表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/24

18.街のねこ司法書士、ミケと遺言書の秘密のしっぽ

 下町の一角、古びた建物が軒を連ねる細い路地裏に、「佐々木司法書士事務所」と書かれた控えめな看板が、どこか頼りなげに揺れている。引き戸を引けば、磨り減った木の床がギシリと軋み、墨と紙の匂いに、微かな猫の気配が混じり合う。奥の窓から差し込む午後の陽光が、古い畳の上に、ゆったりと伸びをする一匹の猫の影を長く落としていた。

 所長の佐々木健太は28歳。司法書士として開業して二年。法律の条文や判例にはめっぽう強く、正確な書類作成には自信があった。しかし、彼はどうにも世間擦れしておらず、人々の心の裏側や、感情の機微を読み解くのが苦手だった。彼の頭の中では、法律は常に明快なのだが、その法律が適用される人間関係は、いつも謎に満ちていた。

 そして、その事務所のもう一人の住人、いや、真の主役とも言うべき存在が、ミケだ。推定5歳のオス猫。白と茶と黒の毛並みを持つ彼は、いつからかこの事務所に居つき、健太の日常にすっかり溶け込んでいた。一見すると、ただの気ままな看板猫。しかし、健太が仕事で行き詰まり、法律知識だけでは解決できない人々の感情的な問題に直面すると、ミケは必ず、さりげなく、しかし決定的な「助言」をくれるのだ。健太は、まだその不思議な力を完全に理解してはいなかったが、漠然と「この猫、もしかして……?」と半信半疑の思いを抱き始めていた。これは、健太とミケが、互いの「絆」を初めて自覚することになる、そんな最初の事件の物語だ。



 遺言書を巡る兄弟の確執


 ある冬の晴れた日、健太の事務所に二人の依頼人がやってきた。相続に関する相談だ。亡くなった父親が残した遺産を巡り、兄弟が揉めているという。相談に来たのは、長男の木村一郎さん、50代の真面目そうな会社員。そして、一郎さんの弟、次男の木村二郎さん、40代後半でどこか飄々とした雰囲気の自営業者だった。

 父親が残したのは、この下町にある古い家屋と、わずかな預貯金。そして、父親の直筆による遺言書だ。健太は、その遺言書を確認した。そこには、「全ての財産は、長男である一郎に相続させる」と明記されている。法的には、遺言書の記載通りに一郎さんが全てを相続することになる。

 しかし、二郎さんは納得がいかない様子だ。

「兄さんばかりが得をするのはおかしい! 父さんは確かに真面目だったけど、兄さんばかりを可愛がったわけじゃない。それに、遺言書なんて、父さんらしくない。誰かに書かされたんじゃないか?」

 二郎さんは、そう言って、一郎さんを睨みつけた。一郎さんは、困惑したように俯いている。

「そんなことはない! 父さんが自分で書いたんだ。僕が、父さんの面倒を一番見てきたんだから、当然だろう」

 遺言書に法的な問題はない。しかし、兄弟間の確執が深く、話し合いは平行線を辿っている。健太は、法律の原則を丁寧に説明したが、二人の間に漂う不信感は解消されない。健太は、どう言葉を選んでいいか分からなくなり、手元のメモ用紙を無意識に丸めた。

 その時、健太の足元で、何かが軽く触れた。ミケだった。ミケは、いつの間にか陽だまりから出てきて、健太の足元に座り込み、そのまま、応接テーブルの上に置かれた遺言書の原本にじっと視線を向けている。

 ミケは、その遺言書の上に、ちょんと前足を置いた。そして、何事もなかったかのように、しっぽをゆったりと揺らし、一郎さんと二郎さんの間を、ゆっくりと横切った。そして、健太の方を一度振り返ると、また陽だまりに戻ってしまった。

「ミケ、どうしたんだ?」

 健太はミケの行動を不思議に思いつつ、尋ねた。ミケは何も答えず、ただ目を細めている。健太は、その行動が単なる猫の気まぐれなのか、それとも何か意味があるのか、判断に迷った。しかし、ミケが強調した遺言書と、兄弟の間を横切ったことに、健太の心に引っかかった。



 ミケの「助言」と第二の遺言書


 兄弟が帰り、事務所に静寂が戻った。健太は、遺言書をもう一度確認した。筆跡も問題なく、父親の意思が明確に示されている。だが、ミケの行動が気になる。なぜ、遺言書の上に前足を置き、兄弟の間を横切ったのだろう? まるで、この遺言書だけでは解決しない「何か」がある、とでも言いたげな。

「ミケ、どうしたらいいんだ。遺言書は完璧なのに、二郎さんが納得しない。何か隠された真実があるのか?」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、ゆっくりと立ち上がった。そして、健太のデスクに飛び乗ると、彼が確認していた遺言書の原本に、鼻をこすりつけた。そして、遺言書を綴じているクリップを、ちょんとくわえて、机の上に落とした。

 健太は、その行動に疑問符を浮かべつつ、クリップを拾い上げた。その時、ミケは、さらに不思議な行動に出た。彼は、健太が作業に使っていた鉛筆を、そっとくわえ上げると、遺言書ではなく、脇に置いてあった別の書類の束の上に落とした。それは、健太が、亡くなった父親の遺品整理の際に、一郎さんから預かっていた、古い書類の入ったダンボール箱だった。

「このダンボール箱……?」

 健太は、その箱を手に取った。中には、父親が大切にしていた古い写真や、使い古された手帳、そして、何冊かの古い通帳が収められている。ミケは、そのダンボール箱の中を、まるで何かを探しているかのように、前足でガサガサと音を立てた。そして、写真の束の下に隠されていた、一枚の薄い紙切れを、ちょんと咥えた。

