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第16話:AIは敵?それとも味方?:花岡香織⑤

タスクフォースのメンバーとなってから、ずっと香織の心は晴れずにいた。年を越えてからも、日に日にプレッシャーが大きくなった。そしてタスクフォースの仕事が本格化した頃、香織は職場ではなく自宅のダイニングテーブルで、ノートPCに向かっていた。


昨日から、会社に行く気力が湧かなかった。朝、起きて、支度をしようとする。でも、体が動かない。「本日、在宅勤務とさせていただきます」とメールを送る。それが、昨日、今日と二日連続。


顔はもちろん、すっぴん。楽な団子頭。涙で目が腫れている。今の顔を会社の人が見ても、誰も香織と認識はできないであろう。


画面には、タスクフォースに提出する資料の準備画面が開いている。「現在の人事業務の一覧」。自分がやっている仕事を、全て書き出す作業。給与計算、タイムシート集計、セミナー案内、面談マニュアル...。


( 書き出すたびに、どんどん自分の居場所が減っていく... )


さらに別のウィンドウが開いている。「新人指導計画書_立花理沙様」。来年度から入社する立花さんのための育成計画を作る必要がある。部長から依頼されていた。


「1ヶ月目:基本業務の理解」「2ヶ月目:応用業務への移行」「3ヶ月目:独立した業務遂行」...テンプレートには項目だけが並んでいる。でも、具体的に何を書けばいいのか。


( 立花さんに、何を教えればいい?私が8年かけて学んだことは、もうAIがやる。最新のデータ分析は、立花さんの方が詳しい。私が教えられることって...何? )


カーソルが点滅している。でも、何も書けない。1時間前から、この画面を開いたまま。一文字も入力できていない。


「人事業務の基礎を...」と入力しかける。でも、消す。基礎って何?給与計算?それはシステムがやる。マニュアル作り?それこそAIが得意な分野だ。


( 私が教えられることは...何もない。立花さんは、私なんかより、最初から優秀だ。私なんかが指導しなくても、彼女は成長する。むしろ、私が邪魔になるかもしれない... )


香織は新人指導計画書のウィンドウを一旦閉じる。見ているだけで、胸が苦しくなる。


少しして、参考資料を探すために、PCの古いフォルダを開く。「2016年度」「2017年度」...8年分のデータが並んでいる。


一番古いフォルダ、「2016年度_入社時」を開く。その中に、一つのテキストファイルがあった。「入社研修_メモ.txt」。


クリックして開く。画面に、8年前の自分が書いた文章が表示される。


「人事の仕事は、人を支える仕事。社員一人ひとりに寄り添い、会社と社員の橋渡しをする。私はこの仕事で、人の役に立ちたい」


22歳の自分が書いた文字。希望に満ちている。香織の胸が締め付けられる。


スクロールする。次のメモがある。


「先輩から教わったこと」

「給与計算は会社の基本。正確さが命」

「面談では、相手の話をよく聞くこと」

「マニュアルは、次の人への贈り物」


香織は涙が出そうになる。8年前の自分は、こんなにも真面目に、一生懸命に仕事を覚えようとしていた。先輩の言葉を、一つ一つメモしていた。


そして今。あの頃学んだことが、全て「効率化の対象」になっている。給与計算も、面談も、マニュアル作りも。全部、AIやシステムに置き換えられる。


( 22歳の私に、何て言えばいい?「あなたが学んでいること、全部AIがやるようになるよ」って?「あなたの8年間、無駄になるよ」って? )


香織はファイルを閉じる。画面には、タスクフォースの資料作成画面が戻ってくる。


部長の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


「香織さんの経験が必要なんだ」


( 必要...?本当に? )


香織は考える。部長は「経験が必要」と言った。でも、それは「香織が必要」という意味じゃない。香織の「経験」が必要なだけ。香織が8年間で学んだことを、全部吐き出させて、それをマニュアルにして、システムに入れて、そしたら...


( 香織自身は、もう要らない。 )


「期待している」。部長はそう言った。


( 期待...?何を?香織が自分の仕事を効率化する方法を提案することを。香織が自分の居場所を削る方法を考えることを。それは即ち、香織が、自分で自分の退職願を書くことを。それが、期待...? )


香織はテーブルに突っ伏す。部長に悪意はない。それは分かっている。会社の方針として正しいことも分かっている。でも...


