2.街のねこ司法書士、開かずの金庫と古い約束
佐々木健太は、その日も途方に暮れていた。事務所の床に座り込み、目の前で仁王立ちする頑丈な金庫を見上げては、深くため息をつく。隣には、ミケが健太の膝の上で丸まり、時折、金庫を一瞥しては「フニャア…」と小さな声で鳴いた。
「ミケ、どうしよう。本当に開かないよ、この金庫…」健太は頭を抱えた。
そんな健太の横で、一人の少女が目を輝かせながら、金庫をじっと見つめていた。健太の事務所の常連客、小学三年生の鈴木こはるちゃんだ。学校が終わると、毎日律儀にミケの様子を見にやってくる。
「先生、この金庫、開かないんですか?ミケ様なら、開けられるんじゃないですか?」こはるは、健太の背中に回り込み、ミケの頭を優しく撫でた。ミケは気持ちよさそうに目を細めている。
この「開かずの金庫」は、数日前、健太の事務所に持ち込まれたものだった。依頼主は、遠方に住む高齢の女性、田中春江さん。彼女は、先日亡くなった夫の叔父が残した、古い質屋の蔵からこの金庫を発見したという。
「叔父は、変わり者でね。ほとんど誰とも付き合わなかった人だけど、この金庫だけは、肌身離さず大事にしていたそうよ」春江さんは電話口で言った。「何か、大切なものが入っているとしか思えないのだけど、鍵もないし、番号も分からない。無理に開けて壊したくもないから、佐々木先生、何とか開けてもらえないかしら?」
健太は、専門の業者を呼んで金庫を開けてもらうことを提案したが、春江さんは「どうしても、信頼できる佐々木先生に開けてほしい」と懇願した。結局、健太はしぶしぶ依頼を引き受け、金庫は事務所に運び込まれたのだった。
金庫は、いかにも年季の入ったダイヤル式。表面には錆が浮き、古めかしい装飾が施されている。健太は、金庫の専門書を読み漁り、考えられる限りの方法を試したが、一向に開く気配がない。
「ミケ様、頑張って!金庫さん、開けてあげてー!」こはるは、ミケを抱き上げ、金庫に近づけた。ミケは、金庫の表面をそっと前足で触り、耳を澄ますかのように、何度か金庫に顔を近づけた。そして、小さく「ニャア」と鳴き、健太の顔を見上げた。その瞳は、まるで何かを伝えようとしているかのようだった。
ミケは、金庫の側面にある、わずかに凹凸がある部分を、前足でトントンと叩いた。それは、一見するとただの傷のようにも見える。
「ミケ、どうしたんだ?」健太が尋ねると、ミケはもう一度、その凹凸部分を叩いた。
健太は、その凹凸部分を注意深く見てみた。それは、まるで、特定の文字の形がかすかに浮き出ているかのようだった。しかし、錆に覆われていて、判別できない。
健太は、春江さんから預かった、叔父の遺品の中から見つかった数少ない書類を改めて確認した。その中に、一枚の古い写真があった。写真には、若き日の叔父と、小さな子供が二人、笑顔で写っている。子供たちは、手に小さな凧を持っている。
ミケが、健太のデスクからその写真の上に飛び乗り、写真の中の子供たちが持っている凧を、しきりに鼻で突いた。そして、金庫の凹凸部分を交互に見る。
「凧…?」健太は首を傾げた。金庫と凧に、一体何の関係があるのだろうか。
健太は、春江さんに電話をかけ、写真について尋ねた。
「その写真の子どもは、叔父の幼馴染の子供たちよ。叔父は生涯独身だったから、子供はいないわ。でも、あの二人のことは、特別に可愛がっていたそうよ」
健太はミケの反応と、写真、そして金庫の凹凸を繋げようと頭を巡らせた。
その時、こはるが、写真の中の凧を見つめながら、突然、楽しそうに歌い始めた。
「たーこたこあーがれー、てんまであーがれー…」
こはるが歌い終わると、ミケが「ニャア!」と力強く鳴いた。そして、金庫の凹凸部分を、まるで番号を打つかのように、特定の順番で、何度か前足で叩いた。
健太はハッとした。「まさか…!」
健太は、すぐに金庫のダイヤルを回し始めた。ミケが叩いた順番を、ダイヤルの数字に当てはめていく。ミケが最初に叩いた凹凸は「た」に見える。二番目は「こ」。三番目は「あ」。
「た・こ・あ…」健太は、ミケが示唆しているのが、童謡「たこたこあがれ」の歌詞の一部ではないかと閃いた。
健太は、童謡の歌詞を口ずさみながら、ミケが叩いた順番の文字を数字に変換していった。
「た」は「たこ」の「た」で、日本語の音で数えると「1」。
「こ」は「こはる」の「こ」で、「2」。
「あ」は「あがれ」の「あ」で、「3」。
健太は、ミケが金庫の凹凸部分を叩いた順に、ダイヤルを回した。
最初の数回は、「1」「2」「3」と続いたが、それ以降は、規則性がつかめない。
「ミケ、続きは?」健太はミケに問いかけた。
ミケは、健太の足元に丸まり、「くるる…」と喉を鳴らすだけだった。
