11.街のねこ司法書士、初めての不動産登記
佐々木健太は、司法書士になって初めての大仕事に直面していた。依頼は、隣町の老夫婦からの、ごくシンプルな不動産登記。売主である山田夫妻が住み慣れた家を売却し、買主である田中夫妻が購入するという、いわゆる「所有権移転登記」だ。司法書士の業務としては基本中の基本。しかし、健太にとっては、それがとてつもないプレッシャーだった。
「ミケ、どうしよう。売買契約書に不備はないか、登記原因証明情報はこれで本当にいいのか……。もし、万が一、俺が間違って、ご夫婦に迷惑をかけたら……」
事務所の窓際で日向ぼっこをしていたミケは、健太の切羽詰まった声に、ゆっくりと片目を開けた。推定五歳のオス猫であるミケは、健太の唯一無二の相棒にして、彼の法律知識を凌駕する「助言」を与える、賢すぎる猫だ。健太は、ミケの「助言」に半信半疑ながらも強く依存していた。自信なさげな彼にとって、ミケはまさに命綱だった。
ミケは健太の不安な声を聞くと、小さく「ニャア」と鳴き、健太のデスクの上にある不動産登記法の条文集にそっと前足を置いた。
「条文集? うん、もちろん何度も読み返したさ。でも、机上の空論っていうか、実際にやるとなると、ね……」
健太はそう言って頭を掻いた。ミケは条文集からゆっくりと前足を上げ、今度は、先日山田夫妻から預かった古い権利証の上にちょこんと乗せた。
「権利証……。大事なものだから、預かってきたけど……まさか、これも?」
健太は恐る恐る権利証を手に取った。分厚い表紙の奥には、和紙のような古い登記済証が挟まれている。ミケは、その権利証の裏表紙に記載された小さな文字を、鼻先でツンツンとつついた。
「なんだこれ? 『昭和三十五年 売買』……あ、これは前回の登記の記録か。って、あれ?」
健太は目を凝らした。ミケがつついたのは、登記記録の一部だった。そこには、売主である山田夫妻の名前とは別に、もう一つ、別の名前が記載されていることに気づいた。その名前は、「山田マツ」。
「山田マツ……? あれ? 依頼主の山田さんの奥様は、まさ子さんだったはず……」
健太の顔に、疑問符が浮かんだ。健太は再度、山田夫妻から預かった戸籍謄本を確認した。売主は確かに山田太郎さんと山田まさ子さん。山田マツという名前は、どこにも見当たらない。
健太はミケを見た。ミケは得意げに「ニャア」と一鳴きし、健太の顔をじっと見つめている。健太は、ミケが何か重要なことを示唆しているのだと直感した。
「もしかして……前回の登記名義人の中に、今回の売主ではない人が含まれてるってことか?」
健太は背筋がゾッとした。もしそうなら、登記手続きは一筋縄ではいかない。
健太は、思い切って山田夫妻に電話をかけた。
「山田様、先日お預かりした権利証の件でお伺いしたいのですが、権利証に記載されている『山田マツ』様という方は、どなた様でしょうか?」
電話口の山田太郎さんは、少し沈黙した後、ゆっくりと話し始めた。
「ああ、マツか……。あれは、私の母です。二十年ほど前に亡くなりましてね。この家は、元々母と私の共同名義だったんです」
健太は息を呑んだ。そうだったのか! 山田マツさんは、山田太郎さんの亡くなったお母様だったのだ。つまり、この不動産は、山田太郎さんと、亡くなった山田マツさんの「共有名義」だったということになる。山田マツさんの持ち分は、法律上、相続されているはずだ。
「あの……大変恐縮なのですが、山田マツ様の相続手続きは、すでにお済みでしょうか?」
健太が尋ねると、山田夫妻は口ごもった。
「いえ、それが……母が亡くなった時、まさ子と二人で住んでいましたし、特に困ったこともなかったので、そのままにしてしまって……」
健太は頭を抱えた。このままでは、所有権移転登記はできない。亡くなった方の名義のままでは、不動産を売却することはできないからだ。売却するためには、まず山田マツさんの持ち分を相続人へ移す「相続登記」が必要になる。
「山田様、大変申し訳ございませんが、このままでは田中様への所有権移転登記を進めることができません。まず、山田マツ様の持ち分について、相続登記を行う必要がございます」
健太が説明すると、山田夫妻は不安そうな顔をした。
「相続登記、ですか? そんなこと、聞いていませんでした……。私たち、てっきりこの権利証があれば、そのまま売れるものだとばかり……」
健太は、自分の知識不足と確認不足を痛感した。ミケがヒントをくれなければ、このまま登記申請をしてしまい、補正の連絡を受けて大恥をかき、依頼主に多大な迷惑をかけていたかもしれない。
「申し訳ございません。私の確認不足でした。しかし、ご安心ください。私が責任を持って、相続登記から所有権移転登記まで、全てお手伝いさせていただきます」
