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第1話:いいね100個に届かない憂鬱な朝:白石陽①

朝6時、目覚まし時計が鳴る前に、枕元のスマホに手が伸びる。


意識が覚醒する前に、体が記憶している。数字を確認するこの動作を。半開きの目で顔認証してロックを解除。画面の青白い光が、薄暗い部屋で顔を照らす。


昨夜9時に投稿したカフェラテの写真。ハート型のラテアートが完璧に写っている一枚。撮影に15分、フィルター選びに10分、キャプション作成に20分かけた自信作。でも表示される数字は「67」。


67個の「いいね」。目標の100には33個も足りない。陽の胸に鉛のような重さが沈む。画面を下にスワイプして更新する。また67。もう一度。やはり67。何度見ても変わらない。


今日もダメかと、目覚めの悪い朝。白石陽は布団を出る前から気分が落ち込む。


陽にとって、100は単なる数字じゃない。それは「認められている証拠」。100未満は「失敗」。100以上は「成功」。そう勝手に自分で決めただけ。でも朝起きた瞬間から夜眠る直前まで、その数字が陽の心をずっと離さない。


時計は6時15分。まだ起きるには早いが、もう眠れない。陽はベッドから起き上がる。冷たいフローリングの感触。心も足も冷えた。今日も長い一日が始まる。


洗面所で歯を磨きながらも、スマホの画面を見つめる。洗面台にスマホを立てかけ、歯ブラシを機械的に動かしながら、Instagramのフィードをスクロールする。


同期の美香の海外旅行写真。バリ島のプールサイド、真っ青な空、水着姿の完璧な笑顔。いいね数312個。陽の胸に、嫉妬とも羨望ともつかない感情が渦巻く。次は後輩の桜子のパンケーキ写真。完璧な構図、完璧な光の当たり方。156いいね。自分の67という数字が、ますます惨めに感じられる。


スマホの中の世界に没頭して、歯磨き粉の泡が口の端に溜まっていることにも気づかない。


( 私はまだこの世界にたどり着けていない。このままではだめだ。)


鏡の中の自分を見る。29歳、独身、マーケティング会社の営業職。普通の顔。普通の人生。


8時5分の通勤電車。つり革につかまりながら、陽は再びスマホを取り出す。69個。2個増えた。でも投稿からもう11時間。ゴールデンタイムは終わった。もう100には届かない。電車に乗っている30分の間で10回以上更新する。えい、えい、えい。それでも数値は変わらない。


8時45分、オフィスに到着。パソコンを立ち上げ、メールをチェックする。でもその横で、スマホが光った。いいねがついた。


「見ない、今は見ない」と心の中で繰り返す。今日は午後にクライアントとのミーティングがある。資料を仕上げなければ。でも5分後、陽の手はスマホに伸びている。


デスクの下でこっそりInstagramを開く。もしかしたら一気に80個くらいになっているかもと目を見開く。70個。1個しか増えてない。陽は小さくため息をつく。


午前10時、大会議室。今月の企画会議。参加者は15名。上司の山田部長がホワイトボードの前に立ち、プレゼンテーションを始める。


「今期の目標は前年比120%です。特にデジタル広告分野での売上を強化したい」


先月と同じような内容だな、もっと重要なことを考えねば…陽は勝手にそう判断する。

山田部長の声が耳に入るが、陽の頭の中では別のことが回っている。投稿から13時間過ぎた。もう100は無理だ。あと30個...次の投稿ではどうやって増やす?...ハッシュタグ?投稿時間を変える?


「白石さん、どう思いますか?」


突然、部長の声が陽の名前を呼ぶ。陽は慌てて顔を上げる。会議室の全員が陽を見ている。14組の視線。心臓がドキドキする。


「え...あ、はい。その通りだと思います」


咄嗟に出た適当な返事。当然、部長の表情が曇る。眉をひそめる。


「その通り、とは?具体的にどの部分を指していますか?」


陽の頭が真っ白になる。


「...少し考えさせていただいてもよろしいでしょうか」


なんとか言葉を絞り出す。でもその声は震えている。部長が小さくため息をつく。「わかりました。では後ほど個別に確認しましょう」。


会議が続く。でも陽はもう何も聞いていない。恥ずかしさと自己嫌悪で頭がいっぱい。隣に座る同僚の佐藤さんが、心配そうな目で陽を見る。会議が終わった後、廊下で声をかけられる。


「大丈夫?最近ちょっと集中力ないよね。何かあった?」


佐藤さんの優しい声。でも陽には答えられない。「大丈夫です。ちょっと疲れてるだけで」と笑顔で誤魔化す。佐藤さんは納得していない表情だが、それ以上は聞かない。


午後の作業。資料作成、メール返信、クライアントへの電話。どの作業も、常に意識は携帯の新着アイコンが横にある。そしてどうやったら100にいくのかなとか、いったら楽しいだろうなとか、常に100を取っている人も下積み時代があったのかなとか、完全に思考は上の空で仕事に集中できていない。


その結果残業となり、午後7時にアパートに帰宅。狭いワンルーム。一人暮らし3年目。いつものコンビニ弁当を温め、手早くテーブルで食べる。


お風呂から上がり、ベッドに座る。時刻は午後8時。画面に表示される数字—70個。当然増えていないけど再確認。


(70...恥ずかしい。こんな中途半端な数字...)


