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23.街のねこ司法書士、肉球は真実を知る。

 佐々木司法書士事務所は、下町の古い木造家屋の奥まった一角にひっそりと佇んでいる。年季の入った引き戸を開けると、使い込まれた木の床がギシリと音を立て、インクと紙の匂いに、微かな猫の気配が混じり合う。所長の佐々木健太は28歳。法律に関する知識は誰にも負けないが、いかんせん世間知らずで、人の心の裏側を読むのが苦手だった。彼にとって、法律の条文は明快なのだが、その条文が適用される人々の感情は、いつも謎に満ちていた。

 そんな健太の隣には、事務所の賢すぎる看板猫、ミケがいる。推定5歳のオス猫で、白と茶と黒の毛並みを持つ。ミケはほとんどの時間を、事務所の奥にある、陽の光が一番よく当たる場所でうたた寝している。一見すると、ただの気ままな猫。しかし、健太が法律の知識だけでは解決できない、依頼人の複雑な感情や、言葉の裏に隠された真実に行き詰まると、ミケは必ず、さりげなく、しかし決定的な「助言」をくれるのだ。

 ある雨上がりの午後、事務所の引き戸が、乱暴に開けられた。現れたのは、息子の腕に支えられた、痩せ細った老婦人、山田キヨさんだった。キヨさんの顔には、深い疲労と、拭い去れない不安が刻まれている。息子の健一さんも、どこか憔悴しきった表情だ。

「先生、どうか、どうかお力を貸してください……」

 キヨさんの声は震えていた。話を聞くと、キヨさんの夫は二年前に亡くなり、遺産として下町に代々伝わる土地と、そこに建つ築80年の家屋が残されたという。遺言書はなかった。

 キヨさんには、健一さんの他に、もう一人、離れて暮らす娘の洋子さんがいた。健一さんは、長年キヨさんと同居し、献身的に介護をしてきた。家と土地を健一さんが相続し、その代わりに洋子さんにいくらかの金銭を支払うことで話はまとまりかけていた。しかし、事態は急転した。

「急に、洋子が、この家を売って、遺産を均等に分けろって言い出したんです。私も、兄も、そんなつもりじゃなかったのに……」

 健一さんが、悔しそうに拳を握りしめる。洋子さんは、数年前から連絡が途絶えがちだったが、最近になって急に連絡を取り始め、この家の売却を強く主張しているという。

 健太は、法律の原則を丁寧に説明した。

「遺言書がない場合、法定相続分に従って遺産が分割されます。奥様と、ご長男、ご長女の三人で、それぞれ権利が発生します。もちろん、話し合いで合意できれば、その内容に従って遺産を分けることは可能です」

 しかし、健一さんの顔色は晴れない。

「もちろん、話し合いもしました。でも、洋子は聞く耳を持たないんです。まるで人が変わったように……。何か裏があるんじゃないかと、私と母は怯えています」

 健太は、頭を抱えた。法律的には、洋子さんの主張は正当性を持ちうる。しかし、健一さんとキヨさんの様子から、単なる遺産分割問題ではない、もっと深い人間関係の縺れがあるように感じられた。しかし、その「裏」とは一体何なのか、健太には見当もつかない。

 その時、健太の足元で、何かが軽く触れた。ミケだった。ミケは、いつの間にか陽だまりから出てきて、健太の足元に座り込み、キヨさんの手に握られた、古びた手鏡にじっと視線を向けている。

 キヨさんは、ミケの視線に気づき、ハッとしたように手鏡を隠そうとした。しかし、ミケは構わず、その手鏡にちょんと前足を触れた。そして、何事もなかったかのように、しっぽをゆったりと揺らし、健太の方を一度振り返ると、また陽だまりに戻ってしまった。

「……どうかしましたか、奥様?」

 健太はミケの行動を不思議に思いつつ、尋ねた。

「いえ……、この手鏡は、夫が結婚する時にくれたものでしてね。肌身離さず持っているんです」

 キヨさんは、そう言って、手鏡をきつく握りしめた。その表情には、どこか痛みが滲んでいるようだった。健太は、ミケの行動が単なる気まぐれなのか、それとも何か意味があるのか、判断に迷った。しかし、キヨさんの手鏡への強いこだわりが、心に引っかかった。

