13.街のねこ司法書士、ミケと老舗の秘密の鍵
下町の賑やかな商店街の片隅に、佐々木司法書士事務所はひっそりと佇む。引き戸を開ければ、長年使い込まれた木の床がギシリと軋み、墨と紙の匂いに、微かな猫の気配が混じり合う。奥の窓から差し込む午後の陽光が、古い畳の上に、ゆったりと伸びをする一匹の猫の影を長く落としていた。
所長の佐々木健太は28歳。法律の条文を読み解くことにかけては誰にも負けない知識を持つ、真面目で朴訥とした青年だ。だが、その頭脳明晰さとは裏腹に、彼はどうにも不器用で、人の心の機微を読むのが苦手だった。依頼人の言葉の裏に隠された真意や、感情のもつれに気づかず、法律論ばかりを語ってしまい、困惑させることも少なくない。特に、成年後見という、人の尊厳と財産、そして複雑な家族関係が絡み合う問題においては、健太の法律知識だけでは立ち行かない場面が多々あった。
そんな健太の隣には、いつもミケがいる。推定5歳のオス猫。白と茶と黒の毛並みが特徴の、どこにでもいそうな、しかしどこか不思議な雰囲気を持つ事務所の看板猫だ。ミケは、ほとんどの時間を事務所の奥の、陽のよく当たる窓際で丸くなって過ごしている。まるで、世界とは隔絶された自分だけの小宇宙を持っているかのように。しかし、健太が仕事で行き詰まると、彼は静かに、しかし確実に、健太の思考に介入してくる。その「助言」は、時に健太の半信半疑の目を掻い潜り、事件解決の鍵となるのだった。
老舗の危機と親族の思惑
ある穏やかな秋の午後、事務所の引き戸が、乱暴に開けられた。現れたのは、和菓子屋「甘泉堂」の若女将、田中美咲さんだった。彼女の顔には、疲労と、深い困惑の表情が刻まれている。その手には、まるで何か大切なものを守るかのように、きつく握りしめられた、少し古びた布袋があった。
「佐々木先生、大変なんです! 父が……、父が認知症になってしまって……」
美咲さんの声は震えていた。健太は椅子から立ち上がり、奥の応接スペースへと案内した。美咲さんの相談は、成年後見制度の利用についてだった。彼女の父親である、老舗和菓子屋「甘泉堂」の三代目店主、山田耕造さんが、最近、認知症の症状が急速に進行し、店の経営判断や財産管理が困難になってしまったのだ。
「父は、店の秘伝のレシピをどこにやったか分からないと言い出すし、常連さんの顔も分からなくなってきて……。でも、親戚たちが、父の後見人になりたいと名乗り出てきて、話がややこしくなってしまったんです」
美咲さんは、そう言って、深いため息をついた。親族たちが後見人の座を巡って争っているという。特に、耕造さんの妹の息子、つまり美咲さんの従兄弟にあたる佐藤健一さんは、日頃から「甘泉堂」の土地や財産に目を付けていたという噂があった。
「健一叔父さんは、父の後見人になって、店を売ってしまおうと考えているようです。でも、この店は父の命。絶対に売りたくないんです!」
美咲さんの切実な訴えに、健太は、成年後見制度の趣旨と、親族後見人選任の難しさ、そして、家庭裁判所が後見人を選任する際の基準について丁寧に説明した。健太は、美咲さんの話を聞くうちに、佐藤健一氏が、財産目当てで後見人になろうとしている可能性を感じた。しかし、それを法的に証明するのは難しい。感情的な対立が深く、健太の法律知識だけでは、彼らの心の底にある思惑を読み解くことができない。
その時、健太の足元で、何かが軽く触れた。ミケだった。ミケは、いつの間にか陽だまりから出てきて、健太の足元に座り込み、美咲さんの手に握られた古びた布袋にじっと視線を向けている。
美咲さんは、ミケの視線に気づき、ハッとしたように布袋を膝の裏に隠そうとした。しかし、ミケは構わず、その布袋にちょんと前足を触れた。そして、何事もなかったかのように、しっぽをゆったりと揺らし、健太の方を一度振り返ると、また陽だまりに戻ってしまった。
「……何か特別なものでも入っているんですか、田中さん?」
健太はミケの行動を不思議に思いつつ、尋ねた。
「いえ……。これはただ、父が大切にしていた古い日記帳でして……」
美咲さんは、そう言って、布袋をきつく握りしめた。その表情には、どこか痛みが滲んでいるようだった。健太は、ミケの行動が単なる気まぐれなのか、それとも何か意味があるのか、判断に迷った。しかし、美咲さんの布袋への強いこだわりと、佐藤健一氏の財産目当ての可能性が、健太の心に引っかかった。
ミケの「猫じゃらし」と秘密のレシピ