( 正しいことが、こんなに残酷だなんて。 )


香織は顔を上げる。本棚が見える。そこには、これまで買い集めた人事関連の参考書が並んでいる。


立ち上がって、本棚に近づく。『最新ピープルアナリティクス入門』『戦略人事のすべて』『タレントマネジメント実践ガイド』『データドリブン人事の教科書』『人的資本経営の基礎』。


どれも、「これを読まないと」と焦って買った本。でも、どれも難しすぎて、読み進められなかった。専門用語ばかりで、理解できなかった。


( これからは人事機能の高度化。ピープルアナリティクス、タレントマネジメント、データドリブン。こういった知識が、間違いなく要求されるだろう... )


香織は本棚から一冊を取り出し、再び開く。ページをめくる。でも、やっぱり分からない。どんなに真剣に読んでも、頭に入ってこない。文字を追っているだけで、意味が理解できない。


( 一方で、立花さんは違う。あの若さで、すでにピープルアナリティクスを語れる。データで語れる。これからの人事部を担うのは、彼女だ。私は...もう要らない... )


もう一度、別のページを開く。集中して読もうとする。でも、やっぱり全く頭に入ってこない。文字が流れていくだけ。意味が掴めない。香織は天井を見上げた。


( あーあ、神様って残酷だな。私、何にも悪いことしてないのに。一生懸命、真面目に仕事をしていたのに。なんでなの... )


香織は本を閉じて、ダイニングテーブルに戻る。テーブルの上に、6冊の本を並べる。合計15,800円。


香織は参考書を手に取り、一冊ずつ積み上げ始める。まるで積み木を作るように。1冊目。2冊目。3冊目。4冊目。5冊目。6冊目。不安定なタワーができる。


「これが私の8年間か...」香織は呟く。そして、そのタワーを指で押す。バランスを崩して、バラバラと本が倒れる。ドサッという音。


また積み上げる。また崩す。積み上げる。崩す。何度も何度も繰り返す。


積み木を積んでは崩す。まるで子供のように。でも子供のような無邪気さはない。ただ、空虚な作業を繰り返しているだけ。


( 私の8年間も、この積み木と同じ。積み上げたつもりだった。でも、簡単に崩れる。AIに、新人に、全て奪われてしまう。私の居場所は...存在価値は?もう、どうすればいいのか分からない... )


香織は崩れた本を見つめたまま、動けなくなる。電池が切れたように。3分経つ。どうすればいい?答えが見つからない。


ふと、カフェで会ったあの二人のことを思い出す。あの雨の夜。三人で同じテーブルについて、簡単な会話をした。簡単な会話だけど、重要な会話。


あの女性が言っていた。「専門的なことはAIに聞けばいい」


あの男性も同意していた。「便利ですよね」


あの時、香織は心の中で思った。「そんな簡単に言うけど、AIは敵なのに...」


でも、今...香織は呟く。「便利...AIに聞く...」少し笑う。「まるで魔法のランプみたいね」


深いため息をつく。「はーあ。魔法のランプなら今の私を助けてくれてもいいのになあ」


でも、その言葉を口にした瞬間、何かが引っかかる。ん?


香織はハッとする。背筋に電流が走ったような感覚。今まで、AIは自分の仕事を奪う「敵」だと思っていた。でも、もしAIを自分を助けてくれる「魔法のランプ」だと考えたら?


心臓の鼓動が早くなる。「そんな、まさか...でも...」


手が震えながら、PCに伸びる。


ゆっくりと開く。起動する。ブラウザを立ち上げる。指がキーボードの上で躊躇する。


「本当に...AIに聞いていいの...?」自分に問いかける。


でも、今のまま何もしなければ、何も変わらない。このまま参考書と向き合っても、何も理解できない。資格の勉強も、自分には無理。


香織は意を決して、AIチャットのサイトにアクセスする。画面には、シンプルな白い入力欄。その上に、優しい文字で「何でも聞いてください」というメッセージ。


香織は深呼吸する。胸いっぱいに空気を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。そして、恐る恐る、震える指でキーボードを打ち始める。


「ピープルアナリティクスとは何ですか?分かりやすく教えて」


送信ボタンに指を置く。一瞬、躊躇する。そして—クリック。


数秒の沈黙。香織の心臓が、ドクドクと大きく脈打つ。画面を見つめる。時間が止まったように感じる。


そして—画面が動く。文字が現れ始める。一行、二行、三行。回答が表示されていく。


香織の目が、大きく見開かれる。手で口を覆う。「え...」


続く

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