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21.街のねこ司法書士、健太とミケの、とある登記簿。

 下町の一角、木造二階建ての古びた家屋が並ぶ路地裏に、「佐々木司法書士事務所」と書かれた控えめな看板がひっそりと掲げられている。そこは、佐々木健太、28歳、新米とは言えないまでも、どこか世間擦れしていない朴訥な青年司法書士が営む小さな事務所だ。彼には、誰にも言えない秘密の相棒がいる。推定5歳のオス猫、ミケである。白と茶と黒の毛並みを持つミケは、事務所の奥にある陽だまり指定席で、今日も優雅に昼寝を決め込んでいた。

 健太の仕事は、不動産の登記、会社の設立、相続手続きといった、いわば人々の「財産」や「権利」にまつわる事務処理だ。法律の条文を読み解き、複雑な書類を作成するのは得意中の得意。しかし、彼の前にはいつも、法律だけでは割り切れない、人々の「感情」という大きな壁が立ちはだかる。

「……それで、おばあ様は、その土地を長男であるご主人に、と仰っていたのですね?」

 健太は、目の前の依頼人、山崎秀夫さんの話を聞きながら、メモを取っていた。山崎さんは50代後半、どこか覇気のない顔で、畳に染み付いた古民家の匂いがする事務所の応接セットに座っている。

「ええ、そうです。母は生前、『この土地は長男であるお前が守れ』と。だから、私もそのつもりでずっと暮らしてきたのですが……」

 山崎さんの話は、複雑な相続問題だった。昨年亡くなった山崎さんの母親は、下町に祖父の代から続く広い土地と、その上に建つ古い家屋を残した。母親には三人子供がおり、長男の秀夫さん、次男の健二さん、そして長女の淑子さんだ。母親は生前、「土地と家屋は秀夫に」と口頭で告げていたらしいが、遺言書は残していなかった。

 問題は、次男の健二さんと長女の淑子さんが、その口頭での約束に納得していないことだった。特に健二さんは、「兄さんばかりずるい。俺にも権利があるはずだ」と主張し、自宅に押し掛けてくる始末だという。

「法的には、遺言書がない場合、法定相続分に従って遺産が分割されます。奥様と三人のご兄弟で、均等に権利が発生しますので……」

 健太は、法律の原則を丁寧に説明する。しかし、秀夫さんの顔色は晴れない。

「法律はそうでも、母の気持ちはそうじゃなかったはずなんです。俺は、ずっと母の面倒を見てきましたし、この家を守ってきたんですから……」

 秀夫さんの言葉の端々に、諦めと、どこか深い諦念が滲む。健太は、どう言葉を選んでいいか分からなくなり、手元のメモ用紙を無意識に丸めた。法律は公平であるべきだが、人情は時に、その公平さを複雑にする。

 その時、健太の足元で、何か柔らかいものが擦り寄った。ミケだ。ミケはいつもは昼寝をしているはずなのに、どうしたのだろう。

 ミケはそのまま秀夫さんの足元に行き、彼の革靴の紐をちょんと前足で触った。秀夫さんは、驚いたようにミケを見下ろす。ミケは、何の用事もないかのように、しっぽをゆったりと揺らし、健太の方を一度振り返ると、また陽だまりに戻ってしまった。

「……どうかしましたか、山崎さん?」

 健太はミケの行動を不思議に思いつつ、尋ねる。

「いえ……、この猫、うちの亡くなったタマにそっくりでしてね。よく私の足元にまとわりついてきたんですよ」

 秀夫さんは、少しだけ顔を綻ばせた。そして、かすかに遠い目をして、話を続けた。

「……実は、母は晩年、物忘れがひどくなりましてね。それでも、私が毎日見舞いに行くと、いつも『秀夫、タマは元気かい?』って。タマはもう何年も前に亡くなっていたのに。母にとっては、私が家を守って、タマを可愛がっている。それが一番の喜びだったんです。弟や妹は、親不孝だとは言いませんが、やはり、この家のことには関心が薄くて……」

 健太は、秀夫さんの言葉を聞きながら、ハッとした。ミケが、秀夫さんの「心の奥底」に触れるきっかけを作ってくれたのだ。

 法定相続分は、確かに平等だ。しかし、そこに込められた母親の「願い」や、長男である秀夫さんがこの家と土地にかけてきた「想い」は、法律だけでは測れない。

「山崎さん。もしよろしければ、弟さんと妹さんのお話を、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?例えば、お母様がご存命中、ご兄弟で集まった時のことや、お母様がそれぞれのご兄弟に何を期待していたかなど……」

 健太は、法律論から一歩踏み込んで、家族の歴史に触れることを提案した。秀夫さんは、最初少し戸惑った様子だったが、健太の真摯な眼差しに、やがてゆっくりと頷いた。

 数日後、佐々木司法書士事務所には、山崎三兄妹が集まっていた。ピリピリとした空気が事務所に満ちる。

 次男の健二さんは、秀夫さんとは対照的に、どこか強気で、早口で自分の主張を繰り返す。

「兄さんばかりが得をするのはおかしい!母さんは確かにそう言ったかもしれないが、それは兄さんを安心させるためだったんだ!」

 長女の淑子さんは、健二さんの隣で、終始俯きがちだった。時折、秀夫さんを盗み見るような視線を送る。

 健太は、三人の話を聞きながら、秀夫さんが話してくれた母親とのエピソードや、健二さん、淑子さんの性格を頭の中で整理していた。法律だけではない、家族の歴史や感情が複雑に絡み合っている。

