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22.まちの猫司法書士、ミケと書類と下町と。

 下町のとある路地裏に、ひっそりと佇む佐々木司法書士事務所は、どこか昭和の面影を残す小さな建物だった。引き戸を引けば、磨り減った木の床が軋み、墨の匂いと、微かに猫の毛の匂いが混じり合った独特の香りがする。

 この事務所を切り盛りするのは、佐々木健太、28歳。真面目で、法律の条文に関しては誰にも負けない知識を持つ司法書士だ。だが、その頭脳明晰さとは裏腹に、彼はどうにも不器用で、人の心の機微を読むのが苦手だった。依頼人の言葉の裏に隠された真意や、感情のもつれに気づかず、法律論ばかりを語ってしまい、困惑させることも少なくない。

 そんな健太の隣には、いつもミケがいる。推定5歳のオス猫。白と茶と黒の毛並みが特徴の、どこにでもいそうな、しかしどこか不思議な雰囲気を持つ事務所の看板猫だ。ミケは、ほとんどの時間を事務所の奥の、陽のよく当たる窓際で丸くなって過ごしている。まるで、世界とは隔絶された自分だけの小宇宙を持っているかのようだ。しかし、健太が仕事で行き詰まると、彼は静かに、しかし確実に、健太の思考に介入してくる。

 ある夏の午後、事務所の引き戸が、遠慮がちに開けられた。現れたのは、小さな背中を丸めたおばあさんだった。顔には深く皺が刻まれ、その手の甲には、長年働き続けた証のように、血管が浮き出ていた。

「あのう、佐々木先生でいらっしゃいますか?」

 蚊の鳴くような声に、健太は椅子から立ち上がり、奥の応接スペースへと案内した。おばあさんの名は、田中ハルさん。80歳を少し超えたばかりだという。

 ハルさんの相談は、一見するとシンプルなものだった。ハルさんの夫は数年前に亡くなり、一人娘も先に逝ってしまった。残されたのは、この下町で長年住んできた小さな家と、わずかな土地。ハルさんは、この家を、遠い親戚にあたる姪のユキさんに譲りたいと考えていた。ユキさんは、若い頃からハルさんのことを気にかけてくれ、よく顔を見せに来てくれる、唯一の身寄りだった。

「わしが死んだら、この家はユキにやってほしいと、夫とも話しておったんです。でも、どうすればいいのか分からなくて……」

 ハルさんは、不安げにそう呟いた。健太は、遺言書作成のサポートについて丁寧に説明を始めた。

「遺言書を作成すれば、ハルさんのご意思に従って、ユキさんに土地と家屋を相続させることが可能です。公正証書遺言であれば、より確実で、将来のトラブルも防ぎやすくなります」

 健太は、公正証書遺言のメリットや手続きの流れを、法律用語を避けつつ、できるだけ分かりやすく説明した。ハルさんは、健太の話を、時折首を傾げながら、熱心に聞いていた。

「そうですか……。では、ユキに伝えて、一緒に来させます。印鑑証明書とか、何を用意すればよろしいでしょうか?」

 手続きの話が進み始めたその時、健太の足元で、何かが軽く触れた。ミケだった。ミケは、いつの間にか陽だまりから出てきて、健太の足元に座り込み、ハルさんの方をじっと見つめている。その目は、まるで何かを訴えかけているかのように、健太には思えた。

「ミケ、どうしたんだ?」

 健太がそう呟くと、ミケは「ニャア」と一声鳴き、ハルさんの手元に置かれた、少し古びた布製の巾着袋に、ちょんと前足を触れた。

「あら、この子、可愛らしいわねぇ」

 ハルさんは、ミケの行動に目を細めた。健太は、ミケが巾着袋に触れたことに、何か意味があるのかと首を傾げたが、特に気に留める様子もなく、必要な書類のリストをハルさんに手渡した。

