第25話:たまには負けてもいい:氷室翔⑧
翔は——もう、限界だった。
なんとか先月も、全社2位をキープした。目標達成率は125%。常務からも褒められた。でも——その代償は、あまりにも大きい。
睡眠時間は、平均4時間。朝6時に起きて、メールをチェックする。通勤電車の中でも、スマホで報告を確認する。日中は商談と会議で埋まり、夜は資料作成。帰宅するのは午前2時過ぎ。ノー残業デーは続けているが——それでも、家に帰ってから、結局メールを見てしまう。ホーム残業デーだ。
最低限の気遣いとして、部下には深夜のメールは返信しないようにしている。でも、ドラフトは作成する。プレゼン資料のチェックもする。エクセルの数字も確認する。全部、自分でやらないと——不安で仕方ない。
鏡を見ると、目の下にクマができている。顔色も悪い。体重は、3ヶ月で5キロ減った。食欲もない。夜、布団に入っても、頭の中でTo-Doリストが回り続ける。眠れない。
( このままじゃ——壊れる。でも、止められない。 )
***
土曜日の朝10時。自宅のリビング。
美咲が、心配そうな顔でコーヒーを差し出す。「あなた、大丈夫? 顔色が悪いよ。最近、ちゃんと食べてる?」
翔は、笑顔を作る。「大丈夫。先月で山を乗り越えた。今月からは、少し楽になるから」
美咲は——その言葉を、全く信用できなかった。翔は、昨夜も午前3時に帰宅した。今朝も、朝7時からリビングでノートPCを開いて、メールを打っていた。そして今、ソファに座った途端、意識を失ったように眠り込んでいる。
時計を見る。午後4時。翔は、6時間も眠り続けている。美咲は、そっと毛布をかける。
( このままじゃ——あなた、倒れてしまう。 )
***
日曜日の夜9時。翔は自宅の書斎で、ノートPCを開いていた。
明日の商談資料を作成している。でも、集中できない。頭がぼんやりする。文字がかすむ。肩が重い。首が痛い。
ふと——スマホが目に入る。画面には、グループチャット「クロスロード組」の通知が3件。そう言えば、陽が作ってくれたんだっけ。陽と香織からのメッセージだ。読んでいなかった。
翔は、資料作成の手を止める。スマホを手に取る。そして——思い立つ。
( そうだ。相談してみよう。陽さんも、香織さんも——きっと、何か教えてくれる。 )
翔は、グループチャットを開く。躊躇しながらも、メッセージを打つ。
【翔】こんばんは。素敵なチャットルームの開設ありがとうございます。早速一つ相談があるのですが…。実は、最近、限界を感じていて……。チームは結果を出しているんですが、自分が全部やりすぎているのかもしれません。部長からは「マイクロマネジメントだ」と言われて。でも、任せるのが怖くて。二人は、こういうとき、どうしていますか?
送信ボタンを押す。すぐに「既読」マークがつく。数分後、陽から返信が来る。
【陽】翔さん、お疲れさまです。マイクロマネジメント——私も、任せるのが不安で、自分で全部やろうとしていた時期がありました。でも、それって、相手を信じていないってことなんですよね。今は、SNSで誰でも情報発信できる時代です。自分でやりたい人が、昔より多いんです。だから——思い切って、相手を信じて任せてみるのも良いかもしれません。
翔は、画面を見つめる。「相手を信じる」——その言葉が、心に刺さる。
続いて、香織からも返信が来る。
【香織】翔さん、大変そうですね。リーダーシップって、相手によって変えるべきだと思います。確かに新人には、マイクロマネジメントが必要ですよね。メールも事前チェックする。でも、中堅やベテランは——ある程度、任せても良いんじゃないでしょうか。失敗させるのも経験です。人は、権限と責任を与えないと成長しません。手足じゃなくて、頭脳として頑張ってもらう。一人で頑張るんじゃなくて、みんなで頑張る。そういう風に、リーダーシップを変えてみたらどうでしょう?
翔は——頭では分かる。その通りだと。あとは、実践するだけだと。でも、体が動かない。任せるのが、怖い。失敗したら——どうする?
翔は、返信を打つ。
【翔】ありがとうございます。頭では理解できるんですが……正直、怖いんです。任せて失敗したら、数値が下がったら、常務の期待を裏切ることになる。それが——どうしても怖くて。
しばらくして、陽から返信。
【陽】翔さん、私もそうでした。失敗が怖くて。でも——気づいたんです。完璧じゃなくていいんだって。大切なのは、相手のために——チームのために、どうするかだって。翔さんが倒れたら、元も子もないですよね。
翔の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
***
月曜日の朝6時半。自宅のリビング。
翔は、いつものように、ノートPCを開いてメールをチェックしている。キーボードを叩く音が、静かなリビングに響く。顔は——険しい。眉間にシワが寄っている。
「パパ、何しているの?」
結衣が、眠そうな顔でリビングに入ってくる。翔は、顔を上げずに答える。
「仕事しているんだよ」
「へー。仕事って、その機械をパチパチ叩くことなんだ」
機械をパチパチ叩くだけ。確かに物理的にはその動作のみだ。
「でも、なんで……そんなに怖い顔をしているの?」
翔は、ハッとする。結衣を見る。「そんなに……怖い顔をしているのかな?」
結衣は、こくりと頷く。「前、ママも言っていたじゃん。パパ、最近、怖い顔してるって。やっぱり怖いよ。その機械で、何かと戦っているの?」
翔は——言葉に詰まる。戦っている? そうか、そう見えるのか。
「うーん、戦っているというか……競争しているんだよ」
「競争?」結衣は首をかしげる。「よくわからないけど……じゃあ、その競争が大変なんだね。でも、無理しないでね、パパ」
翔は——胸が熱くなる。涙が出そうになる。
「結衣、ありがとう。パパ……勝てるように、頑張るね」
結衣は笑顔で頷いて、キッチンへ向かう。
翔は——我に返った。
朝から怖い顔をして、PCを見て、キーボードを叩く。なんとも——滑稽な姿だ。父親とは、そんな姿なのか。違う。違うはずだ。
もっと余裕があって、コーヒーを飲みながら新聞を読んで、「結衣、おはよう」と自分から言う。そういうのではないか。それなのに——必死に、こんな機械をバシバシ叩いて。俺は、何に取りつかれているんだ。
いや、取りつかれているのではない。競争に負けるのが——怖いのだ。負けて、自分の会社での評価や地位が下がる。それが、怖いのだ。だから、必死になる。自分で全部やろうとする。
「負けてもいいじゃない。たまには。」
キッチンで洗い物を終えた美咲が——静かに言う。翔の隣に座り、優しく微笑む。
「負けてもいいじゃない。たとえ負けても、私と結衣は——あなたを応援しているよ。あなたが元気でいてくれることが、一番大切なの」
音がした。
翔の中で——檻の扉が開く、音がした。
今まで、自分を縛り付けていた何か。「勝たなければならない」「完璧でなければならない」「全部、自分でやらなければならない」——そんな思い込みが、音を立てて崩れていく。
( 全部勝つ、勝たなければならない。その思い込みに呪われていたのかもしれない。負けても死ぬわけでもないのに。それなのになぜ俺はこんなにも自分を追い込んでいたんだ。いや、俺だけならまだいい。なんで家族も部下も振り回して、疲弊させてしまっていたんだ)
翔は、ノートPCをゆっくりと閉じる。深呼吸をする。そして——決意する。
変わろう。今から。
続く




