17.怒りで染まる
堀の水に飛び込んだシャオヤオはすぐには浮上せず、そのまま水路へ泳いで移動する。息は苦しいし水を吸ったドレスは重いし身体に巻き付くし、普通なら溺れ死んでいるところだが、根性で死ななかった。
本当なら適当な所で上がってしまいたいところだが、昼の時間の今、水路からドレスを着たすぶ濡れの女が現れたら絶対に騒ぎになる。それなら橋から橋まで潜って進み、橋の下で息継ぎし、水門に向かってとにかく進んだ方が良い。
目指すは帝都の外。帝都でのダスティシュの屋敷へ行く事も考えたが、皇太子の言葉をそのまま信じるなら、当のダスティシュの身柄が既に抑えられている状況だ。そんな状態でダスティシュの屋敷に行ったところで、飛んで火にいるなんとやら。
慎重に、逸る気持ちを抑えつつ水路を進んで行くと、やっと水門が見えた。
丁度良く水門が開いて流れ出る水と共に外に出る。そこからまた暫く流れのままに進み、帝都から少し離れた、人の気配がない所でようやく川から出た。
疲労と、水から出たばかりの身体の重さに一度は座り込む。だがのんびりと休んでいる暇はシャオヤオには無い。
まずは着ているドレスの邪魔な部分を引き千切って動きやすい長さにまでする。高価なドレスである事と、それを用意してくれた使用人達の顔が頭にチラついたけれど、不要部分の生地と共に投げ捨てる。
幸い靴は踵の高いヒールではなく動きやすい革靴だ。踵は多少あるが、走るのに不自由はない。そう言えば…当然靴も使用人達がドレスに合わせて毎日用意してくれていた訳だが、ヒールの割合は低かったような気がする。それこそ歩くなど身のこなしの作法を学ぶ時くらいにしか…。
いや、考えても仕方ない。とにかくムーダンの元に帰らなくては。
川縁から離れて足を動かした。
ダスティシュ領までは不眠不休で走っても約7日はかかる。
なので途中で馬を拾う。
当たり前だが馬は都合良くに落ちていたりしない。
最初の馬は、道端で座って休んでいた農夫らしき男が連れていた馬。シャオヤオに躊躇はない。全てにおいて優先されるのはムーダンであり、馬をシャオヤオに取られた農夫がその後どうなるかなんてわざわざ考えはしない。馬を奪う為に命まで奪わなかった事を、農夫には幸運と思ってもらう。
馬は途中で疲れ果てて潰れる。その度に、手近にいる馬に乗り継いで行く。
運河が流れているので船を使えればもう少し早くに辿り着くのだが、船を盗むのは馬より難しい。それに河の上、船の上では逃げ場がなく捕まったら終わりだ。馬なら、まだ道から逸れて繁みや山にも逃げ込める。
焦る程に急いでいるが、致命的な失敗を犯す程、冷静さは欠いていない。
そうやって3日目の夜。
シャオヤオはダスティシュ領に、いや、ムーダンと暮らす山小屋に帰って来た。
「ムーダン! 私、姉さんよ!」
2人の家は文字通り山の中の小屋で、家の入口前まで馬が上ってこられる道はない。その為、最後に乗り継いで来た馬は麓近くで待たせてある。目が不自由なムーダンは普通に歩くにも苦労するので、遠くに逃げるにはまだ馬が必要なのだ。
すぐに掴めるだけの荷物をまとめ、ムーダンを抱えて山を下りる。
ずっとずっと、ダスティシュに雇われながら考えていた事でもあるので手順も道順も頭に入っている。追ってくるのがダスティシュから国に代わっただけだ。容易になったのか難易になったのか、考えても仕方がない。来るべき時が来ただけ。
絶対に逃げ切ってみせる。ムーダンだけでも逃がしてみせる。
シャオヤオは家の扉を思いっきり開けた。
「ムーダン! 無事!?」
「おわっ! な、何だお前!」
「軍か!? 見付かっちまったのか!?」
薄暗い小屋の中にいたのはシャオヤオの最愛の弟ではなかった。
小汚く、人相も風体も悪い、手に武器を持った男が4~5人。見知ってはいないがシャオヤオはその男達の顔に見覚えがある。そしてそれは男達も同じだったようだ。
「ん? こいつ…“黒猫”じゃねぇか?」
「あ、ああ。間違いねぇ。こいつも今まで逃げ延びていたのか」
「確かこいつじゃなかったか? 最後に旦那と仕事していたのって」
「おい“黒猫”、旦那が今何処にいるのかしらねぇか!?」
何を焦っているのか、男達がシャオヤオに詰め寄ってくる。ここで言う旦那とはダスティシュの事。男達もダスティシュに雇われていると言う意味ではシャオヤオとは似たような立場だ。ただ暗殺者として高難度の依頼を受けるシャオヤオと違って、恫喝等で領民を脅すチンピラに過ぎないのだが。
いや、そんな事はどうでもいい。
「アンタ達、ここは私の家よ! 勝手に入って何やってたの!? ムーダンは何処!」
「あ゛? 知るかよ! こっちはそんな場合じゃなかったんだ!」
「どんな場合だろうが、勝手に入るな! ムーダン!」
「てか誰だよそいつ!」
「私の弟よ! ここにいたはず、何処へやったの!?」
「だから、知るか! 俺達が命からがらここまで逃げて来た時には誰もいなかったぞ!」
「そんなはずない! ムーダンに何かしたの!? ただじゃおかないわよ!!」
「だーーー! 喚くな! 軍に見付かったらどうするんだ!?」
「“黒猫”お前! 今の状況分かってんのか!」
