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14.街のねこ司法書士、もふもふ探偵ミケ:行方不明のペットと遺言

 下町の、どこか懐かしい風景が残る路地裏に、佐々木司法書士事務所はひっそりと佇む。年季の入った引き戸を開けると、使い込まれた木の床がギシリと軋み、墨と紙の匂いに、微かな猫の気配が混じり合う。奥の窓から差し込む午後の陽光が、古い畳の上に、ゆったりと伸びをする一匹の猫の影を長く落としていた。

 所長の佐々木健太は28歳。法律の条文や難解な判例にはめっぽう強く、その知識量は誰にも負けない。しかし、実社会の複雑な人間関係や、言葉の裏に隠された感情の機微を読み取るのは、どうにも苦手だった。彼にとって、法律は明快なのだが、その法律が適用される人々の感情は、いつも謎に満ちていた。

 そんな健太の隣には、事務所の賢すぎる看板猫、ミケがいる。推定5歳のオス猫で、白と茶と黒の毛並みを持つ。ミケはほとんどの時間を、事務所の奥にある、陽の光が一番よく当たる場所でうたた寝している。一見すると、ただの気ままな猫。しかし、健太が法律の知識だけでは解決できない、依頼人の複雑な感情や、言葉の裏に隠された真実に行き詰まると、ミケは必ず、さりげなく、しかし決定的な「助言」をくれるのだ。その「助言」は、時に健太の半信半疑の目を掻い潜り、事件解決の鍵となるのだった。



 消えた愛犬と、揺れる遺言


 ある穏やかな冬の日の午後、事務所の引き戸が、遠慮がちに開けられた。現れたのは、初老の女性、村上静子さんだった。顔には深い悲しみが刻まれ、その目元は腫れぼったい。その手には、まるで何か大切なものを失ったかのように、きつく握りしめられた、一枚のくしゃくしゃになった写真があった。

「あのう、佐々木先生でいらっしゃいますか……?」

 蚊の鳴くような声に、健太は椅子から立ち上がり、奥の応接スペースへと案内した。静子さんの相談は二つあった。一つは、先日、長年連れ添った愛犬「ハル」が、散歩中に突然いなくなってしまったこと。そしてもう一つは、自身の遺言書作成の相談だった。

「ハルがいないんです……。どこを探しても見つからなくて……。もう、私には、ハルしかいなかったのに……」

 静子さんは、そう言って、くしゃくしゃになった写真を見せた。そこに写っていたのは、白くてふわふわした毛並みの、柴犬のような犬だった。健太は、静子さんの悲しみに同情したが、司法書士の業務範囲ではない。しかし、彼女の憔悴ぶりを見ると、無下に断ることもできなかった。

「それはお辛いですね……。私も、何かお力になれることがあれば良いのですが……」

 健太は、言葉を選びながら、遺言書作成の相談へと話を移した。静子さんは、健太の話を、時折、虚ろな目で聞きながら、うつむいていた。健太は、自身の相続財産や、誰に何を遺したいかを尋ねた。

 静子さんは、戸惑いがちに答えた。

「財産は、この家と、少しの預貯金だけです……。相続人は、遠い親戚が何人かいるんですが……。でも、誰に遺したらいいか、分からなくて……」

 健太は首を傾げた。通常、遺言書を作成する際には、遺したい相手や、その理由が明確なことが多い。しかし、静子さんの口ぶりは、どこか歯切れが悪く、まるで、本当に遺したい相手が別にあるかのように感じられたのだ。だが、それが誰なのか、健太には見当もつかない。

 その時、健太の足元で、何かが軽く触れた。ミケだった。ミケは、いつの間にか陽だまりから出てきて、健太の足元に座り込み、静子さんが手に握りしめていた、くしゃくしゃになった愛犬ハルの写真にじっと視線を向けている。

 静子さんは、ミケの視線に気づき、ハッとしたように写真を握りしめた。しかし、ミケは構わず、その写真にちょんと前足を触れた。そして、何事もなかったかのように、しっぽをゆったりと揺らし、健太の方を一度振り返ると、健太のデスクの壁に貼られた、一枚の「迷い猫」のポスターをじっと見つめている。ポスターには、耳の先が少し欠けた、キジトラ柄の猫の写真が貼られている。

「ミケ、どうしたんだ?」

 健太はミケの行動を不思議に思いつつ、尋ねた。ミケは何も答えず、ただ目を細めている。健太は、ミケの行動が単なる気まぐれなのか、それとも何か意味があるのか、判断に迷った。しかし、静子さんの愛犬の写真と、ミケが見つめる迷い猫のポスターが、健太の心に引っかかった。