 健太がその紙切れを引っ張り出すと、それは、驚くべきことに、もう一枚の遺言書だった。ただし、こちらは公正証書遺言ではなく、自筆証書遺言だった。日付を確認すると、一郎さんから預かった遺言書よりも、半年ほど後に作成されている。

 健太は、息を呑んだ。法律では、複数の遺言書が存在する場合、日付が新しいものが優先されるという原則がある。

 健太は、その新しい遺言書の内容を確認した。そこには、達筆な字で、しかし震えるような筆跡で、こう書かれていた。

『……長男一郎には、家屋を相続させる。預貯金は、二郎に全て譲る。これで、二人とも仲良く暮らしてほしい。』

 健太の頭の中で、バラバラだったパズルが、カチリと音を立てて繋がっていく。

 一郎さんが預かっていた遺言書は、確かに本物だ。しかし、父親はその後、考えを変え、預貯金は二郎さんに譲るという、新しい遺言書を作成していたのだ。おそらく、一郎さんが預かっていた最初の遺言書の内容に、二郎さんが不満を抱くことを予期し、あるいは、二人の兄弟喧嘩を心配して、公平を期そうとしたのだろう。しかし、何らかの理由で、この新しい遺言書の存在が、二人に知らされていなかったのだ。

 ミケが、遺言書の上に前足を置き、兄弟の間を横切ったこと。そして、古いダンボール箱の中から、この新しい遺言書を見つけ出させたこと。全てが繋がった。

 健太は、すぐに一郎さんと二郎さんに連絡を取り、再度事務所に来てもらうようお願いした。



 真実の開示と家族の絆


 翌日、再び木村兄弟が事務所にやってきた。一郎さんも二郎さんも、健太の顔を見て、どこか緊張した面持ちだ。健太は、二人に、新たに見つかった自筆証書遺言の存在を告げた。

 二人の顔から、血の気が引いていく。一郎さんは、驚きと困惑の表情を浮かべ、二郎さんは、半信半疑ながらも、何かを期待するような目で健太を見つめている。

 健太は、新しい遺言書を二人の前に差し出した。

「お父様は、一郎さんから預かった遺言書よりも、半年ほど後に、こちらの自筆証書遺言を作成されていました。法律では、日付が新しい遺言書が優先されます」

 二郎さんが、遺言書の内容を読み始めた。そこに書かれた「預貯金は、二郎に全て譲る」という文言を見た瞬間、彼の目から大粒の涙が溢れ出した。

「父さん……。まさか、父さんが、俺のことも考えてくれていたなんて……」

 一郎さんも、遺言書の内容を確認し、そして、二郎さんの涙を見た。彼の顔に、安堵と、そしてどこか申し訳なさそうな表情が浮かんだ。

「知らなかった……。父さん、そんなことを……。僕が、父さんの気持ちを勘違いしていた」

 健太は、静かに語りかけた。

「お父様は、お二人のことを、どちらも大切に思っていらっしゃったのだと思います。そして、きっと、お二人が争うことなく、仲良く暮らしていくことを、誰よりも願っていらっしゃったのではないでしょうか。この新しい遺言書は、お父様の、お二人への最後のメッセージだったのかもしれません」

 二人は、遺言書を見つめながら、静かに涙を流していた。これまで張り詰めていた兄弟間の確執が、父親の遺した「真の遺言」によって、ゆっくりと解きほぐされていく。

 健太は、二人の相続手続きを、新しい遺言書に基づいて進めることになった。家屋は一郎さんが、預貯金は二郎さんが相続する。それは、当初、二郎さんが「兄さんばかりずるい」と主張していた内容とは真逆だが、二郎さんは納得したようだった。それどころか、一郎さんに、長年の介護への感謝の言葉を口にした。

 遺産分割協議書が無事に作成され、手続きも滞りなく進んだ。健太は、改めて司法書士という仕事の重みを感じた。書類一枚一枚の向こうに、人々の人生があり、感情があり、そして、忘れ去られたように思えるメッセージが隠されている。

 全ての話し合いが終わり、木村兄弟が事務所を後にした。事務所には、再び静寂が戻った。健太は、大きく息をついた。

「ミケ、君は本当にすごいよ。あのクリップをくわえ、古いダンボール箱を指し示してくれなければ、僕は、この新しい遺言書に、一生気づけなかった。そして、兄弟の確執も、解決できなかった」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、彼の膝に飛び乗り、丸くなった。そして、健太の顔を見上げ、満足そうに「ニャア」と一声鳴いた。その瞳は、まるで「人間は、一番大切なものを見落としがちだニャ」とでも言いたげな、賢い光を宿している。

 健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケの肉球は、確かに真実を知っていた。書類の裏に隠された、人々の心の奥底にある真実を。それは、法律の条文には書かれていない、人々の「想い」や「絆」だった。

 夕暮れ時、事務所の窓から、下町の優しい光が差し込んでいた。健太は、机に積み重ねられた書類の山と、その隣で気持ちよさそうに眠るミケを交互に見た。

 司法書士の仕事は、法律の知識を駆使し、正確な書類を作成することだけではない。人々の言葉の奥にある、複雑な感情の機微を理解し、その真実を見つけ出すことこそが、本当に大切なのだと、健太はミケから学び始めた。

 この日、健太は、ミケの不思議な能力を「気のせい」として片付けるのをやめた。そして、ミケという一匹の猫が、かけがえのない「相棒」であることを、心の底から自覚したのだ。

 明日もまた、この下町で、誰かが抱える「とある契約書の秘密」に隠された真実を、健太とミケのコンビが、きっと見つけ出すことだろう。そして、彼らが新たな一歩を踏み出すための、静かに、しかし力強く、サポートしていくのだ。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