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短編集  作者: 因美美果
9/12

短編・9

 君の家の猫が死んだ。


 僕もよく可愛がっていた子だったから、君から聞いた時は胸が真っ黒に焼けていくような気がした。


「今朝、大通りで轢かれていたところが見つかったの」

 

 けれど、君の心は既に灰になっていて、今にも崩れそうでいる。

 そんな君を見たら、悲しんでいる場合じゃないと思った。


「昨日の夜もおばさんが暴力振るって、それで出て行っちゃったの。その時に轢かれたんだと思う」


 繋いだ君の手が震えて、強く握って良いものか分からなかった。

 痛かったらどうしようとか、そんな余計なことを考えてしまう。


 結局、君の手を強く握りしめることも、潔く離すこともできずに、ただそのまま繋ぎ続ける。


 そのうちに、君は泣き出してしまった。

 それを聞いても、やっぱりどうすることもできない。


 抱きしめたら良いのかな。

 頭を撫でたら良いのかな。

 君は今何が欲しいの。


 北風も泣く日のことだ。

 雪も降らない曇天の下、君の涙が代わりに落ちる。



   〇   



 君の家庭は少し複雑だった。


 僕が聞いた時、一度だけじゃよく分からなかったし、理解してみても変な家だと思った。

 今もやっぱり変わっていると感じる。

 同時に、可哀想だとも。


 君の父親は不倫をして、その相手が君の母親で、その間に生まれた子が君だった。

 君の母親が君を身籠った時、既に二人の不倫は本妻に発覚していた。


 本妻の人を君は「おばさん」と呼ぶので、話に出す時は僕もそう呼んでいた。


 おばさんとは何度か会ったことがある。

 冷ややかな印象はあるものの、それよりもどちらかと言うと品のある女性だと感じた。

 だから、君に後から高飛車でヒステリックな性格だと聞いた時、少し驚いた。


 君の両親の不倫を知ったおばさんは、浮気をした君の父親を咎めることなく、君の母親だけを酷く責めた。


 君の母親は相手が既婚者だと知らずにいた。

 けれど、気が弱く優しい母親は、愛する人を思って弁明せずに、甘んじて罪も罰も被ってしまった。


 君の父親は君と君の母親を見捨てようとしたけれど、君の母親は援助無しに女手一つで君を育て上げることなどできなかった。

 君の父親は後ろめたさからか、或いは、まだ未練でもあるのか、君たち母娘に築四十年のアパートを一部屋用意した。


 父親とおばさんはどちらも高所得者らしいが、負担してくれるのは家賃だけだった。

 それ以外の出費は君の母親が必死に稼いだ。


 父親が二人の住む部屋に訪れることはないし、君に会いに来たこともない。

 代わりに、不定期で、とは言っても、まあまあの頻度で、おばさんが嫌がらせをしに来るのだと言う。


 初めてこの話を聞いた時、君だけが可哀想だと思った。

 おばさんも、君の父親も、君の母親も、等しく救いようのない人たちだと思った。

 どうして君の周りの大人はこうもババばかりが集まってしまったのだろうと、心底呆れ返ってしまう。


 君の家に初めて遊びに行った時、君の母親にも初めて会った。


 傷んだ髪を一つに結い、たくさんの絆創膏とそれ以上のあかぎれを抱えた指で、縫い物をしていた。

 そして、君に紹介された僕を見て、痩けた頬を綻ばせた。

 ふらつく足取りで台所の棚を開け、なけなしのお菓子まで出してくれた。


 とにかく優しい人だった。

 それがこんなにも煩わしいと感じたことは他にない。


 君が幼い頃に拾ってきた猫だって、本当は飼う余裕なんてないくせに、優しさ一つで許してしまう。

 あんなに細い猫を見たのは初めてだった。


 君の母親がもっと強い人だったなら、今頃もっと良い生活を送れていたはずなのに。

 君を今まで支えてきた彼女こそ、君を苦しめているのだ。


 なのに、君は全く辛い顔をしないから、納得いかなかった。

 一日に一食しか食べられない日があっても、突然やってきたおばさんに突然叩かれても、解れだらけのマフラーで凌ぐ雪の日であっても、君は不満な顔を一つも見せない。


 君をどうしたら助けられるのかをずっと考えているのに、君は助けてほしいなんて言わないから、どうすることもできない。

 助けを求められたところで、その方法はまだ見つかっていないけれど。



   〇   



「春が来る前に、温泉にでも行こうよ」


 僕がそう言うと、君は困った顔で笑う。


「そんなお金ないでしょ」


 僕は裕福な家庭に生まれたわけじゃないけれど、毎日美味しいご飯を三食食べられて、毎日お風呂に入れて、毎日あったかい布団で眠れる暮らしをできている。

 バイトだってそれなりに頑張ってきたし、二人分の旅行代くらいなんてことない。


「お金くらい、僕が出すのに」