「では、また改めて、ユキさんと一緒にいらしてください」

 ハルさんは、深々と頭を下げて、事務所を後にした。

 数日後、ハルさんと、姪のユキさんが事務所を訪れた。ユキさんは30代前半の、はつらつとした女性だった。

「おばさんには、いつもお世話になっていますから。もちろん、喜んでお手伝いさせていただきます」

 ユキさんは、健太の説明にも熱心に耳を傾け、積極的に質問もした。ハルさんも、ユキさんが隣にいることで安心しているようだった。

 健太は、遺言書作成の手続きを進めるためのヒアリングを行った。ハルさんの生年月日、本籍地、財産の詳細。そして、遺言執行者の指定など、細かな点を確認していく。

 その中で、ふと健太は、ミケがハルさんの巾着袋に触れたことを思い出した。あの巾着袋は、今回もハルさんの手元に置かれている。健太は、何気なくその巾着袋に目をやった。古く、色褪せてはいるものの、丁寧に繕われている。

「おばあ様、その巾着袋は、何か大切なものでも入っているんですか?」

 健太が問いかけると、ハルさんは少し驚いたように目を見開いた。

「ええ、これはね、亡くなった夫が、初めてわしにくれた誕生日の贈り物なんです。若い頃、夫が夜なべして縫ってくれたものでね。わしの宝物なんです」

 ハルさんは、そう言って、優しく巾着袋を撫でた。ユキさんも、「そうだったのね、おばさん」と、優しい声で言った。

 その時、ミケが再び現れた。彼は、ハルさんの足元に擦り寄り、そして、健太のデスクの引き出しに、顔を擦り付けた。健太は、ミケの行動にまたしても疑問符を浮かべたが、特に意味があるとは思えなかった。

 ヒアリングが終わり、健太は、ハルさんたちに次回までの準備を伝えた。

「これで、遺言書の原案を作成できます。次回、その内容をご確認いただき、問題なければ公証役場での手続きへと進みましょう」

 二人が帰り、事務所に静寂が戻った。健太は、ふとミケの行動が気になり、ミケが顔を擦り付けたデスクの引き出しを開けてみた。中には、書類の束が詰め込まれている。遺言書や契約書などのひな形、過去の相談記録。特に変わったものはない。

 健太は首を傾げた。ミケの行動は、単なる気まぐれなのだろうか?しかし、過去にも何度か、ミケの行動が、その後の展開に重要な意味を持つことがあった。

 数日後、健太は遺言書の原案を完成させた。法的に瑕疵のない、完璧な内容だ。あとは、ハルさんとユキさんに確認してもらい、公証役場へ向かうだけだ。

 その夜、健太は事務所で一人、遅くまで残業していた。明日、ハルさんに説明する内容を、もう一度頭の中でシミュレーションしていたのだ。完璧なはずだ。何一つ問題はない。

 その時、健太の背後から、静かにミケが近づいてきた。ミケは、健太のデスクに飛び乗ると、作成したばかりの遺言書の原案の上に、まるで何かを見つけるかのように、前足をそっと置いた。そして、その書類の上を、ゆっくりと歩き始めた。

「おいおい、ミケ。汚れるだろ」

 健太はそう言って、ミケを抱き上げようとした。しかし、ミケはするりとその手をかわし、書類の上でくるりと一回転し、再び同じ場所に前足を置いた。

 その場所は、遺言書の中で、ハルさんの「全財産を姪のユキに相続させる」という文言が書かれた箇所だった。

 健太は、ミケの行動に違和感を覚えた。なぜ、ここを強調する? 全財産。ハルさんの唯一の財産は、この家と土地のはずだ。他に何かあるのだろうか?

 ミケは、健太の顔を見上げた。その瞳は、まるで「これでいいのか?」と問いかけているかのようだ。

 健太は、ふと、ハルさんが言っていた言葉を思い出した。「この家は、亡くなった夫と、長年住んできた大切な場所。夫が初めてプレゼントしてくれた巾着袋も、宝物なんです」

 そして、ハルさんが、その巾着袋を手に触れた時の、どこか物悲しいような、しかし慈しむような表情。ミケが、あの巾着袋に触れたこと。そして、今、遺言書の「全財産」という箇所を強調していること。

 健太の頭の中で、バラバラだったパズルが、カチリと音を立てて繋がっていく。

 ハルさんは、確かに「家と土地をユキに」と言った。しかし、「全財産」という言葉には、ひょっとしたら、ハルさんにとっての「宝物」が含まれていないのではないか?

 あの巾着袋の中には、何が入っているのだろう? ハルさんは、それを「宝物」だと言った。もし、その中に、お金以外の、例えば、夫との思い出の品のような、誰にも譲りたくない、あるいは、特定の誰かに譲りたいものがあるとしたら?

