4.街のねこ司法書士、悪徳商法と最後の砦
佐々木健太は、司法書士になってまだ日が浅い。それでも、下町の「佐々木法務事務所」で、相棒の三毛猫ミケと共に日々奮闘している。ミケはただの猫じゃない。人間の言葉や感情、時には書類の裏に隠された真実まで理解しているような、不思議な能力を持つ。健太が法律の専門知識で壁にぶつかった時、ミケのさりげない仕草や行動が、いつも決定的なヒントを与えてくれるのだ。
その日も、事務所にはいつもの穏やかな時間が流れていた。健太がパソコンに向かい、登記申請書の作成を進めていると、ミケがごろんと体をひっくり返し、お腹を見せて「にゃあ」と一鳴きした。
「ミケ、どうした? お腹でも空いたか?」
健太が顔を上げると、事務所の扉に貼られた「相談無料」の貼り紙が風でひらりと揺れた。その直後、ガラリと扉が開き、一人の女性が立っていた。歳は七十代後半だろうか。背筋はピンと伸びているものの、顔には深い疲労と絶望の色が浮かんでいた。
「あ、あの……佐々木司法書士事務所さん、ですか?」
か細い声で尋ねる女性に、健太は慌てて立ち上がった。
「はい、佐々木健太です。どうぞ、お入りください」
女性は、健太の背後にいるミケに一瞬目を留めたが、すぐに視線を外し、恐る恐る事務所の中へと足を踏み入れた。ソファに案内すると、女性は持っていた小さな風呂敷包みをぎゅっと抱きしめた。
「あの……私、森本トシと申します。実は、困ったことがありまして……」
トシさんは、小さな声で話し始めた。三ヶ月ほど前、自宅に「無料健康診断」と称する電話がかかってきたという。軽い気持ちで出かけた先で、「あなたの健康状態は大変危険です。このままだと、取り返しのつかないことに……」と不安を煽られた。そして、高額な「健康器具」を勧められたのだ。
「最初は断ったんです。でも、『今契約しないと、あなたの命に関わる』とか、『特別にあなただけに、この価格で提供します』とか、畳み掛けるように言われて……気づいたら、判子を押してしまっていて」
トシさんの声は震えていた。契約書を見ると、そこには「磁気治療器」と書かれた得体の知れない器具が、百二十万円という法外な値段で記されていた。ローン契約まで組まされていた。
「クーリングオフ期間も過ぎてしまって……もう、どうしたらいいか……」
トシさんは、うつむいて涙をこぼした。百二十万円。年金暮らしのトシさんにとって、それは途方もない金額だ。健太は契約書と資料を注意深く読んだ。手口は典型的な「劇場型勧誘」の悪徳商法だ。次々と現れる営業マンが、役割を分担して被害者を追い詰める。クーリングオフ期間が過ぎてから気づくケースも少なくない。
「森本さん、大丈夫です。まだ、手はあります。消費者契約法や特定商取引法といった法律で、消費者は守られていますから」
健太はそう言って、トシさんを安心させようとした。しかし、トシさんの顔に笑顔は戻らない。
「でも……私も、何度も断ったのに……。私が悪いんです。こんな簡単な詐欺に引っかかるなんて……」
健太は、悪徳商法の被害者が抱える「自己責任」という重圧を知っていた。自分が騙された恥ずかしさや、家族に知られることへの恐れから、誰にも相談できずに抱え込み、さらに被害が拡大するケースも多い。トシさんもまた、誰にも相談せず、一人で苦しんできたのだろう。
健太は、トシさんの背後に目をやった。ミケが、いつの間にかソファの隣に移動し、トシさんの膝元で小さく「ゴロゴロ」と喉を鳴らしていた。トシさんがそっとミケの頭を撫でると、ミケは気持ちよさそうに目を細めた。その瞬間、トシさんの表情に、ほんのわずかな安堵の色が浮かんだ気がした。
「森本さん。まずは、その業者に内容証明郵便で契約の取り消しを求めましょう。同時に、ローン会社への支払い停止の抗弁も行います。諦めないでください。私が、森本さんの最後の砦になります」
健太の力強い言葉に、トシさんはゆっくりと顔を上げた。その目に、微かな希望の光が宿った。
健太はすぐに動き出した。まず、被害の状況を詳しく聞き取り、業者とのやり取りを時系列で整理した。電話での勧誘、無料健康診断、高額な商品……。すべてが悪質商法のパターンに当てはまる。健太はミケに資料を見せながら、ブツブツと独り言を言った。
「この業者、前にも似たような手口で消費者庁から指導を受けてるみたいだ。社名を変えて、また活動してるってわけか……。森本さんのように、善良な市民を食い物にするなんて、許せない」
ミケは健太の言葉に反応するように、資料の上で鼻をクンクンと鳴らし、ある一点を前足でちょんちょんと叩いた。それは、業者名の下に小さく書かれた「代表者名」だった。
