1.街のねこ司法書士と消えた領収書
佐々木健太は、その日も事務所の窓からぼんやりと下町の人通りを眺めていた。司法書士として開業して三年。「先生」と呼ばれるたびに、胸の奥でひっそりため息をつく。依頼人と顔を合わせれば緊張でろれつが回らなくなり、説明はたいてい要領を得ず、しまいにゃ相手の質問の意図を取り違えて的外れな回答をする。どうやって司法書士試験を突破したのか、自分でも不思議に思うほどだった。
そんな健太の隣には、いつも事務所の番人、いや、真の所長ともいうべき存在がいた。推定五歳になる三毛猫のミケである。ミケは健太の隣の椅子に陣取り、丸々と太った腹を上に向けて寝転がり、時折尻尾をぴくぴくと動かしている。その姿は、まるでこの世の全てを知り尽くした賢者のようでもあり、ただの怠け者のようでもあった。
「はぁ……」健太は深いため息をついた。「ミケ、今月もあんまり仕事がないなぁ。猫缶、そろそろ安いのに切り替えるか…?」
ミケは返事の代わりに、尻尾で健太の足を軽く叩いた。まるで「またいつもの弱音か、懲りない男だね」とでも言いたげに。
その時、事務所のドアが勢いよく開いた。
「佐々木先生!いらっしゃいますか!」
飛び込んできたのは、息を切らした初老の女性だった。顔には深い皺が刻まれ、いかにも昔気質の職人といった風情の作業着を身につけている。名は中島春子、この下町で四十年以上続く老舗のクリーニング店「中島ランドリー」の女将だという。その表情は、普段の朗らかさを欠き、見るからに憔悴しきっていた。
健太は慌てて立ち上がり、名刺を差し出した。「は、はい、私が佐々木健太です。どのようなご用件でしょうか?」
春子は健太を一瞥すると、すぐにミケに目をやった。「あら、噂の看板猫ちゃんね」
ミケは小さく「にゃあ」と鳴き、満足げに目を細めた。
「はっ、先生、実は大変なことになってしまいまして…!」春子は声を潜めた。その声には切羽詰まった響きがあった。「ウチの店、取り壊しになるかもしれないんです!」
健太は耳を疑った。「取り壊しですか?でも、中島ランドリーさんはこの場所で長く営業されていると伺いましたが…」
春子の話はこうだった。
中島ランドリーの土地と建物は、元々春子の夫が経営していたものだった。数年前、夫が病で倒れた際、多額の医療費が必要となり、春子は困窮した。その時、手を差し伸べてくれたのが、近所で不動産会社を経営する「山吹不動産」の社長、山吹一郎だった。
山吹は夫に懇意にしており、「困った時はお互い様だ」と、春子に一千万円を貸してくれたという。その際、借用書を作成し、期限を5年後に設定した。土地を担保に入れることにはなったが、ただ個人の貸し借りとして対応してくれた山吹に、春子は深く感謝していた。
春子の夫は病から回復後、春子とともに店の経営を立て直し、必死に貯めた金で借金を返済した。
しかし、その夫も昨年亡くなり、しばらくすると山吹不動産の山吹社長が訪ねてきた。山吹は借用書を示し、「返済期限が目前に迫っている、早く返してくれ」と、借金の返済を求めてきたのだ。春子は夫が生前に借金を返済したはずだと言ったが、山吹は「その返済は受けていない」と一点張りだった。夫が几帳面な人だったから、保管していたはずの金庫からも、店の帳簿からも、領収書は跡形もなく消えていたのだ。
「どこを探してもないんです!まさか、こんな大事なものがなくなるなんて…」春子は顔を真っ青にして訴えた。「山吹さんは『領収書がなければ、弁済の証拠がない。店を明け渡してもらう』って…」
健太は困惑した。受け取ったはずの山吹が認めず、領収書がなければ、返済の存在自体を証明できない。もし、山吹が土地を狙っているのなら、悪質なやり方だ。
「夫はお金を返した前後に公証役場に行くと言っていたのは確かなので、何かあったんじゃないかと思うんですが…」春子は縋るように言った。
健太は頷いた。「公証役場ですか…。まさか、公正証書で領収書を作成していたのでしょうか?もしそうなら、公証役場にその記録があるはずですが…」
「わかりません…。なにぶんそのあとすぐに夫が倒れてそのまま逝ってしまったので…」春子の表情は暗かった。
「山吹さんは、他に何か証拠を提示されましたか?例えば、公証役場で作成された書類の控えとか…」健太が尋ねた。
春子は首を振った。「それが、何も。ただ、『私は確かに貸した。返済は受けていない。領収書がないのなら、土地で清算するしかない』の一点張りで…」
健太は頭を抱えた。領収書がない状況で、返済の事実を証明するのは至難の業だ。特に、相手が悪意を持っていればなおさら。
ミケが健太の膝に飛び乗ってきて、小さく「くるる…」と喉を鳴らした。健太はミケの頭を撫でながら、思考を巡らせた。
「あの…山吹さんとのやり取りで、何か変わったこととか、心当たりのあることはありませんか?」健太は最後の望みをかけるように尋ねた。
