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第3話:AIに奪われそうな私の居場所:花岡香織①

月曜日の午後2時、人事相談室。外は秋なのに冷え込んでいるが、室内は適度に暖房が効いている。花岡香織の前に営業部の林さんが座っている。30代半ばの女性。眼鏡の奥の目が赤く腫れている。


「上司との関係で...本当に悩んでいるんです」。林さんの声が震える。ティッシュを取り出して、涙を拭う。「毎朝、会社に来るのが辛くて。電車の中で吐き気がするんです」


香織は静かに頷く。まず、相手の気持ちを受け止めること。


入社したての頃を思い出す。8年前、新卒で人事部に配属された時、香織は不安でいっぱいだった。「私に人の相談なんてできるんだろうか」「うまく話を聞けるだろうか」。最初の相談者と向き合った時、手が震えた。何を言えばいいのかわからなかった。


でも先輩の山口さんが教えてくれた。「最初は何も言わなくていいの。ただ、相手の話を聞くことから始めなさい」。その言葉を信じて、香織は少しずつ、人の話を聞くことを学んでいった。


「どんなことがあったんですか?」と香織。林さんが少しずつ話し始める。上司の厳しい言葉。人前での叱責。深夜のメッセージ。「お前のせいで損失が出た」と言われたこと。「使えない」と言われたこと。


1時間かけて、香織は話を聞く。途中で何度も林さんは涙を流す。香織はティッシュを差し出し、水を注ぎ、ただ耳を傾ける。


以前なら、こんなふうに落ち着いて話を聞けなかった。相手の涙に焦って、すぐに解決策を提示しようとしていた。でも何度も何度も面談を重ねるうちに、わかってきた。大切なのは、すぐに答えを出すことじゃない。相手の気持ちに寄り添うこと。


そうして相手が一通り話したところで、具体的なアドバイスをする。コミュニケーションの取り方。感情的にならない対処法。記録を残すことの重要性。第三者を交えた話し合いの提案。人事部としてできるサポート。


これも、何十回、何百回と相談を受けてきた中で学んだこと。教科書には載っていない、実践の中で身につけた技術。


「花岡さんのおかげで、心が軽くなりました」と林さん。「一人で抱え込んでいて、誰にも言えなくて。でも話を聞いてもらえて、本当に救われました。ありがとうございます」


林さんが部屋を出た後、香織は深く息を吐く。人の役に立てた。8年前には想像もできなかった、今の自分。不安でいっぱいだった新人の頃。でも、一人一人と向き合い続けてきた。その積み重ねが、今の自信になっている。


水曜日、経理の田村さんが「キャリアチェンジを考えているんです」と相談に来る。38歳、入社15年目。「このまま経理一筋でいいのか、不安で」と打ち明ける。


香織は資料を調べ、転職市場の動向を説明する。必要なスキル、資格取得のロードマップ。社内での異動の可能性。田村さんのスキルの棚卸しと強みと弱みの整理。一つ一つ、丁寧に。


3年前だったら、こんなふうに具体的なアドバイスはできなかった。ただ「大丈夫です。頑張ってください。」としか言えなかった。でも、多くの相談者と向き合ううちに、キャリアの選択肢が見えるようになった。その人の強みを見つけられるようになった。


「本当に救われました」と田村さん。「一人で悩んでいたんですが、道筋が見えました。花岡さん、本当にありがとうございます」


木曜日も、金曜日も、相談者が来る。それぞれの悩み。それぞれの不安。香織は一人一人に向き合う。


入社1年目は、週に1件の相談でも精一杯だった。2年目は週に3件。3年目からは週に5件以上。今では、多い時は週に10件の相談を受ける。一人一人の顔を覚えている。その後、どうなったかもフォローしている。


そして気づいた。自分には、この仕事ができる。人の心に寄り添える。それが自分の強みだと。8年という時間をかけて、ようやく自信がついた。


( ここが私の居場所だ。最初は不安だった。でも今は違う。この仕事が、私を必要としている。 )


