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第21話:気にし過ぎないように、緊張しないように:白石陽⑦

月曜日の朝8時半、陽はオフィスのデスクに座り、PCを立ち上げていた。


「もう、周りの目を気にしすぎないようにしよう」


カフェで三人で交わした約束——その決意が、まだ胸の中に残っている。


メールボックスを開く。取引先からの問い合わせメールが数件届いている。以前なら、一通のメールを書くのに1時間近くかかっていた。「この表現で大丈夫?」「失礼じゃない?」「もっと丁寧に書くべき?」と悩み続けて、結局送信ボタンを押すまでに何度も書き直していた。


でも、最近は少し変わってきた。


一通目。件名を30秒で決める。本文も、箇条書きで要点をまとめて15分で完成。送信前の見直しは1回だけ。誤字脱字がないか確認して、深呼吸して、送信ボタンを押す。


二通目。クライアントへの提案メール。以前なら、この種類のメールは特に時間がかかっていた。でも今日は——件名、挨拶、提案内容、締めの言葉。シンプルに、でも丁寧に。20分で完成。送信。


気づけば、午前中に5通のメールを送信していた。以前の自分なら、1通送るだけで疲れ果てていたのに。


( 完璧なメールを書くことが目的じゃない。相手に情報を伝えることが目的だ。70点でいいから早く送る方が、ビジネスでは価値がある。翔さんが言っていたっけ。「メールはバシバシ打つ。間違えたら謝る」って。 )


仕事が進む実感がある。気持ちが軽い。これなら——このペースなら、やっていける。


***


金曜日の午後3時、大会議室。全体会議。マーケティング部、営業部、企画部から20人ほどが集まっている。


議題は「今後のマーケティング戦略—新しいターゲット層について」。山田部長がスクリーンにスライドを映しながらプレゼンを始める。「30代女性をメインターゲットに、SNS広告を強化していきたいと考えています。特にInstagramとX(旧Twitter)での展開を中心に——」


陽は資料を見ながら聞いている。ふと、違和感が浮かぶ。「30代女性だけで大丈夫だろうか? 最近の消費動向データでは、40代女性の購買力も無視できないはずだ。可処分所得も高いし。それに、SNS広告だけでは、既存顧客へのアプローチが弱くなるのでは……」


言いたいことがある。手を挙げようとする。でも—手が動かない。


心臓がドキドキする。周りの視線が気になる。20人もいる。みんなが自分を見る。「間違っていたらどうしよう」「的外れだと思われたら恥ずかしい」「部長の提案に反対するように聞こえるかも」「場の空気を壊したら……」「後で呼び出されて怒られるかも……」


結局、言わないのが安全だ。リスクを取らない方がいい。沈黙を守る方が楽だ。陽は資料に目を落とす。


その時、営業部の若手・高橋が手を挙げる。「すみません、一点よろしいでしょうか」


山田部長が頷く。「はい、高橋君、どうぞ」


「30代女性は確かに重要だと思います。ただ、40代女性の層も検討すべきではないでしょうか? 弊社の商品価格帯を考えると、購買力のある40代もカバーした方が、売上目標達成により近づけると思うのですが——」


陽が言いたかったことを、高橋が言った。周りも頷いている。山田部長も「なるほど、その視点は重要ですね。確かに購買力を考えると、40代も視野に入れるべきかもしれません。検討します」と前向きに受け止めている。


会議が終わり、陽は自分の席に戻る。


ノートPCを開きながら、モヤモヤした気持ちが消えない。「なんで言わなかったんだろう。私も同じこと考えていたのに。メールは少しずつ気にしなくなってきたのに、会議での発言は——やっぱり怖い。20人も前にいると、周りの目が気になって、頭が真っ白になる」


( 間違えたらどうしようって思ってしまう。でも、このままでいいのか? ずっとこのまま、傍観者でいるのか? メールは改善してきたのに、対面になるとやっぱりダメだ……。 )


***


翌週の月曜日、陽は更に大きなプレッシャーを感じていた。1ヶ月後に控えた大口クライアント・グリーンテックへのプレゼンテーション。聴衆は50人。しかも新規取引で、会社としても重要な案件だ。