陽は自分の投稿を開く。そして、投稿の右上にある「・・・」ボタンを見つめる。タップする。メニューが開く。


「投稿を削除」


その文字をじっと見つめる。削除すれば、この70という数字も消える。誰にも見られない。恥ずかしい思いをしなくて済む。


陽の指が震える。「削除」のボタンに触れそうになる。でも、押せない。


(削除したら...負けだ。70でも、何もないよりマシ。削除したら、ゼロになる。それはもっと恥ずかしい。でも、このまま70を晒し続けるのも...)


5分間、陽は「削除」ボタンの前で指を止めたまま、動けない。削除するべきか、このままにするべきか。どちらも選べない。


結局、陽はメニューを閉じる。削除しない。でも、この70という数字が、ずっと陽を責め続ける。


陽はベッドの上で体育座りになり、スマホを両手で握りしめる。このままじゃダメだ。100に行く方法を考えないと。他の人の投稿の分析をしよう。


Instagramを開き、フォロワーのタイムラインを見る。朝見た同期の美香の投稿。バリ島のプールサイドの写真—378いいね。なぜこんなに多いの?


陽は美香の投稿を一つ一つ分析し始める。写真をピンチアウトして拡大する。構図は斜め45度。青い空と白いプールのコントラスト。美香の水着姿は右下に配置。左上に余白。完璧な三分割法。


フィルターは...「Valencia」だ。彩度が高い。鮮やかで目を引く。キャプションは短い。「Paradise」と絵文字2つだけ。シンプルで洗練されている。


ハッシュタグの数—15個。「#バリ島 #旅行 #海外旅行 #リゾート #プール #ビーチ #南国 #バカンス #夏 #海 #旅行好きな人と繋がりたい #travelgram #bali #paradise #vacation」


(ハッシュタグが多い...私は5個しかつけてなかった。しかも英語のハッシュタグも入ってる。これが原因?)


投稿時間を確認する。朝7時。通勤時間。みんながスマホを見るゴールデンタイム。


次は後輩の桜子の投稿。パンケーキの写真—190いいね。陽はこれも細かく分析する。


真上からの撮影。自然光が完璧に入っている。パンケーキの上のイチゴ、ブルーベリー、ミントの配置が計算されている。フォークが斜めに置かれて、「これから食べる」感を演出。


キャプション:「おしゃれカフェで朝活。 幸せな朝の始まり。」。そして絵文字が多い。ポジティブな言葉。「幸せ」「朝活」というキーワード。


ハッシュタグ:12個。「#カフェ #朝活 #パンケーキ #おしゃれカフェ #カフェ巡り #東京カフェ #インスタ映え #朝ごはん #breakfast #cafe #pancakes #morning」


投稿時間は11時30分。ランチタイムの直前。お腹が空く時間。


(投稿時間...私は夜9時だった。ちょっと遅すぎた?構図も、真上からじゃなくて斜めから撮ってた。光も暗かった。ハッシュタグも少なかった。キャプションも...「今日のカフェラテ」だけ。つまらない...)


陽はさらに他の人の投稿も見る。インフルエンサーの投稿。800いいね、1200いいね、2500いいね。みんな計算されている。構図、色味、キャプション、ハッシュタグ、投稿時間。全てが戦略的。


陽はスマホのメモアプリを開き、「100超えるための戦略」と打ち込む。そして箇条書きにしていく。


「1. ハッシュタグを15個以上つける」

「2. 投稿時間を朝7時か昼12時か夜20時にする(ゴールデンタイム)」

「3. もっと『映える』場所に行く(カフェ、海、観光地)」

「4. 人物を入れる(自撮りか友達と)」

「5. キャプションを短く、絵文字を多めに」


書き終えて、陽は何度も読み返す。これで次は100を超えられるはず。でも胸の奥に、小さな違和感がある。


(これって...私が本当にやりたいことなのかな...いや、でもフォロワーを増やすには必要なこと。仕事にも関係してるし)


時計を見る—24時。もうこんな時間と思いつつ、また他の人の投稿を見る。インフルエンサーの投稿、友人の投稿、知らない人の投稿。みんな100を超えている。みんな輝いている。みんな幸せそう。


陽はスマホを置き、天井を見つめる。暗闇の中、青白いスマホの光だけが部屋を照らしている。陽は戦略を何度も頷きながら確認する。そして「今度こそ100に行こう」と心に誓う。


でもその誓いが、抜け出すことのできない檻となって自分を苦しめていることに、陽はまだ気づいていない。


続く

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