 優しさでも何でもないけれど、君に頷いてほしくて、そんなことを言ってしまった。


「お母さんを置いて行けないよ」


 さすがに君の母親まで連れて行けるお金はなかった。

 それに、君の母親とまで一緒に行こうなどとは考えていない。


 僕があのアパートから連れ出したいのは、君一人なんだ。

 そう思いながらも、君の笑った顔を見ていたら、そんな思考さえ馬鹿馬鹿しくなってしまった。


 つい先日のことだ。

 君が泣き止むのを待ちながら、ふと思い出した。


 あの時、君に使えなかったお金は、まだ口座で出番を待っている。

 きっとこの先も、あのお金が活躍する日はしないんだろうんな。


 もったいない、とは思わない。

 君のために貯めていたわけではないし、君のためにしか使えないわけでもない。


 けれど、君のため以外には、この先も使うことはできない気がするよ。


「ねえ、温泉行かない?」


 そう思っていたのに、君は簡単に僕の思考を覆してしまう。


「……え?」


 泣く君の手を繋ぎ、一体どれだけの時間が経っただろう。

 灰色に淀んでいた曇天は、今も尚変わらない灰色で、余計に分からなくなる。


 ようやく泣き止んだ君が、またいつものように笑う。


「だから、温泉行こうよ」


 不意に飛び込んできた言葉に、目を丸くして固まってしまった。


 不思議だった。

 君がそんなことを言うはずないと、どこかで思っていたから。


「どうしたの、急に」


 君の誘いに対する返しの一言目としては、最悪の部類だと思う。


 一体君がどんな思いでその言葉を口にしたのか、分からないはずがなかった。

 なのに、驚いたまま何を言えば良いのか分からなくなって、結局頭の中を一番に占める言葉を、そのまま放ってしまった。


 言うべきじゃないと知っていながら、言ってしまった。

 でも、それ以外に一体何と言えただろうか。


「前に誘ってくれたでしょ。行こうよ、春が来る前に」


 赤く腫れた目で柔らかく微笑む君は、やっぱり可哀想に見えた。

 鼻の奥が刺すように痛かったのは、寒さのせいではないのだろう。



   〇   



 午後十時、駅で待ち合わせる。


 君は少し道に迷ったため、待ち合わせ時間の十五分前に到着した。

 僕は道に迷うことはなかったため、時間ぴったりに到着する。

 いつも通りだ。


 待ち合わせ場所に佇む君は、リュックサックと斜め掛けの小さなポーチを背負っている。

 僕はトートバックと姉から借りた青いスーツケースに荷物を詰め、やってきた。


「お母さんには何て言って来たの?」

「友達の家でお泊まりするって」


 夜行バスは午後十一時半に出発し、目的地には明日の早朝六時に到着する予定だ。

 出発までの一時間半の間に、腹ごしらえや買い物を軽く済ませる。


 今回のあらゆる出費は僕が負担する気でいるので、事前に君には財布は持ってこなくても良いと言った。

 冗談のように言ったけれど、内心本気だ。


 結局、君は自分でお金を用意してきていた。

 会計の時に払うと言っても、君は微笑みながら自分で払ってしまう。

 あとで君からレシートを貰って、まとめて全額渡そうかとも思ったけれど、それはさすがに気持ち悪いよなと、改める。


 準備を済ませ、夜行バスの発着所へ向かう。

 一歩ずつ発着所までの距離が縮まるごとに、君の歩幅が小さくなっていくことに気が付いた。


 僕らが乗るバスが見えた時、君の小さな歩みが遂に止まる。


 君の隣で同じように立ち止まり、バスを見たまま言う。


「やっぱり行くのやめる?」


 君の顔を見ることはしなかったけれど、きっと君は俯いたのだろう。

 しばらく沈黙が続く。


 君が母親を心配する気持ちが、僕にはよく分からない。

 君をあの部屋に閉じ込めているのは、間違いなく君の母親なんだ。


 君の母親がもっとしっかりしていたら、君は次の春から自由になれるはずだった。

 いや、それなら、とっくの昔に自由になれていたはずだ。

 今からだって遅くない。

 君が自由になれないのは、バスへ歩き出せない理由に他ならない。

 飛べない母親から巣立つことは、そんなに難しいことだろうか。


「……手、繋いで」


 君は僕が応える前に、自分から僕の手を握る。


「手、引いて。連れて行って」


 君の言う通りに、震える左手を引き、バスまで再び歩き出す。


 スーツケースを預け、乗車券を見せ、バスに乗り込む。

 夜行バスが出発し、窓側に座る君の横顔をふと見た。

 君は声も上げずに涙を流している。


 僕は君の母親には何とも思っていないけれど、君がそんな風に泣いていると、僕が無理矢理に二人を引き裂いたみたいじゃないか。

 君が行こうと言ったのに。

 君が連れて行ってと言ったのに。


 だったら、どうしてそんな顔をするんだよ。



   〇   



