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19.街のねこ司法書士、招かれざるニャンコの登記簿奇談:アパートの幽霊と絆

 下町の賑やかな商店街から一本裏道に入ると、時間が止まったかのような古いアパートが建っている。「夕顔荘」という色褪せた表札がかかったその木造二階建ては、長年の風雪に耐え、住民たちのささやかな暮らしを見守ってきた。佐々木司法書士事務所は、その夕顔荘からほど近い路地裏にある。所長の佐々木健太は28歳。法律の知識は豊富だが、どうにも世間擦れしておらず、人々の心の奥底にある感情の機微を読み解くのが苦手だった。

 そんな健太の隣には、事務所の賢すぎる看板猫、ミケがいる。推定5歳のオス猫。白と茶と黒の毛並みを持つ彼は、事務所の奥、陽の光が一番よく当たる場所でうたた寝をするのが常だ。一見すると、ただの気ままな看板猫。しかし、健太が仕事で行き詰まり、法律知識だけでは解決できない人々の感情的な問題に直面すると、ミケは必ず、さりげなく、しかし決定的な「助言」をくれるのだ。健太は、まだミケの不思議な力を完全に理解してはいなかったが、彼の行動が事態を好転させることを、幾度となく経験していた。



「招かれざるニャンコ」の訪問


 ある夏の盛り、うだるような暑さの中、事務所の引き戸が慌ただしく開けられた。現れたのは、夕顔荘の大家である山田マサコさん、60代半ばの、口うるさいが根は善良な女性だ。その顔には、苛立ちと、わずかな恐怖が混じり合っていた。

「佐々木先生、大変なんです! あのアパートに、とんでもない野良猫が居つきましてね!」

 山田さんの剣幕に、健太は少したじろいだ。

「野良猫、ですか?」

「ええ! 見たことのない真っ黒い猫でね、それが毎日毎日、夕顔荘の敷地内をウロウロするんです。ゴミを漁るわ、庭を荒らすわ、住民はみんな気味が悪いって言ってるんです! 早く追い払うか、立ち退かせるか、どうにかしてください!」

 山田さんは、半ばヒステリックに訴えた。健太は首を傾げた。野良猫の問題は、通常、司法書士の業務範囲ではない。しかし、山田さんがそこまで困っている様子を見ると、無下に断ることもできない。

「アパートの敷地内に出入りする野良猫を法的に立ち退かせる、というのは難しい問題ですが……。住民の皆さんが困っているのですね」

 健太は、まず状況を詳しく聞くことにした。山田さんの話によると、その黒猫は、二週間ほど前から突然現れ、夕顔荘の敷地内に頻繁に出入りするようになったという。特に、アパートの奥にある、今は誰も住んでいない一階の空き部屋の窓の下で、じっと座っていることが多いらしい。住民の中には、「あの猫は、何かを連れてくる」とか「幽霊の使いだ」などと、不吉な噂を囁く者までいるという。

「先生、どうにか、あの猫を、そして、あの猫のせいで怯えている住民を助けてください! このままでは、夕顔荘の評判まで落ちてしまいます!」

 山田さんの切羽詰まった様子に、健太は、とりあえず物件の登記簿と賃貸借契約書を確認することにした。空き部屋の窓の下に居つく猫。何か、その部屋に因縁があるのだろうか?

 その時、健太の足元で、何かが軽く触れた。ミケだった。ミケは、いつの間にか陽だまりから出てきて、健太の足元に座り込み、山田さんが持参した、夕顔荘の簡略的な物件見取り図にじっと視線を向けている。

 ミケは、その見取り図の中の、問題の空き部屋に、ちょんと前足を置いた。そして、何事もなかったかのように、しっぽをゆったりと揺らし、健太の方を一度振り返ると、また陽だまりに戻ってしまった。

「ミケ、どうしたんだ?」

 健太はミケの行動を不思議に思いつつ、尋ねた。ミケは何も答えず、ただ目を細めている。健太は、その行動が単なる猫の気まぐれなのか、それとも何か意味があるのか、判断に迷った。しかし、ミケが強調した空き部屋の場所に、健太の心に引っかかった。



