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20.まちの猫司法書士、下町司法書士とミケの不思議な絆:肉球が導く最初の事件

 下町の一角、古びた建物が軒を連ねる細い路地裏に、「佐々木司法書士事務所」と書かれた控えめな看板が、どこか頼りなげに揺れている。引き戸を引けば、磨り減った木の床がギシリと軋み、墨と紙の匂いに、微かな猫の気配が混じり合う。奥の窓から差し込む午後の陽光が、古い畳の上に、ゆったりと伸びをする一匹の猫の影を長く落としていた。

 所長の佐々木健太は28歳。司法書士として開業して二年。法律の条文や判例にはめっぽう強く、正確な書類作成には自信があった。しかし、彼はどうにも世間擦れしておらず、人々の心の裏側や、感情の機微を読み解くのが苦手だった。彼の頭の中では、法律は常に明快なのだが、その法律が適用される人間関係は、いつも謎に満ちていた。

 そして、その事務所のもう一人の住人、いや、真の主役とも言うべき存在が、ミケだ。推定5歳のオス猫。白と茶と黒の毛並みを持つ彼は、いつからかこの事務所に居つき、健太の日常にすっかり溶け込んでいた。一見すると、ただの気ままな看板猫。しかし、彼の行動は、時に健太の想像をはるかに超える「意味」を帯びることがあった。健太はまだ、その不思議な力を完全に理解してはいなかったが、漠然と「この猫、もしかして……?」と半信半疑の思いを抱き始めていた。これは、健太とミケが、互いの「絆」を初めて自覚することになる、そんな最初の事件の物語だ。



 ぎこちない不動産売買


 ある秋晴れの午前中、健太の事務所に二人の依頼人がやってきた。不動産売買の相談だ。売主は、この下町で小さな文房具店を営んでいた老人、田中茂さん。そして買主は、若い夫婦、鈴木健太さんと由美さんだった。

 田中さんは、長年住み慣れた家と店を、郊外の息子夫婦の家に引っ越すため売却したいと考えている。鈴木さん夫婦は、下町の雰囲気に惹かれ、初めてのマイホームとしてこの物件を購入したいと願っていた。一見すると、どこにでもある穏やかな売買契約のはずだった。

 健太は、売買契約書の作成と、それに伴う所有権移転登記の手続きについて丁寧に説明した。

「田中さん、鈴木さんご夫婦。書類上は問題ございません。あとは、代金決済と所有権移転登記の同時進行となりますので、事前に必要書類のご準備をお願いいたします」

 しかし、健太の言葉とは裏腹に、二組の間には、どうにもぎこちない空気が漂っていた。田中さんは、終始うつむきがちで、鈴木さん夫婦の顔を見ようとしない。鈴木さん夫婦も、田中さんに何かを尋ねたいような、しかし遠慮するような表情で、視線が泳いでいた。

 健太は首を傾げた。不動産売買は、人生の一大イベントだ。多少の緊張は理解できる。しかし、ここまで会話が弾まず、互いに視線を合わせようとしないのは、何か理由があるのだろうか? 法律上は問題ない。だが、この沈黙は一体何だ。健太は、言葉を探したが、適切な声かけが見つからない。

 その時、健太の足元で、何かが軽く触れた。ミケだった。ミケは、いつの間にか陽だまりから出てきて、健太の足元に座り込み、そのまま、応接テーブルの上に広げられた物件の図面にじっと視線を向けている。

 図面には、田中さんの家屋と、その横に広がる小さな庭が描かれている。ミケは、その庭の隅、小さな物置小屋が描かれた場所に、ちょんと前足を置いた。そして、何事もなかったかのように、しっぽをゆったりと揺らし、健太の方を一度振り返ると、また陽だまりに戻ってしまった。

「ミケ、どうしたんだ?」

 健太はミケの行動を不思議に思いつつ、尋ねた。ミケは何も答えず、ただ目を細めている。健太は、その行動が単なる猫の気まぐれなのか、それとも何か意味があるのか、判断に迷った。しかし、ミケが強調した物置小屋の場所に、健太の心に引っかかった。



 ミケの「導き」と誤解の解消


 事務所に戻り、健太は頭を抱えた。

「ミケ、どうしたらいいんだ。法律上は問題ないのに、あのぎこちない空気は何なんだ? 物置小屋の場所が、何か関係あるのか?」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、ゆっくりと立ち上がった。そして、健太のデスクに飛び乗ると、彼が作成中の売買契約書のひな形に、鼻をこすりつけた。そして、契約書を綴じているクリップを、ちょんとくわえて、机の上に落とした。

 健太は、その行動に疑問符を浮かべつつ、クリップを拾い上げた。その時、ミケは、さらに不思議な行動に出た。彼は、健太が作業に使っていた鉛筆を、そっとくわえ上げると、契約書ではなく、脇に置いてあった別の書類の束の上に落とした。それは、鈴木さん夫婦が持参した、この物件を見学した際の「物件案内図」だった。

「物件案内図……?」

 健太は、その案内図を手に取った。そこには、物件の全体図と共に、周辺の地図や、近隣の施設の情報が細かく記されている。ミケは、健太が見ているその案内図の、庭の隅、物置小屋が描かれた場所を、再び前足でなぞった。

 そして、その物置小屋の隣に、手書きで小さく書き込まれたメモに、健太は気づいた。

『……物置小屋の解体費は買主負担』

 健太は、息を呑んだ。そのメモ書きは、不動産仲介業者が、物件案内時に口頭で伝えた内容を、鈴木さん夫婦がメモしたものだろう。健太は、売買契約書を作成する際に、その「物置小屋の解体費」については、何の記載もしていなかった。なぜなら、健太が受け取った売買条件には、そのような特約は含まれていなかったからだ。

 健太の頭の中で、バラバラだったパズルが、カチリと音を立てて繋がっていく。

 田中さんのうつむきがちな様子と、鈴木さん夫婦の遠慮がちな態度。そして、ミケが強調した物置小屋の場所。

 もし、この「物置小屋の解体費用」の件が、両者間で明確に合意されておらず、それが原因でぎこちない空気が生まれているとしたら?