 ミケの「探偵」と隠された真実


 静子さんが帰り、事務所に静寂が戻った。健太は、静子さんの遺言書作成のヒアリングシートと、彼女が持参した愛犬ハルの写真を見つめながら、頭を抱えた。

「ミケ、どうしたらいいんだ。静子さんは、本当に遺したい相手がいるように見えた。だが、ハルがいなくなったことと、遺言書に何の関係があるんだ? そして、なぜ君はあの迷い猫のポスターを見つめていたんだ?」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、ゆっくりと立ち上がった。そして、健太のデスクに飛び乗ると、彼が確認していた静子さんのヒアリングシートに、鼻をこすりつけた。そして、シートを綴じているクリップを、ちょんとくわえて、机の上に落とした。

 健太は、その行動に疑問符を浮かべつつ、クリップを拾い上げた。その時、ミケは、さらに不思議な行動に出た。彼は、健太が作業に使っていた鉛筆を、そっとくわえ上げると、ヒアリングシートの上ではなく、壁に貼られた「迷い猫」のポスターの前に落とした。そして、そのポスターに写るキジトラ猫の耳が欠けた部分を、ちょんと前足でなぞった。

 健太は、息を呑んだ。ミケが強調する迷い猫。耳が欠けている猫。

 健太は、改めて迷い猫のポスターをよく見た。そこには、連絡先として、この下町の商店街で営むクリーニング店「白猫クリーニング」の電話番号と店主の氏名が書かれている。

 健太は、ふと、静子さんが「ハルがいなくなった」と話した時の、彼女の表情を思い出した。深い悲しみの中に、どこか「諦め」のようなものが混じっていた。まるで、ハルを失ったのは、自分自身のせいだとでも思っているかのように。

 そして、健太は、もう一つ、ミケの行動で気になったことがあった。静子さんの愛犬ハルの写真を見たとき、ミケはなぜか、ハルの写真と、迷い猫のポスターを交互に見つめていたのだ。

 もし、この「迷い猫」が、実は静子さんの愛犬ハルと何らかの関係があるとしたら? そして、その関係が、静子さんが遺言書の内容をはっきりと決められない理由と繋がっているとしたら?

 健太は、すぐに「白猫クリーニング」に連絡を取った。店主は、優しそうな老婆だった。健太が、ポスターの迷い猫について尋ねると、老婆は、どこか寂しそうに語り始めた。

「ああ、この子ですか。この子は、もう何年も前から、この商店街をウロウロしている野良猫でしてね。耳が少し欠けているでしょう? 野良猫手術の時に、印として欠けさせたんです。誰にも懐かず、いつも一人でいる寂しがり屋でね……」

 健太は首を傾げた。野良猫。しかし、ミケはなぜ、ハルの写真とこの野良猫を繋げたのだろう?

 その時、老婆が続けた。

「この子ね、最近、夕方になると、必ず『村上さんち』の軒先にいるんですよ。特に、村上さんちの犬小屋のそばで、じっと座っているんです。村上さんのところの、白い柴犬がいなくなったでしょう? あの子、ハルちゃんっていうんでしょ? どうも、あのハルちゃんがいなくなってから、この子、寂しそうにしていて……」

 健太は、息を呑んだ。村上さんちの犬小屋。そして、寂しそうにする野良猫。

 ミケは、ハルの写真を見つめ、迷い猫のポスターを指し示した。それは、ハルとこの野良猫の間にある、「絆」を示唆していたのだ。

 健太は、すぐさま静子さんに連絡を取り、再度事務所に来てもらうようお願いした。そして、この「白猫クリーニング」の店主にも同席を依頼した。



 真実の告白と、新たな絆


 翌日、村上静子さんと、「白猫クリーニング」の店主が事務所にやってきた。健太は、静子さんの顔を見て、切り出した。

「村上さん。まず、お尋ねしたいことがあります。この迷い猫のポスターに写っている猫と、村上さんの愛犬ハルちゃんは、何か関係があるのでしょうか?」

 健太の言葉に、静子さんの顔から、血の気が引いていく。そして、彼女は、店主の顔を見た。店主は、静かに頷いた。

 静子さんは、堰を切ったように、涙を流し始めた。

「実は……、ハルは、迷子になったわけじゃないんです……。私が、捨てたんです。あの日は、私が風邪を引いて寝込んでいて、ハルがずっと吠え続けて……。近所迷惑になるし、看病もできないし、私にはもう、どうすることもできないって、思ってしまって……。それで、公園に、ハルを、置いてきてしまったんです……。でも、すぐに後悔して、探しに行ったけど、どこにもいなくて……。自分がしたことに、ずっと苦しんでいました。遺言書も、こんなひどいことをした私が、誰かに財産を遺す資格なんてないって、そう思ってしまって……」

