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3.街のねこ司法書士、後見と自立への道

 下町の司法書士事務所「佐々木司法書士事務所」は、今日もどこか温かい空気に包まれていた。事務机の上には、日当たりの良い場所を独占して丸くなる一匹の三毛猫、ミケ。推定五歳、オス。単なる事務所の看板猫ではない。佐々木健太、二十八歳。この事務所の若き司法書士である彼の、唯一無二の相棒にして、時に彼の法律知識を凌駕する「助言」を与える、賢すぎる猫だ。


「ミケ、今日の天気、気持ちいいなぁ」

 健太は伸びをして、ミケの柔らかな毛並みをそっと撫でた。ミケは contented なため息をつき、しっぽをゆったりと揺らす。その日差しのような穏やかな時間は、一通の手紙で破られた。


 差出人は、市役所の地域包括支援センター。依頼内容は、ある高齢女性の成年後見に関する相談だった。


「春日部ハルさん、八十二歳。独居で、最近物忘れがひどく、訪問販売に引っかかりそうになったり、お金の管理ができていなかったりする、と。親族は遠方にいる長男さんが一人、でもあまり関わりたがらない、か」


 健太は資料を読みながら、眉間に皺を寄せた。成年後見は、判断能力が不十分な人の財産や生活を守るための大切な制度だ。しかし、その人の「自由」を奪う側面もある。健太はいつも、被後見人の「自立」と「意思」を最大限に尊重したいと考えていた。


 初めてハルさんの家を訪ねた日、健太は少し緊張していた。昔ながらの木造家屋は、手入れはされているものの、どこか寂しげな空気を纏っていた。玄関を開けてくれたハルさんは、小柄で上品な物腰の女性だった。

「あら、佐々木さん。いらっしゃい。お茶でもいかが?」

 ハルさんの言葉遣いはしっかりしており、一見すると物忘れがあるとは信じがたい。しかし、健太が後見の話を切り出すと、表情は曇り、「私はまだしっかりしています」と頑なな態度を示した。


 その日以来、健太は何度かハルさんの家を訪ねた。ミケもこっそり同行した。ミケはいつも、健太がハルさんと話している間、部屋の隅でじっとハルさんの様子を観察していた。ある日、ハルさんが昔のアルバムを見せてくれた時のこと。古い写真の中には、若き日のハルさんと、笑顔の男性、そして幼い男の子が写っていた。

「これは…ご主人様と息子さんですか?」

 健太が尋ねると、ハルさんの表情は一瞬、硬くなった。

「ええ…そうですわ。もう、ずいぶん昔のこと…」

 ハルさんはすぐにアルバムを閉じ、別の話へと移った。その時、ミケが写真の写っていたページにそっと前足を乗せた。健太はミケの行動に、何か意味があるのかと感じたが、その時は分からなかった。


 数週間後、家庭裁判所での面談が行われた。長男である春日部洋一さんも同席した。洋一さんは健太よりも年上で、都会的な雰囲気の人物だった。

「母は、もう昔のようにはいきません。施設に入所させることも考えています」

 洋一さんはそう言い放ち、ハルさんの意思を尊重するよりも、手続きを早く終わらせたい、という印象を受けた。ハルさんは、洋一さんの言葉に小さく肩を震わせた。健太はハルさんの表情を見つめた。彼女の目には、諦めと、ほんのわずかな抵抗の色が浮かんでいるように見えた。


 事務所に戻り、健太はミケに話しかけた。

「ミケ、どう思う?ハルさん、本当に施設に入りたがっているのかな?洋一さんの言葉には、少し違和感があるんだ」

 ミケは健太の顔を見上げ、小さく「ニャア」と鳴いた後、健太の机の上にあるハルさんの資料を、前足でカリカリと引っ掻いた。それは、アルバムに写っていた、あの家族写真が挟まれていたページだった。

「家族写真…?」

 健太は首を傾げた。ミケは再び、そのページを引っ掻き、そして資料の下に敷かれた新聞記事の切り抜きの上に飛び乗った。

「ん?これは…ずいぶん前の新聞記事だな。『地域開発、住民説明会開催』…なぜ、こんなものが?」

 健太はミケの行動を不思議に思いながらも、記事を読み込んだ。記事には、ハルさんの自宅がある地域一帯の再開発計画が書かれていた。健太の脳裏に、ある可能性がよぎった。


 翌日、健太は改めて、区役所の地域包括支援センターに問い合わせた。再開発計画の進捗状況と、それに対するハルさんの反応について尋ねたのだ。すると担当者は、数年前から再開発の話が進んでおり、ハルさんを含む住民説明会も何度か開かれていたことを教えてくれた。

「ハルさんは、最初の頃は積極的に参加されていましたが、最近は体調がすぐれないと、ほとんど欠席されています」

 健太は直感した。ハルさんが施設への入所をためらっているのは、この家を離れたくないからではないか?この家には、ハルさんの人生が、家族との思い出が詰まっている。


 健太は再度、ハルさんの家を訪れた。今回はミケも連れて行った。ハルさんの目の前で、健太は例の新聞記事を広げた。

「ハルさん、この再開発の話、ご存知ですよね?」

 ハルさんの顔色が変わった。

「ええ…でも、もう、私には関係ない話です。息子が、面倒を見てくれると…」

 その言葉の裏に、深い悲しみと諦めが隠されているように健太には感じられた。ミケは、ハルさんの足元にそっと寄り添い、優しく体を擦りつけた。ハルさんはミケの頭を撫でながら、目に涙を浮かべた。

