第12話 我慢をして支えていた妻:氷室翔④
水曜日の夜10時。オフィスビルの20階に残っているのは、翔を含めてわずか数人だけだった。蛍光灯の白い光が、広いフロアを無機質に照らしている。窓の外には東京の夜景が宝石のようにきらめいているが、翔の目はパソコンの画面だけを見つめている。月次報告書の数字が、冷たく光るモニターに並んでいる。
目標達成率98.5%。あと1.5%。翔の指がマウスを握る手に、わずかに汗がにじんでいる。チーム全体の数字は順調に推移している。他の部署から見れば、十分に優秀な結果だろう。しかし翔の心は、まるで氷水に浸けられたように冷たく重い。98.5%は達成ではない。未達成だ。100%に満たない数字は、すべて失敗を意味する。それが翔の世界のルールだった。達成するまで残業はして当たり前。そう思っていた。
(しかし、あのカフェの二人……あの女性は19時には必ず帰るって言ってた。もう一人の方も残業はほとんどないと...俺だけが異常なのか?)
「残業はほとんどしない」「定時で帰る」—二人はそれらのことを、まるで当然のこととして語っていた。翔にとっては信じられないような働き方だったが、二人に不安や焦りの色は全く見えなかった。
(でも、俺にはチームリーダーとしての責任がある。俺が早く帰ったら、チームが回らない...)
翔はため息をつき、再び画面に向き直った。エクセルシートに並ぶ数字たちが、まるで自分を責めているように見える。
23時を過ぎて、ようやく報告書の最終チェックを終えた翔は、重いカバンを肩にかけて帰宅した。深夜のオフィス街は人通りもまばらで、コンビニの明かりだけが孤独に街を照らしている。電車の中では、翔と同じように疲れ切った表情のサラリーマンが数人、座席で浅い眠りについていた。皆、同じような毎日を送っているのだろう。
23時45分、翔は自宅マンションの玄関ドアに鍵を差し込んだ。静かに扉を開けると、リビングには暗闇が広がっている。美咲と結衣は、もうとうに眠りについているはずだ。翔は靴を脱ぎながら、できるだけ音を立てないよう気を遣った。この時間に帰宅するのは、もう慣れてしまった日常の風景だった。
キッチンに向かうと、冷蔵庫の上にラップのかかった皿が置かれている。生姜焼き、サラダ、ご飯。いつもの美咲の心遣いだった。翔は皿を電子レンジに入れ、機械的な音を聞きながら温まるのを待った。2分後、「チン」という音が響く。その音でさえ、この静寂の中では騒音に感じられた。
箸を動かしながら、翔の視線がリビングテーブルの上に留まった。そこには、色鉛筆で描かれた小さな絵が置かれている。近づいて見ると、「パパへ」と稚拙な字で書かれている。家族三人が手をつないでいる絵だった。太陽、雲、公園。そして大きな笑顔の三人。結衣が描いた「パパ」は、両手を大きく広げて、満面の笑顔を浮かべている。
翔はその絵を手に取り、じっと見つめた。結衣の小さな手が一生懸命に描いた線。不器用だけれど、愛情に満ち溢れた絵。「パパ」の顔は、本物の翔よりもずっと明るく、ずっと幸せそうに見えた。現実の自分は、いつも眉間にしわを寄せ、疲れ切った表情をしている。結衣が思い描く「パパ」と、現実の自分との間には、埋めがたい距離があった。
(結衣...ごめんな。パパ、いつも遅くて...)
