12.街のねこ司法書士のほんわか事件簿
佐々木健太は、いつものようにデスクでうんうん唸っていた。彼が司法書士になって数年。下町の「佐々木司法書士事務所」は、今日も穏やかな日差しが差し込んでいる。健太は真面目だし、法律の知識もそれなりにある。しかし、生まれつきの自信のなさが、いつも彼の邪魔をした。些細なことでも「これで本当に大丈夫かな」「もし間違っていたらどうしよう」と不安になり、決断を先延ばしにしてしまう癖があった。
そんな彼にとって、唯一の心の支えが、相棒の三毛猫、ミケだった。推定五歳のミケは、普通の猫ではない。健太が法律の壁にぶつかり、自分の判断に迷う時、ミケの不思議な「助言」が、いつも的確なヒントを与えてくれるのだ。健太は、その不思議な能力に半信半疑ながらも強く依存していた。ミケがいないと、途端に心細くなり、右往左往してしまう自分が情けなかった。
その日の依頼人は、近所の花屋「フローラルはな」の店主、田中幸子さん。彼女は、健太の事務所の扉を、恐る恐る開けた。
「佐々木先生……実は、困ったことがありまして……」
幸子さんの顔には、どこか困惑と、ほんの少しの寂しさが浮かんでいた。話を聞くと、幸子さんの両親が最近相次いで亡くなり、実家である築50年の戸建てを相続することになったという。幸子さんには兄がいるのだが、その兄が、突然「家を売って、金を等分に分けよう」と言い出したのだ。
「兄は、昔からちょっと気性が荒いところがあって……。でも、まさか、こんなに急に、思い出の家を売れなんて言うとは思いませんでした」
幸子さんは、うつむいてそう言った。彼女は、できれば家を売らずに、誰かが住み続けるか、あるいは賃貸に出すなどして、両親が大切にした家を残したいと考えていた。
「お兄様と、直接お話しになられましたか?」
健太が尋ねると、幸子さんは力なく首を振った。
「いえ……兄は電話にも出ませんし、手紙も無視されてしまって。こんな調子だと、もう弁護士さんにお願いするしかないのかと……」
健太は、共有名義の不動産の売却を巡る兄弟間のトラブルはよくあることだと知っていた。しかし、幸子さんの言葉には、法律的な争いとは違う、何かほんわかとした、しかし解決が難しい感情的なしこりが感じられた。
「ミケ……どうすればいいんだ? この問題、法律で解決できるのかな。でも、幸子さんの言う通り、兄妹間の心の溝が深まるのは避けたい……」
健太がため息をつくと、ミケは健太のデスクの上にあった、幸子さんが置いていった一輪のカーネーションにそっと前足を置いた。健太が司法書士になった時、幸子さんがお祝いにくれた花だ。健太は、花が枯れないようにと、小さな花瓶に生けていた。
「カーネーション……? ミケ、この花に何か意味が?」
健太が首を傾げると、ミケはカーネーションから前足を離し、今度は、健太の壁に貼ってあったカレンダーの「母の日」の印をちょこんと叩いた。
「母の日……? ああ、もうすぐ母の日か。それが、この件とどう関係が……?」
健太はミケの意図を測りかねた。ミケは、カレンダーから目を離し、健太の顔をじっと見つめ、小さく「ニャア」と鳴いた。その目は、まるで「思い出せ」と語りかけているかのようだった。
健太は、幸子さんの話で、兄が最近連絡を一切取らないという言葉を思い出した。そして、母の日。健太の脳裏に、一つの可能性が浮かび上がった。もしかしたら、兄の行動の裏には、何か家族にしか分からない、隠された感情があるのかもしれない。
健太は、幸子さんに、兄の連絡先と、家族の思い出について、もう少し詳しく聞かせてもらうことにした。幸子さんは、兄が幼い頃、母親にとても懐いていたこと、そして、母の日に毎年、手作りのカーネーションの絵をプレゼントしていたことを話してくれた。
「兄は、あの家で母と過ごした思い出を、誰よりも大切にしていたはずなんです。それが、なぜ……」
健太は、ミケのヒントと幸子さんの話から、ある計画を思いついた。
健太は、まず、兄である田中一郎さんに手紙を書いた。法律的な内容ではなく、あくまで司法書士として、妹の幸子さんの困っている状況と、できれば穏便に話し合いで解決したいという旨を伝えた。そして、手紙の隅に、健太が描いた下手くそなカーネーションの絵を添えた。健太は、絵を描くのが苦手で、ミケに笑われてしまうほどだったが、これは、兄の心に届くための、ミケがくれたヒントだった。
数日後、健太の事務所に、田中一郎さんから電話がかかってきた。彼の声は、電話口でもわかるほどに苛立っていた。
「佐々木司法書士さんですか? なんですか、あの手紙は! 妹に言われて、そんな馬鹿な絵まで描いて……」
健太は、一郎さんの怒鳴り声に、思わず体がすくんだ。しかし、ミケが健太の足元で、励ますように軽く擦り寄ってきた。
「田中様、お気持ちは分かります。しかし、妹さんも、お兄様と穏便に話し合いで解決したいと願っています。私も、司法書士として、ご兄弟の心の溝を埋めるお手伝いができればと……」
健太は、震える声でそう言った。一郎さんは、健太の自信なさげな声を聞いて、少しだけトーンを落とした。そして、健太の描いたカーネーションの絵について尋ねた。
「あの絵……なんですか、あれは? 幼稚園児が描いたみたいな……」
「あ、あの絵は、私が描いたのですが……。幸子さんから、お兄様が昔、お母様にカーネーションの絵を贈っていたと伺いまして……」
健太がそう言うと、一郎さんは沈黙した。そして、一拍置いて、小さくため息をついた。
「……分かった。一度、会おう。そこで、全て話す」
健太は、一郎さんの返事に驚いた。まさか、会ってくれるとは!