「この家はね…主人が、私のために建ててくれた家なの。息子も、ここで育った。たくさんの思い出が詰まっているのよ…」

 ハハルさんの口から、ようやく本音がこぼれた。彼女は、息子がこの家を売却し、再開発業者に渡そうとしていることを薄々感じ取っていた。洋一さんは、再開発の話で得られる金銭的な利益を重視しており、ハルさんの意思を二の次にしていたのだ。

「だから…施設に入ってしまえば、息子も満足するだろうと…」

 ハルさんの言葉に、健太は胸が締め付けられた。健太はミケを見た。ミケは、ハルさんの顔をじっと見つめ、ゆっくりと瞬きをした。その目は、まるで「その人自身の意思を尊重してあげて」と語りかけているようだった。


 健太は決意した。ハルさんの意思を尊重し、この家で穏やかに暮らせるよう、最大限の努力をしよう。後見制度は、本人の意思を無視して財産を処分するためのものではない。


 翌日、健太は洋一さんに連絡を取った。

「洋一さん。お母様は、この家への愛着が非常に強い。安易に売却を進めるのは、お母様のためになりません。もし再開発の話があるのなら、お母様が納得できる形で、ご本人に決定権を持たせるべきです」

 洋一さんは不機嫌そうな声で反論した。

「そんなことを言っても、母はもう判断能力が…」

「確かに、判断能力は低下しているかもしれません。しかし、重要なことに対する意思能力は、残されている可能性が高い。私たちは、その意思を引き出し、尊重する義務があるんです」

 健太は、ミケが資料を引っ掻いた家族写真と新聞記事の件もさりげなく伝えた。洋一さんは、健太がそこまで調べていることに驚いたようだった。


 健太は、再開発業者とも接触した。ハルさんの状況を説明し、すぐに売却契約を進めるのではなく、猶予期間を設けること、そしてハルさんの意思を尊重した上で、代替案を検討することを強く求めた。最初は難色を示していた業者も、司法書士からの丁寧な説明と、何よりもハルさん自身の「家への強い思い」が伝わると、一考する姿勢を見せた。


 健太は、家庭裁判所にも、ハルさんの「家で暮らしたい」という強い意思を詳細に報告した。後見開始の審判が下され、健太はハルさんの後見人に選任された。洋一さんは、健太が後見人になることに最後まで反対したが、健太の熱意と、何よりもハルさん自身の意思を尊重する姿勢が認められたのだ。


 後見人となった健太の最初の仕事は、ハルさんが安全に、そして安心してこの家で暮らせる環境を整えることだった。手すりの設置や段差の解消など、バリアフリー化の工事を手配し、訪問介護サービスの利用を調整した。そして、洋一さんとも根気強く話し合った。


 ある日、健太がハルさんの家を訪れると、洋一さんの姿があった。珍しく、険しい顔ではなく、少し穏やかな表情をしている。

「佐々木先生…母が、私にアルバムを見せてくれたんです。昔、家族で旅行に行った時の写真で…」

 洋一さんの言葉に、健太はミケのあの時の行動を思い出した。ミケは、家族の絆と、ハルさんの心に寄り添っていたのだ。

「母は、この家を売却して私がお金を得たかった、と正直に話しました。でも、母は『お金よりも、ここで家族の思い出に囲まれていたい』と。私も、考えさせられました」

 洋一さんは、初めて、ハルさんの気持ちに真正面から向き合おうとしていた。健太は、ミケがそっと洋一さんの足元に擦り寄っていくのを見た。ミケは、洋一さんの心が変化したことを、健太よりも早く察知していたのかもしれない。


 その後、洋一さんは再開発業者との交渉にも積極的に関わるようになった。ハルさんの意思を尊重し、無理に売却するのではなく、賃貸契約を結んで、ハルさんがこの家に住み続けられるような道を模索した。そして、ハルさんも納得のいく形で、この家で暮らし続けることができるようになったのだ。


「ミケ、やったな!ハルさんが、これからもあの家で暮らせるよ」

 事務所に戻った健太は、興奮してミケに話しかけた。ミケは、満足そうに「ニャア」と鳴き、健太の膝に飛び乗ってきた。

「後見って、ただ財産を守るだけじゃないんだ。その人の『自由』や『意思』を、いかに引き出し、守ってあげるか…それが一番大切なんだよな」

 健太はミケを抱き上げ、ふかふかの毛並みに顔を埋めた。ミケはゴロゴロと喉を鳴らす。

「ミケ、お前がいてくれて本当に良かった。お前がいなかったら、俺はハルさんの本当の気持ちに、気づけなかったかもしれない」


 後日、健太がハルさんの家を訪れると、ハルさんは庭で楽しそうに花に水をやっていた。洋一さんも、時折ハルさんの家を訪れ、一緒にアルバムを見たり、他愛ない話をしたりするようになったという。

「佐々木先生、ミケちゃん、ありがとうね。私、この家で、もう少し頑張ってみるわ」

 ハルさんの笑顔は、以前よりもずっと輝いていた。

 後見制度は、時に個人の自由を制約する側面を持つ。しかし、健太はミケの助けを借りて、その制度が持つ本来の目的、「被後見人の自立支援」と「意思の尊重」を実現することができた。ミケが解き放ったのは、ハルさんの自由と、家族の絆だった。下町の司法書士事務所は今日も、人と猫の温かい物語を紡いでいく。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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