 去年の十二月、とは言っても、二ヶ月前のことだ。


 卒論が済んでいる君は就活に勤しみ、反対に、既に入社が決まっていた僕は卒論に追われる日々だった。


 一言で言えばそんな感じだが、実際はもっと君は優秀で、僕はぎりぎりだ。

 君も既に内定をたくさん貰っていたが、もっと良い条件の企業を探して、就活を続けていた。

 僕は数多受けた企業の中で、辛くも受かったたった一つの内定に早いところ飛びつき、残りの日々を卒論完成に費やすことにした。

 正反対以上に、正反対な僕たちだ。


 ある朝、連日ゼミの研究室に篭り、卒論をくどい言い回しで一文字一文字埋めていく僕の元に、君がやってきた。

 リクルートスーツを着て現れた君は、クマができてパンダのようになった僕を見るなりおかしそうに笑った。

 君に促され、食堂で小休止を取ることにし、甘い缶コーヒーを啜る。


「やっぱり実家から通えるところにしようと思うの」


 紙コップの水を見つめながら、君はぽつりと言う。


 何徹目かも分からない頭では、一瞬何のことか分かり兼ねた。

 独り言みたいに零れたその言葉が、どれだけ馬鹿げたことかをやっと理解する。

 僕は思わず立ち上がり、大きな声を出してしまった。


「何言ってんだ、考え直しなよ」


 僕の大声に一つも顔色を変えず、君は悲しく微笑み続ける。


 何だか虚しくなって、ゆっくりと座り直す。


「ごめん」


 弱々しく謝る僕に、君は変わらず笑ったまま。

 それが余計に自分の稚拙さを浮き立たせる。


 けれど、君がやろうとしていることを正しいとは、やっぱり思えなかった。

 自分なりの正しさですら持ち合わせていない僕だけれど、そればかりはおかしいと感じる。


 これまでの就活で君が勝ち取った優良企業や上場企業、あらゆる大手の内定を全部蹴って、地元の小さな食品会社への入社を決めようとしている。

 理由はただ一つ、実家から通えるから。


 この街を出て東京へ行けば、君の暮らしはもっと豊かになり、自由になり、君に相応しいものになるというのに。

 収入や福祉も、東京の会社の方がずっと充実しているのに。


 ただ母親が気掛かりなばかりに、君はこの街から動けずにいる。


「東京に行ったって、こっちに帰っては来れるだろ」

「一年目はどうなるか分からないよ。それに、あたしが出ていったら、おばさんの嫌がらせがもっとエスカレートしそうだし」


 そんなこと、君には関係ないじゃないか。

 君の母親がしっかりしていたら、嫌がらせだってされずにいたんだ。

 君の母親が選んだ不幸に、どうして君が付き合うんだよ。


 けれど、君はあの時と全く同じ顔で、何を言っても無駄なんだと悟る。

 君が決める進路なら、最終的に僕は何もできない。


「大学の時と同じじゃないか」


 缶コーヒーに視線を落とし、ふてくされたように言った。

 君の表情は見れなかったけれど、やっぱり笑っていたんだろう。


「今日受ける会社で就活も終わりにするつもり」


 君は立ち上がり、スカートの裾の皺を直す。


「じゃあ……卒論、頑張って」


 紙コップをゴミ箱に捨て、君は食堂から出ていく。

 ヒールが床を叩く音だけが遠ざかる。


 僕が入社する会社は神奈川にある。

 君が東京の大手にでも就職すれば、もしかしたら一緒に暮らせるかもしれないと、どこかで思っていた。


 浅はかなのは、どう考えても僕の方だろう。



   〇   



 バスに揺られている間、君はカーテンの隙間から見える外の景色をずっと眺めていた。

 湿った頬に街灯や信号の灯りが照る。

 そんな姿を見ていたら、このまま死ぬまで夜の中を走り続けていたいと思った。


 やがて君も僕も眠りに落ちた。

 いつ始まったかも分からない眠りはバスのアナウンスで覚める。

 予定よりも少し早めに到着したらしい。


 まだ日も昇り切っていないが、早めの街の観光に向けて歩き出す。


 バスを降りたら、君の足取りはいつも通りに戻っていた。

 涙に濡れた頬もとっくに乾いていて、朗らかに綻んでいる。


 街を歩いて行くほどに、地元とは違う景色がどんどんと現れ始める。

 本当に君と旅行に来れたのだと、嬉しくなった。


 けれど、君は違った。


 歩き進む中で、ふとした瞬間に突然立ち止まってしまう。

 その度に今にも泣き出しそうな顔をするので、僕も何も言えなかった。


 ここまで来ても、母親のことがどうしても頭から離れないみたいだ。


 君が立ち呆けて何回目かの時、君に手を差し出してみる。

 すると、君は黙って僕の手を握って、掠れた声で零す。


「連れて行って」


 それからは、君が立ち止まることもなかった。

 次第に明るい笑みが増え、やがて観光に夢中になっていく。


 これこそ、君に相応しい。

 満足げにそう思いながら、君の手を引いて歩き続ける。