 売主である田中さんは、老朽化した物置小屋の解体費用を、買主である鈴木さん夫婦に負担してもらいたいと考えている。しかし、口頭で伝えるだけでは不十分だと感じ、契約書に記載されていないことに不安を感じているのかもしれない。

 一方、買主である鈴木さん夫婦は、仲介業者から「解体費は買主負担」と聞かされているものの、それが契約書に明記されていないため、後々トラブルにならないかと懸念しているのかもしれない。あるいは、そもそも、その費用を負担することに、少し不満があるのかもしれない。

 つまり、法律的には問題がなくても、両者の間には、口頭での約束と、書類上の記載のズレ、そしてそれに伴う潜在的な不満と不信感が、微妙な形で存在していたのだ。それが、あのぎこちない雰囲気の正体だった。

 健太は、すぐに田中さんと鈴木さん夫婦に連絡を取り、再度事務所に来てもらうようお願いした。



 真実の解明と、温かい契約


 翌日、再び田中さんと鈴木さん夫婦が事務所にやってきた。健太は、ミケの「導き」で気づいた物置小屋の件について、切り出した。

「田中さん、鈴木さんご夫婦。実は、一点だけ、確認させてほしいことがございまして……。この物置小屋の解体費用についてなのですが、売買契約書には特約の記載がございません。もし、この点について、何かご懸念や、ご希望がございましたら、改めてお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 健太の言葉に、田中さんはハッとしたように顔を上げた。そして、少し躊躇した後、口を開いた。

「実は……、この物置小屋、ずいぶん昔に建てたもので、老朽化も進んでいますし、解体するにも費用がかかると聞いておりまして。息子に『売却の際に、その費用を鈴木さんたちに負担してもらえないか、不動産屋に頼んでみたらどうか』と言われて……。しかし、私も、新しく家を購入されるお二人に、これ以上負担をかけるのは忍びなく、言い出せずにいました」

 田中さんは、申し訳なさそうにうつむいた。

 次に、鈴木さん夫婦が顔を見合わせた。夫の健太さんが、少し困ったように言った。

「実は、私たちも、不動産屋さんから『解体費は買主負担になるでしょう』とは言われていたのですが、具体的な金額も示されず、契約書にも記載がなかったので、少々不安に思っておりました。私たちも、初めてのマイホームなので、できるだけ費用は抑えたい気持ちもあって……」

 これで、全ての謎が解けた。両者ともに、相手に負担をかけることを躊躇し、言いたいことが言えず、それが不信感へと繋がっていたのだ。

 健太は、ミケの「助言」の正確さに感嘆しつつ、穏やかに語りかけた。

「承知いたしました。では、この件については、契約書に明確に記載しましょう。解体費用をどちらが負担するのか、あるいは、按分するのか。あるいは、売買価格に含める形で調整するのか。今ここで、明確に合意を形成し、契約書に盛り込むことが、後のトラブルを防ぎ、お互いが気持ちよく取引を終えるためにも最も重要です」

 健太は、具体的な解体費用の見積もりを確認し、両者の希望を聞いた上で、折衷案を提示した。最終的に、物置小屋は田中さんの負担で解体することとし、その代わりに、売買価格を微調整することで、両者が納得する形での合意が成立した。

 売買契約書に、物置小屋の解体費用に関する特約が追加され、両者は笑顔で契約書にサインした。最初にあれほどぎこちなかった二組の間に、今は、互いへの理解と信頼の空気が漂っている。

 全ての話し合いが終わり、田中さんと鈴木さん夫婦が事務所を後にした。健太は、大きく息をついた。

「ミケ、君は本当にすごいよ。あの物置小屋の図面を指し示してくれなければ、僕は、このささやかな、だけど大切な誤解に、一生気づけなかった」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、彼の膝に飛び乗り、丸くなった。そして、健太の顔を見上げ、満足そうに「ニャア」と一声鳴いた。その瞳は、まるで「人間は、言葉にしないと伝わらないことだらけだニャ」とでも言いたげな、賢い光を宿している。

 健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケの肉球は、確かに真実を知っていた。書類の裏に隠された、人々の心の奥底にある真実を。それは、法律の条文には書かれていない、人々の「遠慮」や「思いやり」、そして「言葉にできない不安」だった。

 夕暮れ時、事務所の窓から、下町の優しい光が差し込んでいた。健太は、机に積み重ねられた書類の山と、その隣で気持ちよさそうに眠るミケを交互に見た。


 司法書士の仕事は、法律の知識を駆使し、正確な書類を作成することだけではない。人々の言葉の奥にある、複雑な感情の機微を理解し、その真実を見つけ出すことこそが、本当に大切なのだと、健太はミケから学び始めた。

 この日、健太は、ミケの不思議な能力を「気のせい」として片付けるのをやめた。そして、ミケという一匹の猫が、かけがえのない「相棒」であることを、心の底から自覚したのだ。

 明日もまた、この下町で、誰かが抱える「とある契約の裏側」に隠された真実を、健太とミケのコンビが、きっと見つけ出すことだろう。そして、彼らが新たな一歩を踏み出すための、静かに、しかし力強く、サポートしていくのだ。


【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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