 数日後、健太は洋子さんに連絡を取ってみた。電話口の洋子さんの声は、予想以上に冷たかった。

「あの家は、私にも権利があるんです。母を介護してきたのは兄だけじゃない。私も、離れていても心配していました。でも、兄は私を排除しようとしている。だから、売却して平等に分けたいんです」

 洋子さんは、健太の言葉にも耳を傾けず、一方的に自分の主張を繰り返した。健太は、洋子さんの言葉の裏に、何か激しい感情が渦巻いているのを感じたが、それが何なのかは掴めない。ただの金銭問題ではない、もっと根深い感情の対立がある。だが、何が原因なのか。

 事務所に戻り、健太は頭を抱えた。

「ミケ、どうしたらいいんだ。洋子さんの言葉の裏に、何かあるはずなんだが……」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、ゆっくりと立ち上がった。そして、健太のデスクの引き出しに、鼻をこすりつけた。そこは、普段、依頼人の相談記録や、過去の契約書などが保管されている場所だ。

 健太は、ミケの行動に疑問符を浮かべつつ、引き出しを開けた。古い書類の束の中から、ミケは、まるで何かを探しているかのように、前足でガサガサと音を立てた。そして、一枚の書類の端を、ちょんと咥えた。

 健太がその書類を引っ張り出すと、それは、キヨさんの夫、つまり亡くなった山田さんの、古い登記済証(権利証)だった。何十年も前に発行されたもので、黄ばんで、端が擦り切れている。

「権利証……?これがどうしたんだ?」

 健太は首を傾げた。登記済証は、不動産の所有権を証明する重要な書類だが、洋子さんの主張とどう関係があるのか。

 ミケは、その権利証の上を、ゆっくりと歩き始めた。そして、権利証の裏面にある、何かのメモ書きのような、ごく小さな文字の羅列に、鼻先をちょんと触れた。

 その部分には、達筆な字で、しかし非常に薄く、判読しにくい文字が書かれていた。健太は、ルーペを取り出して、その文字を追った。

『…洋子へ。この家は、お前の嫁入り道具代に…』

 健太は、息を呑んだ。それは、亡くなった山田さんが、洋子さんに宛てた、ごく個人的なメモだった。

 どういうことだろう? 健太は、さらに詳しくそのメモを読み解こうとした。しかし、文字はそれきりで途切れていた。

 健太は、ふと思い出した。キヨさんが握りしめていた「手鏡」。そして、洋子さんが言った「離れていても心配していた」「兄は私を排除しようとしている」という言葉。

 健田は、洋子さんがなぜここまで頑ななのか、その理由を探るため、改めて洋子さんに会うことを決意した。そして、その際、この権利証のメモについても尋ねてみることにした。

 翌日、健太は洋子さんが住むアパートを訪れた。洋子さんは、健太の突然の訪問に戸惑っていた。

「何か、新しい進展でも?」

 健太は、切り出した。

「実は、先日、お父様がお持ちだった権利証を確認させて頂きました。その裏に、少し気になるメモがございまして……」

 健太は、権利証の裏のメモ書きを見せた。洋子さんの顔から、血の気が引いていく。その瞳には、一瞬、激しい怒りと、そして深い悲しみが交錯した。

「……これは……」

 洋子さんは、震える手で権利証を受け取った。

「私が嫁ぐ時、父は言ったんです。『お前に渡せるものはないが、この家だけは、お前の嫁入り道具代わりだ』って。でも、結局、何もなかった。結婚してからも、ずっと、その言葉が心の奥底に刺さっていたんです。兄は、母を介護してるからと、全てを自分のものにしようとしている。私だけが、何も得られないなんて……」

 洋子さんの声は、次第に嗚咽に変わり、その目から大粒の涙が溢れ出した。健太は、洋子さんの「裏に隠された真実」を理解した。洋子さんの頑なな態度は、金銭欲からではなく、亡き父との約束、そしてその約束が果たされなかったことへの深い傷つきと、兄への不信感から来ていたのだ。

