過ごし始めている。陽は自分も負けていられないと思う。
昨日の夜、同僚の松本さんから「明日、みんなで女子会やるんだけど、陽ちゃんも来ない?」とLINEが来た。
陽の指は「行きたい!」と打ちかけて、止まった。明日は、話題のイエローボトルの限定ケーキの発売日。確実に映える絶好のチャンス。絶対にインスタにアップしなければ。
100は絶対に越えなければならない。立ち直った陽は強く決心していた。
「すみません、予定があって...」と返信した。松本さんからは「残念!また誘うね!」とスタンプ付きの返信。陽は少しだけ、胸が痛んだ。でもすぐに、明日の投稿のイメージを膨らませ始めせた。
( 女子会も楽しそうだけど...でも明日の土曜日は100を超える日)
そして土曜日の朝10時、陽は自宅マンションを出る。服装は「カジュアルだけどおしゃれ」を意識したコーディネート。白いブラウスにベージュのカーディガン、デニム。アクセサリーは控えめに。鏡の前で何度も確認して、自撮りを3枚撮る。後で投稿に使えるかもしれない。
電車の中、スマホでイエローボトルの限定ケーキの情報をチェックする。「紅葉の栗のモンブラン」。価格は980円。高いけど、これが「映える」んだ。ハッシュタグを検索すると、もう何人かが投稿している。綺麗な写真ばかり。陽の心が焦る。
( もうこんなに投稿されてる...私も早く撮らないと、遅れをとる...でもみんなより良い写真を撮らないと意味がない... )
11時、イエローボトルに到着。予想通り、店の外には行列ができている。15人ほどの列。陽は最後尾に並ぶ。スマホを見ながら待つ。周りの人たちも同じように、スマホに夢中だ。
30分待って、ようやく店内へ入れた。店員が席を案内してくれる。「窓際のお席でよろしいですか?」「はい、お願いします!」陽の心が跳ねる。窓際の席。特等席だ。
席に座ると、窓から柔らかな秋の陽光が差し込んでくる。外の景色も良い。通りの向こうには街路樹が見える。イチョウやモミジが鮮やかに色づき、黄金色と紅色のグラデーションが秋風に揺れている。これは完璧な背景だ。インスタ映え間違いなし。
メニューを開く。限定の栗のモンブラン、980円。ブレンドコーヒーを追加すると、合計1,460円。陽の頭に、先週のランチのサンドイッチが浮かぶ。あれは480円。この金額は、サンドイッチ3日分。
一瞬躊躇する。でもすぐに、自分に言い聞かせる。
( これは「投資」だ。良い投稿は、フォロワーを増やす。フォロワーが増えれば、いいねも増える。いいねが増えれば...私の価値が上がる。だから、これは無駄遣いじゃない。 )
「こちらの限定モンブランと、ブレンドコーヒーをお願いします」店員に注文する。声が少し弾んでいる。
ケーキとコーヒーがテーブルに並ぶ。陽はまず、テーブルの上を整理する。メニューを脇に置き、ナプキンを少し広げて、フォークの位置を調整する。そして、スマホを構える。
1枚、2枚、3枚—角度を変えて撮影する。真上から、斜め45度から、横から。ケーキとコーヒーの距離を変えて、また撮影。フォークの向きを変えて、また撮影。自然光の入り方を確認して、また撮影。
10枚、15枚、20枚。隣の席ではカップルが楽しそうに会話している。「このケーキ、めちゃくちゃ美味しいね」「うん、クリームもふんわりして最高」。陽はその声を聞きながら、また写真を撮る。
( もっと「自然な感じ」にしたいな...わざとらしく見えたら台無しだ... )
陽は「自然な雰囲気」を演出するために、わざとケーキを少し崩す。フォークでひと口分を取り分けて、お皿の端に置く。「食べている途中」の演出。そしてまた撮影。5枚、6枚、7枚。
30枚撮影して、ようやくケーキを口に運ぶ。フォークを刺した瞬間、気づく。マロンクリームが少し溶け出している。店内の暖房で、15分も放置していたからだ。黄金色のクリームが、お皿の端にしっとりと広がっている。
口に入れる。味は—実は、よく分からない。頭の中は次の撮影のことでいっぱいで、味覚が働いていない。「美味しい」と思おうとするけど、本当に美味しいのか自信がない。クリームの食感も、ベストな状態ではない気がする。
コーヒーも飲む。ぬるい。注文したときは、きっと完璧な温度だったはず。でも撮影に夢中になっている間に、冷めてしまった。ぬるいコーヒーは、香りも味も半減している。
隣のカップルは食べ終わっている。二人とも笑顔で、会話を楽しんでいる。「ここはまた来たいね」「コーヒーも美味しい」—彼らは、ちゃんと味わっている。
陽は少しだけ、羨ましいと思う。彼らは、目の前のケーキを楽しんでいた。陽は、目の前のケーキを「撮影するもの」としてしか見ていなかった。
( 一番美味しいタイミング、逃しちゃった...でも、写真は撮れた...それでいいんだ... )
撮影が終わり、陽はカフェを後にする。電車の中で、撮った写真を見返す。30枚の中から、ベストな1枚を選ぶ。これは少し暗い。これはフォークの位置が悪い。これは背景がゴチャゴチャしている。
1時間かけて、3枚に絞る。そしてその3枚それぞれに、フィルターを試す。「Clarendon」「Juno」「Lark」「Ludwig」「Valencia」—5つのフィルターを順番に適用して、比較する。明度を上げて、彩度を下げて、コントラストを調整して—微調整を繰り返す。
午後2時、自宅に戻る。ようやく完璧な1枚が決まる。フィルターは「Juno」、明度+15、彩度-5、シャープネス+10。
キャプションを考える。「秋の味覚に癒される」と打つ。でも待って、「癒される」は使い古されている表現じゃないか?「至福のひととき」—これも平凡。「この秋いちばんのご褒美」—少し大げさ?
