第5話 : 昇進、そして消えていく喜び:氷室翔②
月曜日の朝9時、本社10階の大会議室。役員と部長クラスが集まる、辞令交付式。窓からは東京の街並みが見渡せる。
「次に、営業本部第二営業部、担当者から、チームリーダーへの昇進を発表いたします。氷室翔」
専務の声が響く。翔は席を立ち、前に出る。辞令書を受け取る。「氷室翔、チームリーダーを命ずる」という綺麗な文字。翔の手が、わずかに震える。
拍手が起こる。150人ほどの社員が拍手している。温かい拍手。祝福の拍手。「おめでとうございます、翔さん」「これからもよろしくお願いします」「期待してますよ」。温かい言葉が飛び交う。
会場に翔の同期入社の仲間たちが並んで座っている。10年前、新入社員として一緒にスタートした同期は10人。今日の辞令交付式で、そのうち5名がチームリーダーに昇進した。翔もその一人だ。
翔は頭を下げる。「ありがとうございます。精一杯頑張ります」。出世街道、ここまでは上々。翔は心の中でほほ笑んだ。
式が終わり、翔は自分のデスクに戻る。PCを開くと、人事部からメールが届いている。件名「チームリーダー就任に伴う目標設定について」。
メールを開く。添付ファイルには、新しい目標数値が並んでいる。翔は目を見開く。
・チーム売上目標:15億円(前年比120%)
・利益率目標:18%向上
・新規顧客獲得:年間30社
・メンバー育成:後輩2名を次期リーダー候補に
(売上20%増…いきなりアグレッシブな目標だな…これだけの高い目標、期待されている証拠か。チームリーダーとしての初仕事だ。きちんと結果を示さねば )
数字が頭の中でぐるぐる回る。15億円。前年は12.5億円だった。2.5億円の上積み。月平均で約2,000万円の上乗せ。これを6人のチームで達成する。一人あたり月330万円。
( できる...いや、やるしかない...でも6人全員が目標を達成するとは限らない...誰かが未達なら、俺がカバーしないとダメだな... )
午後1時、専務に呼ばれる。専務室。広い部屋。大きな机。窓からは皇居が見える。
「翔君、おめでとう。君の営業成績は社内でもトップクラスだ。期待している」と専務。「ありがとうございます」と翔。
「ただし」と専務が続ける。「これまでは個人プレーでよかった。自分の数字だけ追いかければよかった。でも今度はチームリーダーだ。チーム全体を見る必要がある。メンバーの育成、モチベーション管理、目標達成のための戦略立案。これらもすべて君の責任だ」
その言葉が、鉛のように翔の肩にのしかかる。
「責任は重い。プレッシャーも大きい。でも君なら大丈夫だ。期待しているよ」
( 大丈夫...なのか?自分の数字を追いかけるだけでも精一杯なのに...それに部下の育成とモチベーション管理…やっとことがないから手探りでやるしか…)
最後に専務が言った「また分かっているとは思うが、チームリーダーから部長になれるのは、せいぜい1名、多くて2名だ。頑張ってくれ」。
つまり、5人のうち3〜4人は、ここで昇進が止まる。次の戦いが、もう始まっている。
どっと疲れが出た。
夕方6時、翔は早めに退社する。今日は特別な日だから。昇進を祝って、家族で夕食を取る約束をしている。
自宅マンション、夜7時。リビングのテーブルには、美咲が用意した料理が並んでいる。ローストビーフ、シーザーサラダ、グラタン、そしてケーキ。ケーキには「おめでとう、パパ」という文字。
「本当におめでとう」と美咲が言う。「あなた、頑張ったわね。私、嬉しい」。結衣が「パパすごい!」と飛び跳ねる。「パパ、えらいの?」「ああ、少し偉くなった」「じゃあお給料増える?」「...まあ、少しね。結衣、英会話スクールに行ってみるか?」美咲が言う「それよりも水泳ね!」
乾杯する。ワインのグラスが触れ合う音。美咲と結衣の笑顔。幸せな時間。でも翔の心は、どこか上の空だ。