翔はその絵を静かにビジネスバッグの中にしまった。会社でも見よう。結衣の気持ちを、忘れないように。この小さな絵が、翔の心に小さな光を灯した。
翌朝、土曜日。翔は8時に目を覚ました。久しぶりに平日より遅い起床だった。
リビングに向かうと、美咲が朝食の準備をしている。エプロン姿の妻の後ろ姿は、いつも見慣れた風景だった。「おはよう」と翔が声をかけると、美咲は振り返って微笑んだ。「おはよう。結衣はまだ寝てるわ」。その笑顔には、どこかいつもと違う緊張感が漂っていた。
朝食のテーブルに向き合って座る二人。ベーコンエッグの香り、焼きたてのトーストの湯気、淹れたてのコーヒーの芳醇な匂い。週末の朝の、穏やかな時間のはずだった。しかし美咲の表情には、何か言いたいことがあるような、そんな複雑さが見え隠れしていた。
コーヒーを一口飲んだ後、美咲が突然口を開いた。「あのね、翔。話があるの」。その声のトーンが、いつもの柔らかな調子とは明らかに違っていた。真剣な響き。まるで長い間心の中で温めていた言葉を、ようやく口にする時が来たような、そんな決意を感じさせる話し方だった。
翔は箸を止めて美咲を見つめた。「何?」。美咲は少し迷ったように視線を落としたが、すぐに顔を上げて翔の目をまっすぐに見つめた。「私...仕事をしたいと思ってるの」。
翔の手が、持っていたコーヒーカップの上で止まった。「仕事?」。その言葉を繰り返すように聞き返す翔の声に、動揺が滲んでいた。
「そう」美咲は静かに頷いた。「結衣も来年小学生になるでしょ。少し時間ができるし...それに、周りの友達もみんな働いてるの。共働きが普通の時代だし」。美咲の言葉は、まるで長い間考え抜いた結論を述べるように、一つ一つが丁寧に選ばれていた。
翔の頭の中で、様々な考えが嵐のように渦を巻いた。妻が働く。それは悪いことではない。時代の流れを考えれば、むしろ自然なことだろう。でも—美咲が働くということは、これまでの生活が根本から変わることを意味している。家事は誰がするのか。結衣の送り迎えは。翔が今のペースで仕事を続けられるのか。これまで通り、仕事に集中できない可能性が高い。
翔の表情を読み取ったように、美咲が続けて言った。「心配してるでしょ。自分の仕事のこと」。その口調には、夫の考えを見透かしているような、少しの皮肉も含まれていた。
美咲の声が少し強くなった。「今は協業の時代なのよ、翔。妻が常に家にいることを前提とした働き方は、もうおかしいと思わない?」。その言葉には、10年間家庭を支え続けた女性の、静かな怒りが込められていた。
翔は反論した。自分なりの論理を持って。「でも、俺が部長になれば、収入も安定する。君が無理して働かなくても—」
「それは違う」美咲が翔の言葉を遮った。その声は、これまで翔が聞いたことのないほど強い意志を帯びていた。「私もお金を稼ぎたいの。それに...社会貢献をしたいの。結衣のためだけじゃなく、私自身のためにも」。
翔は言葉に詰まった。美咲の目に宿る強い意志。これは一時的な思いつきではない。長い間、心の奥で育ててきた願望だったのだ。この10年間、家庭を支えてくれた妻。子育てに専念し、翔の仕事を陰で支えてくれた妻。その妻が、自分の人生を取り戻そうとしている。自分自身の存在意義を求めようとしている。
「俺の仕事が忙しくなったら、どうするんだ?今でさえ、毎晩遅いのに—」翔の声に、焦りが滲んでいた。
「だから変えてほしいって言ってるの!」美咲の声が大きくなった。これまで抑えてきた感情が、ついに堰を切ったように溢れ出した。「あなたの働き方を、少しでも変えてほしいの。私だけが我慢するんじゃなくて、二人で協力して—」
「簡単に言うな!」翔も声を荒げた。しまった、と思いつつも、もう止められない。「チームリーダーとしての責任があるんだ。競争も激しい。簡単に早く帰れるわけがないだろう!」
美咲も立ち上がった。「じゃあ、いつまでこの生活を続けるの?部長になっても、もっと忙しくなるだけじゃない。役員になっても、同じ。あなたにはゴールがないの?」
その言葉が、翔の胸に深く鋭く刺さった。以前、昇進の日に美咲が言った言葉と全く同じだった。「あなたにはゴールがない」。翔の人生には終わりがない競争しか存在しないのだと、妻は見抜いていたのだ。
二人の間に重い沈黙が流れた。リビングの時計の針だけが、カチカチと規則正しく時を刻んでいる。朝食のテーブルに置かれたままの料理が、すっかり冷めてしまっていた。
「パパ、ママ、どうしたの?」
廊下から、結衣の小さな声が聞こえた。二人が振り返ると、結衣がパジャマ姿で立っている。不安そうな表情で、両親の様子を伺っていた。いつもは明るい結衣の瞳に、今日は心配の色が浮かんでいる。
「何でもないよ、結衣」美咲が作り笑顔を浮かべた。「おはよう。朝ご飯食べようね」。母親の笑顔は、子供を安心させるための、精一杯の演技だった。
結衣が美咲の手を取る。翔は立ち上がって、寝室に向かった。ドアを静かに閉めて、ベッドに座る。頭を抱えるように両手を額に当てた。
(美咲の言うことは正しい...妻が家にいることを前提とした働き方は、もう時代遅れだ。共働きが普通。協業の時代。それは頭では分かる。でも...俺の競争意識を止めることはできない。勝ちたい。数字を達成したい。 部長になりたい。この気持ちを、どうやって抑えればいいんだ?)
