第6話 決して戻らない8年間の後悔:花岡香織②
土曜日の午前10時、香織は近所の大型書店の7階、ビジネス書コーナーにいる。週末の朝、静かな店内。数人の客が真剣な表情で本を選んでいる。
香織は「人事・キャリアコンサルタント」の棚の前に立ち尽くしている。『最新ピープルアナリティクス入門』『AIと人事の未来』『タレントマネジメント実践ガイド』『データドリブン人事戦略』。どれも厚い。どれも難しそう。
しかし専門知識を増やすしかない。AIに職場を追い出されないためには、より高度な知識が必要だ。香織はそう自分に言い聞かせる。
でも何から手をつけていいかわからない。一冊手に取って、パラパラとめくる。わからない言葉だらけ。また棚に戻す。別の本を手に取る。これもわからない。
結局、手あたり次第6冊を選ぶ。レジで会計を済ませる。合計金額15,800円。袋が重い。ずっしりとした重さが、これから背負う勉強の重さを予感させる。
午後1時、自宅のダイニングテーブル。コーヒーを淹れて、まず一冊目を開く。『最新ピープルアナリティクス入門』。はじめにのページ。「本書は、データサイエンスの手法を人事領域に応用するための実践的ガイドです」
次のページ。目次。第1章「ピープルアナリティクスの基礎概念」、第2章「エンゲージメント・サーベイの設計と分析」、第3章「コンピテンシー・モデリングとタレント・マネジメント」。
香織は深呼吸する。大丈夫。一つずつ理解していけば。第1章を開く。
「ピープルアナリティクスとは、人材データを収集・分析し、組織のパフォーマンス向上に資するインサイトを抽出する手法である。エンプロイー・エクスペリエンスの最適化、リテンション・レートの改善、コンピテンシー・ギャップの特定など、多岐にわたる用途がある」
香織は一文を読むのに5分かかる。「ピープルアナリティクス」って何?スマホで検索する。「人材データ分析」。なるほど。でも「エンプロイー・エクスペリエンス」は?「従業員体験」。「リテンション・レート」は?「定着率」。「コンピテンシー・ギャップ」は?「能力の差」。
一つ一つ調べて、ノートに書き写す。一段落を理解するのに30分かかる。
次の段落。「組織におけるピープルアナリティクスの戦略的活用は、エンプロイー・エンゲージメントの可視化を通じて、タレント・リテンション率の向上とコンピテンシー・ギャップの解消にある」
香織は頭を抱える。また知らない言葉。「エンプロイー・エンゲージメント」「タレント・リテンション」。調べる。メモする。読み返す。でも文章全体の意味が繋がらない。
午後3時。2時間経過。まだ第1章の3ページ目。進まない。コーヒーを飲む。冷めている。
午後5時。第1章の5ページ目。夕日が窓から差し込む。テーブルの上には付箋だらけのテキスト、びっしり書かれたノート、辞書代わりのスマホ。でも理解は進まない。第一章だけでもまだ30ページある。まだまだ道のりは遠い。
ふーっ、とため息をついた。
そして恐る恐る、第2章「エンゲージメント・サーベイの設計と分析」をそっとめくってみる。顔を横にして、ゆっくりとページとページの隙間をのぞき込む。すると見たことのない単語が飛び込んできた。
「クロンバックのα係数」「因子分析の固有値」
バシッ!本を閉じ、座ったまま後ろに飛んだ。
—これはダメだ。直感がそう告げた。自分には向かない。というか絶対に無理。AIに対抗するには、もっと別のアプローチが必要だ。少し呼吸が荒れていた。
( 資格...そうだ、資格を取れば...資格なら、AIにはできない... )
午後6時。香織はスマホで検索を始める。「人事 資格 AI対策」。いくつかのサイトが表示される。「AIに負けない人事パーソンになるための資格5選」という記事を開く。
1位:キャリアコンサルタント
2位:社会保険労務士
3位:産業カウンセラー
4位:メンタルヘルス・マネジメント検定
5位:人事総務検定
まず「キャリアコンサルタント」を調べる。国家資格。受験資格は、実務経験3年以上または養成講習の修了。香織には実務経験がある。
試験内容は...学科試験と実技試験。合格率を見る。学科試験:約50%。実技試験:約60%。両方合格で...約30%。
香織は息を呑む。30%。10人中7人が落ちる。しかも「標準学習時間:300時間以上推奨」と書いてある。300時間。1日2時間勉強しても、5ヶ月かかる。
次に「社会保険労務士」を調べる。これも国家資格。合格率...6.4%。香織の手が震える。100人中6人しか受からない。「標準学習時間:1000時間」。1日3時間勉強しても、1年かかる。
「産業カウンセラー」。合格率:約60%。これは比較的高い。でも受験資格が「協会指定の養成講座(104時間)を修了」。104時間。土日に通っても、3ヶ月以上。費用は約30万円。
「メンタルヘルス・マネジメント検定」。I種の合格率:約17%。II種:約50%。
香織はテーブルに資格情報を書き出していく。一つ一つ、合格率と学習時間を記入する。
どれも、簡単ではない。どれも、時間がかかる。そして、合格の保証はない。
午後8時。スーパーの特売のクロワッサンをかじりながら、香織は資格の過去問題を見てみる。キャリアコンサルタントの学科試験。
「問題:スーパービジョンにおけるパラレルプロセスの説明として最も適切なものはどれか」
「問題:キャリア理論におけるプランド・ハップンスタンス・セオリーの提唱者は誰か」
「問題:ジョブ・カードの様式2において記載すべき項目はどれか」
わからない。全部わからない。専門用語だらけ。理論の名前も、提唱者も知らない。香織の8年間は全く役に立たない。
午後9時。社会保険労務士の過去問を見る。
「労働基準法第36条に規定する時間外労働の上限について、1ヶ月あたりの時間数として正しいものはどれか」
「健康保険法における標準報酬月額の等級数として正しいものはどれか」
これも全くわからない。法律の条文、数字、専門用語。すべてが未知の世界。
午後10時。香織はテーブルに突っ伏す。周りには資格情報のプリントアウト、過去問題、メモ。どれを見ても、途方もない道のりが見える。
( 300時間...1000時間...合格率30%...6.4%...何年かかるんだろう。私は絶対に人の2倍はかかる。そして、合格できる保証もない。 )
午後11時。香織はノートに書く。「入社:2017年4月」「現在:2025年」。8年。8年間、人事の仕事をしてきた。
でも、何の資格も取っていない。専門的な勉強もしていない。ただ、日々の業務をこなしてきただけ。相談に乗ってきただけ。
もし、入社1年目から資格の勉強を始めていたら。少しずつでも勉強していたら。今頃は、資格を持っていたかもしれない。
( 8年間...何をやっていたんだろう...資格も取らず、専門知識も深めず...ただ、日々の仕事に流されて...気づいたら、もう31歳...今から始めても、間に合うんだろうか... )
香織は窓の外を見る。東京の夜景。無数の明かり。その一つ一つに、人の人生がある。努力している人がいる。資格を取って、キャリアを積んでいる人がいる。
香織の目から、一筋の涙が落ちる。後悔。焦り。そして、取り返しのつかない時間への悲しみ。
夜の闇が一層暗く深まった気がした。
続く




