11. ココロリターンズ
「エミリア妃殿下、アストレア修道院よりご報告がございます――」
ノックと共に、燻銀のように落ち着いた声が響く。私が返事をすると、宰相エリジオ・カリタスが扉の隙間から顔を覗かせた。そしてナオミに視線が止まった瞬間、わずかに目を見開き「……おや?」とでも言いたげに固まる。
「エリーちゃん!早く入っておいでよ〜」
ナオミの一言で我にかえったエリジオは、わずかに耳を赤くしながら咳払いをひとつ。照れを隠すように背筋を伸ばすと、いつもの冷静な表情に戻って報告を始めるのだった。
「単刀直入に申し上げます。マックーロ元男爵令嬢、ココロが……アストレア修道院を一昨日、脱走いたしました」
「……え、脱走? そんなことできる場所だったかしら」
あまりの驚きに、王太子妃らしからぬ大きな声が出てしまう。
そういえば、ココロが修道院に入った後、収穫祭の公務で近くまで赴いたことがあった。記憶をたどれば、そこは山頂に築かれ、まるで孤立を強調するかのように険しい山々に囲まれていたはずだ。
「修道院ってさ、徹底的に外部との接触……絶ってるよね? 結婚なんかもできないなって、漠然と思った記憶あるもん」
「ええ、王族でさえ自由に出入りはできない場所よ」
「で、そのココロって誰なの?」
興味津々のナオミが口を挟むと、エリジオは遮るように一歩を踏み出して、私の前に一通の手紙を差し出した。受け取った私は、それを胸に当てて深く息を吐く。読み始める前に、ウォーミングアップが必要だったのだ。
「え、なになに? ちょっと待ってよ! エミリア様がそんなに緊張しちゃうくらい……そのココロって人、大物なの?」
ナオミに向かって小さく頷くと、私は手紙を開き、恐る恐る内容に目を通した。正確に言えば、『大物』ではない。どちらかといえば『腫れ物』だ――。
『王都宰相閣下
取り急ぎ、要件のみご報告いたしますこと、お許しください。
アストレア修道院にて預かっておりましたマックーロ元男爵令嬢ココロが、一昨日未明より行方不明となり、調査の結果、脱走と判断いたしました。
彼女は監督役である私ども三名に対し、何らかの方法で毒を盛った模様です。二名はいまだ昏睡状態にあり、私もつい先刻ようやく意識を取り戻したばかりでございます。
生憎、確固たる証拠はございません。しかしながら私には、ココロから嗅がされた不審な香りの記憶が残っており、その甘くまとわりつくような香りから、毒草『ラストルナ』が使われたのではと疑っております。
つきましては、専門の調査をお願いしたく存じます。
アストレア修道院 責任者シスター・ルチア』
手紙を読み終えると、私の心臓は鼓動を速め、思わず唇を噛みしめた。
ココロ――その名を目にするだけで、胸の奥がざわつく。
「ラストルナ……?」
そして、そこに記された『毒草ラストルナ』の文字は、さらに私の気持ちを沈ませた。忘れていたはずの記憶が、まるで走馬灯のように押し寄せては巡っていく。
心に浮かぶのは――
薄紫の小さな花。水仙のように華奢な姿。鼻腔をくすぐる、甘やかで妖しい香り。
それは、ゲームの世界で悪役令嬢に濡れ衣を着せるために使われた毒草の名だった。
そしてシスターが書いた『甘くまとわりつくような』香り、それもまたゲームの設定と同じ。
「あの毒草が……現実に……?」
ぼんやりと手紙を眺める以外、私にできることはないように思えた。
だって——乙女ゲームの“アイテム”が、この世界で実在していると言うのだから。そして、それを使った“人物”が――ココロだなんて。
そうしてこの時、私は認めざるを得なかった。
――ゲームは……まだ終わっていない。
両手で顔を覆った、その瞬間。執務を終えたクライスが静かに部屋へ入ってきた。
「……リア? 何かあったのか」
堪えきれず、私は駆け寄ってその逞しい胸に飛び込んだ。
肩に顔を埋めながら、震える指先だけを伸ばして手紙を差し出す。
「これ……読んで」
クライスが手紙を受け取って、静かに目を通す気配が伝わってくる。
彼の呼吸がわずかに深くなるのを感じながら、私は次の言葉を待った。
しばしのあいだ、紙をめくる音だけが部屋に響いたあと――
私の頭に、大きな手が優しく触れる。
「……リア。しばらく、この部屋から出ないでくれ」
顔を上げると、そこには苦悩を滲ませたクライスの表情があった。
きゅっと眉を顰め、言葉にせずとも事態の深刻さが伝わってくる。
「まずは……修道院から調査を始めなきゃならないな。俺がしばらく留守にすると知られれば、いつ何時、誰に狙われてもおかしくない」
私は頷きながらも、震える指先で手紙の文字を示した。
「クライス、これは……ただの毒草じゃないの」
自分でも驚くほど、私の声は掠れていた。
「この“ラストルナ”は……悪役令嬢が王太子を攻略しちゃった時に使われるアイテムよ。要するに……ココロがクライスを自分のものにできなかった場合、悪役令嬢に濡れ衣を着せるために使われる、選択肢の一つなの」
クライスは一瞬、私の言葉の意味を理解できない様子だった。けれど、必死に説明する私の顔を見つめるうち、その重要性を察してくれたらしい。
「わかった、必ずそれを頭に置いて調査するから。安心しろ」
やがて、その間もずっと静かに成り行きを見守っていたナオミが、出会って以来初めて見せる真剣な表情で、思いもよらぬ提案を口にした。
笑みも冗談もなく、ただきゅっと唇を引き結んで。その真剣な視線が、私とクライスに向けられている。
「ねぇ、お二人とも……ここは、私の双子の妹を貸すわ」