10. ゲームは簡単に終わらない
ダイアンサス王国の王太子レオハリスが去って、ようやくダイヤモンド・ホールにも静寂が戻った——ように見えた。のだがしかし、残された者たちの胸には、妙なざわめきが置き去りにされている。
「なぜレオハリス殿下は、カノン嬢がこの色町にいると知っていたのだろうか。
彼女は、身元を隠して売られたというのに……おかしくないか?」
さっきまで陽気に「マジリエスに滞在したらどうか」などとすすめていた我が夫——マジリエス王国の王太子クライスが、鋭く目を光らせ、レオハリスに疑いを抱き始めている。
私だって気づいていた。なんだかおかしいって。
……偶然にしては、出来すぎてるって。
考えれば考えるほど、胸の奥に冷たいものが広がって。まるで見えない糸で操られているかのような感覚に陥っていった。そう——全てが噛み合いすぎていて。
「……まるで、操られているみたいだわ」
無意識に漏らした私の言葉が、静かな空気を震わせたみたいで。
ナオミがクライスに真剣な視線を送るのを見た時、背筋に……言葉にできない感覚が走った。
「エミリア様……お顔の色が優れませんわよ。ちょっと、誰か!食堂にお連れして!」
背中をさすってくれていたナオミが、私を心配そうに覗き込んでいる。
首を振って見せたけれど、こんな時でも私のお腹は鳴ってしまった。
——腹が減っては戦はできぬ。前世、日本でよく口にした言葉だ。
ふと、それを思い出したら、少しだけ肩の力が抜けていく。
「大丈夫。ただ、少し考え事をしていただけよ。
うん……たしかにお腹空いたかも。ねぇ、クライスもじゃない?」
「あぁ、そうだな」
言葉は短いけれど、温かい腕で私を抱き寄せてくれる。
私は夫の腕の中で、気持ちを立て直すくらいしかできなかった。
——きっと大丈夫。
◇
翌日の朝、ナオミを城に呼び寄せて、私は改めて違和感を口にした。
放っておけば、もっと深く絡まっていく——そんな気がしてならなかったから。
「……つまり、レオハリス殿下は、最初からカノン……いえ、カノリアの居場所を知っていたってこと?」
ナオミが眉を寄せて、私を見つめている。
テーブルの上には、彼が持ってきてくれた色町の地図が広げられていた。
「そう考えるのが自然よね?色町に絞って探すなんて……偶然とは思えないもの」
「……なるほどね。クライス殿下がバカ王太子に“遊んでいけ”ってすすめたのも、ただの悪趣味じゃなかったんだ……」
全く消えない妙な感覚、これがいったい何なのかわからないけれど。
とにかくマズイんじゃないかってことくらいは、本能が教えてくれている。
「手がかりを集めましょう。……まずは、カノリアが連れ去られた経路を調べるところからだわね」
ナオミの声が普段より少し低くなると、それに応えるかのように、私の胸にも小さな炎が灯った。このまま燃え盛ったら自分では消化困難かもしれない炎。
「お願い、ナオミ。誰が裏で糸を引いているのか、必ず見つけ出したいの。夫をバカにし過ぎる不敬は見逃してあげるから!」
——私が息まくその時、遠くで鐘が鳴った。
王太子として忙しいクライスには任せておけない!
鐘の音を聞いた私が、新しい戦の始まりだと思い込んだことは——お察しの通り……。
◇
——それは数日前のこと。
色町の外れ、隣国ダイアンサス王国との国境地帯に続く林道で。
湿った夜気が、じっとりと肌に貼りつくのを感じながら、薄汚れた外套を羽織った男たちが、落ち着きなく視線を交わし合った。
「……で、本当に来るんだろうな」
「余計なこと言うなっ!……あんな大金、前払いするってやつが嘘つくかよ」
その時、遠くから蹄の音が近づき、ぼんやりと馬車の姿が浮き上がった。
男たちは国境検問所を抜けてやってくる馬車を、息を潜めて待ち構えていたのだ。
そこへフードを深く被った女が、一人。
腰まで届く黒髪が、ランタンの明かりにちらりと光る。
「どうかしら?そろそろ“獲物”のご登場ってとこね」
その声は、高く澄んだ声だった。
場違いなほどに落ち着いた声、それは女の自信をうかがわせた。
それもそのはず。男たちは、彼女の計画のために雇われた野盗——全てが、この女の手の内にあるのだから。
「は、はい……。間違いなく、お探しの侯爵令嬢……らしいです。向こうで灯りが二つ飛びましたんで、護衛もいないってことで」
「ふぅん……運が向いてきたじゃない。護衛なしだなんてね。——狙うのはその娘だけでいいわ。必ず生かして利用するの」
女はためらいもなく、手にした小袋を足元へ放った。
金貨の乾いた音が暗闇に転がり、男たちの目が卑しい光で満ちていく。
「後は頼んだわよ。これ前金。終わったら倍払うわ」
フードの影に、不気味な笑みが浮かぶ。
その時――暗闇にぼんやりと光るものが浮かび、そこから“声”が囁いた。
女にしか見えない存在、そして女にしか聞こえない声である。
——『やるじゃないか、ココロ。これであの女も、呑気にしてはいられない!』
「ええ。この娘は……あの女からすべてを奪うための、最初の駒よ」
憎々しげな笑みを深め、ココロと呼ばれた女は踵を返す。
そして、闇に溶けるように姿を消した。