 ミケの「猫集会」と登記簿の謎


 山田さんが帰り、事務所に静寂が戻った。健太は、夕顔荘の登記簿謄本を取り寄せて確認した。所有者は山田マサコさん。特に変わった点は見当たらない。次に、夕顔荘の古い賃貸借契約書をいくつか引っ張り出して確認する。しかし、どの書類にも、黒猫と関連しそうな記述は一切ない。

「ミケ、どうしたらいいんだ。法律的には、あの黒猫を立ち退かせる根拠はないし、登記簿にも何のヒントもない。一体、あの黒猫は何を訴えているんだ?」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、ゆっくりと立ち上がった。そして、健太のデスクに飛び乗ると、彼が確認していた夕顔荘の登記簿謄本の束に、鼻をこすりつけた。そして、その束の中の、一番古い登記簿謄本の端を、ちょんとくわえて、机の上に落とした。それは、夕顔荘が建てられた、戦後間もない頃の登記簿謄本だった。

「古い登記簿……?これがどうしたんだ?」

 健太は首を傾げた。その古い登記簿謄本は、手書きで書かれており、判読しにくい箇所も多い。ミケは、その登記簿謄本の上を、ゆっくりと歩き始めた。そして、謄本の裏面にある、ごく小さな文字の羅列に、鼻先をちょんと触れた。そこには、所有者の記載とは別に、小さな余白に、達筆な字で、しかし非常に薄く、判読しにくい文字が書かれていた。

『……貸借権アリ。桜井ハナ。子孫繁栄、永代安穏。』

 健太は、息を呑んだ。それは、所有者とは別の人物、桜井ハナという人物が、この土地に対する何らかの貸借権を持っていることを示す、ごく個人的なメモだった。

 どういうことだろう? 健太は、さらに詳しくそのメモを読み解こうとした。しかし、文字はそれきりで途切れていた。

 健太は、ふと思い出した。山田さんが言っていた「あの空き部屋」。そして、住民たちが囁く「幽霊の使い」という噂。

 その夜、健太は、ミケを連れて、夕顔荘の周辺を歩いてみた。すると、アパートの裏手にある小さな路地に、数匹の野良猫たちが集まっているのを見つけた。その中に、山田さんが言っていた「真っ黒い猫」がいた。黒猫は、健太とミケの姿を見ると、すぐに物陰に隠れてしまった。

 ミケは、健太の足元に擦り寄ると、その黒猫が隠れた方向をじっと見つめている。まるで、「あの子だよ」と教えているかのようだ。

 健太は、ミケの行動と、古い登記簿のメモを重ね合わせながら、ある仮説を立てた。

 もし、この「桜井ハナ」という人物が、かつてあの空き部屋に住んでいた、あるいは、夕顔荘の土地に深く関わっていたとしたら? そして、黒猫は、その桜井ハナ、あるいはその子孫と何らかの繋がりがあるとしたら?

 法律的には、登記簿に記載されていない「貸借権」は、第三者に対抗できないのが原則だ。しかし、このメモ書きは、一体何を意味するのだろう? そして、黒猫が空き部屋に固執する理由は何なのか?



 明かされる絆と、新たな物語


 健太は、改めて山田さんに連絡を取り、桜井ハナという人物について尋ねた。山田さんは、最初、知らないと答えたが、健太が古い登記簿のメモを提示すると、ハッとしたように目を見開いた。

「桜井ハナ……! ああ、ハナさんですね! そう、昔、この夕顔荘が建つ前、ここに小さな長屋があった頃に住んでいらした方です。とても穏やかなお婆さんでね。猫を何匹も飼っていて、動物好きで有名でしたよ。確か、身寄りがなくて、猫たちと暮らしていたと聞きました。でも、ずいぶん昔に亡くなって、その長屋も夕顔荘になったはずですが……」

 健太は、直感した。黒猫は、この桜井ハナさん、あるいは、彼女が飼っていた猫の子孫ではないか? そして、空き部屋に固執するのは、かつて彼女が暮らした場所、あるいは、彼女と猫たちが大切にしていた場所だからではないか?