 色んな観光名所を巡り、色んな美味しいものを食べ、色んな雑貨を眺め、写真も何枚か撮った。

 今日のためにインスタントカメラを買い、撮り方も少し練習してきた。


 どこに行っても君が居て、どの写真にも君が映っている。

 僕は撮る側に徹し、ただ君だけを映し続けた。


「今度現像するから」


 何の気なしに発した言葉だった。


「大丈夫。お母さんに見つかったら、今日のことバレちゃう」


 そう言って見せた君の笑顔が、もう先程までの溌溂としたものではなかった。

 視線を落とす君を見て、僕は少し悔しくなった。


 結局どこに行ったって、帰ったら君の母親が居る生活だ。

 それなら、せめてどこかに行っている間は、君と僕だけで居られると思った。

 今も君だけを連れ出せたつもりでいた。


 けれど、ここにも君の母親がずっと居る。

 君が連れてきてしまった君の母親が現れる。


 今くらいは、置いてきてほしかったよ。


「そっか、そうだよな」


 そう言いながら、薄く笑ってみせたけれど、君にはバレていただろう。

 愛想笑いは上手じゃない。

 引っかかったものに気付かないフリをするのも得意じゃない。


 君と目を合わせられなくて、代わりに腕時計で視線を紛らわせる。

 気付けば、旅館のチェックインの時間が近づいてきている。


「そろそろ旅館に行こう。良いところ予約したんだ」


 すると、君は本当に嬉しそうに笑うから、危うく騙されそうになる。

 いっそ騙されるくらい鈍く生まれて来れていたら、どんなに良かっただろうか。



   〇   



「これ素敵だねえ」


 チェックインしてすぐ、部屋に用意された浴衣に目を輝かせる。

 すぐさま着替えた君は、鏡の前に立ってポーズを決めている。


 大きい荷物を部屋に置いて、この後も少し街を見て回ろうかと思っていたけれど、それは明日でも十分できる。

 今日はこのまま旅館でゆっくりすることにしよう。


「ねえ、早く温泉入ろうよ」


 君は洗面用具の入った巾着を抱えて、僕を急かす。


「ちょっと待って」


 僕も荷物を解き、急いで準備をする。


 時刻はまだ四時を過ぎた頃。

 風呂に浸かるのには少し早い時間帯だけれど、それも悪くない。

 今は君がしたいようにさせてあげたい。


「じゃあ、また後で」


 青い暖簾の前で手を振り、赤い暖簾をくぐる君を見送る。


 今の時間帯の風呂は人も少なく、広々として気持ちが良い。

 鼻歌混じりに体を洗い、湯気立つ岩風呂に足を踏み入れる。

 体中に熱が伝って、気持ち良い痺れに包まれる。


 ゆっくりと体を湯に沈める時、思わず息を止めてしまう。

 肩まで湯に浸かり、ようやく呼吸を思い出し、声とともに息吐く。


 竹垣の向こうでは、きっと君も湯に浸かっている。

 そんなことでいちいち顔を赤らめるほど乏しい僕ではない。

 日頃のしがらみを忘れ、少しでもリフレッシュできていたら良いなと思う。


 長風呂は得意ではないので、粗方お湯を堪能したらすぐにあがる。

 服を着終える前に、体重計が目につく。

 こういう場所にある体重計は、見つけると乗らずにはいられない。


 浴衣は歩きづらいからあまり好きではないけれど、君が嬉しそうに着ていたことを思い出し、結局袖を通した。

 青い暖簾をくぐり、辺りのベンチやソファを見回すが、君はまだ出てきていないようだった。


 近くの竹製のベンチに腰掛け、君を待つ。

 しばらく時間が経ち、良い感じに体も冷めてきた頃、君が赤い暖簾の奥から現れた。


 すぐにこちらに気付き、嬉しそうに駆け寄ってくる。

 火照った肌と湿った髪の毛に加え、浴衣姿も相まって、いつもより色気をまとっている気がした。


「すごいね。気持ち良かった」


 君は隣に腰掛け、はしゃいだ様子で感動を語る。

 連れてきて良かったと、改めて感じる。


 部屋に戻る前に、風呂上がりには欠かせないコーヒー牛乳を二人で飲む。

 君は飲んだことがないと言うので、これくらいは僕が奢らせてもらった。


「美味しい」


 先程までのような弾けた笑みではなく、しっとりとした口調で感嘆する。


 部屋に戻り、夕ご飯までの二人だけの空き時間をゆったりと堪能する。

 広縁のソファに座り、君は暇潰し用に持ってきたという文庫本に耽る。

 向かいのソファに腰掛けた僕は、窓から見下ろせる庭園を見ていた。


 先月、この地域を襲った豪雪は、急激な気温の変化により跡形もなく溶けてしまっている。

 できたら雪を被った庭園も君に見せてあげたかったけれど、今は何より本に夢中らしい。


 君がその本を読むのは、一体何度目なのだろう。

 外国の中編集だ。

 会う度に同じ本を読んでいる君を見て、一度別の本をプレゼントしようと言ったことがある。

 もしかしたら、新しい本を買う出費を気にしているのかと思った。


 けれど、君は断った。

 この本が良いのだと。


