16.街のねこ司法書士、ミケのねこじゃらし相談室:借金トラブルの裏側
下町の小さな路地裏に佇む佐々木司法書士事務所は、古びた引き戸を開けると、どこか懐かしい木の床の軋む音がする。インクと紙の匂いに、微かに猫の毛の匂いが混じり合った、独特の空間だ。奥の窓から差し込む午後の陽光が、古い畳の上に、ゆったりと伸びをする一匹の猫の影を長く落としていた。
所長の佐々木健太は28歳。法律の条文に関しては誰にも負けない知識を持つ、真面目で朴訥とした青年だ。だが、その頭脳明晰さとは裏腹に、彼はどうにも不器用で、人の心の機微を読むのが苦手だった。依頼人の言葉の裏に隠された真意や、感情のもつれに気づかず、法律論ばかりを語ってしまい、困惑させることも少なくない。特に、借金トラブルという、人々の生活と感情が複雑に絡み合う問題においては、健太の法律知識だけでは立ち行かない場面が多々あった。
そんな健太の隣には、いつもミケがいる。推定5歳のオス猫。白と茶と黒の毛並みが特徴の、どこにでもいそうな、しかしどこか不思議な雰囲気を持つ事務所の看板猫だ。ミケは、ほとんどの時間を事務所の奥の、陽のよく当たる窓際で丸くなって過ごしている。まるで、世界とは隔絶された自分だけの小宇宙を持っているかのように。しかし、健太が仕事で行き詰まると、彼は静かに、しかし確実に、健太の思考に介入してくる。その「助言」は、時に健太の半信半疑の目を掻い潜り、事件解決の鍵となるのだった。
「ただの借金」ではなかった
ある秋の夕暮れ時、事務所の引き戸が、遠慮がちに開けられた。現れたのは、30代後半の女性、斉藤由美さんだった。顔はやつれ、目元には深いクマが刻まれている。その手には、まるで何か大切なものを隠すかのように、きつく握りしめられた、少し古びた革のパスケースがあった。
「あのう、佐々木先生でいらっしゃいますか……?」
蚊の鳴くような声に、健太は椅子から立ち上がり、奥の応接スペースへと案内した。由美さんの相談は、債務整理に関することだった。彼女は、数年前から、病気がちの母親の医療費や、リストラされた夫の生活費を捻出するため、複数の消費者金融から借金を重ねていた。当初は返済できていたものの、借金は雪だるま式に膨らみ、もはや自力での返済は不可能だという。
「もう、どうしたらいいか分からなくて……。毎日、督促の電話に怯えて、夜も眠れません。家族には、借金のことは言っていません。特に、夫には絶対に知られたくないんです……」
由美さんの声は震えていた。健太は、任意整理、自己破産、個人再生といった債務整理の選択肢と、それぞれのメリット・デメリットを丁寧に説明した。由美さんは、健太の話を、時折、虚ろな目で聞きながら、うつむいていた。特に、夫に知られたくないという由美さんの強い希望から、「家族に内緒で進められる可能性のある任意整理」に重点を置いて説明した。
「夫には、本当に苦労をかけてばかりで……。これ以上、心配をかけたくないんです」
由美さんは、そう言って、涙を流した。健太は、由美さんの夫への深い愛情を感じたが、一方で、彼女の借金の背景には、単なる家計の逼迫だけではない、何か別の感情が絡んでいるように感じられた。しかし、それが何なのか、健太には見当もつかない。
その時、健太の足元で、何かが軽く触れた。ミケだった。ミケは、いつの間にか陽だまりから出てきて、健太の足元に座り込み、由美さんの手に握られた革のパスケースにじっと視線を向けている。
由美さんは、ミケの視線に気づき、ハッとしたようにパスケースを膝の裏に隠そうとした。しかし、ミケは構わず、そのパスケースにちょんと前足を触れた。そして、何事もなかったかのように、しっぽをゆったりと揺らし、健太の方を一度振り返ると、また陽だまりに戻ってしまった。
「……何か特別なものでも入っているんですか、斉藤さん?」
健太はミケの行動を不思議に思いつつ、尋ねた。
「いえ……。ただの、古いパスケースなので……」
由美さんは、そう言って、パスケースをきつく握りしめた。その表情には、どこか痛みが滲んでいるようだった。健太は、ミケの行動が単なる気まぐれなのか、それとも何か意味があるのか、判断に迷った。しかし、由美さんのパスケースへの強いこだわりと、夫への異常なまでの秘密主義が、健太の心に引っかかった。
ミケの「ねこじゃらし」と秘密の写真
由美さんが帰り、事務所に静寂が戻った。健太は、由美さんの債務状況のヒアリングシートを見つめながら、頭を抱えた。
「ミケ、どうしたらいいんだ。斉藤さんの借金は、任意整理では返済期間が長くなりすぎて、生活がさらに苦しくなる可能性がある。やはり個人再生や自己破産も視野に入れるべきだが、彼女は夫に知られることを極端に恐れている。あのパスケースに、何かヒントがあるんだろうか?」
