第18話:定時退社 取り戻した笑顔:氷室翔⑥
月曜日の朝9時。翔は部長室のドアの前に立っていた。ドアの向こうから、部長が電話で話している声が聞こえる。翔は手に持った資料を握りしめる。週末、徹夜で作った提案書だ。
電話が終わる気配。翔は深呼吸して、ドアをノックする。
「はい、どうぞ」
ドアを開けると、部長の田村が資料を見ながら顔を上げる。50代半ば。営業一筋30年のベテラン。厳しいが公平な人だ。
「部長、お時間よろしいでしょうか」翔の声がわずかに震える。
「ああ、翔君。どうした?」部長が眼鏡を外して、翔を見る。「深刻な顔してるな。何かあったか?」
翔は椅子に座り、提案書を机の上に置く。「ご相談があります」一呼吸置いて、「毎週水曜日を、ノー残業デーにしたいと思います。チーム全体で」
部長の眉が上がった。手に持っていたペンが止まる。「ノー残業デー?」その声には、驚きと、どこか疑いが混ざっていた。
翔は資料を開きながら説明する。「はい。定時で帰ります。ただし、業務効率を上げて、結果は必ず出します。この資料に、具体的な施策をまとめました」
部長が資料に目を通す。業務フローの見直し、標準化、ITツールの活用、会議時間の短縮。一つ一つ、具体的な数字とともに書かれている。
部長が腕を組む。しばらく沈黙が流れる。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。翔の心臓が早鐘を打つ。手のひらに汗が滲む。
「翔君」部長がゆっくりと口を開く。「君らしくないな。いや、君らしいか」小さく笑う。「早く帰ろうが、遅く残ろうが、結果が全てだ。それは分かってるね?」
翔が真っ直ぐに部長の目を見て頷く。「はい。だからこそ、やり方を変えます。長時間労働で成果を出すのではなく、効率化で成果を出す。それが本当のプロフェッショナルだと思います」
部長の目が、わずかに細められる。試すような視線。「数字が落ちたらどうする?」
「すぐに元に戻します」翔は即答した。「でも、落ちないように全力を尽くします。この提案は、チームの生産性を上げるものです。それがひいては部全体の為にもなるかと愚考しております」
部長は資料をもう一度見る。そして、頷く。「やってみろ」
翔の心臓が跳ねる。「本当ですか?」
「ただし」部長が人差し指を立てる。「三ヶ月試してみて、数字が落ちたら即中止だ。いいな?」
翔は立ち上がり、深く頭を下げる。「ありがとうございます!必ず結果を出します!」
部長が立ち上がりかけた翔を手で制する。「翔君、座れ」そして、小さく笑う。「実は俺も、家内から毎晩文句言われてるんだよ。『いつも遅い』『子供の顔を見てない』ってな」
翔が驚いて部長を見る。
「俺の娘、今年大学生になったんだが、この前『パパは私が中学生の頃、ほとんど家にいなかったよね』って言われてな」部長の目が、どこか遠くを見ている。「もう取り返しがつかない。でも君は、まだ間に合う」
「頑張れ。応援してる」。部長が手を差し出す。翔はその手を深い敬意を持って握りしめた。
部長室を出た翔は、すぐにデスクに向かった。そして主要取引先5社のリストを広げる。
翔はまず、丁寧なメールを作成した。件名:「業務体制変更のお知らせ」。本文には、毎週水曜日をノー残業デーとすること、17時半以降の対応は翌日になること、緊急時の連絡先を明記した。そして最後に、「業務効率化により、より質の高いサービスを提供するため」という理由を添えた。
メールを送信した後、翔は取引先リストを見る。最初に訪問すべきは、田中商事だ。先週、夜遅くに電話をかけてきたところ。直接会って、丁寧に説明したい。
午後3時、翔は田中商事のオフィスに到着した。受付で名前を告げると、すぐに課長の中林が現れた。40代半ば、少し疲れた表情の男性だ。
「氷室さん、わざわざお越しいただいて。メールは拝見しました」中林の声は、意外なほど明るかった。
会議室で、翔は改めてノー残業デーの説明をする。「毎週水曜日は17時半で業務を終了します。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」と頭を下げる。
中林が笑う。「いやいや、むしろありがたいんですよ」
翔は拍子抜けする。「え...よろしいんですか?」
「実は、そう言っていただけると予定を組みやすいんです。正直、いつでも連絡していいのか、夜遅くまで対応してもらっていいのか、分からなくて気を遣ってました」中林が真剣な表情で続ける。
「むしろ、明確に『この日のこの時間以降は対応できません』と言っていただく方が、こちらも計画が立てやすい」
「それに」と中林が声を潜める。「御社が導入しているなら、うちの社長にも提案できます。『取引先の大手企業もやってますよ』って。実は私も、家族から早く帰ってこいと言われていまして...」
翔の胸が熱くなる。「そうだったんですね...」
30分ほどの面談を終え、翔は田中商事のオフィスを後にした。駅へ向かう途中、見慣れた街並みを歩く。夕方の光が、ビルの間から差し込んでいる。
角を曲がると、ふと目に入る看板。「カフェ クロスロード」——あのカフェだ。3ヶ月前、雨の日に立ち寄った、あの場所。