美咲さんが帰り、事務所に静寂が戻った。健太は、耕造さんの戸籍謄本や住民票、そして家族関係図などを確認しながら、頭を抱えた。
「ミケ、どうしたらいいんだ。佐藤健一氏が財産目当てで後見人になろうとしている可能性は高い。しかし、それを裁判所に証明するのは難しい。あの布袋に入っていた日記帳に、何かヒントがあるんだろうか?」
ミケは、健太の言葉に答える代わりに、ゆっくりと立ち上がった。そして、健太のデスクに飛び乗ると、彼が確認していた成年後見に関する申立書のひな形に、鼻をこすりつけた。そして、申立書を綴じているクリップを、ちょんとくわえて、机の上に落とした。
健太は、その行動に疑問符を浮かべつつ、クリップを拾い上げた。その時、ミケは、さらに不思議な行動に出た。彼は、健太が作業に使っていたねこじゃらしを、そっとくわえ上げると、申立書の上ではなく、脇に置いてあった美咲さんの持ち物リストのメモの上に落とした。そして、そのメモに書かれた「父の日記帳」という文字を、ねこじゃらしでつつき始めた。まるで、健太にその日記帳の中身を確認しろ、とでも言いたげに。
健太は、ミケの行動に戸惑いつつ、美咲さんが大切にしていた日記帳の中身を確認する必要性を感じた。翌日、改めて事務所に日記帳を持参した美咲さんは、どこか不安げな表情をしていた。
健太は、美咲さんの目の前で、日記帳をゆっくりと開いた。中には、耕造さんが店の歴史や、日々の出来事、そして和菓子作りの工程について、びっしりと書き綴っていた。しかし、ミケが強調するような特別な記述は見当たらない。健太は、ページをめくり続けた。その日記帳は、かなり古いもので、ところどころシミやインクのにじみがあった。
ミケは、日記帳の上に飛び乗ると、あるページにしきりに前足を置いた。そのページは、他のページよりも、インクの色が薄く、何かを書き加えたような跡があった。健太が目を凝らすと、その薄い文字は、耕造さんの昔の筆跡とは異なっているように見えた。
健太は、そのページに書かれた内容を確認した。そこには、和菓子の材料の配合に関する、ごく短いメモが書かれている。
『……もち米 減。砂糖 増。隠し味、春の香り。』
健太は、息を呑んだ。それは、和菓子の秘伝のレシピに関する、ごく個人的なメモだった。しかし、健太が首を傾げたのは、そのメモが、「秘伝のレシピ」にしてはあまりにも簡素だったこと、そして、日記の他の部分とは明らかに筆跡が異なっていたことだ。
健太の頭の中で、バラバラだったパズルが、カチリと音を立てて繋がっていく。
佐藤健一氏の財産目当ての思惑。そして、ミケが強調した日記帳、特に、秘伝のレシピに関する不自然な記述。
もし、この「隠し味、春の香り」というメモが、単なるレシピの変更ではなく、耕造さんが認知症になった後、誰かが意図的に書き加えたものだとしたら? そして、それが、耕造さんの判断能力が低下していることを示す証拠になるとしたら?
健太は、このメモが、健一氏が後見人となることによって、店を売却しようとしていることと関係があるのではないかと疑い始めた。認知症が進んでいることを示す偽の「レシピ変更」を書き込むことで、耕造さんが正常な判断ができないことを誇張し、後見人の必要性を強調しようとしたのかもしれない。
健太は、すぐに美咲さんに連絡を取り、改めて事務所に来てもらうようお願いした。
真実の解明と、老舗の未来
翌日、田中美咲さんが事務所にやってきた。健太は、美咲さんの顔を見て、切り出した。
「田中さん。お父様の日記帳の中に、和菓子のレシピに関する、ごく短いメモがございました。しかし、その筆跡が、お父様の他の記述と異なっているように見受けられます。もしよろしければ、このメモについて、何か心当たりはございますか?」
健太の言葉に、美咲さんの顔から、血の気が引いていく。その瞳には、一瞬、激しい動揺と、そして深い悲しみが交錯した。
「なぜ……なぜ先生が、そのメモを……」
美咲さんの声は震えていた。健太は、ミケの「助言」の経緯は伏せつつ、穏やかに語りかけた。
「私どもで、成年後見の申立てを進めるにあたり、お父様の判断能力に関する証拠は非常に重要になります。このメモが、もしお父様ご自身のものでない場合、それが何を示唆するのか、詳しくお話しいただけますでしょうか?」
美咲さんは、堰を切ったように、涙を流し始めた。
