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8.街のねこ司法書士、相続放棄の重い決断

 佐々木健太は、いつにも増して沈んだ表情でデスクに向かっていた。目の前の書類には「相続放棄申述書」の文字が踊る。司法書士として、この書類を作成することは珍しくない。しかし、今回の依頼は、健太の心に重くのしかかっていた。


「ミケ……本当にこれで、いいのかな」


 健太が不安げに呟くと、事務所の窓際で丸くなっていた三毛猫のミケが、ゆっくりと目を開けた。ミケは健太の唯一無二の相棒だ。自信なさげな健太が法律の壁にぶつかり、自分の判断に迷う時、ミケの賢い「助言」がいつも彼を導いてくれる。健太は、その不思議な能力に半信半疑ながらも強く依存していた。


 今回の依頼人は、坂本由美さん、30代の女性。彼女の父親が、突然亡くなった。そして、その死後に判明したのは、父親が遺した莫大な借金だった。住宅ローン、消費者金融からの借り入れ、そして知人からの借金……。すべてを合わせると、とても由美さんの収入では返済しきれない額だ。


 由美さんは、涙ながらに健太に訴えた。


「父は、真面目で優しい人でした。まさか、こんなことになっているなんて……。私も母も、何も知りませんでした。父が亡くなって、初めて家に督促状が届いて、それで……」


 健太は、由美さんの憔悴しきった様子を見て、胸が締め付けられた。相続放棄は、亡くなった人の一切の財産と負債を相続しないという手続きだ。由美さんのようなケースでは、家族を借金から守るために、非常に有効な手段となる。しかし、それは同時に、故人とのつながりを法的に断ち切ることを意味する。


「父との思い出まで、全て捨ててしまうようで……。本当に、相続放棄しかないのでしょうか……」


 由美さんの言葉に、健太は返答に詰まった。感情的に言えば、父親との絆を断ち切りたくない、という気持ちも理解できる。しかし、法律的に見れば、相続放棄以外に由美さんを守る道はないように思えた。健太はミケに助けを求めるように目を向けた。


 ミケは、由美さんが置いていった父親の遺品である古い手帳に、そっと前足を置いた。


「手帳……?」


 健太は手帳を手に取った。それは、父親が仕事で使っていたらしい、使い込まれた手帳だった。中に目を通しても、特に変わった記述は見当たらない。


「ミケ、これはどういう意味だ? 何か、この手帳にヒントが?」


 ミケは手帳の、特定のページを鼻先でツンツンとつついた。そこには、走り書きで、いくつかの日付と、見慣れない地名、そして小さなメモが書かれていた。


「『〇月〇日 東山町 〇〇公園の桜』……何だろうこれ? ミケ、これは何を指しているんだ?」


 健太は首を傾げた。借金問題とは、全く関係がないように思えるメモだった。ミケは、そのメモを指したまま、健太の顔をじっと見つめている。健太はミケの賢さに何度も助けられてきた。きっと、これにも何か意味があるはずだ。


「よし……由美さんにもう一度、詳しく話を聞いてみよう」


 健太は、由美さんに連絡を取り、手帳のメモについて尋ねた。由美さんは首を傾げるばかりだった。


「東山町? 〇〇公園の桜? 父がそんな場所に行くなんて、聞いたことがありません……」


 由美さんも、父親の突然の死と借金問題で頭がいっぱいで、手帳のメモには全く気づいていなかったようだ。


 健太は、由美さんの了承を得て、手帳のメモを頼りに、その「東山町」へ向かうことにした。そこは、健太の事務所からは電車で片道二時間ほどかかる、少し寂れた地方の町だった。


 ミケも健太の鞄に忍び込み、こっそり同行した。


 東山町に着いた健太は、手帳に書かれた「〇〇公園」を探し当てた。そこは、ごく普通の、どこにでもある小さな公園だった。今は桜の季節ではないが、公園の周りにはたくさんの桜の木が植えられていた。


「ミケ、ここに来てみたけど、特に何かあるわけでもないな……。やっぱり、ただの個人的なメモだったのかな……」


 健太が諦めかけたその時、ミケが公園の隅にある、古びた公衆電話ボックスに駆け寄った。そして、電話ボックスのガラス窓を前足でカリカリと引っ掻いた。


「公衆電話? まさか……」


 健太は、吸い寄せられるように公衆電話ボックスに近づいた。電話ボックスの中には、昔ながらのダイヤル式の電話機が置かれている。受話器を取ると、微かに土埃の匂いがした。健太がふと目をやると、電話ボックスの壁に、マジックで書かれた小さな文字がいくつも残されていることに気づいた。それは、他愛ない落書きや、数字の羅列だった。その中に、見覚えのある「〇月〇日」という日付の横に、小さく電話番号が書かれているのを見つけた。それは、手帳に書かれていた日付と、ほぼ一致していた。