週末の残りの時間、翔は美咲とほとんど話さなかった。翔は部屋で仕事の資料を見ていたが、集中できない。美咲の言葉が頭の中で繰り返される。「協業の時代」「あなたにはゴールがない」「私自身のために」。
月曜日の朝、翔は重い心を抱えて出社した。電車の中で、スマホのニュースアプリを開く。
「働き方改革、進む企業の取り組み」「共働き家庭の増加、男性の育休取得率も向上」「ワークライフバランス、若い世代ほど重視」。時代は確実に変わっている。しかし翔の職場は、相変わらず長時間労働が美徳とされる古い体質から抜け出せないでいる。
オフィスに着いて、翔は20階の窓の外を見下ろした。東京の朝のビル群。無数のオフィスワーカーが、蟻のように忙しく行き交っている。みんな、何かを追いかけて走っている。数字を、昇進を、成功を。翔もその一人だ。でも、何のために走っているのか。その答えが、だんだん分からなくなってきていた。
デスクに座り、ビジネスバッグを開けると、金曜の夜にしまった結衣の絵が目に入った。「パパへ」。家族三人が手をつないでいる絵。太陽、雲、公園。結衣が思い描く理想の家族の姿。
翔はその絵を取り出し、デスクの上にそっと広げた。翔は深いため息をついた。胸の奥から湧き上がる、名状しがたい重苦しさ。
(俺は...何を間違えたんだろう。家族のために働いているはずなのに、家族との時間がない。美咲の夢を応援したいのに、自分の働き方を変えられない。このままじゃ...)
その夜も、翔の帰宅は遅くなった。24時近くになって自宅のドアを開けると、リビングの電気がついている。美咲が、ソファに座って待っていた。手には読みかけの本があったが、ページは進んでいないようだった。
「おかえり」美咲の声は、疲れていた。土曜日の朝の言い争いから、二日が経っていた。
「...ただいま。待ってたの?」翔が聞くと、美咲は静かに頷いた。
「話したいことがあったから」
翔は美咲の隣に座った。ソファの間に、見えない距離があるような気がした。美咲が静かに口を開く。
「土曜日のこと、ごめんなさい。感情的になって」
「いや、俺こそ...」
美咲が翔の言葉を遮るように続けた。「でもね、翔。私の気持ちは変わらないの。仕事をしたい。それに...このままじゃ、私たち家族がバラバラになっちゃう気がして」
翔の胸が締め付けられた。美咲の目に、うっすらと涙が浮かんでいる。
「分かってる」翔の声は、かすれていた。「君の言うことは正しい。でも、俺...どうしたらいいか分からないんだ」
美咲が翔の目をじっと見つめて言った。「一緒に考えよう。二人で」。翔は頷いた。それを見て、美咲は笑顔で返したが、疲れているのが分かった。
心の中では、まだ答えが見つからない。競争意識と、家族への愛情。昇進への渇望と、妻への理解。自分の為と、家族の為。それらが翔の心の中で激しくせめぎ合い、明確な答えを出すことを拒んでいた。
深夜のリビングで、夫婦二人がソファに座っている。外では東京の夜が静かに更けていく。翔の心は揺れ続けていた。変わりたい気持ちと、変われない現実の間で。
続く