 健太は、静子さんの「裏に隠された真実」を理解した。静子さんの悲しみは、ハルを失った悲しみだけでなく、自責の念から来るものだったのだ。そして、遺言書の内容を決めかねていたのは、その罪悪感からだった。

 健太は、静かに語りかけた。

「村上さん、ハルちゃんを捨ててしまったことを、心から後悔していらっしゃるのですね。そのお気持ち、痛いほど伝わってきます。しかし、諦めるのはまだ早いです。実は、先ほどのクリーニング屋さんの店主のお話から、ある可能性が見えてきました」

 健太は、店主が語った、迷い猫がハルの犬小屋のそばにいるという話、そして、ミケがハルの写真と迷い猫のポスターを関連付けたことを話した。そして、慎重に言葉を選んだ。

「あの野良猫は、耳が欠けています。しかし、もしかしたら、ハルちゃんは、その野良猫の『兄弟』あるいは『家族』だったのかもしれません。ハルちゃんは、もしかしたら、捨てられたのではなく、あの野良猫を追いかけて、そのまま遠くへ行ってしまったのかもしれない。そして、あの野良猫は、ハルちゃんが暮らしていた家を、今も探しているのかもしれません」

 静子さんは、健太の言葉に、顔を上げた。店主も、驚いたような表情で、静子さんを見つめている。

 健太は、さらに続けた。

「そして、もう一つ。ハルちゃんは、もしかしたら、まだ生きているのかもしれません。たとえ遠くへ行ってしまったとしても、あの野良猫が、ハルちゃんの『居場所』を示唆している可能性はあります。村上さんが、本当に遺したい相手は、もしかしたら、ハルちゃん、あるいは、ハルちゃんとの縁で繋がる、動物たちの保護活動をしている団体なのかもしれませんね」

 静子さんの瞳に、希望の光が戻った。そして、彼女は、再び涙を流した。今度は、悲しみの涙ではなく、希望の涙だった。

 その後、健太は、静子さんの依頼で、地域で活動している動物保護団体について調査した。そして、その中から、静子さんの思いに合致する団体を見つけた。静子さんは、遺言書を、これまで漠然としていた「遠い親戚」ではなく、その動物保護団体へ、自身の財産を遺すことに決めた。それは、ハルへの償いと、未来への希望を込めた、静子さん自身の真の願いだった。

 健子さんの遺言書作成手続きは無事に完了した。そして、静子さんは、動物保護団体と協力し、迷い猫の保護活動にも積極的に関わるようになった。あの耳の欠けたキジトラ猫は、結局、ハルの兄弟ではなかったが、静子さんの新たな「家族」として、保護団体のシェルターで暮らすことになった。静子さんも、定期的にその猫を訪ね、世話をするようになった。ハルは見つからなかったが、静子さんの心には、新たな生きがいと、動物たちとの絆が生まれた。

 全ての話し合いが終わり、事務所に静寂が戻った。健太は、大きく息をついた。

「ミケ、君は本当にすごいよ。あの『迷い猫』のポスターと、ハルの写真。あれがなければ、僕は、静子さんの心の奥底にある罪悪感にも、そして彼女が本当に遺したかった願いにも、一生気づけなかった」

 ミケは、健太の言葉に答える代わりに、彼の膝に飛び乗り、丸くなった。そして、健太の顔を見上げ、満足そうに「ニャア」と一声鳴いた。その瞳は、まるで「人間は、失ったものばかり見て、残された絆を見落としがちだニャ」とでも言いたげな、賢い光を宿している。

 健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケの肉球は、確かに真実を知っていた。書類の裏に隠された、人々の心の奥底にある真実を。それは、法律の条文には書かれていない、人々の「後悔」や「償い」、そして「新たな絆」だった。

 夕暮れ時、事務所の窓から、下町の優しい光が差し込んでいた。健太は、机に積み重ねられた書類の山と、その隣で気持ちよさそうに眠るミケを交互に見た。


 司法書士の仕事は、法律の知識を駆使し、正確な書類を作成することだけではない。人々の言葉の奥にある、複雑な感情の機微を理解し、その真実を見つけ出すことこそが、本当に大切なのだと、健太はミケから学び続けている。

 明日もまた、この下町で、誰かが抱える「とある遺言の裏側」に隠された真実を、健太とミケのコンビが、きっと見つけ出すことだろう。そして、彼らが新たな一歩を踏み出すための、静かに、しかし力強く、サポートしていくのだ。

【免責事項および作品に関するご案内】

 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。

 また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。

 これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。

 現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。

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