9.街のねこ司法書士、若手司法書士の交流会
佐々木健太は、ネクタイを締めながら鏡の中の自分を見た。下町にある「佐々木司法書士事務所」の若手司法書士として、彼の日常はいつも、目の前の書類と格闘し、時に依頼人の複雑な感情に戸惑うことの連続だ。そして、そんな彼をいつも支えてくれるのが、相棒の三毛猫ミケだった。ミケは健太の唯一無二の相談相手であり、彼の心強い味方だ。健太はミケの助言に半信半疑ながらも強く依存しており、ミケがいないと、途端に心細くなってしまう自分が情けなかった。
今夜は、司法書士会が主催する若手司法書士の交流会。健太は誘われるがまま参加を決めたものの、初対面の人たちの中でうまく立ち回れる自信が全くなかった。
「ミケ……俺、こういう場、本当に苦手なんだよな。うまく話せるかな。変なこと言わないかな……」
健太が不安げに呟くと、ミケは健太の足元に擦り寄り、スーツの裾を軽く引っ掻いた。その仕草は、まるで「大丈夫、僕がついてる」とでも言っているかのようだ。健太はミケの頭を撫で、深呼吸をした。
会場は、都心にある瀟洒なホテルの一室だった。スーツ姿の司法書士たちが、あちこちで名刺交換をし、談笑している。健太は隅の方で、用意された軽食に手を伸ばすこともできず、ただぼんやりと会場を見渡していた。
「あー……やっぱり場違いだったかな。誰に話しかければいいのかも分からないし……」
健太が所在なく立っていると、背後から声をかけられた。
「佐々木先生ですよね? 佐々木司法書士事務所の」
振り返ると、小柄で眼鏡をかけた女性が立っていた。彼女は、健太と同じくらいの年齢に見える。
「あ、はい。そうですが……どちら様でしょうか?」
「私、高橋マミと申します。以前、研修会でご一緒しましたよね。確か、佐々木先生は、地域貢献活動の発表で、すごくユニークな企画を提案されていたような……」
高橋先生は、健太が青年会で企画した「ミケと学ぶ!やさしい法律のふしぎ」のことを覚えていてくれたのだ。健太は、自分が評価されていることに驚き、そして少しだけ嬉しくなった。
「あ、あの時は、えっと……その、大したことでは……」
健太はいつものように、謙遜し、言葉に詰まった。高橋先生はそんな健太の様子を見て、くすりと笑った。
「いえいえ、素晴らしい企画でしたよ。子供向けの法教育って、なかなか難しいのに。私も、ああいう斬新なアイデアを形にできる先生を尊敬します」
高橋先生の素直な賞賛に、健太は顔を赤らめた。健太の背後には、こっそり鞄に忍び込ませて連れてきたミケが、会場の様子を窺うように、ひょこっと顔を出した。ミケは、健太と高橋先生の会話に耳を傾けているかのようだった。
高橋先生は、健太とは対照的に、社交的で堂々としていた。彼女は、最近手がけた相続案件のことや、地域で開催された無料相談会のことなどを、淀みなく話した。健太は、ただ相槌を打つばかりで、なかなか自分の話ができない。
「佐々木先生は、最近何か印象的な案件ありましたか?」
高橋先生に話を振られ、健太はまた言葉に詰まった。正直、最近はミケのおかげでうまくいった案件ばかりだ。それを正直に話すわけにもいかない。
その時、ミケが健太の鞄の中から、小さな爪とぎの切れ端を咥えて、そっと高橋先生の足元に置いた。高橋先生は、ミケの意外な行動に目を丸くした。
「あら、この子、どこから? 可愛いですね。爪とぎの切れ端なんて、どうしたの?」
健太は慌ててミケを鞄に戻そうとしたが、ミケは健太の指を軽く噛んで抵抗した。そして、その爪とぎの切れ端を、高橋先生の足元に置き直した。
「あ、あの……これは、うちの事務所の……ミケという猫でして。すみません、いたずらで……」
健太がオドオドと説明すると、高橋先生は笑いながら切れ端を拾い上げた。
「へえ、猫ちゃんを飼っているんですか。事務所で? 珍しいですね。この爪とぎ、なんだかすごくこだわりを感じるわ。質の良い麻紐を使ってる」
健太はハッとした。ミケが爪とぎの切れ端を持ってきた理由が、一瞬で分かった気がした。高橋先生が「爪とぎ」という言葉を発した瞬間、健太の頭の中に、最近依頼された「ペット信託」の案件が閃いたのだ。