 健太は、その電話番号を慎重にメモした。そして、その番号に、自分の携帯電話からかけてみた。呼び出し音が数回鳴った後、女性の声が聞こえた。


「はい、もしもし……」


「あ、あの、私、司法書士の佐々木健太と申します。〇〇公園の公衆電話ボックスに書かれていた番号にお電話したのですが……」


 健太が事情を説明すると、女性は最初は戸惑っていたが、やがて、少しずつ話し始めた。


 その女性は、小林ハナさん、70代の女性だった。数年前、東山町で小さな喫茶店を営んでいたハナさんは、病気で店をたたむことになり、多額の借金を抱えていたという。その時、手を差し伸べてくれたのが、由美さんの父親だったのだ。


「坂本さんはね……本当に優しい人だった。私が困っているのを見て、お金を貸してくれたの。利息なんていらない、困った時はお互い様だって……」


 ハナさんの話を聞いて、健太は驚いた。坂本さんが、借金取りに追われる身でありながら、他人に手を差し伸べていたとは。


「でも、そのお金、坂本さんはどうやって……」


 健太が尋ねると、ハナさんは目を伏せた。


「坂本さんは、私にお金を貸してくれた後、この公園で、何人かの男の人と会っていたのを見かけたことがあるわ。いつも、何かを交換しているような、そんな様子だった……。まさか、そんな……」


 ハナさんの言葉に、健太はゾッとした。坂本さんは、もしかしたら、自分が抱えていた借金を返済するために、非合法な「闇金」のようなところから借り入れをしていたのではないか? そして、その「闇金」が、別の借金を抱えるハナさんを紹介し、そこから手数料を得ていた、あるいは、借り入れのためにハナさんの情報を利用していた可能性も考えられる。


 健太は事務所に戻り、ミケと共に、ハナさんから得た情報と、坂本さんの手帳のメモを照らし合わせた。そして、もう一度、坂本さんの借金の詳細について調べ直した。


 すると、ある消費者金融からの借入額が、他の借金と比べて突出して高額であることに気づいた。しかも、その消費者金融は、過去に高金利での貸し付けで行政処分を受けている、いわゆる「ヤミ金」に近い業者だった。


「ミケ、これだ! 坂本さんの借金の一部は、この業者からのものかもしれない。そして、ハナさんに貸したお金も、ここから引っ張ってきた可能性が高い」


 健太は、ミケのヒントがなければ、この業者の存在に気づくことはなかっただろう。そして、もしこの借金がヤミ金によるものであれば、法律上、無効となる可能性が高い。由美さんが相続放棄をする必要がなくなるかもしれないのだ。


 健太はすぐに、そのヤミ金業者に連絡を取り、坂本さんの債務に関する情報開示を求めた。しかし、業者は当然のように応じない。健太は、内容証明郵便で改めて情報開示と、過払い金の請求を行うことを通告した。


 相手はヤミ金に近い業者だ。健太は、脅しや嫌がらせを受けることも覚悟した。しかし、彼の背中には、由美さんの「希望」と、何よりもミケの存在があった。


「ミケ、怖いけど……由美さんのためなら、俺、頑張れる気がするよ」


 ミケは健太の肩に飛び乗り、そっと頬を擦り付けた。


 健太の毅然とした対応と、法律に基づいた要求に、ヤミ金業者は徐々に態度を変えていった。過去の行政処分歴がある彼らは、これ以上事を荒立てたくなかったのだろう。最終的に、ヤミ金業者からの借金が、法外な高金利によるものであり、そのほとんどが無効であることが確認された。


 これにより、坂本さんの遺した借金の総額は、由美さんが返済可能な範囲にまで大幅に減額されたのだ。


 由美さんは、健太からの連絡を受けて、信じられない、という表情で事務所にやってきた。


「本当に……相続放棄しなくても、よくなったんですか……?」


 健太は、由美さんの目に光が戻ったのを見て、心から安堵した。


「はい、坂本さんの借金の一部は、ヤミ金によるものでした。法律上、返済義務がない部分がほとんどです。残りの借金については、お父様の遺したわずかな預貯金と、由美さんのご協力で、十分に返済可能です」


 由美さんは、その場で崩れ落ちるように泣き出した。それは、悲しみの涙ではなく、安堵と感謝の涙だった。


「先生……本当に、ありがとうございます。これで、父との思い出を、全て捨てずに済みます……」


 由美さんの言葉に、健太は胸が熱くなった。相続放棄は、時に必要な「重い決断」だ。しかし、その決断を迫られる前に、他に道はないか、諦めずに探し続けること。それが、司法書士としての真の役割だと、健太は改めて実感した。そして、その道を探すきっかけを与えてくれたのは、他でもない、ミケだった。


「ミケ、お前は本当にすごいな。俺には見えないものが見えてるんだな」


 健太がミケの頭を撫でると、ミケは「ニャア」と得意げに鳴き、由美さんが置いていった手帳に、もう一度そっと前足を置いた。手帳には、亡くなった父親の、由美さんへのメッセージが書かれているようにも見えた。


 由美さんは、その後、残りの借金を無事に返済し、父親が遺した家で、母親と共に穏やかに暮らしているという。


 下町の司法書士事務所に、再びいつもの穏やかな時間が戻ってきた。健太は、自信なさげな自分と、ミケという頼れる相棒の存在に感謝しながら、今日もまた、人々の「重い決断」に寄り添い、共に最善の道を探し続ける。ミケの肉球が示す方向へ、一歩ずつ確実に進んでいくために。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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