ミケは、健太の言葉に答える代わりに、ゆっくりと立ち上がった。そして、健太のデスクに飛び乗ると、彼が確認していた債務状況のヒアリングシートに、鼻をこすりつけた。そして、そのシートを綴じているクリップを、ちょんとくわえて、机の上に落とした。
健太は、その行動に疑問符を浮かべつつ、クリップを拾い上げた。その時、ミケは、さらに不思議な行動に出た。彼は、健太が作業に使っていたねこじゃらしを、そっとくわえ上げると、ヒアリングシートの上ではなく、脇に置いてあった由美さんの持ち物リストのメモの上に落とした。そして、そのメモに書かれた「古いパスケース」という文字を、ねこじゃらしでつつき始めた。まるで、健太にそのパスケースの中身を確認しろ、とでも言いたげに。
健太は、ミケの行動に戸惑いつつ、由美さんのパスケースの中身を思い出した。由美さんは、パスケースを常にきつく握りしめていたため、健太は中身を確認していなかった。しかし、ミケがこれほどまでに強調する以上、何か理由があるはずだ。
健太は、由美さんの承諾を得て、パスケースを借り受けることにした。翌日、改めて事務所にパスケースを持参した由美さんは、どこか不安げな表情をしていた。
健太は、由美さんの目の前で、パスケースをゆっくりと開けた。中には、免許証や保険証などの他に、数枚の古い写真が入っていた。その写真の一枚に、健太は目を奪われた。
それは、由美さんと、由美さんの夫、そして、もう一人、若い男性が写った写真だった。若い男性は、由美さんと夫の間で、親しげに肩を組んでいる。そして、その若い男性の顔は、どこか由美さんに似ていた。しかし、由美さんのヒアリングシートには、夫と母親以外の家族構成については記載がなかった。
健太は、その写真の裏に、手書きで小さく書き込まれた文字を見つけた。
『ユウキと、私たち。20XX年、あの海辺で』
健太は、息を呑んだ。「ユウキ」……。この若い男性は一体誰なのか? そして、この写真が、なぜ由美さんの借金トラブルと関係があるのか?
健太の頭の中で、バラバラだったパズルが、カチリと音を立てて繋がっていく。
由美さんが夫に借金を隠していること。そして、夫に知られたくないと強く願う理由。ミケが強調したパスケース。そして、その中にあった、夫と由美さんと、見知らぬ若い男性が写った写真。
もし、この「ユウキ」という人物が、由美さんの夫が知らない、あるいは、知りたくない由美さんの過去に関わる人物だとしたら? そして、その過去が、由美さんの借金の真の原因だとしたら?
例えば、由美さんが、夫との結婚前に、この「ユウキ」という人物の借金を肩代わりしていたとしたら? あるいは、彼を助けるために、お金を貸し、それが返済されずに、由美さんが代わりに返済し続けていたとしたら?
法律的には、借金の原因がどうであれ、債務整理の手続きは可能だ。しかし、もしその原因が、夫に隠している「過去」だとしたら、由美さんは、借金の問題だけでなく、夫婦関係の問題も抱えていることになる。だからこそ、彼女は夫に知られることを極端に恐れ、自己破産を頑なに拒否するのだ。自己破産をすれば、全ての債務が免除される代わりに、詳細な財産状況や借金の原因を全て開示する必要がある。その過程で、この「ユウキ」という人物との関係や、隠していた借金の原因が露呈する可能性があるのだ。
健太は、すぐに由美さんに連絡を取り、改めて事務所に来てもらうようお願いした。
真実の告白と家族の再生
翌日、斉藤由美さんが事務所にやってきた。健太は、由美さんの顔を見て、切り出した。
「斉藤さん、単刀直入にお伺いします。このパスケースの中の写真に写っている『ユウキ』という方は、一体どなたですか? もしよろしければ、この写真にまつわるお話と、それが斉藤さんの借金とどのように関わっているのか、全てお話しいただけますでしょうか?」
健太の言葉に、由美さんの顔から、血の気が引いていく。その瞳には、一瞬、激しい動揺と、そして深い悲しみが交錯した。
「なぜ……なぜ先生が、その写真を……」
由美さんの声は震えていた。健太は、ミケの「助言」の経緯は伏せつつ、穏やかに語りかけた。
「私どもで、過去の事例や、いくつかの情報から推測できることがございまして。借金問題は、単なるお金の問題だけでなく、その背景にある人間関係や感情が複雑に絡み合っていることが多いのです。もし、斉藤さんが、その方のことで何かご懸念を抱えていらっしゃるのであれば、今ここで、全てをお話しいただけますでしょうか?」
由美さんは、堰を切ったように、涙を流し始めた。
「実は……、ユウキは、私の弟なんです。夫と結婚する少し前、彼が事業に失敗して、多額の借金を背負ってしまって……。両親にも言えず、私がなんとかしようと、代わりに借金をしていたんです。夫には、弟がいることも、その借金のことも、何も話していません。夫は、私の全てを受け入れてくれたのに、こんな過去を隠していたなんて知られたら、きっと幻滅されてしまう……。だから、自己破産だけは、絶対に避けたいと願っていたんです……」