しかし金曜日の帰宅途中、電車の中でスマホのニュースを見る。「AIカウンセラー、人事相談の80%を代替可能に」。香織の指が止まる。記事を開く。


「感情分析AIが従業員の心理状態を数値化し、最適な助言を提供。人間のカウンセラーよりも客観的で、24時間対応可能。かつ低コスト。すでに大手企業10社で導入が決定」


電車が揺れる。香織の手が震える。周りの乗客は誰も気づかない。みんなスマホを見ている。香織だけが、世界が崩れ落ちるような感覚に襲われている。


( 私がやっていること...AIでもできる?実際に導入しているところもある?信じられない。でも、AIの方が客観的で、的確なアドバイスができるかもしれない。24時間対応もできるし。 )


夕方6時半。家に帰って、ソファに座る。いつもなら夕飯の準備をするが食欲がない。スマホを手に取る。試しに、と思いながら、AIアプリをインストールし、AIチャットを開く。


「上司との人間関係に悩む30代女性社員への対応方法を教えてください」


送信ボタンを押す。たった数秒後、画面に回答が表示される。


「1. 傾聴と共感を示す(最重要)、2. 具体的な状況を記録するよう助言、3. 社内の相談窓口を案内、4. 第三者を交えた面談を提案、5. 必要に応じて配置転換を検討」


香織の手が震える。これは……月曜日に林さんに対して自分がしたことと、ほぼ同じ。なんで。なんで。どうしてできるの?


自分が8年かけて学んできたこと。何百回もの面談を重ねて身につけた対応方法。それが、AIはたった数秒で出せる。


胸が苦しい。呼吸が浅くなる。「いや、でもこれは、たまたまなだけかも……もっと違う相談なら……」


また質問を打ち込む。「キャリアチェンジを考える中堅社員へのアドバイスは?」


数秒後、回答がスラスラとでる。これまでのキャリアの振り返り、スキルの棚卸し手法、強みと弱みの整理、転職エージェントの活用、社内異動の交渉術。


すべて的確。すべて正しい。


そしてAIは更に聞いてくる「具体的な業界を教えて頂ければその業界分析も踏まえたアドバイスもできますが、いかがいたしましょうか?」


香織はスマホを両手で持ったまま強く握りしめる。手が汗ばんでいる。そして次々と恐怖が襲ってくる。


「人事業務 AI 代替」と検索する。次々と記事が表示される。「人事業務の80%は自動化可能」「AIが面接官を務める時代」「給与計算から採用まで、AIで完結」。


記事を読み進める。手が止まらない。一つ読んだら、また次の記事。また次の記事。気づけば20本以上の記事を読み漁っている。


そして悟る。


これまで自分がキャリアで積み上げてきたもの。人事相談以外にも、給与計算、タイムシート集計、セミナー案内、スケジュール調整、議事録の要約と発信。新卒採用のパンフレット作り、面談マニュアルの作成……


全部、新しいソフトウェアやAIでできてしまう。全部。それに、AIの方が正確で速い。ミスもない。24時間働ける。給料もいらない。文句も言わない。


それじゃあ、私は?私の8年間は?先輩に教わり、失敗を重ね、少しずつできるようになってきた。決して才能があるわけではないけど、一つ一つ丁寧に積み上げてきた。不安な気持ちと一生懸命戦って、それでも大丈夫と自分を言い聞かせて、これまで頑張ってきた。それは何だったの?


ベッドに座り込む。部屋の明かりを消したまま、暗闇の中で考える。大手10社が導入しているなら、うちの会社もすぐ導入するんじゃない? そしたら自分の居場所がなくなってしまう。あっという間に。


でも何をすればいいのか、わからない。途方に暮れる。未来が見えない。ただ自分の居場所が、少しずつ消えていく。


夜11時。香織はまだベッドに座っている。膝を抱えて、小さく丸まっている。スマホの画面だけが、暗い部屋を冷たく照らしている。


画面には、まだAIの回答が表示されたまま。完璧で、正確で、速くて、そして温もりのない文字たち。


続く

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