 それを聞いて、僕も悪い気はしなかった。


 夕ご飯は会食場に用意されており、その際も君は大いに感動する。

 けれど、はしゃぐ自分を律するように、すぐに瞳の輝きを曇らせた。


「あたしだけ、良いのかな」


 小さく零れた言葉が僕の鼓膜を貫いて、そのまま心臓を抉り取られるような気がした。

 君が苦しむ必要なんてないのに。

 ここにも君の母親が散らついている。


 後ろめたさに再び苛む君と、君の言葉を引きずる僕では、会話も上手く弾むはずもない。

 お酒の力で吹き飛ばそうとも思ったけれど、生憎酒が美味いと感じられる舌を持ち合わせていない。

 気まずい空気が舌に乗り、料理の味も分からなかった。


 部屋に戻り、敷かれていた布団に包まれながら、明日の予定を確認する。

 とは言っても、基本的に街をぶらぶらと観光するだけなので、守るべきスケジュールもない。


 緩やかに夜が更って、零時を回る頃には君はもう眠たいようだった。

 夜行バスではよく眠れなかったようだし、観光の途中も母親が片隅に居続けて、心身ともに疲れたことだろう。


 歯磨きを済ませ、それぞれの布団に潜る。


「電気、消すよ」


 リモコンのボタンを押して、部屋の灯りを消す。

 街の微かな灯りが結露した窓に映り、ぼやけながら部屋に差し込む。


「豆電球にしよう」


 君はやけに目の覚めた声で提案した。

 再びリモコンに手を伸ばし、暗がりの中で目を凝らしてボタンを押す。


 弱い橙の灯りが落ち、君の顔がぼんやりと暗闇に浮き上がる。


「今日はありがとう」


 突然のお礼に、一瞬言葉を失った。

 正直、本当はそんなこと思っていないだろうと思っている。

 だから、「どういたしまして」とも、返すことはできない。


 代わりとしてはあまりに不相応だろうけれど、ずっと抱えていた問いを投げた。


「どうして、温泉行こうって言ったの」


 少し間を空けて、やがて答えが返ってくる。

 短い沈黙が一生続くような気がした。


「前も言ったじゃない。最初に誘ったのはそっちでしょ」


 それは前にも聞いた。

 僕が聞きたいのはそんな濁った答えじゃない。


 どうして、今になって改めて行こうと思ったのか。

 僕にはそれだけが不思議なんだ。


「……あの子が居なくなってね、思いの外、堪えたんだと思う」


 あの子とは、君の家に居た猫のことだ。


 君がショックを受けていたのは、僕にだって分かった。

 そもそもずっと可愛がっていた猫が死んで、堪えない人もなかなかいないだろう。


 けれど、それがきっかけだとしても、君が母親を置いて、旅行に行こうとするだなんて思わなかった。

 君にとって、あの猫が母親よりも大切な存在だったということなのだろうか。

 いや、この際、その二つを天秤に掛けることは、大して意味のないことなのかもしれない。


「今は、少しだけ後悔してるの」


 君は目を閉じたまま、天井に向かって言う。


「正直、自棄になってた。あの子が居なくなって『どうして』って気持ちでいっぱいで。でも、どうしようもなくて。どこかに行ってしまいたくなって」


 相槌も打たず、君の声に耳を傾けるだけだった。


「でも、こうしてお母さんを置いて、お母さんの居ない場所に来たら、お母さんのことばかり頭に浮かぶの。ごめんね、せっかく連れてきてもらったのに」


 君の顔を見れなかった。

 豆電球が点いていることを、こんなにも怖く感じるのは初めてだ。


「お母さん、おばさんにいじめられてないかな。縫い物して、怪我なんかしてないかな。お母さんまで居なくなってたら、どうしよう」


 啜り泣く声は次第に大きさを増していく。

 遂に放たれた君の嗚咽に、僕は何も言えない。

 結局、曇天の下で君の手を握ったあの日と、僕は何も変わっていない。


 君は寒さに耐え兼ねたのか、僕の布団に潜り込み、抱き着いてくる。


 君の涙が温かくて、それ以上に君が熱くて、このまま溶けてしまうんじゃないかと不安になる。

 それなのに、両腕は君を離せないまま、強く抱きしめる。


 君が求めたのは人肌の温もりで、決して僕ではない。

 それは分かっている。

 それでも、今が一番幸せだと思ってしまった。


 大概、僕も救い難い。



   〇   



 もう四年前になる。

 高校生活も残すところ四ヶ月に迫った終わりの季節。


 街路樹は人々と逆行するように葉を散らす。


 君の家に遊びに行ったその日、君の母親は仕事で出かけていて、少し安心していた。

 いくら断ってもお菓子やジュースを出そうとするから、こっちとしても顔を合わさずに済む方が気が楽なのだ。


 あの時はまだ猫も生きていて、僕にも大分懐いていた。

全身白い毛の中に、頬にだけ穴が空いたような黒い斑点が一つある。

 僕の胡座の中に入り込み、丸まって暖を取っている。


