10.街のねこ司法書士、虹色の絆と遺言の願い
佐々木健太は、事務所のソファで丸くなる三毛猫のミケを、不安げに見つめていた。司法書士として、様々な依頼を受けてきたが、今回ばかりは、彼の経験不足と、何より自身の“自信のなさ”が、重くのしかかっていた。
「ミケ……俺、本当に、この案件、引き受けてよかったのかな……」
健太の隣で、ミケは contented なため息をつき、しっぽをゆったりと揺らす。ミケは健太の唯一無二の相棒だ。真面目だけどどこか頼りない健太が、法律の壁にぶつかったり、依頼人の複雑な感情を読み取れずに迷ったりする時、ミケの不思議な「助言」が、いつも決定的なヒントを与えてくれる。健太は、その的確すぎる助言に、半信半疑ながらも強く依存していた。ミケがいないと、途端に心細くなり、右往左往してしまう自分が情けなかった。
今回の依頼人は、坂口ハルキさん、四十八歳。ハルキさんは、パートナーであるアキヒコさんと、二十年間共に暮らしてきた。しかし、アキヒコさんが先日、不慮の事故で急逝してしまったのだ。ハルキさんの依頼は、アキヒコさんの遺した財産に関する相続手続きだった。
「先生……彼は、私に財産を残したいと、いつも言ってくれていました。でも、私たち、法律上は夫婦じゃない。このままじゃ、何も残せないって……」
ハルキさんの目には、深い悲しみと同時に、どうすることもできないという絶望の色が浮かんでいた。健太は、アキヒコさんが生前に遺言書を作成していれば、こんな事態にはならなかったのに、と悔やんだ。
日本には、同性パートナーシップを法的に認める制度がまだ不十分だ。そのため、婚姻関係にない同性パートナーは、たとえ長年連れ添ったとしても、法的には「他人」とみなされてしまう。遺言書がなければ、パートナーに財産を残すことは極めて困難になるのだ。
「坂口さん……お気持ち、お察しいたします。故人の遺志を、なんとか形にしたい。それが、私の司法書士としての使命です」
健太はそう言ったものの、内心では動揺していた。相続の順位では、配偶者や血縁者が優先される。パートナーであるハルキさんがアキヒコさんの財産を相続するためには、遺言書が不可欠だった。しかし、すでにアキヒコさんは亡くなっている。今からできることは、限りなく少ない。
健太は、アキヒコさんの遺産の内容を尋ねた。自宅マンション、預貯金、そして、いくつかのアート作品。健太はアキヒコさんの家族構成も確認した。両親はすでに他界しており、妹さんが一人いるという。妹さんが法定相続人となる。
「ミケ……どうすればいいんだ? アキヒコさんが遺言書を残していなかったら、ハルキさんに財産を残すのは、法律的にはかなり難しい……」
健太がため息をつくと、ミケは健太のデスクの上にある、アキヒコさんの遺品の一つ、古びた写真立てにそっと前足を置いた。写真立ての中には、笑顔のアキヒコさんとハルキさんが、肩を寄せ合って写っていた。二人の背後には、色とりどりの花が咲き乱れる庭が見える。
「この写真……アキヒコさんのご実家の庭だそうです。生前、よく二人で手入れをしていたと、ハルキさんが……」
健太が説明すると、ミケは写真立てから前足を離し、今度はデスクの隅に立てかけてあった一枚の絵に鼻先をこすりつけた。それは、アキヒコさんが描いたという、抽象的な絵画だった。鮮やかな色彩が、複雑に絡み合っている。
「絵……? ミケ、この絵に何か関係があるのか?」
健太は首を傾げた。ミケは絵を見上げたまま、小さく「ニャア」と鳴いた。その声は、健太に何かを強く訴えかけているようだった。健太は、ミケの賢さに何度も助けられてきた。きっと、この絵にも何かヒントがあるはずだ。
健太は、ハルキさんにもう一度連絡を取り、アキヒコさんの妹さんのことを詳しく尋ねた。
「アキヒコの妹さんとは、ほとんど交流がありません。彼が同性愛者であることも、家族には打ち明けていなかったようです……」
ハルキさんの言葉に、健太はさらに頭を抱えた。法定相続人である妹さんの協力なしに、財産をハルキさんに残すのは至難の業だ。しかし、妹さんがアキヒコさんのセクシュアリティを知らないとなると、話はさらに複雑になる。健太は、妹さんがアキヒコさんの自宅を訪れた際に、二人の関係が発覚し、トラブルになることを懸念した。
健太はミケと共に、アキヒコさんのご実家へと向かうことにした。そこは、車で二時間ほどの場所にある、緑豊かな土地だった。アキヒコさんが生前、ハルキさんと手入れをしていたという庭は、手入れが行き届き、色とりどりの花が咲き乱れていた。
「ミケ、この庭、本当に綺麗だな……。アキヒコさんとハルキさんが、どんな思いで手入れをしていたんだろう」
健太が呟くと、ミケは庭の隅にある小さな石碑に駆け寄った。そこには、アキヒコさんの筆跡で「虹色の絆、永遠に」と刻まれていた。
「虹色の絆……アキヒコさんが、ハルキさんとの関係を、そう表現していたのか……」
健太は胸が締め付けられる思いがした。二人の深い愛情が、この庭の石碑に刻まれていたのだ。
その時、ミケが石碑の陰に隠されていた小さな箱を、前足でカリカリと引っ掻いた。健太が恐る恐る箱を開けると、中には、アキヒコさんが描いたと思われるスケッチブックが入っていた。そして、そのスケッチブックの一番最後のページには、アキヒコさんの筆跡で、遺言書の下書きが書かれていたのだ。
「えっ……遺言書!?」