「状況なんてどうだっていい! ムーダンは何処よ!!」
「何度も言わすんじゃねぇ! お前の弟より旦那だ! ダスティシュ卿は何処だ!!」
埒が明かない。お互いの主張がすれ違っているのだ。分かっているのに、シャオヤオは冷静になれなかった。ムーダンへの心配は、ここまでほぼ休みなしで駆け抜けてきた疲労と共にピークに達していた。
シャオヤオも男達も、互いに肩で息をする。
呼吸する事で僅かに冷静さを取り戻したのか、男の内の1人がハタと気付いた顔になる。
「待てよ。こいつを軍に突き出せば、俺達は見逃してもらえるんじゃないか?」
「そうか…なんたってこいつは暗殺者“黒猫”。見逃してもらえるどこか褒章だって出るかもしれねえ」
「そうだ、そうすれば、もうこんなコソコソと隠れるのとはおさらばだ!」
残念ながら、行き着いた答えは冷静とはかけ離れたものだった。
軍とは何か、状況とは何か。先程から男達の口から出てくる言葉は不穏かつ謎でしかなかったが、突き出すと言われ、おまけにギラリと獣が獲物を狙うのと同じ目を一斉にシャオヤオへと向けてきたら、連中がこれから何をしようとしているかは嫌でも分かる。
「アンタ達…」
「“黒猫”なんて大層な名前が付こうが所詮は小娘1人。全員で捕まえて押さえこんじまえばこっちのもんだ」
「名持ちの犯罪者なら、確か生死は問わなかったはずだよなぁ」
「後々逃げられても面倒だし」
「悪く思うなよ“黒猫”、こっちも命がけなんでね。せめて一思いに済ましてやるから手間かけさすなよ」
「せめてもの詫びだ。ムーダンだっけ? その弟も後からあの世に送ってやるから安心しな」
カッとシャオヤオの目の前が怒りで染まるには十分だった。
ムーダンの事が心配で、心配で、心配なのに、武器を持ってニヤニヤと気持ち悪い顔をしながら近付いてくるチンピラ共をどうにかしなくてはならないなんて。何と言う無駄な時間。こうしている間にも追っ手が来てしまうかもしれないのに。
ままならない現実に怒りが次々と湧き上がってくるばかりでちっとも収まらない。
だが、現実とは尚も無常だ。
バキッーーー
「ぐっ!」
シャオヤオの身体が小屋から勢いよく投げ出される。
かろうじて受け身は取れたが、地面に叩き付けられた痛みにすぐに立ち上がる事が出来ない。そうしている間に男達も小屋から飛び出してきてシャオヤオを囲む。
シャオヤオは暗殺者。騎士でも戦士でもない。突っ込んでくるだけの三流の同業者を仕留める程度の格闘は出来るが、専門ではない。それに認めるのは癪ではあるが、まだ16歳の少女だ。男達をチンピラ如きとは言えても、単純な腕力はどうしたって劣る。
闇討ちで1人1人片付けるのが本来のシャオヤオのやり方。武器を持った男達を相手に正面から、万全ではない状態で、その上素手で、やり合って勝つのは流石に無理があった。エリム夫人から聞きかじった帝国最強様のようにはいかない。
とは言え、それで大人しくする程諦めは早くない。シャオヤオ1人ならともかく、ムーダンの居場所と安否が確認できない状態でのんきに捕まってやる事も死んでやる事も出来ないし、またその気もない。
体を起こすついでに転がっていた石を握った。そのまま立ち上がらずに姿勢を低く構える。
その体勢はさながら、通り名そのもの。
「往生しやがれ!」
男の内の1人が大斧を振り被る。重量のある武器は当たれば命取りだが、大振りになって隙が出来やすい。その隙を狙ってシャオヤオは握った石を、大斧を振り上げた男の顔に向かって的確に投げ込む。
「う゛ぎゃ!」
見事、石は顔面の弱い部分に当たり情けない声を上げた男の体勢を崩した。シャオヤオは低い体勢のままその足元へ飛び込み、男達の囲いからすり抜ける。
地面に着して一回転、さっきとは違って重い身体を無理矢理にでも動かして次々に振り下ろされる男達の武器を寸前で交していく。
一歩、一歩、男達から距離を取り続ける。後は程良いところで反転し山奥へ逃げ込む。この山はシャオヤオの領域…庭のようなモノだ。闇と深い木々に乗じれば、追い掛けてきた男達を本来のやり方で1人ずつ仕留められる。状況の説明の為に1人くらい生かしておく必要はあるが。いや、まずはここで一撃ぐらい入れておくか。
そんな、一瞬の欲に判断を鈍らせたのがいけなかったのかもしれない。
せり出した木の幹に足を取られた。
「これでも食らえ!」
しかもそのタイミングで石弓の矢が飛んでくる。
避けきれない。せめて急所だけは外さなくては…いや外して何とかなるか? 外すのも無理じゃない?
矢はとてもゆっくりと飛んでくるのに、避けられる気がしない。
ゆっくりなのは矢だけではない。足を取られたシャオヤオ、襲いかかってくる男達、シャオヤオの視界に広がる世界、五感に感じる全て、何もかもがゆっくりと動いていた。
それは死を眼前にした者が見る独特の世界。そんな現象が起こり得るのかと、眉唾物だと思っていたが実際に体験してしまえば信じるしかない。文句を言おうにも、言葉は喉の中で消えるだろう。
ごめん、ムーダン…。
走馬灯に流れる弟を思って、シャオヤオは目を閉じた。
「間一髪、だな」
現れたのは…?




