動き出す影
夜の八時、スーツケースを持った一人の男が夜の市役所を出る。そして車に乗り込み、出発しようとすると誰かから電話がかかってきた。見るとそれは非通知である。内心男はびくびくしながらもその電話に出た。
「もしもし。」
「あなたが加藤さんですか。」
男であることはこの金の運び屋である加藤も理解できたのだがその相手が誰なのかはわからない。
「私、橋本の付き人をしております、石原と申します。急なお電話で大変申し訳ございません。」
電話の石原と名乗る男はとても丁寧にそう言った。
「はあ。で、何の御用ですか?」
「はい。大変申し訳ないのですが、学校の方でまだ、教師たちが残っているので校長室での受け渡しは大変危険ですので、場所を変えていただけないかと。」
「どこです?」
「私、石原が責任を持ってお預かりしますので新田川ハイメントビルに今からお越しください。」
新田川ハイメントビルとは直線距離にて新田川高校の南西約1・1キロメートル付近にある廃ビルである。5年ほど前から閉鎖されており、今は新田川高校の生徒たちに取っての心霊スポットのような場所となっている。
「わかりました。しかし申し訳ありませんがあなたが橋本さんの付き人であるという証拠は何一つありません。よって“合言葉”を言っていただきたい。」
加藤の言う“合言葉”とは橋本と跡部が秘密裏に設定していたものである。よってこれを知っている者は当事者の2人だけである。
「申し訳ありません。先に申し上げておいた方が丁寧でしたね。合言葉はジョーンJです。」
加藤はこの石原と名乗る男があまりにもすぐに、さらっと答えるのでとてもほっとした。
「疑って申し訳ありません。ではすぐに向かいます。」
「おまちしております。」
そうして電話は切れた。加藤は急いで車を発進させた。この市役所から新田川ハイメントビルまでは約10分程かかる。加藤は腕にはめている時計に目をやる。時刻は8時15分であった。
夜の廃墟、そこは誰も人間を寄せ付けない静寂の場である。そこに一人たたずむ男がいた。男は時計を見る、時刻は8時25分。約束の時間である。男はにやりと笑い、割れた窓から外を眺める。一台の外車が暗闇を裂くように廃墟へと入ってくる。そして中から一人のスーツを着た男が出てくる。その男は車のトランクからスーツケースを取り出すと、足早に廃墟の中に足を踏み入れる。その様子を見た黒い影はすぐに行動を開始した。
廃墟の中はとにかく暗かった。何も見えない。加藤はすぐさまポケットに入っていた懐中電灯を取り出し、明かりをつけた。中の様子はボロボロの有り様でとにかく埃臭かった。加藤はその様子に心底嫌気がさしながらも先に進む。
「石原さーん!どこにいますか?」
そう叫んでも返事はない。ただその声が妙に反復して帰ってくるだけである。加藤は周りを見渡すが何もない、ただ暗闇が広がっているだけである。加藤はイライラしていた。
「どこですか?いるなら返事をしてください。」
自然と進むスピードが速くなる。
「ここですよ。」
加藤は急に聞こえてきた優しげな声に驚き、振り返る。しかしそこには誰もいなかった。
「石原さん?」
そう言って加藤が一歩踏み出したその時だった。
「うっ!」
突然首にロープが巻きついたのである。そしてそれを解こうと加藤が懐中電灯を捨て、両腕をロープにかける。だがもう遅くとてつもない力で持ち上げられたロープは加藤の体を宙に浮かせた。
「う、ぐっ。」
加藤は何とかロープを解こうと暴れるがそれがかえってロープを揺さぶることになり、ロープが首に食い込む。
そうして為すすべなく加藤はしばらくして動かなくなった。
「ふん。バカめ。」
暗闇の中から現れた石川は満足そうに笑う。
「なーんだ、もう終わったの?」
暗闇の中からもう一つの声が聞こえた。
「なんだ、もう来ていたのか。」
「ま、下準備は早い方がいいでしょ?」
暗闇の中から大きなライフルケースを抱えてサングラスをかけた女が姿を現す。
「じゃ、私は準備に取り掛かりまーす。」
女は大きなあくびをした後、そそくさと二階に上がろうとする。
「あっ、そうそう。昂大があなたのことめちゃくちゃ怖がってたわよ。あんまり厳しくするのはだめねー。」
表情は暗闇の中なのでいまいちわからなかったが、明らかに楽しげでお茶らけた声であった。
「ふん。それはあのバカが羽目を外しすぎたからだ。まったく彼女を作ってイチャイチャするなど。」
「あ。それ私の事よ。クラスの生徒が勘違いしたんじゃない?」
美樹は堪えきれずに笑っていた。
「あなたも早く彼女作りなさいよ。モテるんでしょ?一応。」
美樹は一人で大笑いしながら階段を上ってゆく。
「なんだとー!」
