第14話 SNS断ち アンインストール:白石陽⑤
火曜日の朝8時。陽は通勤電車の中で、スマホを握りしめている。
「今日こそは見ない」——心の中で何度も繰り返す。でも、無意識に親指が動く。気づいたら、Instagramを開いている。きらびやかな世界の扉が開く。 タイムラインが溢れ出すように流れていく。 雑誌の表紙ような朝食写真。海外旅行の投稿。新しいカフェのチェックイン。
(また...また見てしまった...なんで?昨日あんなに決めたのに...)
電車を降りる。肩が重い。首を前に傾けてスマホを見ていたせいだ。オフィスビルまでの5分間、陽は自分にがっかりしている。
でも、考えた。SNSを見ない時間を作るんじゃなくて、代わりになる行動を用意すればいいんじゃないか。
昼休み。陽はスマホに読書アプリをダウンロードする。無料で読める小説がたくさんある。「これを読めば、SNSを見なくて済む」——そう思った。
カフェに入り、サンドイッチを注文する。席に座り、読書アプリを開く。短編小説を選ぶ。読み始める。数行読む。文字が頭に入ってこない。胸がざわざわして、落ち着かない。
(...集中できない...)
気づくと、指が勝手にホーム画面に戻っている。そして、Instagramのアイコンをタップしている。タイムラインを開く。新しい投稿が15件。友達の結婚報告。別の友達の昇進祝い。
陽は読書アプリを閉じる。サンドイッチを一口食べる。味がしない。口の中がパサパサして、飲み込むのが辛い。
(代替行動...意味ない...結局、SNSに戻ってきてしまう...)
水曜日の夜7時。会社の同期、詩帆と居酒屋で待ち合わせ。
「最近さ、SNSやめたいって思ってるんだよね」——陽は生ビールを一口飲んで、詩帆に打ち明ける。
詩帆は目を丸くする。「え?なんで?陽ちゃん、フォロワー多いじゃん。もったいないよ」
「それがさ...疲れるんだよね。いいねの数とか、他の人の投稿とか気になって」
詩帆は首を傾げて、少し考えてから言う。「でもさ、SNSって仕事にも役立つじゃん。情報収集とか、人脈作りとか。私も最近、インスタ経由で営業の問い合わせ来たよ」
「...そうなんだ」
詩帆は心配そうに陽の顔を覗き込む。「ねえ、陽ちゃん。私も時々疲れること、あるよ。『いいね』少ないと凹むし。でもさ、それって捉え方の問題じゃない?陽ちゃんは真面目すぎるから、気にしすぎなんだよ」
詩帆の言葉は優しい。良かれと思って言ってくれている。でも——
「それにさ、やめちゃうと繋がり薄れるよ?せっかく大学時代の友達とも繋がってるのに。もったいないって。適度に距離置くとか、投稿減らすとか、見る時間決めるとか。工夫すればいいじゃん」
陽は何も言えなくなる。詩帆の言うことも分かる。詩帆は親身になってくれている。アドバイスもしてくれている。でも、自分の苦しさは伝わっていない。「気にしすぎ」で片付けられてしまう。
詩帆は笑顔で枝豆をつまむ。話題は別の同期の噂話に変わる。陽は相槌を打つけど、心はここにない。胸の奥に、冷たい孤独が広がっていく。
(やっぱり...分かってもらえない...詩帆は悪くない。良かれと思って言ってくれている。でも、私の苦しさは伝わらない...)
帰りの電車。陽はスマホを見る。詩帆がさっきの居酒屋の写真をインスタにアップしている。「久しぶりに同期と飲み会(星)最高の夜(星)」というキャプション。陽も写っている。笑顔で。
でも——その写真の自分は、本当の自分じゃない。
電車の窓に映る自分の顔を見る。疲れた顔。暗い表情。これが本当の自分。でもSNSには、この顔は載らない。いつも笑顔。いつも楽しそう。いつも充実している——そう見せている。
(誰にも話せない。誰も理解してくれない。一人なんだ、結局。800人のフォロワーがいても、一人...)