「ん? 代表者名……ああ、よくある名前だし、特に問題は……」
健太は首を傾げたが、ミケはしつこくその部分を叩き続ける。健太は仕方なく、その代表者名をインターネットで検索してみた。すると、驚くべき事実が発覚した。同じ名前で、過去に複数の悪質な健康食品販売会社の代表を務めていた人物がいる。しかも、そのうちの一社は、数年前に消費者庁から業務停止命令を受けていたのだ。
「ミケ、まさか……こいつ、常習犯じゃないか!」
健太はミケの賢さに舌を巻いた。ミケのヒントがなければ、この繋がりには気づかなかったかもしれない。これは、単なる契約解除請求だけでなく、悪質業者を徹底的に追及するチャンスだ。
健太は消費者センターや警察とも連携を取り、情報収集を進めた。同業者の中には、悪徳業者との交渉を嫌がる司法書士も少なくない。しかし、健太は違った。トシさんの藁にもすがる思い、そしてミケが示してくれたヒントが、健太の心に火をつけたのだ。
内容証明郵便を送付すると、すぐに業者から電話がかかってきた。最初は健太を威圧するような態度だったが、健太が過去の行政処分歴や、代表者の他の会社の情報を突きつけると、相手の声色は明らかに変わった。
「お、おい、そちらは何者だ? なぜそんなことを知っている!」
「私は司法書士の佐々木健太です。森本トシ様の代理人として、消費者の権利を主張しています。御社の過去の不正行為についても、調査済みです。このまま契約を撤回せず、支払いを強要するのであれば、法的措置はもちろんのこと、メディアへの情報提供も辞さない覚悟です」
健太は、ミケに教わったように、毅然とした態度で言い放った。ミケは健太の足元に座り、まるで「よく言った!」とでも言うかのように、しっぽを大きく振っている。
業者は、まさか司法書士がここまで調べているとは思わなかったのだろう。相手はしどろもどろになり、最終的には「今回は、契約解除に応じましょう」と折れた。
しかし、健太はそれで終わらせなかった。悪質な業者が、また形を変えて新たな被害者を生み出すのを黙って見過ごすわけにはいかない。健太は消費者センターや、弁護士会、司法書士会の悪徳商法対策委員会にも情報を提供し、再発防止に向けて協力を求めた。
数日後、事務所にトシさんがやってきた。顔には、以前の絶望の色は微塵もなく、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
「佐々木先生、本当にありがとうございました! 先ほど、業者から契約解除の書類が届きました。ローンも無事に停止できました。これで、安心して暮らせます……」
トシさんは、深々と頭を下げた。健太は、ただただ「良かったです」と繰り返した。
「佐々木先生は、私の最後の砦でした。先生と、この賢い猫ちゃんがいなかったら、私はどうなっていたことか……」
トシさんは、ソファのミケに優しく微笑みかけた。ミケはトシさんの言葉を聞いているかのように、ゆっくりと目を細め、「ニャン」と答えた。
「先生、ミケちゃん。これ、ささやかですが……」
トシさんは風呂敷包みから、手作りの小さな猫のおもちゃを取り出した。ミケが飛びつき、じゃれつく姿を見て、トシさんは心から楽しそうに笑った。その笑顔は、健太の心に深く刻まれた。
「司法書士の仕事は、単に書類を作成したり、手続きを進めたりするだけじゃないんだな」
トシさんが帰った後、健太はミケに語りかけた。
「法律の知識ももちろん大切だけど、それ以上に、困っている人の気持ちに寄り添って、諦めずに一緒に戦うこと。そして、その人が本当に求めている『安心』や『自由』を取り戻してあげることなんだ」
ミケは健太の言葉を聞き終えると、得意げに尻尾を立て、健太の膝に飛び乗ってきた。そして、健太の顔をそっと舐めた。まるで、「そうだよ、健太。それが君の、そして僕たちの仕事だよ」とでも言っているかのように。
佐々木法務事務所の窓から、下町の夕陽が差し込む。悪徳商法という見えない敵に苦しむ人々の最後の希望となるために、健太とミケの戦いはこれからも続く。彼らが守るのは、単なる財産ではない。人々の尊厳であり、安心して暮らすことのできる、かけがえのない「自由」なのだから。
【免責事項および作品に関するご案内】
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。
これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。
現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。