第4話:暴走し始めた私の思考:白石陽②
翌朝6時。いつもと同じように目覚ましが鳴る前にスマホに手を伸ばす。
そして確認する。一昨日の投稿—70個のまま。変わらない。でも今日は違う。気分は落ち込まない。何故なら戦略があるから。今日は昨日立てた戦略通りにやる。ハッシュタグ15個、投稿時間、映える場所。
(でも、今日は先ずは仕事に集中しないと...そして帰ったら新しい投稿を準備する)
陽はスマホを置いて、支度を始める。でも頭の中では戦略が回り続ける。ハッシュタグ、時間、場所...。
8時半、オフィス。いつものように総務の青木さんに挨拶をする。「おはようございます」
しかし青木さんは軽く会釈だけして、無言で通り過ぎていく。いつもなら明るく「おはようございます」と笑顔で返してくれるのに、声も笑顔もない。
(え?私、何か...怒らせるようなことしたかな...それとも気にしすぎ?)
そして、9時、朝会が終わり、みんなが散っていくとき、青木さんが陽の横を目を合わせずに通り過ぎていく。
(…これは偶然じゃない。明らかに避けられている)
陽はデスクに戻り、昨日の自分の行動を必死に思い出そうとする。午前中は会議。昼休みはデスクでサンドイッチ。夕方、コピー機の前で青木さんとすれ違って「お疲れさまです」と挨拶した。あのとき、声が小さすぎた?表情が暗かった?
(それとも...先週の飲み会、私だけ早めに帰ったから...あれが失礼だったのかな...)
デスクの下で、こっそりスマホを確認する。一昨日の投稿、70個のまま。陽は小さくため息をつく。
10時、トイレに立つ。廊下で、青木さんと営業部の松本さんが笑顔で話している。陽は二人の横を通り過ぎる。「失礼します」と小さく声をかける。青木さんはまた会釈だけ。松本さんは「白石さん、おはようございます!」と明るく声をかけてくれる。
トイレの個室で、陽は頭を抱える。青木さんは、松本さんには普通に接している。陽にだけ、冷たい。
(何をしたんだろう...思い当たることが多すぎて...メールの返信が遅かったから?会議室の予約で何か間違えた?)
10時50分、カレンダーのアラートが鳴る。「11時:クライアント提案メール作成」。陽は深く息を吸って、新規メールの作成画面を開く。今日の昼までには送らなければいけない、新規クライアントへの提案メール。
(メール、書かなきゃ...でも集中できない...青木さんのこと、どうしよう...)
11時5分、陽はようやくメール作成に集中しようと決める。まず宛先を入力する。先方の鈴木課長、CC欄には—先方は木村執行役員、伊藤部長、佐々木室長ほか、こちら側は山田部長、中村リーダー。合計11名。
(読む人が多い...これは確りと書かねば…)
11人が読む。11人の目が、この文章を品定めする。特に先方の木村執行役員は初対面。前回の提案が他社に負けた理由は「提案書の完成度が低い」と聞いた。今回は失敗できない。
件名を打ち始める。「ご提案の件」—曖昧すぎる。削除。「新マーケティングシステムのご提案」—押しつけがましい。削除。「貴社の販売促進課題について」—偉そう。削除。15分悩んで、「【ご提案】販売データ分析システム導入のご案内」に落ち着く。無難だけど、面白みがない。でも無難が一番安全だ。
(【ご提案】タグって古臭くない?でも今さら消せない...)
本文に移る。挨拶。「平素より大変お世話になっております」—いや待って、先方とは初対面。「お世話になります」に変更。でもこれも変?
陽は頭を抱える。周りを見ると、佐藤さんはさっさとキーボードを叩いてメールを送信している。軽やかな「送信」の音。なぜ自分だけこんなに時間がかかるのか。
給湯室から笑い声が聞こえる。女性の声。一人は—青木さんだ。陽の手が止まる。誰と話しているのか。私の噂をしているのではないか。
(集中...メール、書かなきゃ...時間がない...)
本題に入る。「先日のお打ち合わせでご相談いただきました貴社の販売データ管理における課題解決のため、弊社のマーケティング分析システムのご提案をさせていただきたく存じます」。読み返す。長い。一文が長すぎる。でもどこで切ればいいのか。
提案内容の箇条書き。「1. 販売データの一元管理により、データ処理時間を平均30%削減」と打つ。でも待って、「30%」でいいのか?過去の導入事例は28%から37%、平均は32.5%。「約30%」?「32.5%」?小数点があると、逆に「本当にこんなに正確に測れるの?」と疑われるかも…
(待って。「向上」と「改善」と「削減」、どの言葉が適切?)
青木さんが給湯室から戻ってくる。陽のデスクの横を通り過ぎる。陽は思わず顔を上げるが、青木さんは陽を見ずに通り過ぎていく。
(やっぱり完全に避けられている...でももう今はそっちを考えている時間がない...)