健太は、再び金庫の凹凸部分をよく見てみた。確かに文字のようにも見えるが、判読は困難だ。しかし、ミケは明らかに、この凹凸の順番を示していた。
健太は、ミケが写真の中の「凧」に反応したことを思い出した。そして、童謡。
そして、はっとした。
「もしかして、これは、童謡の歌詞の頭文字を、数字に置き換えた暗号なのか…?」
健太は、改めて金庫の表面を撫でてみた。そして、その凹凸が、単なる傷ではなく、かすかに点字のような規則性を持っていることに気づいた。点字は、指で触って読む文字だ。叔父が盲目だったという情報はないが、弱視だった可能性は考えられる。
健太は、点字の五十音表を調べ、金庫の凹凸を指でなぞってみた。すると、驚くべきことに、その凹凸は、ある言葉を点字で表していることが分かった。
「キズナ」
健太は息を飲んだ。「絆…!」
健太は、ミケが写真の中の子供たちに触れたことを思い出した。そして、こはるが歌い出した童謡。全てが「絆」という言葉に繋がっている。
そして、健太は、その「絆」という言葉を数字に置き換え始めた。
「キ」は「きりん」の「き」で「9」
「ズ」は「ズボン」の「ズ」で「7」
「ナ」は「なす」の「な」で「7」
健太は、金庫のダイヤルを、点字で読み取った「絆」の文字を数字に変換し、回し始めた。
9…7…7…
カチリ。
金庫の扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。
健太は、中身を見て、さらに驚いた。金庫の中には、予想に反して、宝石や現金、証券などは一切入っていなかった。
入っていたのは、古びた木製の箱が一つだけ。箱の中には、二つのものが入っていた。
一つは、古びた凧の絵が描かれた、手作りの絵本。ページをめくると、叔父と幼馴染の子供たちが、凧揚げをする様子が、温かいタッチで描かれていた。そして、絵本の最後のページには、達筆な字でこう書かれていた。
「この絵本は、私と二人の宝物。君たちとの絆を、いつまでも忘れない」
そして、もう一つは、一枚の古びた証書だった。それは、叔父が所有していた質屋の土地の一部を、その幼馴染の子供たちのために、無償で譲渡する旨を記した「覚書」だったのだ。しかも、その覚書には、公正証書に劣らぬ厳重な押印と、当時の有力な弁護士の立会人の署名があった。
健太は理解した。叔父は、自分の財産を親族ではなく、生涯大切にしてきた幼馴染の子供たちに託したかったのだ。そして、その覚書を、誰にも見つけられないよう、しかし、もしもの時には真実が明らかになるよう、巧妙に仕組まれた金庫の中に隠したのだ。ダイヤルの暗号は、彼らの「絆」と、幼い頃の思い出である「凧」にちなんだものだった。
健太は、ミケが金庫の「絆」の点字に反応したこと、そして写真の「凧」に反応したことを思い出した。ミケは、叔父の「開かずの金庫」に込められた、深い愛情と「絆」のメッセージを読み解いていたのだ。そして、こはるちゃんの無邪気な歌声が、その謎を解く決定的なヒントになった。
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健太は、春江さんに連絡を取り、金庫の中身を説明した。春江さんは驚きと感動で涙を流した。叔父が、これほどまでに幼馴染を大切に思っていたとは知らなかったからだ。
健太は、この「覚書」が、法律的に有効であることを確認し、叔父の遺志通り、土地は幼馴染の子供たち(現在は成人している)に無事譲渡された。彼らは、叔父の深い愛情に感謝し、その土地を守り続けることを誓った。
事務所に戻った健太は、ミケを抱きしめ、こはるの頭を優しく撫でた。
「こはるちゃん、ミケ、本当にありがとう。君たちのおかげで、この開かずの金庫の秘密と、叔父さんの大切な約束を果たすことができたよ」
こはるは嬉しそうにミケを抱きしめた。「ミケ様、すごい!かっこいい!」
ミケは、健太の腕の中で、ゴロゴロと喉を鳴らした。まるで「どういたしまして」とでも言うように。
健太は、司法書士の仕事が、単なる書類の処理や法律の解釈だけでなく、時に人々の心の奥底に隠された、深い愛情や、忘れ去られた約束を解き明かすことでもあると改めて実感した。そして、その真実を見つける鍵は、時に、純粋な子供の遊び心や、一匹の賢い猫の不思議な直感によってもたらされるのだと。
ミケは、今日も事務所の窓辺で、陽光を浴びながらうたた寝をしている。その賢い目は、この下町の、そして人々の心の奥底に隠された、新たな「開かずの金庫」の秘密を、静かに見つめているかのようだった。
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