健太は驚きに声を上げた。そこには、財産全てをハルキさんに遺したいというアキヒコさんの強い意思と、日付、そして署名が記されていた。残念ながら、法的に有効な遺言書とは言えない。公正証書でもなく、自筆証書遺言としても、形式上の不備がある。しかし、これは、アキヒコさんの「遺言の願い」を示す、何よりの証拠だった。
事務所に戻り、健太はハルキさんに、発見した遺言書の下書きについて説明した。
「これは、法的に有効な遺言書とは言えませんが、故人の強い意思を示すものです。アキヒコさんの妹さんに、この遺言書の下書きを示し、故人の意思を尊重してもらうよう、説得してみましょう」
健太の言葉に、ハルキさんは一筋の光を見出したようだった。しかし、健太の内心は、再び不安に苛まれていた。妹さんに、二人の関係と、この遺言書の下書きをどう説明すればいいのか。拒絶されたらどうしよう。
健太は、アキヒコさんの妹さんに連絡を取り、面談を申し込んだ。緊張しながらも、健太は、アキヒコさんの遺志を伝えることを決意した。ミケも、健太の鞄に忍び込み、面談に同行した。
妹さんは、アキヒコさんの自宅マンションで、健太を応接した。彼女は、健太の背後にいるミケに一瞬目を向けたが、すぐに視線を健太に戻した。健太は、アキヒコさんとハルキさんの関係、そしてアキヒコさんのセクシュアリティについて、慎重に、そして丁寧に説明を始めた。
「お兄様と坂口様は、二十年間、共に人生を歩んでこられた、かけがえのないパートナーでした」
妹さんの表情は、みるみるうちに硬くなっていった。
「そんな話、聞いていません。兄が、そんな……」
動揺と不信感が入り混じった妹さんの声に、健太は言葉に詰まった。やはり、無理だったか……。自信なさげな健太は、絶望しかけた。
その時、健太の鞄からそっと抜け出したミケが、妹さんの足元に擦り寄った。そして、妹さんの足元に、アキヒコさんの遺品である抽象画をそっと置いた。
「この絵は……兄が描いた絵だわ」
妹さんの声が震えた。ミケは絵に鼻先をこすりつけ、まるで「この絵をよく見て」とでも言うかのように、妹さんの顔をじっと見つめている。
「実は、この絵は、お兄様が坂口様との関係を表現したものです。アキヒコさんは、様々な色彩が複雑に絡み合い、一つの美しいハーモニーを奏でるように、お二人で人生を共にすることを願っていらっしゃいました」
健太は、ミケのヒントがなければ、この絵に込められた意味に気づくことはなかっただろう。妹さんは、絵をじっと見つめた。その表情は、動揺と混乱から、徐々に戸惑いへと変わっていった。
そして、健太は、アキヒコさんの遺言書の下書きを妹さんに手渡した。石碑に刻まれた「虹色の絆、永遠に」という言葉と、遺言書の下書き。そして、アキヒコさんが描いた絵。全てが、アキヒコさんのハルキさんへの深い愛情と、遺言の願いを物語っていた。
妹さんは、遺言書の下書きを読み終えると、深い息を吐き、静かに言った。
「兄が……そんな風に思っていたなんて。私、何も知らなかった……」
涙をこぼしながら、妹さんは健太とミケに深々と頭を下げた。
「佐々木先生、ミケちゃん……ありがとうございます。兄の本当の気持ちを、教えてくださって。兄の願いを、私が叶えさせていただきます」
妹さんは、アキヒコさんの遺産全てをハルキさんに相続させることに同意してくれた。
事務所に戻った健太は、ミケを抱きしめた。
「ミケ、本当にありがとう。俺一人じゃ、絶対にここまで来れなかった。妹さんを説得することも、アキヒコさんの本当の気持ちを伝えることも、俺には無理だった……」
ミケは、健太の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らす。
数日後、相続分譲渡証明書が作成され、アキヒコさんの妹さんの署名捺印を得ることができた。これにより、アキヒコさんの遺産は、法的にハルキさんに相続されることになった。
後日、事務所にハルキさんが訪れた。彼の顔には、以前の絶望の色は消え、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「佐々木先生、本当にありがとうございました。アキヒコが残してくれたもの、全てを、私が受け取ることができます。これで、彼との絆が、永遠に続くと感じられます……」
ハルキさんは、健太とミケに深々と頭を下げた。健太は、ただただ「お力になれてよかったです」と繰り返した。ハルキさんが、ミケの頭を優しく撫でる。ミケは気持ちよさそうに目を細めていた。
「先生、私たちのような者にとって、先生のような司法書士は、本当に最後の希望です。この『虹色の絆』を、法的に認めてもらえる日が、いつか来ることを願っています」
ハルキさんの言葉に、健太は強く頷いた。法律は、時に時代に追いつかないことがある。しかし、司法書士として、その法の隙間からこぼれ落ちてしまう人々を救うこと、そして、彼らの「願い」を法的に形にすることこそが、自分たちの使命なのだ。
下町の司法書士事務所に、希望に満ちた光が差し込む。健太は、ミケという最高の相棒と共に、これからも人々の様々な「絆」と「願い」に寄り添い、その「最後の砦」となるために、一歩ずつ、しかし確かに、歩んでいく。いつか、自信なさげな自分を乗り越え、誰かの「虹色の絆」を守れる司法書士になるために。
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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
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