健太は、ぎゅっと拳を握った。自信なさげな自分を変えるには、この状況を乗り越えるしかない。
健太は、すぐに相続関係図を作成し、山田マツさんの相続人を特定した。山田マツさんの相続人は、山田太郎さんの他に、健在のきょうだいが数名いることが分かった。つまり、山田マツさんの持ち分は、山田太郎さんだけでなく、そのきょうだいたちにも相続されている可能性があるのだ。
健太はミケに相談した。
「ミケ、どうしよう。山田マツさんのごきょうだいにも、今回の売却に同意してもらわないといけない。でも、皆さん遠方に住んでいらっしゃるし、長年会っていない人もいるって……」
ミケは、健太の足元にいたずらそうに絡みつき、健太が机の上に広げていた地図の上をトコトコと歩き出した。そして、地図上のいくつかの場所に、前足でポンポンと触れた。そこは、山田マツさんのきょうだいが住んでいる場所だった。
「地図……? なるほど、直接会って説明した方が、話が早いってことか!」
健太はミケの意図を察した。電話や郵送だけでは、複雑な相続の問題は解決しにくい。特に、長年会っていない親族との関係では、信頼関係を築くことが不可欠だ。
健太は、山田夫妻の協力を得て、山田マツさんのきょうだいの連絡先を入手した。そして、躊躇いながらも、一人ひとりに電話をかけ、事情を説明した。最初は警戒されることもあったが、健太が山田夫妻の代理として誠実に説明すると、少しずつ話を聞いてもらえるようになった。
「ええ、佐々木司法書士が、わざわざ私のところまで来てくださると? それは、恐縮ですな」
健太は、遠方の親族のもとへ、文字通り「全国行脚」することになった。新幹線や飛行機を乗り継ぎ、時には慣れない在来線に揺られ、各地を訪ね歩いた。
初めて会う親族に、健太は緊張しながらも、今回の経緯と、なぜ相続登記が必要なのか、そして、山田夫妻がこの家を売却したいと強く願っていること、そして、田中夫妻がこの家を大切にしたいと願っていることを、心を込めて説明した。
ある親族の家では、最初は門前払い寸前だった。しかし、健太が粘り強く、そして何よりも誠実に話をしていると、家の奥からミケにそっくりな三毛猫が顔を出した。その猫は、健太の足元に近づき、警戒していた親族の女性の足元に擦り寄った。
「あら、この子、うちのミケにそっくりじゃない! あなた、猫を飼っているの?」
その一言で、親族の女性の表情が和らいだ。健太は、事務所のミケの話をすると、女性はさらに興味を示した。
「そうか、君も猫に導かれて司法書士になったようなものかね。ふふふ、面白い人だね」
ミケのおかげで、健太は親族との距離を縮めることができた。そして、最終的に、全ての相続人から、山田マツさんの持ち分を山田太郎さんに相続させるための遺産分割協議書への署名捺印を得ることができたのだ。
事務所に戻った健太は、へとへとだった。それでも、達成感で胸がいっぱいだった。
「ミケ、やったよ! 全員から署名捺印をもらえた! これで、相続登記ができるぞ!」
健太がミケを抱き上げると、ミケは健太の顔をペロリと舐めた。健太は、自分の力では決して成し遂げられなかったと、改めてミケに感謝した。
無事に相続登記を終えた後、健太は所有権移転登記に取り掛かった。全ての手続きが完了し、新しい権利証が田中夫妻の手に渡った日、山田夫妻と田中夫妻が事務所を訪れた。
「佐々木先生、本当にありがとうございました。まさかこんなに大変なことになっていたとは……。先生がいなければ、この家は売れなかったでしょうし、私たちも路頭に迷うところでした」
山田夫妻は深々と頭を下げた。
「佐々木先生のおかげで、私たちの新しい生活が始まります。この家を大切にしていきます」
田中夫妻も感謝の言葉を述べた。
健太は、少し照れながらも、満面の笑顔で応えた。
「いえ、お力になれてよかったです。これも全て、私だけの力ではありません。ミケが、いつも私を助けてくれるんです」
健太がそう言うと、ミケは誇らしげに胸を張るように、ピシッと座った。その姿に、全員が笑みをこぼした。
初めての不動産登記。それは、健太にとって、単なる事務手続きではなかった。ミケの導きと、自分の足で動き、人々の心に寄り添うことの大切さを学ぶ、かけがえのない経験となった。
下町の司法書士事務所の窓からは、今日も穏やかな光が差し込む。健太は、ミケの存在に支えられながら、一歩ずつ、しかし確かに、司法書士としての道を歩んでいく。人々の大切な財産と、その裏にある人生を守るために。そして、いつか、ミケがいなくても、自信を持って「大丈夫です」と言える司法書士になるために。
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