午後3時、山田部長との1on1ミーティング。部長の個室に入る。陽は意を決して相談する。「部長、実は……プレゼンが苦手で。先日の会議でも発言できなくて。来月のグリーンテックのプレゼンも、正直すごく不安で……聴衆が50人もいるって聞いて、夜も眠れなくて……」


部長は優しく笑う。「陽さん、私も若い頃はそうだったよ。入社3年目の時、大きなプレゼンで頭が真っ白になったことがある。声が震えて、資料をめくる手も震えて。でもね、それは悪いことじゃない。緊張するのは、真剣に取り組んでいる証拠だから」


部長は続ける「最初は誰でも緊張する。でも、場数を踏んでいるうちに慣れていくんだ。完璧なプレゼンなんて誰もできない。最初は失敗しても良い。むしろ失敗から学ぶことの方が多い。だから、気軽にいこう」


気軽に——。そう言われても、どうすれば気軽になれるのか。陽は部長室を出ながら、まだ答えが見つからない。


夕方5時、給湯室。コーヒーを淹れていると、同僚の佐藤が入ってくる。


陽は佐藤にも悩みを話す。「来月のプレゼン、すごく不安なんだ。50人も前にいるって聞いて……失敗したらどうしようって……」


佐藤は笑顔で言う。「部長が『失敗しても良い』って言ってくれたんでしょ? 良い上司じゃん。陽ちゃん、周りのこと気にしすぎだよ。失敗しても、誰もそんなに覚えてないって。みんな自分のことで精一杯だから。1週間後には忘れてるよ」


まとめると、「肩の力を抜けばよい」とのこと。でも——それができれば苦労しない。陽の心の中には、まだ不安が強く残っている。緊張しないでいられるなら、とっくにそうしている。意識すればするほど、緊張は強くなる。


( 肩の力を抜く……そう言うのは簡単だ。でも、50人も前にいたら、どうやって緊張しないでいられる? メールは顔が見えないから少しマシになった。でも、対面は——視線が、全部こっちに向いている。逃げ場がない。このままグリーンテックのプレゼンを迎えて、本当に大丈夫なんだろうか。 )


陽は自分のデスクに戻り、プレゼン資料を開く。スライドが並んでいる。完璧に作ったはずなのに、不安は消えない。


そうだ、発言原稿を書こう。そしてそれを暗記すれば大丈夫。陽はワードを立ち上げて、発言原稿を書く。でも、書き始めたら1ページ目から引っかかる。最初になんて言えばいい。「皆さん、初めまして」。それとも「本日はお越しいただきありがとうございます」。


いや、待って、「初めまして」だと軽すぎるかもしれない。「お越しいただき」の方が丁寧か。でも、こっちから訪問するんだから「お越しいただき」は違う。「本日はお時間をいただき」?「貴重なお時間を」?


入力、削除、入力、削除を繰り返す。挨拶文だけで15分が経過する。


次は自己紹介。「私は株式会社○○のマーケティング部に所属しております、白石陽と申します」——長すぎる? 「マーケティング部の白石です」だとカジュアルすぎる? 「白石陽でございます」は堅すぎる?


30分経過。まだ3行しか書けていない。


本題に入る部分。「本日は、弊社の新サービスについてご提案させていただきたく——」。いや、「ご提案させていただきたく」は二重敬語かもしれない。「ご提案いたします」? でも、それだと押し付けがましい? 「ご紹介させていただきます」?


頭の中で無数の選択肢がぐるぐる回る。どれが正解なのか、分からない。どれが相手に失礼にならないのか、判断できない。手が止まる。画面を見つめたまま、動けなくなる。


時計を見る。気づけば2時間が経過していた。原稿はまだ1ページの半分もできていない。完成までどれだけかかるのか。そして完成したとしても、これを全部暗記できるのか。50人の前で、一言も間違えずに話せるのか。


画面を見つめながら、深いため息をつく。春の夕暮れが、オフィスの窓を染めている。


続く

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