 君もその姿を微笑ましく見つめる。


「やっぱり、大学は諦めようと思う」


 突然放たれた言葉に、僕は一瞬息が止まる。

 君が何を言っているのか、分かり兼ねた。


「……何で?」


 訳が分からなかった。

 君は学校でも成績優秀で、先生からの評価も高い。

 君が行こうと決めてしまえば、どこの大学だろうと好きに行けてしまうだろう。


 それなのに、どうして大学を諦めるだなんて言うんだよ。


「お母さんに負担かけられないから」


 君の家の事情は知っている。

 けれど、君が自ら立ち向かう必要などない事情だと思った。


「国公立だったら、そんなに負担はかからないんじゃないの?」


 どうしても君に大学を諦めないでほしくて、色々と打開案を提示する。


「私立でも、奨学金とか借りれば何とかなるよ」


 けれど、君はどれにも首を横に振るばかりで、何を言っても無駄なんだと気付く頃には、打開案も弾切れを起こしていた。


「……就職するってこと?」


 君は渋い顔で頷く。

 今の時期から就活しても、良い条件の企業も残っていないだろう。

 そもそも高卒を雇ってくれるかもシビアな問題だ。


 大学に行けば、何不自由なく君は羽ばたけるというのに、君の母親が居るばかりに。


 猫が僕の膝の上からのそのそと抜け出し、君の方へと歩み寄る。


 そいつの餌代が無くなれば、君の気持ちも少しは変わるのだろうか。

 なんてことを思ってしまい、すぐに自戒する。


 君に大学に行ってほしいのは改めようもない本心だけれど、押しても引いても梃子でも動かないという顔をしてしまっている。

 もう僕にはどうすることもできない。


 あわよくば君と同じ大学に行けたら、なんて考えが誰かに見透かされてしまったのだろうか。


 その日の帰り道、息苦しくて仕方がなかった。

 どうして君の人生が母親によって狭められなければならないのだろう。


 なんてことを思いながらも、君という他人の人生で一喜一憂している僕も大概だと思った。


 けれど、君の母親が大学進学を後押ししたことで、あらゆる奨学金を利用して結局大学へ入る。

 君も最初は渋ったそうだが、「心配しないで」の一言で、君は進学を決意した。


 僕の言葉では微動だにしなかった君を、君の母親は簡単に動かしてしまう。

 それが僕にとっては悔しさも忘れるくらい、虚しいことだった。


 せめてもの足掻きとして、血の滲むような思いで勉強し、君と同じ国立大学を受験した。

 家に届いた合格通知を見て、あんなにも感動しなかったことはない。



   〇   



 いつ寝たのかは分からないが、抱きしめていたはずの君が起きた時には布団から居なくなっていた。

 寝ぼけた頭には良い目覚ましのようで、思わず飛び起きる。


 部屋を見渡して、すぐに君を見つけた。

 広縁のソファで相変わらず本を読んでいる。

 霞む視界が朝日で余計に眩み、君の陰が真っ黒に染まって見えた。


「おはよう」


 君の声で気持ちが落ち着き、やっとその表情も鮮明に映る。


「……おはよう」


 君はいつものように笑っていた。


 僕は布団から出て、着崩れた浴衣を直す。

 寝づらい点も浴衣が苦手な理由の一つだ。


 朝ご飯までの少しの時間は、身だしなみを整えただけで費やされる。


 朝食はバイキング形式で、大いに喜ぶ君だったけれど、その割にはあまり食欲が湧かないようだった。

 少し心配したけれど、具合が悪いようでもなさそうだ。

 また、母親が頭に浮かんだりしたのだろう。

 あえて何か言うようなことはしなかった。


 朝食を済ませ、街へ出る準備をする。

 荷物を厳選し、今日巡る場所を君と決める。


 何か素敵な風景に出会えたら良い。

 何か美味しいものを食べられたら良い。

 写真も何枚か撮れたら良い。


 その全てに君が居れば良い。


 そんなことを思い、観光マップを指差し合いながら話す。

 その時、突然君の携帯電話が鳴いて震え出した。


「家からだ」


 不安げな表情で、表示された電話番号に声を零す。

 怯えるように鳴り響くベルを止め、君は電話に出た。


「もしもし」


 携帯電話を耳に当て、君は通話の相手に恐る恐る声をかける。


「ああ、どうも……はい、いえ、今は出かけていて」


 母親に対してとは違う君の対応から、電話の相手が母親でないことに気付く。

 おおよそおばさん辺りだろうか。


「はい……え、どういうことですか」


 会話が進むにつれて、君の表情は曇りを増していく。

 僕は何となく諦める準備をする。


「……はい、はい、分かりました。はい、ありがとうございます」


 通話を切った君は、曇ったままの顔で笑いながら謝る。


「お母さんが倒れたの。ごめん、帰らなきゃ」


 無理をしていることなど声色で丸分かりだ。

 上擦る声と震える手は笑顔くらいじゃ隠せない。