11時50分。締めくくりの文章。「つきましては、一度お時間をいただき、詳細をご説明させていただけますと幸いです」。いや待って、「いただき」が二重に入ってる。くどい。「一度ご説明の機会をいただけますと幸いです」に変更。
でも「いただけますと」も回りくどい?「いただけますでしょうか」は二重敬語?ググる。「慣用的に使われている」という記事。じゃあ使っていいのか?でも木村執行役員が厳格な人だったら?
11時55分。ようやく本文が完成。でも送信ボタンの前で、陽の指が止まる。もう一度読み直そう。誤字脱字はないか。言葉遣いは適切か。
(よし、大丈夫)
陽は目を閉じて、深呼吸する。そして、送信ボタンをクリックする。
「送信しました」というメッセージ。でも安堵は一瞬だけ。すぐに新しい不安が押し寄せる。
(やっぱりあの表現、おかしかったかも...今さら送り直すわけにもいかない...)
昼休み。隣の佐藤さんと後輩の高橋さんが話している。「最近さ、メール気にしすぎる人多いよね」「わかります!長々と書いてくる人いますよね。かえってこっちも気を使っちゃう」
陽は自分のデスクで、コンビニで買ったいつものサンドイッチを食べながら、その会話を聞いている。自分のことを言われているような気がして、胸が痛い。
サンドイッチをそそくさと食べ終え、スマホを見る。一昨日の投稿—70個のまま。でも今夜、戦略通りに新しい投稿をする。
(今夜こそ100を超える...でも今はメールのことを考えないと...青木さんのことも...)
陽の頭の中で、三つの不安が渦巻く。青木さんの態度、送ったメールの評価、そして今夜の投稿。
午後2時。青木さんが山田部長のところへ向かう。書類を見せている。山田部長が頷いている。そして—山田部長が、こちらを見た気がする。陽の心臓が跳ねる。
(私のこと、何か話してる?なんか変なことした...?)
青木さんが陽のデスクの前を通り過ぎる。陽は小さく「お疲れさまです」と声をかける。青木さんは会釈だけ。やっぱり、声はない。
午後3時、トイレから戻ると、山田部長が陽のデスクに来ている。陽の心臓が止まりそうになる。怒られる。そう確信する。
「白石さん、さっきの提案メール、見たよ。いい内容だね」と山田部長。「あ、ありがとうございます」と陽。山田部長は笑顔で席を離れる。
褒められた。怒られると思ったのに、褒められた。でも、なぜか安心できない。本当に褒めてくれたのか?それとも、社交辞令?
(「いい内容だね」って...本当にそう思ってるのかな...。いや、私が自信が無さそうだから励ますように言っただけかもしれない…。)
夕方6時、定時。帰りの電車の中、陽は今日一日を振り返る。青木さんのそっけない態度。取引先へのメール。午後の山田部長との会話。全部が、陽を不安にさせた。
でも今夜は違う。今夜こそ、戦略通りに投稿する。
夜7時、自宅のマンション。陽はベッドに座り、昨日作ったメモを開く。「100超えるための戦略」。ハッシュタグ15個、投稿時間は夜20時、映える写真。
そしてさっき撮った写真を選ぶ。帰り道からの夜景。今日は快晴でとても綺麗。運も味方してくれている。
フィルターをかける。キャプションを書く。「今日もお疲れ様でした**」絵文字を多めに。
ハッシュタグをつける。#東京 #夜景 #帰り道 #仕事 #キャリアウーマン #働く女性 #OL #社会人 #会社員 #日常 #生活 #ライフスタイル #instagood #photooftheday #tokyo。15個。
時計を確認する—19時58分。20時まであと2分。陽は投稿ボタンの前で指を止める。深呼吸。そして、20時ちょうどに投稿。
完ぺきな映える場所、完ぺきなハッシュタグ、完ぺきな時間。全て戦略通り。
(やったー。これできっと100を超える)
投稿から20分後。意気揚々と確認する。—17個。10分後—32個。また10分後—48個。順調。でも100にはまだ遠い。
夜10時、陽はまだお風呂も入れない。スマホを何度も確認する。87個。焦りを感じる。
真夜中。最終確認。画面に表示される数字—93個。
(93…また100に届かなかった。戦略通りにやったのに...なぜ?なんでなの?)
陽は納得がいかない。
こんなにも一日苦しんで、そして戦略通りにやったのに、何も報われない。自暴自棄になり、携帯を投げつけそうになる。
半分泣きそうになりながら、布団にくるまり、うぅーとうめき声をあげる。その少し熱の籠った低い声が、一人暮らしのアパートの中で乾いた空気を小さく響かせた。
—本日のハイライト。青木さんの態度、メールの作成、そしてSNSの投稿。
誰が聞いても、ごくごくありふれた日常生活。荒波もなく、順航している。でも陽の思考は暴走して、心は疲れ切っている。
些細な日常生活の中でのさざ波が、陽の心を残酷なまでに蝕んでいた。
続く