10分悩んで、結局「秋の味覚に癒される」に戻る。無難が一番だ。そしてハッシュタグ。「#イエローボトル #限定モンブラン #秋カフェ #カフェ巡り #秋の味覚 #おしゃれカフェ #幸せな時間」
午後2時15分、投稿ボタンを押す。投稿が完了する。陽はすぐにスマホの画面を見つめる。通知を待つ。気づけば正座して祈っている。
1分経過—3いいね。5分経過—20いいね。10分経過—35いいね。順調だ。陽の心臓が高鳴る。これはいける。今日は100いいねを超えるかもしれない。
30分経過—50いいね。ペースが速い。過去最高だ。見知らぬフォロワーからも次々といいねが来る。陽はスマホを握りしめて、通知を見続ける。
1時間経過—80いいね。順調に増えている。陽の心臓が早く打つ。あと20個。あと20個で100。
1時間30分—90いいね。あと10個。もうすぐ。もうすぐ100に届く。
1時間45分—96いいね。あと4個。スマホを両手で握りしめる。画面を更新する。97。98。99。
( あと1個...あと1個で100...! )
そして—2時間経過。
画面を更新する。数字が変わる。
「105」
初めての100超え
陽の目が大きく見開かれる。100を超えた。初めて。今まで半年間、何回投稿したのか分からない。でも今日、ついに100を超えた。
「やった...」
小さく声が出る。陽はスマホを胸に抱きしめる。嬉しい。本当に嬉しい。戦略は正しかった。ハッシュタグ15個、休日の昼食後のゴールデンタイム、映える写真。全部が上手くいった。
陽はもう一度画面を確認する。105。100を5個も超えている。三桁の数字。二桁とは違う。見た目が違う。重みが違う。
10分後。108個。まだ増えている。110個。112個。止まらない。
「すごい...」
陽は笑顔になる。久しぶりの、心からの笑顔。何度も失敗して、諦めそうになって、それでも続けてきた。そして、ついに100の壁を突破した。この喜びは、誰にも共有できない。SNSに投稿することもできない。でも、陽には確かに存在する。
諦めなくて良かった。続けてきて良かった。戦略を立てて、努力して、その結果が実を結んだ。 温かい達成感が、胸の中に広がった。
でも…
なぜか…
そう…不思議なことに、その喜びは長くは続かなかった。
30分後には、あっさりと、もう色褪せ始めていた。
午後5時、陽はベッドに横になる。スマホを見ながら、他の人の投稿をスクロールする。同期の美香の投稿—298いいね。後輩の桜子の投稿—175いいね。
( 私は112...100は超えたけど、まだみんなより少ない... )
もっと綺麗な写真。もっと充実した週末。陽の心に、また焦りが湧いてくる。
達成感は消え、新しい目標が陽を縛り始める。100という壁を越えたのに、軽くなった心がまた重くなる。
ふと、窓の外を見る。イチョウやモミジが風に揺れている。鮮やかな紅葉。家のこんな近くで綺麗に色づいていたんだ。全然気づいていなかった。
( いつから、こんな風になったんだろう...投稿するために生きているような気がする... )
気晴らしに外に出て紅葉を眺める。綺麗。なぜか現実の世界に戻ってきたかのような感覚になる。
夕方6時、LINEに通知。松本さんから女子会の集合写真が送られてくる。5人の笑顔。「陽ちゃんも来れば良かったのに!」というメッセージ付き。陽は写真を見つめる。みんな、本当に楽しそうだ。
陽はInstagramを開いて、自分の投稿を見る。135いいね。目標を大きく超えた。でも心は空虚だ。「幸せな時間」と書いたけど、本当に幸せだったのだろうか?
(次は200?300?どこまで行けば満足できるんだろう... )
夜8時、陽は近くのコンビニへ行く。98円のアイスを買う。自宅に戻って、そのアイスを食べる。添加物だらけの安いアイス。でも、なぜか今日の高級ケーキより美味しく感じる。
夜10時、陽はベッドに横になる。スマホを見る。投稿は145いいね。フォロワーも2人増えた。数字は増えている。でも、満たされたと思っても、もっと満たされたいと思う。そしてその「もっと」はずっと続いて、ずっとずっと満たされないのでは。
終わりのない、違う世界の階段を上り続けていくような、そんな感覚。 でも、なぜかその違う世界に誘われるがままに行ってしまう。
頭では分かっている。だけど、このいいねを求める本能が止まらない。
( きっと、また来週も、同じことを繰り返してしまう...いいね、の数を追いかけて... )
そして暗闇の中、青白いスマホの光を浴びながら、いつものようにスクロールをし続けた。そして200にいくための分析を頭の中で回していた。
続く




