第26話:人の心に寄り添うこと:花岡香織⑧
4月第1週。月曜日の朝9時。人事部のオフィス。春の光が窓から差し込んでいる。
新人の立花理沙が、香織のデスクの隣に座っている。今日が初出社だ。真新しいスーツ、丁寧にセットされた髪、緊張と期待が入り混じった表情。
「立花さん、入社おめでとうございます。これから一緒に働けるのが楽しみです」香織は笑顔で言う。
立花は、明るく答える。「こちらこそ、よろしくお願いします! 面接のときはお世話になりました。花岡さんに教えていただけるなんて、本当に嬉しいです」
あの時の印象通り、立花は優秀だ。初日から、PCのセットアップを自分でこなし、資料のフォーマットを見ただけで構造を理解する。キーボードを打つ指が——驚くほど速い。
午前中の業務を一通り説明し終えると、立花はノートにびっしりとメモを取っていた。要点を的確に整理している。
( この子は——きっと、すぐに戦力になる。 )
午後、香織は立花に会社の状況を説明する。「今、会社では業務改善タスクフォースが動いていて、人事業務の一部をAI化する検討をしています」
立花の目が——キラキラと輝く。「さすが、先進的ですね! ワクワクします! AI活用って、私も大学で勉強してきたんです。実際にどう導入されるのか、すごく興味があります」
香織は——驚く。恐れがない。むしろ、楽しみにしている。自分とは全く違う反応だ。
( こういう世代なんだ。AIを脅威ではなく、ツールとして捉えている。 )
立花は続ける。「でも——実は、人事相談については少し苦手なんです」少し声のトーンが下がる。「データ処理は得意なんですが、人と向き合って話を聞くのは……緊張してしまって。大学でも、プレゼンは平気なのに、一対一で深い話をするのは苦手で……」
立花の手が、膝の上で小さく握られている。その仕草に——香織は気づく。
香織は微笑む。「大丈夫。私も最初はそうでした。8年前、初めて人事相談を担当した時は、緊張で手が震えて、メモすらまともに取れなかった。でも——練習すれば、きっとできるようになる」
立花が、少し驚いた表情で香織を見る。「花岡さんも……そうだったんですか?」
「ええ」香織は頷く。「今後、対面相談もAI化されるかもしれないけど——でも、その前に、やってみましょうか。模擬相談」
立花は、嬉しそうに頷く。「はい! お願いします!」
***
午後3時。3階の小会議室を借りて、模擬人事相談を始める。
窓の外は、穏やかな春の午後。会議室には、小さなテーブルと二脚の椅子。香織が相談者役、立花が相談員役。テーブルを挟んで向かい合う。
立花が、深呼吸をする。手元にノートとペン。準備は万端——のはずだが、手が少し震えている。
「では、始めます」香織は、少し沈んだ表情を作る。「あの……最近、仕事がうまくいかなくて……」
立花が——早口で答える。「それはエンゲージメント低下の典型的なパターンですね。原因としては、ワーク・ライフ・バランスの崩れ、もしくはキャリアパスの不透明性が考えられます。まず、ワーク・ライフ・バランスの再構築とリスキリングによるキャリアパスの可視化が必要です。具体的には——御社のキャリアディベロップメントプランを参照しながら、個別のスキルマトリックスを作成して、KPIを設定して——」
立花は——一気に喋る。まるで教科書を読み上げるように。目線は、ノートに書かれたメモに釘付けだ。香織の顔を見ていない。
香織は、手を挙げて止める。「立花さん、ちょっと待って」
「はい?」立花は、きょとんとする。
「まず、深呼吸しましょう」香織は優しく言う。「立花さん、すごく緊張してるよね。それが、相手にも伝わっちゃう」
立花は、ハッとする。「あ……すみません……」
香織は、静かに続ける。「大丈夫。でもね、相談に来た人は——弱っている状態なの。だから、まず安心させてあげることが大切。そして——」
香織は微笑む。「まず、自分自身が落ち着くこと。それが一番大切。それから、相手が分かる言葉で、分かりやすく話すこと。カタカナ言葉——エンゲージメント、ワーク・ライフ・バランス、リスキリング——専門用語は、相手を混乱させます。もっとシンプルに、『仕事、うまくいかないんですね』って、まず受け止めてあげる」
立花は、真剣に頷く。そして——少しうつむく。「すみません……つい、専門用語で話してしまって……。大学で学んだことを、そのまま使おうとしてしまって……」
「いいの。私も最初はそうだった」香織は笑う。「知識があるのは素晴らしいこと。でも、人事相談は——まず、相手の心に寄り添うことが先。知識は、その後でいいの」
立花が、香織の目を見る。少し、涙ぐんでいる。
「じゃあ、もう一回やってみよう」香織は言う。「今度は、私が相談員役をやるから、見ててね」