 もし、ハルさんが「全財産」という言葉の重みを、正確に理解していなかったとしたら? 法律家としては、厳密に「全財産」と書くのが正しい。しかし、もしハルさんの心の奥底に、譲りたくない、あるいは特定の人物に譲りたい「何か」があるとしたら、それは大変なことになる。

 健太は、遺言書の文言をもう一度見つめた。「全財産を姪のユキに相続させる」。これでは、あの巾着袋に入っている「宝物」も、ユキさんに相続されてしまうことになる。ハルさんの夫との思い出の品が、意図せず他人の手に渡ってしまう可能性があるのだ。

 健太は、すぐにハルさんに電話をかけた。

「おばあ様、大変申し訳ありません。一点だけ、確認させてほしいことがございまして……」

 健太は、遺言書における「全財産」の意味を、より具体的に、そして丁寧に説明した。そして、ハルさんにとって、「家と土地以外に、特に思い入れのある財産はありませんか?」と尋ねた。

 すると、ハルさんは、少し驚いたように言った。

「ええ、もちろんございますよ。あの巾着袋の中に入っている、夫との思い出の品々です。あれは、誰にも渡したくありません。わしが死ぬまで、ずっと手元に置いておきたい。そして、わしが死んだら、あの巾着袋だけは、娘が嫁ぐ時に身につけていた、あの帯と一緒に、お仏壇に納めてもらいたいんです」

 健太は、胸を撫で下ろした。やはり、ミケの「助言」は的確だったのだ。

「承知いたしました。では、遺言書には、『家屋と土地については姪のユキに相続させる。その他の動産については、全て〇〇に寄付する』といった形にするか、あるいは、『家屋と土地はユキに、ただし、〇〇(特定の動産)については、〇〇(特定の人物)に遺贈する』といった形で、細かく記載する必要があります。ハルさんのご意思を、遺言書に正確に反映させましょう」

 健太は、改めてハルさんの意向を確認し、遺言書の文言を修正することになった。

 修正された遺言書の原案を持って、再びハルさんとユキさんが事務所を訪れた日。ミケは、いつものように陽だまりで丸くなっていた。

 健太が修正点を説明すると、ハルさんは安心したように何度も頷いた。

「ああ、そうですか。これで安心しました。あの巾着袋は、本当に大切なものなので……」

 ユキさんも、その話を聞いて、優しい表情で言った。

「おばさんの大切なものなら、もちろん、おばさんの思い通りにしてください。私、そんな大切なものがあるなんて、知りませんでした」

 健太は、ハルさんの顔に浮かんだ安堵の表情を見て、司法書士という仕事の奥深さを改めて感じた。法律の知識だけでなく、人の心に寄り添い、その「本当の願い」を汲み取ることが、いかに重要か。そして、ミケが、その「本当の願い」に気づかせてくれる、かけがえのない存在であることを。

 公証役場での手続きも無事に終わり、ハルさんの顔には、長年の懸念から解放されたような、清々しい笑みが浮かんでいた。ユキさんも、ハルさんの手を優しく握りしめ、二人の間には、温かい絆が確かに存在していた。

 ハルさんとユキさんが事務所を後にし、静けさが戻る。健太は、机に積み重ねられた書類の山と、その隣で気持ちよさそうに眠るミケを交互に見た。

「ミケ、君は本当にすごいな。どうして僕が気づかないことに、いつも気づくんだ?」

 健太が問いかけると、ミケはゆっくりと目を開け、健太をじっと見つめた。その瞳の奥には、まるで「人間は、文字ばかり見て、肝心なものを見落としがちだニャ」とでも言いたげな、賢い光が宿っているように見えた。

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、ゆっくりと立ち上がり、彼の足元に擦り寄った。そして、健太の革靴の先に、ちょんと前足を置いた。健太は、その行動にクスリと笑った。

 この下町には、これからも様々な人々が、様々な「書類」と「感情」を抱えてやってくるだろう。健太は、法律の専門家として、そしてミケという不思議な相棒と共に、彼らの「本当の願い」に寄り添い、一つ一つの問題を丁寧に解きほぐしていくのだろう。

 ミケと書類と、そして下町の人々の温かい人情。佐々木司法書士事務所の日常は、今日もまた、静かに、しかし確かな歩みを続けていく。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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