翔は足を止める。店の前の黒板に、チョークで書かれた文字。
「春分の日限定 新作コーヒー『春の目覚め』発売」
春分の日——3月20日。あと2週間後だ。翔は窓越しに店内を覗く。あの時座った窓際の席が見える。あの日、見知らぬ二人と話した、あの場所。
(ここは自分の働き方を見直すきっかけとなった場所。春分の日、行ってみようかな。 )
翔はスマホを取り出し、カレンダーに「3/20 カフェ」とメモを入れる。そして、駅へと歩き始めた。
その後、翔は他の4社にも電話をかけた。松井物産の担当者は「実は私も、家族から早く帰ってこいと言われていまして」と笑った。上谷商会の担当者は「働き方改革、素晴らしいですね。応援しますよ」と言ってくれた。
5社全て、予想に反して好意的だった。誰一人として「困る」とは言わなかった。むしろ「うちもやりたい」「いい前例になる」という反応ばかり。
翔はデスクに座ったまま、しばらく動けなかった。
( 俺が勝手に壁を作っていたんだ...取引先は24時間対応を求めている。夜遅くまで働かないと、信頼を失う。そう思い込んでいた。でも、実際は違った。みんな、同じように悩んでいた。変えたいと思っていた。ただ、誰も最初の一歩を踏み出せなかっただけだったのかもしれない。 )
翌日、火曜日の朝会。翔がチームに宣言する。「知っての通り、部長とも取引先とも話し、明日から毎週水曜日は、17時半に全員退社する。今日中に、業務の見直しをしよう」
メンバーたちの目が輝く。森田が「やりましょう!」と言う。大塚が「翔さん、本気ですね」と笑顔を見せる。
その日、チーム全員で業務改善会議。様々なアイディアが出る。
・プレゼン資料のフォーマット化:大塚の提案。「毎回ゼロから作るから時間がかかる。テンプレートを作れば、30分は短縮できる」
・エクセルの集計モデルの標準化:森田の提案。「標準化すれば、ミスも減るし、時間も半分になる」
・非常用チャットルームの開設:若手の川口の提案。「緊急時だけ使うチャットルームを作る。ここだけはオンライン。それ以外は17時半以降オフ」
翔が頷く。「全部やろう。今週中に整備する」
チーム全体の士気が上がっていくのを、翔は肌で感じる。定時に帰るために、みんなが集中力を高めている。これまでの「長く働くことが美徳」という空気が、「集中して効率的に働くことが美徳」に変わっていく。
翌日水曜日。翔は朝から集中する。メールは重要なものだけに絞る。会議は30分以内。資料作成は標準フォーマットを使う。
17時。全てのタスクが完了。翔はチーム全員に声をかける。「みんな、お疲れ様。17時半に退社しよう」
17時30分。チーム全員が、同時にPCをシャットダウンする。オフィスを出る。エレベーターに乗りながら、大塚が言う。「なんか...気持ちいいですね、これ」
森田が笑う。「本当ですね。達成感があります」
翔も笑顔になる。「来週も頑張ろう」
エレベーターが一階に到着し、翔のチーム全員が定時退社でそれぞれの家路に着く。夕日が眩しい。
18時15分、翔は自宅の玄関ドアの前に立った。いつもならこの時間、まだオフィスにいる。まだ会議をしているか、資料を作っているか、取引先に電話をかけているか。でも今日は違う。
鍵を開けると、「パパ!」という声が弾けた。結衣だ。リビングから小さな足音が駆けてくる。玄関に現れた結衣は、目を丸くして翔を見上げた。「パパ、本当に早いね!結衣、ご飯もお風呂もまだだよ!」
美咲がキッチンから出てくる。その顔には、本物の笑顔があった。この数週間見ていなかった、心からの笑顔で言う。「おかえり」。
「ただいま」翔の声も、自然と弾んでいた。
「パパ!今日、餃子作る約束だったよね!」結衣が目を輝かせる。
「もちろん。作ろう」翔が笑顔で答える。美咲も嬉しそうに頷く。
キッチンで三人並んで餃子を包む。結衣の作る餃子は不格好。翔も同じように不格好だ。美咲は不器用なのはパパ似なんだね、と茶化す。結衣はパパと一緒にこれから上手になる!と張り切る。そうこうしてフライパンで焼き上がった餃子からは、香ばしい匂いが漂う。
「いただきます!」三人の声が重なる。「美味しい!」結衣が満面の笑顔で餃子を頬張る。「やっぱりママの餃子が一番おいしいね。」と翔が言う。
食事が終わり、お皿を片付けながら、美咲がふと言う。「そういえば、週末どうする?結衣ちゃん、お山に行きたいって言ってたよね」
「お山!」結衣が目を輝かせる。
翔は少し考える。以前なら「仕事があるから無理」と答えていただろう。でも今は違う。「いいね。高尾山に行こうか。土曜日の朝、確か天気も良さそうだし」
「やった!パパも一緒に来てくれるの?」結衣が確認するように聞く。「もちろん」翔が結衣の頭を撫でる。結衣が飛び跳ねて喜ぶ。その笑顔を見て、翔の胸が温かくなる。翔と美咲が顔を合わせて笑顔で頷く。
そして翔はPCを立ち上げ、スプレッドシートではなく、Google Mapを開き、高尾山までのルートを調べ始めた。画面に映る緑の山道。美咲と結衣も一緒に覗き込む。
翔は、「よし、久しぶりにレンタカーしようか」と言って、静かに微笑んだ。
続く