石川はこぶしを握りしめた。しかし追いかけることはせず舌打ちをし、廃ビルを去っていく。あらかじめ一応用意していた遺書をその場において。
☆
9時、来ない。いつもなら時間を一分たりとも遅刻しない誠実な加藤が遅刻するなんて信じられないと橋本は思っていた。しかも今日は昨日来たばかりの大ファンだったジョーンJがまさかの経歴詐称!という事実を知って落胆していた。
「きいーー!」
橋本は校長室の机の引き出しにあった大量のジョーンJのブロマイドを床に投げつける。まさか整形だったとは思ってもいなかった。その上金も届かないとあってはさらにイライラが増す。
「もう、なんなのよー。」
橋本はその巨体を震わせブロマイドを踏みつける。
「はあ、はあ、はあ。」
橋本の全身から汗が噴き出した。ゆかにばらまかれたジョーンJのブロマイドは見るも無残な姿となっていた。
「コンコン。」
橋本は突然鳴ったドアの音に体を再び震わせた。そして猛スピードでブロマイドをゴミ箱に突っ込む。
「は、はあい。」
疲れすぎた橋本の声は裏返る。
「遅くにすみません。石川です。」
橋本はその声を聞いて疲れが増すような気がした。
「はあ。何の用です?石川先生。」
橋本は渋々ドアのロックを解除する。
「失礼します。」
そう言って石川は普通に校長室の中へ足を踏み入れた。
「こんな遅くにすいません。少しお話が。」
石川は照れた様子で頭をかいた。
「ふう。先生はお若いですね。こんな時間まで仕事をしているなんて。何の御用ですか?」
橋本は少し煩わしそうに石川の顔を見た。笑っている。そして何より安心できるこのオーラ。橋本は石川を見る。すると石川は近づいてきた。そう笑顔で。よく見ると石川は右手にナイフを持っている。あれ、ナイフ?そう思った次の瞬間、橋本の首から血が噴き出した。
「ぐっ、ぎゃ。」
声にならない小さな音を出して橋本は机の上に倒れこんだ。そして信じられない量の血が机の上に広がってゆく。石川の手には血塗られたナイフが握られていた。しかし当の石川に血は一滴もついていなかった。
「・・・。」
石川は何も言わず校長室の部屋をロックして窓を開けた。窓からはさわやかな風が入ってくる。そして電気を消すと石川は窓から飛び降りる。ここは北校舎の三階である。普通の人間ならば三階から飛び降りるのは至難の技であるが石川にとっては段差から降りるだけの事の様に簡単なことであった。華麗に受け身をとると、その足で駐車場を目指す。その駐車場の中に一際大きなワゴン車があった。その車に乗り込むとエンジンをかける。すると車の中は瞬く間に管制司令塔のような施設に早変わりする。車の中にあるたくさんのモニターには学校内に元々大量に仕掛けてあった監視カメラの映像が映し出されていた。石川はニヤリと笑い、中央にあるパソコンのキーボードになにやら打ち込んだ。
「これでいい。」
石川は満足げに笑った。
☆
あまりにも遅い、と教頭の吉田は思った。いつもなら金の分け前をすぐさま教頭室に持ってくるはずだった。彼は今北校舎の三階にある教頭室でなにやら残業をしていた。吉田は校長の橋本にいつも様々な仕事を押し付けられていた。書類の精査などの雑務や様々な所へのあいさつ回り、PTAたちの相手まですべて押し付けられていた。
「あんの、デブババアめ。俺に全部押し付けておいて金まですべて自分のものにする気か!」
相当イライラしたのか、吉田は書類に目を通すのをやめて、立ち上がった。しかしその格好はあまりにも気持ちの悪いお粗末なものだった。まず上半身は白一色のシャツ、それだけならまだいいが何と下半身はこれまた白のランニングパンツをはいていた。ランニングパンツはとても短く、もはやパンツ一丁のようなものであった。その上、吉田は肌が白くとても毛深いため、見せているのだ。この変質者ぶりには誰も気づいていないが、ひとたびこの格好で生徒たちの前に姿を現せばそれはもう紛れもなくセクハラである。
「もう我慢できん。こうなったら今度こそあのくそババアにガツンと言ってやる!」
そう息巻いて吉田が教頭室を出ようとすると、
「ちゃっちゃらちゃらちゃ~…♪」
謎の着信音が鳴る。これは吉田がひそかに好意を抱いているある深夜アニメのオープニングテーマであった。このことももちろん誰も知らない。そしてその音楽を聞いて少しだけにやけた吉田は電話を見た。相手は橋本であった。すぐさま出る。
「もしもし?橋本校長ですか?」
「そうだよ。ちょっと遅れて悪いね。イライラしてたろ?」
吉田は少し見られていたような気がしてぎょっとした。
「い、いえいえとんでもない。校長にはいつもお世話になってるのにそんなこと思うわけないじゃないですか。」
とっさに誤魔化す吉田。