木曜日の昼休み。オフィスの給湯室。
陽はコーヒーを淹れながら、周りを見渡す。同僚たちは数人ずつ集まって、スマホを見せ合いながら笑っている。「これ見た?」「本当に?」「インスタ映えだね」——そんな会話が聞こえてくる。
陽は今日の昼、スマホを見ないと決めた。読書をする。自分のデスクに戻り、引き出しから文庫本を取り出す。ページを開く。読み始める。SNSはみない。
でも——周りの笑い声が気になる。
そして、誰かが「陽ちゃん、これ見た?」と声をかけてくる。顔を上げると、先輩がスマホの画面を見せようとしている。せっかく読書にのめり込んでいるのに。
「ごめんなさい、今ちょっと読書してて...」。先輩は「あ、そう」と言って、別の同僚のところへ行く。
(...変な人って思われたかな...)
文庫本に目を戻す。でも、さっきまでの楽しそうな会話が頭から離れない。自分だけ、輪に入っていない。取り残されている。
陽はスマホを手に取る。Instagram を開く。さっき先輩が見せようとしていた投稿を見つける。「いいね」を押す。コメントを書く。「すごい!」と。文庫本を閉じる。結局、今日も見てしまった。
(SNSを見ないと...孤立する。でもSNSを見ると...苦しい。どうすればいいの...?)
オフィスを出る。外は雨上がり。濡れたアスファルトに街灯が反射している。空を見上げると、うっすらと虹が見える。夕暮れの薄い虹。でも陽は気づかない。下を向いて、スマホの画面を見ながら歩いている。
金曜日の夜10時。陽は自宅のベッドに座り、頭を抱えている。
この1週間を振り返る。月曜日に決意した。火曜日、代替行動を試した——失敗。水曜日、友達に相談した——理解されなかった。木曜日、SNSを見ない時間を作った——孤立感を感じた。そして金曜日——また、いつも通りSNSに時間を奪われた。
何をやってもダメだ。意志の力だけじゃ足りない。工夫しても変わらない。誰にも理解されない。
(私、どうしたらいいんだろう...このままじゃ...一生このまま...?)
涙が出そうになる。でも泣かない。泣いても何も変わらない。
スマホを見る。ホーム画面に並ぶSNSアプリのアイコン。Instagram、Twitter、Facebook。この3つが、自分の時間を、自分の心を、支配している。
(どうすればいいんだろう...このままじゃ、何も変わらない...)
そして土曜日の午後2時。陽は自宅のデスクに向かい、ノートを開く。頭で考えていてもグルグル回るだけなので、一旦書き出そうと決意する。
白紙のページを見つめる。ペンを握る。手が震えている。心臓がドキドキしている。喉が渇いている。
最初は何も書けない。ただペンを握りしめて、白いページを見つめている。5分、10分。
やがて、感情が溢れ出す。殴り書きで書き始める。
「なんで私はこんなに弱いんだろう」「なんで止められないんだろう」「ダメな人間だ」「意志が弱い」「情けない」
書いているうちに、涙が出そうになる。文字がにじむ。陽はページを破こうとする。でも——破らない。深呼吸をする。1回、2回、3回。
次のページを開く。今度は、冷静に書こうと決める。ページの一番上に「なぜ止められないのか?」と書く。文字が少し歪んでいる。
目を閉じて、この1週間の失敗を思い出す。全部ダメだった。何をやっても、結局SNSに戻ってきてしまう。
(どうして...?どうして私は...こんなに弱いの...?)
「なぜ?」——自分に問いかける。ペンを走らせる。思いつくまま、書き出していく。
「スマホを手に取ると、無意識にアプリを開いてしまう」
「意識する前に、指が勝手に動いている」
「アイコンが目に入ると、タップしてしまう」
「通知がなくても、気になって確認してしまう」
「1日に何十回もチェックしている」
「なぜ?何を期待しているの?」
書いていて、ペンが止まる。
何を期待しているんだろう?「いいね」が増えていること?新しいフォロワー?誰かからのコメント?
