第15話 チャレンジ 初の定時退社 :氷室翔⑤
美咲との会話から2日後の朝。翔は決意する。
まずは週一回でも定時で帰ろう。 そして家庭の為に割く時間を作ろう。何も難しいことではない。そして美咲に告げる。
「今日は定時に帰る。夕飯楽しみにしているよ」
「ちょっと突然だけど、本当?期待していいの?」
「大丈夫だ。あれこれ考えても仕方ない。先ずは行動してみるよ」
そして朝会。翔は会議室に立ち、チームメンバー全員の顔を見渡した。誰もが普段通りの表情でモニターを見つめ、コーヒーカップを手にしている。いつもと同じ朝。だが、今日の翔は違った。
深呼吸する。胸の奥で心臓が早鐘を打っている。言葉にすれば、もう後戻りできない。それでも、美咲の疲れた笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
「今日から、毎週水曜日は定時退社を目指したいと思う」
会議室の空気がどよめいた。全員の視線が翔に集中する。ベテランの大塚が目を丸くして「翔さんが?」と声を漏らす。その声には、驚きと、どこか信じられないという響きが混ざっていた。
翔は頷いた。「家庭の事情もあってね」そう言いながら、自分の声がわずかに震えているのを感じる。「チーム全体でも、できるだけ定時退社を推奨したい」。何か悪いことをしているような感覚。これほど慣れた習慣を変えるのには恐怖感が付きまとうのか。
しばらくの沈黙の後、中堅の森田がゆっくりと口を開いた。「それが世の中の普通ですよね」その言葉には、温かな共感が込められていた。「それに合わせることができるのが、一流だと思います。効率的に仕事を終わらせる力こそ、本当のプロフェッショナルですよ」。それに皆同意する。「そうですよ」。「実現しましょう」。
翔の胸の奥で、何かがほどけていくような感覚があった。仲間は敵じゃない。みんな、同じように家庭を持ち、同じように悩んでいるのかもしれない。定時退社、これがやはり世の中の普通であり、自分たちが異常なのであろう。
「そうだな」翔は小さく笑った。「よし、皆でやってみよう」
1回目の挑戦:本日の水曜日
17時30分、翔はマウスをシャットダウンボタンに持っていく。今日は定時に帰る。その瞬間、携帯電話が鳴った。取引先の田中商事。「明日の納期の件で、至急確認が...」
電話は30分で終わったが、資料に不備が見つかった。今日修正しないと明日の納品に間に合わない。翔は再びPCを起動する。「これを終わらせないと...」。でも、一つ修正すると、連鎖的に別の箇所も修正が必要になる。
気づけば20時15分。急いでオフィスを飛び出す。21時近く、玄関を開けると、美咲がソファに座っていた。
「おかえり」その声は、遠くから聞こえてくるようだった。
「ごめん、定時で出たんだけど、電車が止まって...」言いながら、自分の声が嘘をついていることに気づく。美咲は小さく頷いた。「分かってる。仕方ないわね。いつでも温かく出せるように今日はシチューにしたけど正解ね。」
( 失敗した...1回目から失敗だ。 )
2回目の挑戦:翌週の水曜日
翔は今度こそと心に誓った。前日に仕事を前倒しし、17時15分、最後のメールを送信。「今日は完璧だ」
17時20分、シャットダウンボタンに手をかけた瞬間、若手の野村が青ざめた顔で駆け寄ってきた。「翔さん、大変です!明日の松井物産へのプレゼン資料、データに重大なミスが!」
翔の手が空中で止まる。資料を見る。確かに、計算式が根本から間違っている。明日のプレゼン。今夜中に修正しなければ間に合いそうもない。野村の目には涙が浮かんでいる。28歳。入社6年目。
( この若者を一人残して帰れるか? )
翔は決断する。「野村、一緒に修正するぞ」。
翔は再びPCを起動し、データの再計算を始める。20時30分、ようやく修正が完了した。
21時過ぎ、玄関を開ける。美咲がソファに座っていた。
「おかえり」その声には、もう驚きも怒りもない。ただ、静かな諦めだけが滲んでいた。
「ごめん、部下がミスをして...」美咲は小さく頷いた。「そう。仕方ないわね。手巻き寿司、もう遅いと思ったから全部巻いておいたわ。」
仕方ないわね。その言葉の重さが、翔の胸を押しつぶす。
( 2回目も失敗...これでいいのか?このまま、美咲に諦めさせ続けるのか? )
3回目の挑戦:翌々週の水曜日
翔は3回目の挑戦に臨んだ。もう後がない。しかし、この週は営業成績の締め日が近く、チームの目標達成まであと一件の大型契約が必要だった。
15時、中堅の森田が青い顔で駆け寄ってきた。「A社との契約、予算の問題で白紙になりそうです」
翔の顔から血の気が引いた。今日中に再提案しないと、他社に流れる。提案書の作り直しには、最低でも5時間はかかる。