役割を交代する。立花が相談者役、香織が相談員役。
立花は——少し迷いながら言う。「あの……実は……最近、仕事が……」
香織は、ゆっくりと頷く。静かに、立花の目を見る。何も言わず、ただ——待つ。そして——優しく言う。「そうなんですね。仕事のこと、話してくれてありがとう。大丈夫、ゆっくり聞かせてください」
立花は——ハッとする。香織の声のトーン。表情。目線。すべてが、温かい。時間が——ゆっくりと流れている。
そして——立花は、気づかないうちに本当の気持ちを話し始めている。
「実は……」立花は、言葉を続ける。「初日で、まだ何も分からなくて……。みんな忙しそうで、質問していいのかも分からなくて……。花岡さんは優しいけど、迷惑かけたくなくて……。ついていけるか、不安で……」
香織は、静かに頷く。「そっか。不安なんだね」
「はい……」立花の声が、少し震える。手が——膝の上で握られている。
香織は——そっと、立花の手に自分の手を重ねる。温かい。「立花さん、大丈夫。誰でも最初は不安なの。私も、8年前の初日は、同じように不安だった。トイレで泣いたこともあった。でも——ゆっくり覚えていけば大丈夫。私がついてる。分からないことがあったら、いつでも聞いてね。何度でも」
立花は——涙が出そうになる。香織の手の温かさ。声の優しさ。目の真剣さ。すべてが——心に染み入る。胸の奥が——じわりと温かくなる。
「花岡さん……ありがとうございます……」立花の声が、震える。
立花は、心が——芯まで温かくなるのを感じる。悩みを聞いてもらえた。受け止めてもらえた。それだけで——こんなにも、心が軽くなる。こんなにも、前を向ける。
涙が——一粒、頬を伝う。立花は、慌ててハンカチで拭う。
「立花さん」香織は微笑む。「今、感じたこと——覚えておいてね。これが、人事相談の本質なの。知識や情報を提供することじゃなくて、相手の心に寄り添うこと。それが、一番大切」
立花は、何度も頷く。「はい……分かりました……。こんなに温かい気持ちになれるなんて……。これが、人と人が向き合うということなんですね……」
会議室の窓から、午後の光が二人を包んでいる。静かな時間。深い安心。
***
翌週の火曜日。人事部の定例ミーティング。午前10時、会議室。
川原が、深刻な表情で話題を切り出す。「最近、転職者が増えてますよね。今年に入って、もう5人目です。人事部として、何か対策を打たないと……」
岩下部長が頷く。「なぜ、そうなのか。みんなで考えてみよう」
川原が言う。「転職市場が整備されて、情報が得やすくなったからでは? 昔より、転職のハードルが下がっています」
別の同僚が続ける。「給料の比較もしやすくなりましたよね。他社の年収情報も、ネットで簡単に調べられる」
香織は——ずっと考えていたことを、口に出す。「私……これまで、8年間で色々な人事相談を受けてきましたが、一つ気づいたことがあるんです」
全員が、香織を見る。
「人間関係、給料、仕事内容——この3つの内、2つが満たされないと、人は転職を考える。1つだけなら、耐えられる。我慢できる。でも、2つはダメ。そういうパターンが、すごく多い気がするんです」
岩下部長が、身を乗り出す。「それは——面白い仮説だ。もしそれが正しければ、人事部として対策を立てやすい。実際にそうなのか、データ分析をして確かめてくれないか?」
香織が頷く。「立花さん、一緒にやってみませんか?」
立花が、即座に答える。「はい! まさに、ピープルアナリティクスですね。データ分析で、花岡さんの仮説が正しいか検証しましょう! 過去の面談録を統計的に分析して、インサイトを抽出します!」
立花の目が——キラキラと輝いている。
岩下部長が笑う。「立花さん、頼もしいね。二人で、ぜひやってみてください」
***
その日の午後。香織と立花は、過去3年分の面談録80件を分析し始める。
二人は黙々と作業を続ける。1件、2件、3件……データが積み上がっていく。窓の外の光が——少しずつ傾いていく。
( これが、ピープルアナリティクス。経験と勘を、データで確かめる。 )
夕方6時、80件すべての分析が終わる。立花が結果を集計する。「花岡さん、見てください! 80件中76件——95%が、2つ以上の不満で退職しています。最も多かったのは『仕事内容』で66名、82.5%。次に『人間関係』48名、『給料』42名です」
香織は——胸が熱くなる。8年間の経験が、データで証明された。
「立花さん、ありがとう。これで、経営層に説得力のある報告ができる」
窓の外は、すっかり夕焼けに染まっている。「AIとデータ。そして、人間の経験と温もり。両方が、必要なんだね」
立花が頷く。「はい。データは真実を教えてくれる。でも——人の心に寄り添うのは、人間にしかできません」