健太は、幸子さんと一郎さんの話し合いの場を設けた。場所は、健太の事務所ではなく、あえて二人が幼い頃よく遊んだという、近所の公園のベンチにした。ミケも健太の鞄に忍び込み、こっそり同行した。
公園のベンチで、二人は顔を合わせた。最初は険悪な雰囲気で、一郎さんは幸子さんに背を向け、口を閉ざしていた。健太は、どうすればいいか分からず、ミケに助けを求めた。
ミケは、健太の鞄からそっと抜け出し、公園の隅に咲いている、白いカーネーションの花壇に駆け寄った。そして、その花壇の土を、前足で軽く引っ掻いた。
「白いカーネーション……?」
健太は、ミケの意図を察した。白いカーネーションは、「亡き母への愛情」を意味する。健太は、一郎さんが背を向けている理由が分かった気がした。
「一郎さん……お母様のこと、まだ引きずっていらっしゃるのですね」
健太がそっと尋ねると、一郎さんの体が、ピクリと震えた。一郎さんは、ゆっくりと幸子さんのほうを向いた。その目には、涙が浮かんでいた。
「母さんが亡くなってから……俺は、ずっと後悔していたんだ。もっと、親孝行すればよかったって。あの家を見るたびに、母さんのことを思い出して、胸が締め付けられるんだ」
一郎さんは、そう言って、嗚咽した。幸子さんも、兄の言葉に、涙を流した。二人の間に流れる、重苦しい空気が、少しずつ解けていくのを感じた。
「だから、俺は、あの家から離れたかった。売ってしまえば、もう思い出さなくて済むと思ったんだ……」
一郎さんの本音に、幸子さんも頷いた。
「お兄ちゃん……私も、母さんが亡くなったのは辛かったよ。でも、母さんは、きっと、この家で私たち兄弟が、これからも仲良く暮らすことを願っていたと思う。母さんが大切にした家を、私たちは守っていきたいんだよ」
幸子さんの言葉に、一郎さんは静かに涙を流した。健太は、二人の間に、目に見えない「絆」が再び結ばれるのを感じた。
その後、三人は、家を売却しないことで合意した。一郎さんは、幸子さんに家の管理を任せ、自分は遠方に住むことにした。そして、定期的に家を訪れ、幸子さんと共に両親の思い出を語り合うことを約束した。健太は、法的な手続きではなく、彼らの心の溝を埋めることができたことに、深い喜びを感じた。
事務所に戻った健太は、ミケを抱き上げた。
「ミケ、本当にありがとう。お前がいなかったら、俺は兄さんの本音を聞き出すことも、二人の心を繋ぐこともできなかったよ」
ミケは健太の腕の中で、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らす。
数日後、健太の事務所に、幸子さんと一郎さんから、連名で手紙が届いた。そこには、二人が笑顔で並んでいる写真と、健太への感謝の言葉が綴られていた。手紙の隅には、一郎さんが描いた色鉛筆のカーネーションの絵が添えられていた。それは、健太の絵よりもずっと上手だったが、どこか懐かしい、温かい絵だった。
健太は、その手紙を何度も読み返した。そして、司法書士の仕事は、単に法律を適用するだけでなく、人々の心の奥底に隠された感情を解きほぐし、関係性を修復することにあると改めて実感した。そして、その過程には、法律だけでは解決できない、「ほんわか」とした温かい絆が生まれるのだと。
下町の司法書士事務所には、今日も穏やかな光が差し込む。佐々木健太は、ミケという最高の相棒と共に、これからも人々の「ほんわか」とした悩みに寄り添い、彼らの「笑顔」を守るために、一歩ずつ、しかし確実に、歩んでいく。そして、いつか、自信なさげな自分を完全に乗り越え、どんな「ほんわか事件」も解決できる「街のねこ司法書士」になるために。彼の奮闘は、これからも続く。
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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。
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