違う。そうじゃない。本当は——
「多くの人と繋がっているという実感が欲しい」
その言葉を書いた瞬間、涙が溢れる。そうだ。だからSNSを見続けていた。多くの人と繋がっている——その数字が、自分の価値を証明してくれると思っていた。
フォロワー数、いいねの数、コメントの数。それが多いほど、繋がりが多くて自分は価値がある。少ないと、自分の価値が劣っていると信じ込んでいた。
でも——それは錯覚だ。
フォロワーは800人いる。でも、本当に繋がっている人は何人いる?本音を話せる人は?困った時に助けてくれる人は?
陽はノートに大きく「0人」と書く。
(...800人のフォロワー。でも、誰も私のことを本当には知らない。 飾りだらけの投稿写真でしか私を見ていない。 私も、フォロワーの誰のことも本当には知らない。数字は多い。でも心は空っぽ。これって...繋がり...?)
いいねが多いと、多くの人と繋がっていると感じる。それは間違い。本当の繋がりは出来ていない。いいねという表面的な張りぼてのような関係が増えただけ。
次のページに、新しい問いを書く。
「問題は何?」
答えを書く。
「意志の弱さ——じゃない。何度も決意したけど、ダメだった」
「時間管理——じゃない。時間を決めても、守れなかった」
「代替行動——じゃない。読書アプリを入れても、結局SNSに戻った」
じゃあ、何?
ペンが止まる。深呼吸をする。もう一度、この1週間の行動を思い返す。
共通点がある。全部、「スマホにアプリがある」という前提で対策を考えていた。でも——アプリがそこにある限り、開いてしまう。アイコンが見える限り、タップしてしまう。
書いていて気づく。問題は意志の弱さじゃない。環境だ。
「環境が私を支配している」
その言葉を書いた瞬間、体が震える。そうだ。そうだったんだ。私が弱いんじゃない。環境が、私を依存させている。
それなら——。
手が震える。心臓がドキドキする。答えは見えている。でも、その答えを書くのが怖い。
ペンを握りしめる。深呼吸をする。1回、2回、3回。
そして——ゆっくりと、大きな文字で書く。
「アプリを削除する」
その文字を見つめる。5秒、10秒、20秒。
他の方法を考える。でも、全部試した。通知オフ——失敗。代替行動——失敗。時間制限——失敗。相談——理解されなかった。
これしかない。
でも——怖い。アプリを削除したら、本当に繋がりが切れてしまうんじゃないか。友達の近況が分からなくなる。イベントの情報が入ってこなくなる。誰も私のことを覚えていなくなる。
陽はノートに、その不安を書き出す。
「怖いこと」 「友達と疎遠になる」 「情報が入ってこなくなる」 「孤立する」 「取り残される」 「これまでの投稿が無駄になる」
書き終えて、もう一度読み返す。
そして——その隣に、新しい問いを書く。
「本当に?」
一つずつ、検証していく。
「友達と疎遠になる——本当に?SNSがなければ繋がれない関係って、本当の友達?」
「情報が入ってこない——本当に?ニュースは他でも見られる。本当に必要な情報は、直接連絡が来る」
「孤立する——今も孤立している。800人のフォロワーがいても、誰も私を理解していない」
「取り残される——何から?『いいね』の数を競う世界から?それって、必要?」
書いていて、涙が止まらなくなる。
怖いのは、SNSを失うことじゃない。SNSを消すことで、自分の価値が消えてしまうと感じてしまうことだ。でもそれは錯覚だ。
陽はノートの最後のページに、大きく書く。
「決断:SNSアプリを削除する。今日、今すぐ」
その答えに辿り着いた瞬間、体が震える。でも同時に——少しだけ、軽くなった気がする。
やってみよう。後悔するかもしれない。でも、やってみなければ分からない。
ホーム画面を見つめる。Instagramのアイコン。これまで何千回、何万回とタップしてきたアイコン。毎日、何時間も見てきたアプリ。3年間、ずっと一緒だったアプリ。
手が震える。息が浅くなる。胸が苦しい。
(...本当に...消してしまっていいの...?)
続く