春子はしばらく考え込み、そしてハッとしたように言った。
「そういえば…夫が亡くなる少し前、山吹さんがお見舞いに来てくださったことがありました。その時、夫がうわ言のように『金庫の鍵がどこにいった』と言っていたような気がします…」
健太はメモを取った。「金庫の鍵…ですか。それは、金庫が開いた状態だったということですか?」
春子は曖昧に頷いた。「さあ…そこまでは覚えていないんです。ただ、夫は病で弱っていましたし…まさか、あの山吹さんがそんな…」
健太はミケに目を向けた。ミケは健太の顔を見上げ、何かを訴えるように「にゃあ」と鳴いた。その視線は、健太のデスクに置かれた、中島ランドリーの過去の帳簿へと向けられていた。
健太は帳簿をパラパラとめくってみた。しかし、特別な記載は見当たらない。
「ミケ、どうしたんだ?」
ミケは帳簿の特定のページに前足を乗せ、その頁を指先でなぞった。そこには、過去の光熱費の支払いや、備品購入の記録が記されていた。中でも、古い「アイロンの修理代」が高額で計上されている箇所があった。しかも、その修理日が、借金を返済したとされる時期と、妙に符合するのだ。
「アイロンの修理…?」健太は首を傾げた。
春子は言った。「ええ、あれは古い型でね。修理も大変だったんですよ。山吹さんが知り合いの職人さんを紹介してくださって、直してもらったんです。」
健太はミケの顔を見た。ミケはもう一度「にゃあ」と鳴き、今度は金庫の場所を示すかのように、健太の背後にあるキャビネットに目を向けた。
その晩、健太は自宅に戻っても、ミケの行動が気になって仕方なかった。帳簿のアイロン修理代と、金庫の鍵…何が関係するのだろうか?眠れぬ夜を過ごすうち、一つの仮説が、健太の頭の中で形になり始めた。
翌日、健太は中島ランドリーを訪れた。春子に許可を得て、夫が使っていた金庫を改めて調べさせてもらう。金庫は古いダイヤル式で、中には夫の通帳や印鑑、いくつかの古い写真などが入っていた。しかし、やはり領収書は見つからない。
健太は金庫の周りを念入りに調べた。すると、金庫の裏側、壁とのわずかな隙間に、小さなメモが挟まっているのを発見した。メモには達筆な字で、こう書かれていた。
「貸した金は、アイロンの呪いで消える」
健太は驚いて春子にメモを見せた。
「これは、夫の字です!でも、何を言っているのか…」春子は困惑した。
健太は再びミケの行動を思い出した。帳簿のアイロン修理代、そしてミケが金庫の方を見たこと。そして、春子が言った「金庫の鍵がどこにいったかと、夫がうわ言のように言っていた」という言葉。すべてが、このメモと繋がるように思えた。
その日、健太は山吹不動産を訪れた。健太の表情は、いつになく真剣だった。ミケは、健太の鞄の中から、じっと山吹不動産の看板を見つめていた。
「山吹社長、中島ランドリーの件で伺いました」
山吹は胡散臭い笑みを浮かべた。「ああ、佐々木先生。例の領収書が見つからない件ですか。困りましたねぇ、返済期限はもうすぐですよ。土地の準備はできていますかな?」
「ええ、困りましたね。ですが、私も一つ困ったことを伺いました」健太は平静を装って言った。「山吹社長は、中島社長が入院されている間に、彼のお見舞いに行ったと伺っています」
山吹の表情がわずかに硬直した。「ええ、お見舞いに行きましたよ。昔からの知り合いですから」
「その時、中島社長は金庫の鍵がどうした、とうわ言を仰っていたとか」健太は核心を突いた。「そして、その直後、領収書が金庫から消えた。これは偶然でしょうか?」
山吹は笑い飛ばそうとしたが、その笑いはどこかぎこちなかった。「何を仰る。そんなことあるはずが…」
「社長、お聞きしたいのですが、山吹不動産は、最近になってこの下町で大規模な再開発計画を進めていますよね?」健太は続けた。その計画には、中島ランドリーの土地が不可欠であるという情報も、すでに耳にしていた。
山吹は黙り込んだ。その顔から、余裕の表情が消え失せていく。
「実は私、中島社長がお亡くなりになる前に、ある物を調べていたんです」健太はゆっくりと言った。「それは、中島社長が大切にしていた、とある『アイロン』のことです」
山吹の顔から血の気が引いた。その反応は、健太の仮説が正しいことを裏付けていた。
「あのアイロンは、古い型でしたが、社長が特別に思い入れのある品だったとか。そして、その修理代が、帳簿に通常より高額に計上されていました」健太は続けた。「その修理を担当したのは、社長のご紹介だったとか」
健太は、自分の仮説をぶつけた。
中島社長は、病で余命いくばくもないことを悟っていた。山吹が土地を狙っていること、そして自身が亡くなった後に春子がトラブルに巻き込まれることを予見していたのだ。だから、彼は密かに「ある計画」を立てていた。