 僕は君の頭に手を伸ばす。


「泣いても良いよ」


 我慢のあまり肩が揺れている君だが、それでも笑い続けた。


「泣いてる暇もないから」


 けれど、とっくに涙は流れていて、堪えようもなく細い手指が震えている。

 せめて一緒に泣いてあげられたら、君も少しは楽になれたのだろうか。



   〇   



 嗚咽を垂れ流しながらも荷物をまとめ、旅館をチェックアウトする。

 一日分の宿泊費が無駄になってしまったけれど、そんなことで嘆くほどの余裕もない。


 僕も一緒に帰ることはないのだけれど、凶報で帰る君のあとに楽しく旅行を続けられるだけの図太い神経を生憎持っていない。

 それよりも精神的に参っている君がちゃんと帰れるかどうかが、何よりも心配だった。

 君の母親の容体よりも、心配だった。


 タクシーで駅まで向かい、荷物を抱えて走る。

 新幹線にもぎりぎり間に合い、ひとまず胸を撫で下ろした。

 何とか昼過ぎには君の母親が搬送された病院に辿り着けそうだ。


 席を取る余裕もなく、デッキで到着を待つ。

 その間、君は流れる景色を狂ったように眺め続けていた。

 君が見つめるその先には、一体何が見えるのだろう。


 一方、僕は何を考えていたのか、新幹線を降りた時にはもう忘れていた。

 何も考えていなかったのかもしれない。

 そうだったら、有難い。

 少なくとも、君の母親が居なくなれば、なんてことよりかはずっとマシなはずだ。


 駅に着いても一息吐けるはずもなく、降りてすぐ走って電車へ急ぐ。

 それでも、電車に乗った途端、じっと外の景色を見続ける君を見て、君らしいと感心してしまった。

 どれだけ強い人間なのか、僕には計り知れない。


 君を心配して付いてきた僕だけれど、杞憂だったのかもしれない。

 君を僕なんかが助けられると思ったのが、間違いだったのかもしれない。

 僕なりに努力する意味も、君は与えちゃくれないのだから。


 そうして最速を尽くし、病院に着いた時には、僕も君も汗だくになっていた。

 北風が肌寒く、けれど、気持ち良い。

 こんな時に考えることじゃないけれど。


 息切れ混じりで受付に駆け込み、君の母親が運ばれた病室へ案内される。


 遂に辿り着いた病室へと入る。

 四人部屋の病室には、綺麗に整えられたベッドが三つと、部屋に入って右手窓際の空間だけがカーテンで遮断されている。


 カーテンを開け、君はやっと再会を果たす。

 呼吸器と点滴を付け、鉛のように横たわる君の母親の顔は酷く青白く染まっていた。


 僕はてっきり死んでしまっているのだと思った。


 看護師が医者を連れてきて、話を伺う。


 倒れていた君の母親を見つけたのは、おばさんだった。

 君の家にやってきたおばさんが、部屋で意識を失っている君の母親を発見し、救急車を呼んだ。

 その後、君に電話をかけ、戻ってくるように言った。


 君の母親はかなり危険な状態だったそうだが、今は意識も安定していると、医者が話した。

 原因は過労だと言う。

 僕らは納得せざるを得なかった。


 幸い、既に体は回復を始めているそうだが、しばらくは入院する必要がある。

 保険がどれくらい下りるのかは分からないけれど、君の家にとっては手痛い出費だろう。


 医者と看護婦が病室から立ち去る。

 入院の手続きは気持ちが落ち着いてからで良いと、気を遣ってくれた。


 君はベッドの横の丸椅子に崩れるように座る。

 母親の顔色が君にまで移ってしまったかのように精気を失くしている。

 もう涙も出ない。

 ただただどす黒い雲が君の顔を覆い尽くす。


 けれど、すぐにはっとして、僕の方を見た。


「ごめんね」


 無理矢理に笑ってみせて、そう言った。


「付いてきてくれてありがとう。もう帰っても大丈夫だから」


 その言葉が僕には何より悔しかった。

 もう僕にできることはないのだと、はっきりと言われたようなものだった。


 さらに最悪だったのは、思わず泣いてしまったことだ。

 君を差し置いてこの場所で僕が泣く資格なんてないのに。


「ありがとう、ごめんね」


 依然笑ったまま、僕に言う。

 僕はひたすら首を横に振り、涙を零し続ける。


 ありがとうなんて要らない。

 君の母親のために泣いているわけじゃない。

 君のためですらない。


「ごめん、部屋から出るよ」


 僕は荷物を置いたまま病室から立ち去る。

 目元を隠しながらトイレへ駆け込み、洗面器の縁に手を当てて項垂れる。


 君の母親の青白い顔はもう思い出せなくなっていた。

 僕にとって、君の母親の悲劇は君の悲劇でしかない。

 君の悲劇は僕の悲劇でしかない。


 それを嫌だと知りながら、言葉にできてしまう自分がもっと嫌だ。



   〇   



 涙を拭い切り、病室へ戻る。


 部屋に入る手前、開け放しの扉から部屋の様子が覗き見えた。