「あ、あの! 実は、最近、ペット信託の案件を手がけまして……」
健太は、自分の言葉で話し始めた。依頼主は、病気で余命宣告を受けた高齢女性だった。彼女は、自分が亡くなった後、愛猫がどうなるかを心配していた。健太は、ミケの助けを借りながら、女性の愛猫が安心して暮らせるよう、財産管理の仕組みを構築した経緯を説明した。
健太が、ミケとの日々の奮闘や、ミケがどのように依頼解決のヒントを与えてくれたかを語ると、高橋先生の目が輝いた。
「ペット信託ですか! それは素晴らしい! 私も以前から興味があったんです。日本ではまだ認知度が低いですが、これからの高齢化社会で、必ず必要になる分野です。それに、先生の猫ちゃんが、そんなに賢いなんて……信じられないけど、面白いですね!」
高橋先生は、健太の話に身を乗り出して耳を傾けてくれた。健太は、自分の話が相手に伝わっていることに、温かい感動を覚えた。そして、何よりも、自分の言葉で、自分の経験を話すことができたことに、小さな自信が生まれた。
その後、高橋先生は、健太にいくつもの質問を投げかけた。ペット信託の具体的な手続き、留意点、そして、ミケの不思議な能力についてまで。二人の会話は尽きなかった。健太は、高橋先生との会話を通じて、司法書士としての専門知識だけでなく、社会の変化に対応した新しい分野への関心を持つことの重要性を学んだ。
交流会の終盤、部長が健太の元にやってきた。
「佐々木先生、高橋先生とずいぶん盛り上がっていたようだね。実は、高橋先生は、今度の司法書士会の研修部会で、ペット信託に関する発表を企画していてね。佐々木先生も、ぜひ協力してもらえないか?」
部長の言葉に、健太は驚いた。高橋先生も笑顔で健太を見た。
「佐々木先生のお話、とても勉強になりました。もしよろしければ、ぜひ一緒に、研修を企画しませんか?」
健太は、一瞬戸惑った。人前で発表するなんて、やはり自信がない。しかし、高橋先生の真剣なまなざしと、ミケが鞄からそっと顔を出して、健太の様子を見守っていることに気づくと、健太の心に、小さな勇気が湧いてきた。
「はい……。あの、僕でよければ、喜んで!」
健太は、生まれて初めて、自分から「やる」と意思表示をした。高橋先生は「ありがとうございます!」と満面の笑みを見せた。ミケは鞄の中で、満足そうに「ニャア」と一鳴きした。
交流会が終わり、健太が事務所に戻ると、ミケは鞄から飛び出し、健太のデスクの上に乗った。健太は、ミケを抱き上げ、優しく撫でた。
「ミケ、今日の交流会、行ってよかったよ。高橋先生とも知り合えたし、研修の協力もすることになったし……」
健太は、今日一日の出来事をミケに報告した。ミケはゴロゴロと喉を鳴らしながら、健太の頬をそっと舐めた。
「俺、まだまだ頼りないけど、少しは、自分に自信が持てたような気がするよ。これも、ミケがいつも俺を導いてくれるおかげだ」
健太は、ミケの存在がなければ、この交流会で誰とも話すこともできず、ただ時間だけが過ぎていっただろうと思った。ミケは、健太に新しい出会いと、司法書士としての新たな可能性を与えてくれたのだ。
下町の司法書士事務所には、深夜になっても温かい電気が灯っていた。健太は、高橋先生から受け取った名刺を、ミケの頭にそっと載せた。これから、新しい挑戦が始まる。健太は、ミケという最高の相棒と共に、一歩ずつ、しかし確実に、司法書士としての道を歩んでいく。人との交流を通じて、自分の殻を破り、自信を育んでいくために。そして、いつか、ミケがいなくても、自分の力で「大丈夫です」と言えるようになるために。彼の奮闘は、これからも続く。
【免責事項および作品に関するご案内】
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。
これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。
現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。