山吹は、中島社長の病室を見舞った際、金庫の鍵のありかを探り、隙を見て領収書を盗み出した。山吹は土地の再開発を狙っており、中島ランドリーの土地が手に入れば莫大な利益になる。そのため、領収書を隠蔽し、返済不能を理由に土地を奪おうと画策したのだ。
しかし、中島社長は、山吹の企みを予見していた。
「社長、あのメモの意味は、こうでしょう?」健太は言葉を選びながら言った。「『貸した金は、アイロンの呪いで消える』。これは、単なる呪いではありません。金庫の奥に隠されたあのメモは、『アイロン』の内部に、山吹社長が用意した領収書とは別に、返済済みを証明するもう一枚の『領収書』が隠されていることを示唆しているのですよ」
山吹は目を見開いた。
健太は続けた。「中島社長は、修理に出したアイロンの、内部の空洞に、返済済みの領収書を細工して隠したのではありませんか?そして、そのことを示すメッセージを、金庫の裏に隠した。なぜなら、社長が亡くなれば、春子さんは必ず金庫を調べる。そして、万が一、最初の領収書が見つからなくても、そのメモによって、アイロンの修理をした業者に問い合わせ、その修理の際に仕掛けられた『第二の領収書』を見つけ出すことができると…」
山吹は震える手で机の上の茶碗を掴んだが、それを落としそうになった。彼の顔は真っ青だ。
「中島社長は、あなたを信じていなかったわけではないでしょう。ただ、ご自身に何かあった時のために、念のために、二重の策を講じていたのです。そして、その領収書のコピーは、公証役場で確定日付を取得していました。公正証書で作成された文書ではないので、公証役場で文書の保管はされていませんが、『その文書がその日に存在した』という動かぬ証拠にはなる。そのコピーを、そこに隠した。そうすれば、例えあなたが原本を隠しても、春子さんはコピーを証拠として提出できる」
健太は続けて言った。「そして、そのアイロンを修理した職人さんから、先ほど連絡がありました。中島社長の依頼で、アイロンの内部に加工を施し、小さな筒状のものを隠したと。そして、山吹社長が、そのアイロンを修理に出すように指示していたことも確認しました。すべての話が繋がりますよ、山吹社長」
ミケは健太の足元で、満足げに「にゃあ」と鳴いた。まるで「よくやった、健太」とでも言うように。
山吹は観念したように肩を落とした。
「くそ…あのジジイ、まさかそこまで見通していたとはな…」
結局、山吹は第二の領収書(公証役場の確定日付入り)の存在を突きつけられ、観念して中島ランドリーへの不当な要求を取り下げた。領収書には山吹が一千万円を受領した旨の記載と日付が入っており、返済日に公証役場で確定日付を入れた旨の記載があった。山吹は、春子が領収書を手に入れる術はないと高をくくっていたのだ。
事務所に戻った健太は、ミケの頭を撫でながら言った。
「ミケ、君のおかげだ。あの時、アイロンの修理記録に注目させてくれなかったら、たどり着けなかったよ」
ミケは健太の顔を見上げ、得意げに尻尾を振った。
「でも、なんで君はあんなことが分かったんだ?まさか、金庫のメモが見えてたとか…?」
ミケはただ、健太の顔を見つめて小さく「にゃあ」と鳴いた。その眼差しは、全てを理解しているようにも、何も理解していないようにも見えた。
「ま、いいか。とにかく、これで春子さんも一安心だ」健太はそう言って、ミケのためにとっておきの猫缶を開けた。
ミケは缶詰の匂いを嗅ぐと、目をキラキラさせて健太の足元にまとわりついた。
街の片隅の小さな司法書士事務所で、今日もまた、人間たちの欲と、それを上回る愛情や知恵、そして一匹の三毛猫の不思議な力が、静かに交錯していくのだった。
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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名等はすべて架空のものです。実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません。
また、本作は物語を面白くするための演出として、現実の法律、司法書士制度、あるいはその他の専門分野における手続きや描写と異なる点が含まれる場合があります。 特に、司法書士の職域、権限、および物語内での行動には、現実の法令や倫理規定に沿わない表現が見受けられる可能性があります。
これは、あくまでエンターテイメント作品としての表現上の都合によるものであり、現実の法制度や専門家の職務を正確に描写することを意図したものではありません。読者の皆様には、この点をご理解いただき、ご寛恕いただけますようお願い申し上げます。
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