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第2話:94.2%、1200万円:氷室翔①

夜9時、オフィスビルの20階。蛍光灯の白い光がデスクを照らしている。窓の外には東京の夜景が広がっているが、氷室翔はそれを見ていない。画面に映る数字だけを見つめている。


デスクに並ぶモニター。左側には個人の月次売上報告書のExcelファイル。目標達成率94.2%。右側には営業部内の個人成績ランキング。自分は営業部で3位。1位との差は8.7%、2位との差はたった2.3%。


「あと5.8%...」と翔はつぶやく。電卓を叩く音だけが静かなオフィスに響く。5.8%。金額にすると約1,200万円。


( 94.2%じゃ足りない...100%にしないと。99.9%でも評価は「未達」になる... )


翔は新規営業リストを開く。50社のリスト。そのうち商談中が15社、見積もり提出済みが8社。確度の高い案件は3社。でも3社すべて受注しても、目標には届かない。もっと数字を作らないと。もっと...


スマホが光る。LINEの通知。妻の美咲からだ。画面を見ると、メッセージが3通たまっている。


「お疲れ様。無理しないでね」19時38分。

「結衣がパパに会いたがってる」20時15分。

「今日も遅いの?ご飯どうする?」21時12分。


翔は既読マークをつける。指が返信欄に向かうが、止まる。何を返せばいいのか。「もう少しかかる」「先に食べていて」。いつもと同じ返事。美咲はもう、この返事に慣れてしまっているだろう。


ちょっと考えて「23時には帰る。先に食べてて」と返信する。23時と決めることが美咲へのせめてもの気遣い。でも、本当に23時に帰れるのか。自分でも確信が持てない。


ふと、スマホの待ち受け画面が目に入る。家族写真。4年前の夏、結衣を初めて海に連れて行った時の写真。美咲が結衣を抱いて笑っている。結衣は2歳。砂浜で貝殻を拾って、嬉しそうに見せてくれた。「パパ、見て!綺麗でしょ!」


あの頃は、まだ週末に家族と過ごす時間があった。でも今は、先週の土曜日も日曜日もオフィスにいた。勝たなければならない。


(目標未達もあり得ないが個人成績で3位も許せない...1位にならないと... )


今週の土曜日は結衣の幼稚園のお遊戯会がある。結衣は「白雪姫」で小人の役。1ヶ月前から練習していて、「パパ、絶対見に来てね!」と何度も言われていた。でも、その日は大口クライアントとの接待ゴルフが入っている。断れない。美咲に「ごめん、どうしても外せない仕事で」と伝えた。


( でも...これは家族のためでもある。目標を達成すれば、ボーナスが増える...昇進のチャンスも増える...そうすれば、もっと家族にいい生活をさせてあげられる...結衣を私立の学校に入れることだってできる... )


翔は自分にそう言い聞かせる。


午後10時25分、1階のロビーを出ると、11月の夜の冷たい空気が頬を撫でる。駅へ急ぐ。時計を見る。電車に乗れば、22時55分に最寄り駅に着く。そこから自宅まで徒歩8分。間に合う。ギリギリだが、間に合う。


( 23時に間に合わせる...せめてこの約束だけは守らないと...)


最寄り駅に到着。改札を出て、翔は小走りになる。ビジネスバッグが揺れる。息が上がる。


午後11時ちょうど、自宅の玄関ドアの前。翔は深呼吸をして、ドアを静かに開ける。リビングの電気がついている。美咲がソファに座って、スマホを見ている。


「おかえり」と美咲。「ただいま」と翔。美咲の表情は疲れているように見える。「約束通り、23時ちょうどに帰ってきたよ」と翔が言う。


美咲は小さく笑う。「23時に帰ってきて、『約束通り』って言われると...なんだか複雑ね」。その言葉に、翔は何も言えない。


「結衣は?」と翔。「もう寝たわ。21時には寝かせた。パパを待っていたけど、明日幼稚園だから」


美咲が温めた夕食を持ってくる。生姜焼き、味噌汁、サラダ、ご飯。「ありがとう」と翔。箸を持って、生姜焼きを口に運ぶ。


「美味しい」と翔が言う。でも、なぜか味がよく分からない。味覚が麻痺しているのか。それより3位から挽回せねば。


美咲がテーブルの向かいに座る。「ねえ、土曜日のお遊戯会のこと...」と美咲が切り出す。翔は食べ続けながら答える。


「ごめん。どうしても外せない接待で」「大口のクライアントで、今月の数字にも関わってくる大事な—」


「分かってる」と美咲が遮る。「あなたの仕事が大事なのは分かってる。でも、結衣は...」


美咲は言葉を飲み込む。そして小さく息を吐く。「いいの。私が撮影するから。ビデオで見せてあげる」


翔は生姜焼きを食べ続ける。美咲は何も言わずに、キッチンに戻る。食器を洗う音が聞こえる。翔は一人、ダイニングテーブルで食事を続ける。


食事を終えて、翔は洗面所に行く。軽くシャワーを浴びる。熱めのお湯が肩に当たる。一日の疲れが少しだけほぐれる。でも、心の疲れは取れない。


シャワーを出て、鏡に映る自分を見る。疲れた顔。目の下のクマ。全体的に暗い。これが、家族のために頑張っている男の顔なのか。


寝室に入ると、美咲はもうベッドに横になっている。「おやすみ」と翔。「おやすみ」と美咲。でもその声は、どこか遠くに聞こえる。


翔は布団に入る。でも眠れない。頭の中では、まだ5.8%、1,200万円と数字が回っている。 そして、結衣の「パパ、絶対見に来てね!」という声も、繰り返し聞こえてくる。しばらくして、時計はみないと心に決めて目を閉じる。


翌朝7時、翔は出社の支度をする。美咲と結衣は、まだ寝ている。朝食は取らない。昨日の生姜焼きがまだ消化されていない。鏡を見ると、目の下のクマが濃くなっている。 そのまま家を出る。


通勤電車の中、翔は立っている。座席は満員で座れない。吊り革につかまりながら、スマホで営業リストを確認する。今日は午前中に2件、午後に3件のアポイント。すべてこなせば、5.8%のうち1.2%は埋められる計算だ。でもまだまだ足りない。空いている時間であの会社とあの会社に当たろう。確か数値は…


ふと顔を上げると、隣に座っている若い男性が目に入る。25歳くらいだろうか。イヤホンで音楽を聴きながら、穏やかな表情をしている。リラックスした肩の線、安らかな瞳。窓の外を眺めている。


その男性は、スマホを見ていない。仕事のメールもチェックしていない。ただ、音楽を聴いて、景色を眺めている。そんな余裕がある。


( こんな余裕のある顔、俺はいつから忘れたんだろう...しかし、3位は許せない。未達もない。絶対に挽回する。)


翔は再びスマホに目を落とす。営業リスト。数字。目標。それが翔の世界のすべてだ。電車が次の駅に停まる。扉が開く。翔は人混みに押されながら、また同じ一日を始める。


続く

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