 その時、ミケが再び、静かに動き出した。ミケは、健二さんの膝に飛び乗ろうとしたかと思うと、わざとらしく健二さんの手元に置いてあった古い写真立てに前足をかけた。

「おい、ミケ!何をする!」健二さんが声を荒げる。

 写真立ての中には、幼い頃の三兄妹と、若かりし頃の両親が写っていた。健二さんは、その写真を見て、一瞬言葉を失う。淑子さんも、顔を上げてその写真を見つめていた。

 健太は、その瞬間を逃さなかった。

「あの、これは、皆さんが幼かった頃のお写真ですね。お母様、とてもお綺麗で……」

 健二さんは、写真を見つめながら、ポツリと言った。

「……これ、俺が小学一年生の時の運動会だ。母さんが、この日、俺のために一番前に陣取って応援してくれて……」

 淑子さんも、静かに口を開いた。

「……この時、秀兄ひでにいが、私の手を取って、転ばないように走ってくれたのよね」

 ピリピリしていた事務所の空気が、少しだけ和らいだように感じられた。ミケは、何食わぬ顔で健二さんの膝から降り、また健太の足元に戻ってくる。

 健太は、その写真立てを三兄妹の真ん中に置き、穏やかな口調で語りかけた。

「お母様は、ご存命の間、きっと皆さんのことを大切に思っていらっしゃったはずです。この土地や家は、お母様にとって、単なる財産ではなかったのではないでしょうか。皆さんの思い出が詰まった、大切な場所。そして、家族の絆の象徴だったのかもしれません」

 彼は、さらに続けた。

「秀夫さんがこの家を守りたいと願う気持ち、健二さんが平等性を求める気持ち、淑子さんが言葉にできない何かを抱えている気持ち。どれも、お母様への深い愛情から来ているのだと思います。しかし、お母様が本当に望んでいたのは、皆さんが争うことではなかったはずです」

 健太は、事前に調べていた周辺の土地の相場や、遺産分割の具体的な選択肢を提示した。そして、秀夫さんがこの家屋と土地を守り続けたいという強い意思があること、健二さんにも金銭的な援助が必要な事情があること、淑子さんが実は母親の介護に携わっていた秀夫さんへのねぎらいの気持ちがあることを、それぞれの言葉の端々から読み取っていた。

 ミケが与えてくれた「家族の思い出」というヒントが、健太に、法律の条文だけでは見えない、人々の心の奥底にある真実を浮き彫りにするきっかけを与えてくれたのだ。

 最終的に、健太は、秀夫さんが土地と家屋を相続し、その代わりに健二さんと淑子さんに、それぞれ一定の金銭を支払うという解決案を提示した。それは、法定相続分からすれば少しばかり変則的だが、三兄妹それぞれの事情と、母親の「願い」を最大限に尊重した形だった。

 最初は難色を示していた健二さんも、写真を見つめ、健太の言葉を聞くうちに、少しずつ表情が和らいでいった。淑子さんも、秀夫さんと健二さんの間を取り持つように、静かにうなずいた。

 遺産分割協議書が作成されることになった。手続きはまだ続くが、少なくとも、三兄妹の間に漂っていた張り詰めた糸は、幾分か緩んだように見えた。

 山崎三兄妹が帰り、事務所に静寂が戻った。健太は、大きく息をついた。

「いやぁ、ミケ。今回も助けられたよ。あの写真、君がわざと倒したんだろう?」

 健太が尋ねると、ミケは「ニャア」と一声鳴き、健太の足元に擦り寄った。そして、まるで「当然だろ」と言いたげな顔で、健太を見上げた。

「本当に不思議な猫だよ、君は。僕が法律で頭を悩ませている間に、君はいつも、その人の一番大切なものを見つけてくれる」

 健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケは満足そうに目を細める。

 司法書士の仕事は、時に感情がぶつかり合う、人間関係の複雑な綾に直面する。健太はまだ経験が浅く、依頼人の心の奥底にある本当の願いや、隠された痛みに気づけないこともある。しかし、彼の隣には、いつもミケがいる。言葉を発することはないが、その不思議な行動や、まるで全てを見通しているかのような瞳が、健太を、そして依頼人たちを、真の解決へと導いてくれるのだ。

 健太は、机の上の登記簿謄本をそっと手に取った。そこには、数字と文字が羅列されているだけではない。一つ一つの登記簿の向こうには、人々の人生が、家族の歴史が、そして未来への願いが詰まっている。ミケはそのことを、きっと知っている。

 夕暮れ時、事務所の窓から、下町の優しい光が差し込んでいた。ミケは、健太の膝の上で、またしても安らかな寝息を立て始めた。健太は、その温かい重みを感じながら、明日もまた、この下町で、誰かの「とある登記簿」と向き合うのだろうと思った。そして、その隣には、きっと、この不思議な相棒が寄り添っているに違いない。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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