健太は、由美さんの「裏に隠された真実」を理解した。由美さんの借金の原因は、家族を思う深い愛情から来ていたのだ。そして、夫への秘密主義は、過去への罪悪感と、夫婦関係を守りたいという切実な願いから来ていた。
健太は、静かに語りかけた。
「斉藤さん、弟さんのことを思いやるお気持ち、そして、ご主人のことを大切に思うお気持ち、どちらも痛いほど伝わってきます。しかし、この問題を解決するためには、ご主人が知らない『過去』ではなく、ご家族全員で向き合う『未来』を考える必要があります。勇気を出して、ご主人にも全てを話してみませんか? きっと、斉藤さんのことを心から理解し、支えてくれるはずです」
健太は、ミケが提示した「パスケースの中の秘密」というキーワードを元に、いくつかの解決策を提示した。
* 夫への告白と家族会議: まずは、夫に全てを打ち明けること。そして、家族全員で、由美さんの借金問題と、弟さんの問題についても話し合う場を設けること。健太も同席し、客観的な立場からアドバイスをする。
* 個人再生の可能性: 由美さん自身の借金については、個人再生も視野に入れること。個人再生は、住宅ローン以外の債務を大幅に減額し、無理のない返済計画を立て直すことができる手続きだ。家族に知られるリスクを最小限に抑えつつ、生活を立て直す道を探る。
* 弟との関係性の再構築: 弟のユウキさんにも、この問題に向き合ってもらうこと。由美さん一人で抱え込むのではなく、専門家を交えて、弟さんの債務状況も確認し、必要であれば適切な手続きを検討する。
由美さんは、健太の言葉に、少しずつ表情に希望が戻っていった。そして、震える声で言った。
「……分かりました。夫に、全てを話します。先生、どうか、私たち家族を助けてください」
後日、佐々木司法書士事務所には、由美さんと、由美さんの夫、そして弟のユウキさんが顔を揃えた。夫は、由美さんの告白に最初はショックを受けていたが、由美さんの涙ながらの謝罪と、健太の冷静な説明を聞き、最終的に由美さんを受け入れた。弟のユウキさんも、姉に多大な迷惑をかけていたことを深く反省し、これからは自力で立ち直ると誓った。
健太は、彼らの状況を詳しくヒアリングし、由美さんの借金については個人再生を進めることになった。夫の理解と協力も得られ、より現実的な返済計画が立てられた。弟のユウキさんについては、当面は由美さんの支援を受けず、自力で債務整理を進めることを選択した。家族の間に、隠されていた真実が明らかになったことで、重苦しい空気が消え、代わりに、確かな絆が生まれたように感じられた。
由美さんの個人再生の手続きが無事に始まり、夫との関係も修復され、家族の間に笑顔が戻った。
全ての話し合いが終わり、由美さんたちが事務所を後にした。健太は、大きく息をついた。
「ミケ、君は本当にすごいよ。あのパスケースのねこじゃらしがなければ、僕は、斉藤さんの本当の苦悩に、一生気づけなかった。そして、家族の絆も、修復できなかった」
ミケは、健太の言葉に答える代わりに、彼の膝に飛び乗り、丸くなった。そして、健太の顔を見上げ、満足そうに「ニャア」と一声鳴いた。その瞳は、まるで「人間は、言葉にできない『秘密』を抱えがちだニャ」とでも言いたげな、賢い光を宿している。
健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケの肉球は、確かに真実を知っていた。書類の裏に隠された、人々の心の奥底にある真実を。それは、法律の条文には書かれていない、人々の「愛情」や「葛藤」、そして「隠された過去」だった。
夕暮れ時、事務所の窓から、下町の優しい光が差し込んでいた。健太は、机に積み重ねられた書類の山と、その隣で気持ちよさそうに眠るミケを交互に見た。
司法書士の仕事は、法律の知識を駆使し、正確な書類を作成することだけではない。人々の言葉の奥にある、複雑な感情の機微を理解し、その真実を見つけ出すことこそが、本当に大切なのだと、健太はミケから学び続けている。
明日もまた、この下町で、誰かが抱える「とある借金トラブルの裏側」に隠された真実を、健太とミケのコンビが、きっと見つけ出すことだろう。そして、彼らが新たな一歩を踏み出すための、静かに、しかし力強く、サポートしていくのだ。
【免責事項および作品に関するご案内】
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。
これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。
現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。