翔はPCの前で身動きが取れなかった。スマホに美咲からのメッセージ。「今日は帰ってこれそう?結衣が楽しみにしてるよ」
( 約束した。3回目だ。でも、この案件を失ったら...チームの目標は未達成だ... )
翔の手が震える。美咲の顔と、部長の顔が交互に浮かぶ。
結局、翔は立ち上がった。チーム全員を集める。「みんな、すまない。今日は残業させてくれ」
「20時には帰る」。そう美咲にメールした。しかし、結局、提案書が完成したのは21時半。急いでオフィスを出る。
22時過ぎ、玄関を開ける。リビングは暗かった。美咲がソファに座っている。テレビは消えている。
「おかえり」その声には、もう何の感情も込められていなかった。
翔は何も言えなかった。言い訳する気力も、もう残っていなかった。
焼肉セットは焼かれずに置かれたままだった。
金曜日の夜、翔は美咲の前に座った。二人の間に、重い沈黙が横たわっている。結衣はもう寝ている。リビングには、時計の針が動く音だけが響いていた。
「ごめん」翔は絞り出すように言った。「やっぱり無理だった。定時退社は」
美咲の表情が、ゆっくりと曇っていく。「...そう」その声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。期待していなかった。でも、それでも心のどこかで、小さな希望を持っていた。それが、今、完全に消えた。
翔は言葉を続ける。「俺には責任があるし、競争もある。チームリーダーとして、今は数字を追わないといけない時期で...取引先もあるし、部下のミスもカバーしないといけないし...」
言い訳だ。自分でも分かっている。でも、止められない。言葉が次々と溢れてくる。
「分かった」美咲が静かに遮った。「もういいの」
その言葉の冷たさに、翔の言葉が止まる。「美咲...」
美咲がゆっくりと立ち上がる。その動作には、どこか最終決定を下したような重みがあった。「やってみてくれて、ありがとう」そう言って、小さく微笑む。「3回も挑戦してくれた。それだけで十分よ」
その笑顔が、翔の胸に突き刺さる。怒ってくれた方がまだ良かった。泣いてくれた方が、まだ救いがあった。でも美咲は、ただ静かに微笑んでいる。諦めの笑顔。
美咲はキッチンに向かって歩き出す。その背中が、驚くほど遠くに見えた。翔は手を伸ばしかけて、止めた。何を言えばいい?どんな言葉が、彼女の心に届く?
キッチンから、水を飲む音が聞こえる。それから、小さく、本当に小さく、すすり泣く声が聞こえた気がした。
そして土曜日の朝。翔は8時に目を覚ました。体は重く、頭の中はまだ昨夜の会話でいっぱいだった。
リビングから小さな泣き声が聞こえた。結衣だ。
翔は急いで駆け込んだ。そこには、美咲の膝に顔を埋めて泣いている結衣の姿があった。
「どうしたの?」翔の声が震える。
結衣が顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔。その手には、幼稚園から届いたばかりの先月のお遊戯会の写真があった。翔が接待ゴルフに勤しんでいたときのものだ。
「パパ...みんな、パパが来てた...」小さな指が写真を指す。他の子供たちの隣には、父親の姿。笑顔。手を繋ぐ姿。「結衣だけ...パパがいない...」
結衣は今日までパパが来なくて残念とは一言も言っていなかった。それは我慢をしていただけだった。しかし写真を見たとき、その現実に、その小さな体で堪えられず、涙が溢れ出たのだ。それを知ったとき、翔の全身から血の気が引いた。
美咲はただ静かに結衣を抱きしめている。
翔は立ち尽くした。昨夜の妻の涙。今朝の娘の涙。それを引き起こしたのは、自分だ。
完全に目が覚めた。
( 俺は間違っていた)
翔は二人の前にしゃがみ込んだ。目の高さを合わせる。
「美咲、結衣。ごめん」その声は、今までになく真剣だった。「俺、間違っていた」
美咲が驚いた表情で翔を見る。結衣も、大きな目で父親を見つめる。
「仕事も家庭も、どうすれば両方できるか。それを本気で考えないといけなかった。今まで、俺はそれから逃げてた。中途半端だった」翔は二人の手を取る。「もう一度、本気で変える。仕事のやり方そのものを。働き方を。システムを」
「でも...」美咲が小さく言う。「3回もやっても駄目だったのに...」
「分かってる」翔は頷いた。「3回失敗がなんだ。4回目も5回目もやってやる。それに今度は徹底的に見直す。考えがある、任せてくれ。」
美咲の目に、希望の光が灯った。
結衣が言う。「パパ、がんばって!」
翔は二人を抱きしめた。その温もりが、翔に新しい決意を与えてくれた。