 健太は、静かに語りかけた。

「洋子さん、お父様は、本当に洋子さんのことを大切に思っていらっしゃったのだと思います。このメモも、お父様の洋子さんへの愛情の証ではないでしょうか。もしかしたら、お父様は、その当時、何らかの事情でお金を用意できなかったのかもしれません。しかし、お父様は、その気持ちを、この権利証の裏に書き残すことで、洋子さんに伝えようとしたのだと思います」

 健太は、さらに続けた。

「お母様も、健一さんも、洋子さんのことを大切に思っていらっしゃいます。ただ、お互いの気持ちが、すれ違ってしまっているだけではないでしょうか。今からでも、お互いの気持ちを正直に話し合ってみませんか?」

 洋子さんは、涙を拭いながら、俯いた。そして、小さな声で言った。

「……でも、兄は、私の気持ちなんて、きっと分かってくれない……」

 健太は、事務所に戻り、健一さんとキヨさんに、洋子さんの気持ちを丁寧に伝えた。キヨさんは、亡き夫のメモ書きを見て、嗚咽した。

「なんてことだ……。夫は、そんなことを……。洋子には、ずっと辛い思いをさせてしまっていたのね……」

 健一さんも、洋子さんの抱える痛みに、初めて気づいたようだった。

「知らなかった……。洋子も、そんな思いをしていたなんて……」

 後日、佐々木司法書士事務所には、久しぶりに山田家の三人が顔を揃えた。ピリピリとした空気は消え、どこか重苦しい、しかし優しい空気が流れていた。

 キヨさんは、洋子さんの手を握りしめ、涙を流しながら謝った。

「洋子、本当にごめんね。お父さんの気持ちも知らずに、辛い思いをさせてしまって……」

 洋子さんも、キヨさんの手を握り返し、涙を流した。

「お母さん……」

 健一さんは、洋子さんに頭を下げた。

「洋子、本当にすまなかった。俺も、お前の気持ちを考えてやれなかった」

 三人は、健太の立ち会いのもと、もう一度話し合った。健太は、法的な側面から、そして、三人の感情的な側面から、最善の解決策を模索した。

 最終的に、家屋と土地は健一さんが相続し、その代わりに洋子さんには、健一さんが新たにローンを組んで、金銭を支払うことで合意した。その金額は、当初洋子さんが主張していた売却額の半分には及ばないが、洋子さんは納得したようだった。

「これで、父との約束が、少しは果たされた気がする……」

 洋子さんは、そう言って、涙ながらに微笑んだ。

 遺産分割協議書が無事に作成され、手続きも滞りなく進んだ。健太は、改めて司法書士という仕事の重みを感じた。書類一枚一枚の向こうに、人々の人生があり、感情があり、そして、忘れ去られたように思える約束や想いが隠されている。

 山田家の人々が帰り、事務所に静寂が戻った。健太は、大きく息をついた。

「ミケ、君は本当にすごいよ。あの権利証のメモを見つけ出してくれなければ、僕は、洋子さんの本当の気持ちに一生気づけなかった」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、彼の膝に飛び乗り、丸くなった。そして、健太の顔を見上げ、満足そうに「ニャア」と一声鳴いた。その瞳は、まるで「これでよかったニャ」とでも言いたげな、賢い光を宿している。

 健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケの肉球は、確かに真実を知っていた。書類の裏に隠された、人々の心の奥底にある真実を。

 夕暮れ時、事務所の窓から、下町の優しい光が差し込んでいた。健太は、机に積み重ねられた書類の山と、その隣で気持ちよさそうに眠るミケを交互に見た。

 司法書士の仕事は、法律の条文を読み解き、正確な書類を作成することだけではない。人々の言葉の奥にある、複雑な感情の機微を理解し、その真実を見つけ出すことこそが、本当に大切なのだと、健太はミケから学び続けている。

 明日もまた、この下町で、誰かが抱える「とある登記簿」の裏に隠された真実を、健太とミケのコンビが、きっと見つけ出すことだろう。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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