料理を食べながら、翔の頭の中では数字が回っている。15億円、120%、18%向上。どうやって達成するか。メンバーの大塚は実力があるが、森田は経験が浅い。新人の野村はまだ一人前じゃない。6人で、本当に15億円を達成できるのか?俺と大塚で15億円の内、7億円取るとして、残り4人で…
「ねえ、聞いてる?」と美咲。「ん?ああ、聞いてる」と翔。「じゃあ何て言ったの?」「え?」「やっぱり聞いてない...」
美咲の表情が曇る。「ごめん、ちょっと考え事をしていて」と翔。「今日くらい、仕事のこと忘れられないの?」
翔は笑顔を作る。「ごめん、大丈夫。今日は家族の時間だ」。そう言いながら、また頭の中では数字が回り始める。
夜8時、ケーキを切り分ける。結衣が「パパ、これからもっと忙しくなるの?」と聞く。「...少しね」と翔。「じゃあまた、土曜日もいないの?」
その質問に、翔は答えられない。美咲が結衣の頭を撫でる。「パパは頑張ってるのよ。私たちのために」。でも美咲の目は、少し悲しそうだ。
ケーキを食べ終わって、翔はワイングラスを持ち上げる。「これからも頑張るよ。でも...まだスタートラインに立っただけだ。ここから本当の戦いが始まる」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の笑顔が消える。ワイングラスを置いて、翔を見つめる。「あなたって...いつもゴールがないのね」
「え?」と翔。「せっかくの昇進なのに、なぜ素直に喜べないの?いつも『まだまだ』『これから』って。いつになったら満足するの?」
痛烈な指摘が胸に刺さる。翔は何も言えない。5秒くらい沈黙が続く。美咲は更に続ける。「今日くらい、『嬉しい』とか『やった』とか、そういう言葉を聞きたかった。でもあなたは、また次の目標のことを考えてる」
翔は「今日は俺のお祝いなんだからそんなに責め立てなくても」とつい反論する。「いいの。もういいの」と美咲が言う。「結衣、お風呂入ろうか」。美咲は結衣の手を取って、リビングを出ていく。
翔は一人、リビングに残される。テーブルの上には、半分残ったケーキ。「おめでとう、パパ」という文字が、翔を責めているように見える。
( 俺、何か間違ったことを言ったか...?昇進は嬉しい...でも、それはスタート地点で...これから責任が重くなるんだから... )
夜11時、美咲と結衣は寝室で寝ている。翔はリビングで、手帳を開く。明日からのスケジュールを確認する。朝会、営業会議、クライアント訪問2件、夕方に第1回戦略会議。
手帳をめくっていると、古い日記が挟まっていることに気づく。10年前の日記。結婚した年の日記。
「2015年4月1日。美咲と結婚した。幸せな家庭を築きたい。子供にも恵まれて、平凡だけど温かい生活を送りたい。仕事も大事だけど、家族が一番。美咲と、これから生まれてくる子供たちと、笑顔で過ごせる毎日を大切にしたい」
若い頃の自分の字。丸い文字。希望に満ちた言葉。翔はその日記を見つめる。あの頃の自分は、どこへ行ったんだろう。
( 幸せな家庭...平凡だけど温かい生活...今の俺は、それを実現しているのか?昇進して、給料は上がった。でも家族とゆっくり過ごす余裕はない。これが...幸せなのか? )
しばらく日記を見つめていたが、翔は我に返り、日記を閉じて、手帳に戻す。
自分はチームリーダーだ、これから確り仕事をせねば、家族の幸せのためにも。部長レース、望むところだ。と気合を入れ直す。
明日からまた、同じ日々が始まる。数字を追いかけて、目標を達成して、また次の目標。そうして競争し続ける。させられ続ける。それが翔の人生だ。
続く
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