「実は……、あれは、健一叔父さんが書いたものです。父の認知症が進行してきた頃、『お父さんの作る和菓子の味が変わった』と、わざとらしく騒ぎ立てて……。そして、誰も見ていないところで、あのメモを日記帳に書き加えました。まるで、父が正常な判断ができないことを示そうとしているかのように……。私は気づいていましたが、証拠もなく、怖くて誰にも言えませんでした」
健太は、美咲さんの「裏に隠された真実」を理解した。佐藤健一氏は、まさに財産目当てで、耕造さんが正常な判断能力を失っていることを誇張しようとしていたのだ。このメモは、そのための「偽の証拠」だった。
健太は、静かに語りかけた。
「田中さん、よく話してくれました。このメモは、佐藤健一氏が、お父様の後見人になろうとしている動機に疑念を抱かせる、非常に重要な証拠になり得ます。ご安心ください。私たちが、この店と、お父様の尊厳をお守りします」
健太は、ミケが提示した「日記帳の秘密」というキーワードを元に、いくつかの解決策を提示した。
* 日記帳の筆跡鑑定: まず、このメモの筆跡が耕造さんのものではないことを証明するため、専門機関に鑑定を依頼すること。
* 成年後見人候補の再検討: 家庭裁判所に対し、佐藤健一氏が財産目当てである可能性を示す証拠を提出し、彼が後見人として不適格であることを主張する。そして、美咲さん自身が後見人候補となるか、あるいは、専門職後見人(司法書士や弁護士)の選任を申し立てる。
* 和菓子屋の事業継続計画: 耕造さんの意向を尊重し、「甘泉堂」が今後も存続できるよう、健太も協力して事業継続計画を策定する。
美咲さんは、健太の言葉に、少しずつ表情に希望が戻っていった。そして、震える声で言った。
「……分かりました。先生、僕の父と、この店を、どうか守ってください」
後日、佐々木司法書士事務所には、美咲さんと、彼女が新しく見つけた、耕造さんが昔から信頼していた、引退した和菓子職人の老夫婦が訪れていた。彼らは、筆跡鑑定の結果、日記帳のメモが耕造さんの筆跡ではないことが証明されたことを報告した。そして、家庭裁判所への申立てにおいて、健太がその鑑定結果と、佐藤健一氏の財産目当ての動機に関する証拠を提出した。
裁判所は、健太の提出した証拠を重く受け止め、佐藤健一氏の後見人候補者としての選任の申し立てを却下。代わりに、健太の提案を受け入れ、専門職後見人として、経験豊富なベテラン司法書士が選任されることになった。これにより、「甘泉堂」の財産は守られ、店が安易に売却されることはなくなった。
美咲さんは、専門職後見人と協力し、父の療養と、店の経営に専念できるようになった。老舗和菓子屋「甘泉堂」は、健太の尽力と、ミケの不思議な「猫の目記録」によって、守られたのだ。
全ての話し合いが終わり、事務所に静寂が戻った。健太は、大きく息をついた。
「ミケ、君は本当にすごいよ。あの『日記帳の秘密』と、薄いメモの筆跡。あれがなければ、僕は、佐藤健一氏の悪意に、一生気づけなかった。そして、美咲さんの父と、この老舗も、守れなかった」
ミケは、健太の言葉に答える代わりに、彼の膝に飛び乗り、丸くなった。そして、健太の顔を見上げ、満足そうに「ニャア」と一声鳴いた。その瞳は、まるで「人間は、目の前の利益ばかり見て、心の真実を見落としがちだニャ」とでも言いたげな、賢い光を宿している。
健太は、ミケの頭を優しく撫でた。ミケの肉球は、確かに真実を知っていた。書類の裏に隠された、人々の心の奥底にある真実を。それは、法律の条文には書かれていない、人々の「尊厳」や「悪意」、そして「守るべき絆」だった。
夕暮れ時、事務所の窓から、下町の優しい光が差し込んでいた。健太は、机に積み重ねられた書類の山と、その隣で気持ちよさそうに眠るミケを交互に見た。
司法書士の仕事は、法律の知識を駆使し、正確な書類を作成することだけではない。人々の言葉の奥にある、複雑な感情の機微を理解し、その真実を見つけ出すことこそが、本当に大切なのだと、健太はミケから学び続けている。
明日もまた、この下町で、誰かが抱える「とある成年後見の裏側」に隠された真実を、健太とミケのコンビが、きっと見つけ出すことだろう。そして、彼らが新たな一歩を踏み出すための、静かに、しかし力強く、サポートしていくのだ。
【免責事項および作品に関するご案内】
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。
これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。
現実の法律問題や手続きについては、必ず専門家にご相談ください。