「ならよかったよ。実はあんたに今日サプライズを用意したんだよ。いつも雑用ばかりさせて悪いからね。」
この言葉を聞いた吉田はとてもうれしかった。このようなことは初めでであった。吉田はまさか橋本が自分にお礼を言う人間であるとは思っていなかったのである。
「いやいや、とんでもない。私こそ校長にいつもお世話になってばかりいるのに。」
吉田のうれしそうな声は電話の相手にも十分伝わった。
「じゃあちょっと外を見てくれ。」
「外、ですか?」
吉田は言われるがまま窓を開け、外を見た。しかし、何もない。
「えっ。何もありませんけど。」
吉田は不審に思った。
「なあに言ってんだ。もっと上だよ。」
「上?」
そうして吉田がまっすぐに地平線を見た時であった。
「キュン」
銃弾が吉田の額をみごとに貫通し、その弾が遠く教頭室の壁に突き刺さる。吉田は絶命した。もちろん即死である。吉田の体は力なく崩れ去り、股を大きく開いて倒れた。
「ふう。余裕ね。」
そう言って美樹はスコープから目を離す。もちろん今までの橋本の声は全て演技である。美樹の類まれなるスキルの一つであった。
「それにしても、キモイおっさんだったわー。」
そう言って美樹は愛用のレミントンを静かにしまう。
「ま、これで私はミッションコンプリートね。」
そう言ってサングラスをかける。夜の冷たい風が美樹の髪をなびかせる。仕事人はゆっくりとその場を後にした。
☆
夜の1時半、日付はもうとっくに変わったその時間まで昂大は起きていた。というのも昂大はいつも11時には寝ているのである。これは今どきの高校生にとっては早すぎる就寝であった。昂大は今の今まで何もせずにただ寝転がっていた。しかし突然立ち上がると冷蔵庫から一枚の板チョコを取り出した。そしてそれを小さな机の上に置く、昂大はそれの包装をゆっくりと剥がし、かぶりついた。そしてものすごいスピードで完食し、あっという間に無くしてしまった。しかしそこにいつもの笑顔はなかった。
包装紙をゴミ箱に捨て、時計を見ると1時45分であった。昂大はふう、と軽いため息をつくと部屋の奥の小さなクローゼットから野球のユニフォームを取り出した (と言っても昂大がいつも練習の時に使うような白地の練習着であるのだが) 。それと続けて黒地のアンダーシャツを取り出す。それもこれもいつも昂大が練習の時に着る物とは違う物であった。そしてそのユニフォームに着替え始める。そして最後に靴下を履く。その光景はいつも昂大が学校でしている光景と全く同じであった。しかしいつもと違う点はゆっくりであるという点である。そうして5分ぐらいかけてゆっくりと着替え終わった昂大は白い野球帽を被る。
そして極めつけは“面”である。なんとも言えないのはそのデザインである。その形は真ん丸な野球ボールをかたどった物なのである。よって着替え終わった昂大の姿は例えるならば正義のヒーロー野球マンといった感じであった。そうして時計を再度見る。時刻は1時58分だった。しかし特に急ぐ様子もなく電気を消し外に出て鍵をかける。さすがに2時にもなればどの家も明かりは消え、静まり帰っていた。
いよいよ決行の時間である。あと三十秒。昂大は二階から飛び降り、静かに着地する。そしてその瞬間まるで忍びのような動きで隣の家の屋根に上り、屋根を伝うように移動する。その際、ドタドタとするような音は全くなくまるで風の様に屋根を伝って行った。そうして最後の家の屋根からジャンプし、着地するとそこは新田川高校の正門だった。すぐさま昂大はポケットから小型のイヤホンマイクのような物を取出し、耳に装着した。
「ふん、着いたようだな。では校門を突破して南校舎に向かえ。」
「南校舎?研究室は北校舎ですよね。」
昂大は軽く校門を飛び越える。
「南校舎に一組、北校舎に二組いる。」
「わかりました。」
そう言った矢先に昂大は南校舎の入り口に立っていた。すぐに中に入る。扉のロックは裏で石川が簡単に操作できるらしい。暗闇の中階段を上る。そうして二階にたどり着くと足音が聞こえてきた。そして懐中電灯の光がちらつき始める。昂大は足音から2人の大人の男で銃を持っていることを察知した。
「廊下から2人だ。」
石川はそれだけしか言わない。だが昂大はその言葉より先に行動に出ていた。昂大はとてつもないスピードで相手に真正面から接近し顔面にとび膝蹴りをかまし、一撃でノックアウトさせる。そして素早く片手で受け身をとり、もう一人が焦って銃を構えようとする前に顔面を蹴りあげた。そのスピードと威力は人間離れしたものであった。
「次は北校舎だ。」
やはり石川がそう言う前にもう一階に向かっていた。石川がロックを解除する。
昂大はすぐさま北校舎に侵入する。