 健太は、さらに古い住民台帳や、近隣の古老に話を聞いて回った。すると、驚くべき事実が判明した。桜井ハナさんは、長屋に住んでいた頃、大家と口約束で「永代にわたり、猫たちと安心して暮らせる場所」として、この土地の一部を借りていたというのだ。そして、彼女が亡くなる際、近所の子供たちに、「いつか、この土地に、猫たちが安心して暮らせる家が建つといい。それが、わしの最後の願いだ」と語っていたという。その子供たちの一人が、今の夕顔荘の住民の一人、渡辺さんだった。

 健太は、渡辺さんに、黒猫が空き部屋の窓の下に居つくこと、そして、古い登記簿のメモと、桜井ハナさんの願いについて語った。渡辺さんは、涙ぐんだ。

「あの黒猫は……、ハナさんの猫の子孫だったんですね。そうか、ハナさんは、猫たちのことを、ずっと心配していたんだ……」

 健太は、山田さんと住民たちを集め、全てを話した。黒猫の出自、桜井ハナさんの願い、そして、古い登記簿のメモに隠された「永代安穏」という言葉の真の意味。それは、単なる貸借権の記録ではなく、人と猫が共生する場所への、切ない願いだったのだ。

 最初は野良猫を排除しようとしていた住民たちは、話を聞くうちに、表情を変えていった。特に、不吉な噂を囁いていた住民たちは、むしろ黒猫を「ハナさんの使い」として、温かい目で見るようになった。



 アパートの幽霊と、生まれる絆


 結局、法律的に黒猫を「立ち退かせる」ことは不可能だったが、健太は、法律の枠を超えた解決策を提案した。

「山田さん、住民の皆さん。この黒猫は、夕顔荘の歴史の一部であり、桜井ハナさんの願いを伝える存在なのかもしれません。もしよろしければ、この空き部屋を、猫たちが安心して暮らせる『地域猫ハウス』として整備してみてはいかがでしょうか。住民の皆さんが交代で世話をし、猫たちが住み着くことで、かえって夕顔荘に温かい絆が生まれるかもしれません」

 最初、山田さんは難色を示したが、住民たちの賛同の声、特に渡辺さんの熱心な説得もあり、最終的にこの提案を受け入れた。夕顔荘の空き部屋は、住民たちの手によって改装され、猫たちが安心して暮らせる「猫ハウス」へと生まれ変わった。そこには、黒猫だけでなく、ミケを筆頭に、下町の野良猫たちが集まる、小さなコミュニティが形成されていった。

 黒猫は、もう「招かれざるニャンコ」ではなかった。夕顔荘の住民たちは、猫たちを通して、互いの絆を深め、忘れかけていた下町の人情を取り戻していった。

 健太は、司法書士の仕事が、単なる書類の処理ではないことを、改めて実感した。登記簿の裏には、人々の人生が、そして、時に猫たちの物語が隠されている。

 全ての話し合いが終わり、夕顔荘に静かな猫の息遣いが戻った。健太は、大きく息をついた。

「ミケ、君は本当にすごいよ。あの古い登記簿のメモと、黒猫の行動。あれがなければ、僕は、桜井ハナさんの願いも、住民たちの心の奥底にある温かさにも、一生気づけなかった」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、健太の膝に飛び乗り、丸くなった。そして、健太の顔を見上げ、満足そうに「ニャア」と一声鳴いた。その瞳は、まるで「人間は、目に見えるものばかりを追いかけがちだニャ」とでも言いたげな、賢い光を宿している。

 健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケの肉球は、確かに真実を知っていた。書類の裏に隠された、人々の心の奥底にある真実を。それは、法律の条文には書かれていない、人々の「願い」や「記憶」、そして「共生の絆」だった。

 夕暮れ時、事務所の窓から、下町の優しい光が差し込んでいた。健太は、机に積み重ねられた書類の山と、その隣で気持ちよさそうに眠るミケを交互に見た。


 司法書士の仕事は、法律の知識を駆使し、正確な書類を作成することだけではない。人々の言葉の奥にある、複雑な感情の機微を理解し、その真実を見つけ出すことこそが、本当に大切なのだと、健太はミケから学び続けている。

 明日もまた、この下町で、誰かが抱える「とある登記簿の奇談」に隠された真実を、健太とミケのコンビが、きっと見つけ出すことだろう。そして、彼らが新たな一歩を踏み出すための、静かに、しかし力強く、サポートしていくのだ。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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