5. エミリア、経営者になる
「王太子妃エミリア殿下、どうかこの娼館を、貴女様が引き継いでくださいませんか。それが私の唯一の望みでございます」
高級娼館『クリスタルホール』のオーナーであるナオミが、私の前に膝をついてそう言った。——仰天の提案ではあるが、心躍る提案でもある。
クライスが強引に娼館を買い取る方向へ舵を切った際、現在のオーナーであるナオミに『何か一つ望みを叶えてやる』——そう交換条件を出したそうだ。
交換条件などと言われても私には解らない、知らされていないから。
でも私の心の内のことは解る、私の本心がそこにあるから。
「……まいったな。それは困るんだが、約束は約束だ。エミリア、君はどうしたい?」
クライス、あなたがどんな返事を期待しているかは聞かない。
だって聞いたら、言うことを聞かなければいけなくなるから。
「もちろん!!私でよろしければ、お引き受けいたしますわ」
私は前のめりで、二つ返事の意気込みが伝わるように、ナオミに手を差し出しながらそう答えた。——娼館を本来とは異なるかたちに変えてみたい、そんな企みを抱いて。
ナオミが握り返してくれる手は、思いのほか優しかった。
今まで気になっていた性別なんてものは、もしかしたら——ちっぽけなことなのかもしれない。
「クライス、あなたが期待した返事と違っていたら申し訳ないと思うわ。でも私、やってみたいのよ。応援してくれない?……心配ないわ。私は普通に娼館を経営する気はないから」
大きなクライスの手に重ねるには小さすぎる私の手。
両手でギュッと握って、なんとか思いが伝わるように力を込めた。
クライスがギョッとした表情を浮かべたのは、見て見ぬふりでいい。
想定内のことだから。
「はぁ……仕方ないよね。俺が約束しちゃったんだから。それにしてもナオミ、こんな望みを持った理由を教えてくれないか?……さっきまでは違ったんだろう?」
クライスは私の手を握り直して、ナオミに問い詰めるような視線を送った。
これは怒りだろうか、それとも彼は自分を責めているのだろうか?
「まぁまぁ……こんなに鈍感なお方だったとは!?」
そう言ってクライスを見るナオミの目も、負けず劣らずで。
獣のように鋭かった。
ナオミ本人は、それを知ってか知らずか——。
まるで空気を和ませるかのように、両の手をパチンと合わせて見せた。
そうしてこう続けたのである。
「……王太子殿下、私は娼館を売り渡すお話になった時から、貴方様ではなく妃殿下にお譲りするつもりだったんですよ。だって私たちの町から暴力の一部を取り除いて下さったお方ですよ?……この色町では、妃殿下ほど尊敬される王族なんていませんからねぇ。残念だけど、見目麗しくて有名な王太子殿下だって敵わないくらい」
そう言うと、ナオミは高らかに笑った。
清々しいとでも言うように、契約書をヒラヒラとさせながら。
思い残すことなんて何もない!そんなふうに見える表情で。
「妃殿下、覚悟はいいかしら?ここに殿下が印章を押されたらもう!!後戻りはできませんことよ?」
「ええ、望むところよ!私を選んでくれたナオミのためにも頑張る!」
「……わかった、信じよう。だが俺の妃を騙すようなことがあれば、その時はただじゃおかん。わかってるよな? で、妃よ……君は自分が手に入れようとしているものが『娼館』だという認識はもちろんあるんだよな?……そして『娼館』という場所がどういうところかも」
「ええ、もちろん。だから私が一人で解決できることなど何もない、それも理解しておりますわ。私だけでどうにかできることは一つもない。だからナオミもジーナも手伝ってくれるのよね?……それにねぇ、クライスもね??」
「…………(リアはいったい何を考えているのだろう?)」
「そうですそうです!妃殿下が法改正に乗り出された時、このナオミは直感したんですわ!色町のいろんなことを気にして下さっていて、いつか視察に来られると。そうしていつか、ここを変えてくださるのだと。その時には身を投げ打ってでも、お手伝いしようと決意を固めておりました♪」
クライスはじっと私を見るだけで、返事を返してはくれなかったけれど。
そもそも私が『娼館』を経営したいのではない、そう知ってもらえれば理解を得られることだろう。
「……ただ一つ、先に理解してもらいたいことがあるの。私が経営する期間はニ年だけであること。そしてその間はナオミ、あなたが店長として実質的な運営を担って欲しい。そうして二年が過ぎたら、経営権を私からジーナに移すわ。それで納得できないなら、この話はなし!! 別の望みを考えてちょうだい」
この色町を存続させるしかないなら、変えるべきことは多くある。
婚約期間中に教わったことだけでも、両手に抱えきれないくらい。
もはや気持ちが不安定になるくらいだったから。
「あらあらまぁまぁ、思ったとおり斬新な提案をしてくださる!もちろん問題ございませんわ。私は経営者が誰であろうと、全身全霊を尽くすだけだから。それにしてもジーナのことを見抜くなんて……ほんと妃殿下……あなたって人はゾクゾクさせてくれるわねぇ♪」
ナオミの高らかな笑い声をもって、この話はいったん締め括られた。
彼でなければ不敬とされてもおかしくないような、そんな物言いでさえ罪に問われることなく——。