 いつの間にか戻ってきていたおばさんが、君に怒鳴っている。

 とても真剣に、まるで君のためを思ってのことのように。


 僕は入るタイミングを失い、扉の脇からただじっと傍観していた。

 ふと君がこちらに気付き、目が合う。


 しかし、余所見をしたことが油となり、おばさんの大火は君に手を上げるにまで至らせた。


 静閑な病室に、君の頬が弾ける音だけが響く。

 僕は血管が切れるような感覚を何となく感じながら、気付いた時には君に向かって走り出していた。


「大丈夫だから」


 君の一声で、立ち止まる。


 僕だっておばさんを殴ろうとしていたわけではない。

 情けないけれど、そんなことをする度胸もない。


 けれど、せめて君を守りたくて、君の壁にでもなれたらと思った。

 それすら君は必要ないと言う。


 おばさんもこちらに気付き、呆れた顔で僕を見る。

 だらだらと嫌味を言われ、僕も何となく謝るけれど、内心は笑顔とともに放たれた君の冷たい一言だけでいっぱいだった。


 やがて言うだけ言ったおばさんは、高級ブランドのハイヒールを小うるさく鳴らしながら去っていった。

 その背中が見えなくなり、君へ向き直る。


「大丈夫? 腫れたりしてないか?」


 赤い頬を緩ませ、やっぱり君は笑う。


「心配しないで。あたしが悪いの」


 頬の赤さのせいで目立たずにいたが、よく見ると目にも赤みが差している。

 僕が部屋を出て、君もやっと強がらなくて良くなれたのかな。


「僕が連れ出したから」


 僕が言い切る前に、君は首を横に振る。


「あたしが頼んだことだよ。あたしのせい」


 けれど、僕が最初に君を誘ったりしなかったら。


 そんなことを言っても、きっと納得してくれないだろう。

 僕が罪を被ることさえ、君は許してくれない。


 ずるいと思ってしまうけれど、それは都合が良過ぎるのだろう。



   〇   



 波乱に終わった旅行から、一ヶ月が過ぎた。


 一週間ほどの入院を経て、君の母親は順調に回復した。

 今でも通院で検査をしており、以前のようにやつれるほど働くこともなくなった。

 君も心配事が減ったのか、前よりも生き生きとしていることが多くなったように思う。


 気付けば、春が来てしまっていた。


 見慣れてしまった曇天の下、開花を待つ桜並木の通りを君と歩いている。

 こうして君と並んで歩くことも、今後はできなくなるだろう。


「内定、蹴ろうと思う」


 僕が言い放った言葉に、君は立ち止まる。

 それに合わせて、僕も遅れて歩みを止める。


 少し後ろの君に振り返ると、驚いていた。

 けれど、すぐにいつもの困ったような笑顔を見せる。


「どうして?」


 君はまるで子どもをあやすように訊く。

 一体僕が何を言ったら、君は動揺してくれるのだろう。

 別に、冗談で言ったわけでもないけれど。


「僕もここに一緒に残ろうと思うんだ」


 あくまで真剣な表情で答える僕だったが、君には見透かされていたのかもしれない。


「仕事は? 他にも内定貰ってるの?」


 僕は横に首を振る。


「しばらくはフリーターだけど、何とか中途で仕事探すよ」


 馬鹿げていると、自分でも思った。

 そんな甘い考えを、恥ずかしげもなく君に晒していることが何よりも馬鹿馬鹿しい。


「どうしてここに残るの?」


 君が鈍くないことは知っている。

 誰よりも気遣いで、そのせいで苦労してきた君だ。

 だからこそ、その問いには答えなかった。


「……一緒に暮らさないか?」


 質問を無視して返した言葉は、さらに馬鹿げたものだった。

 それでも、僕なりに考えたことだ。

 君のためだと信じて、考え抜いた結論だ。


「君の実家から近いところで良い。君のお母さんといつでも会える部屋で良い。そこを借りて、二人で暮らそう」


 君は呆れたかもしれない。

 やっぱり笑って、諭すように言う。


「できないの。ごめんね」


 分かっていた。

 そう言われることくらい分かり切っていた。


 もしかしたら、見限られるかもしれないと思っていた。

 もう会ってもらえないかもしれないとも覚悟していた。


 そんな思考さえ君には見透かされていたのかもしれない。

 僕が最初から諦めていたことは、バレバレだったのかもしれない。


 だから、覚悟していたよりもずっと優しくされたことが、僕には耐えられなかった。


「……どうして?」


 情けなく、惨めたらしく、訊ねる。


 理由なんて分かり切っている。

 僕が分かり切っていることを、君も分かり切っている。


 けれど、君は僕とは違って、はっきりと答えてくれた。

 それが、何よりも僕には痛いことだった。


「お母さんを置いていけないよ」


 案の定の答えが、今までぎりぎりで耐えていた僕を遂に壊す。

 今まで言えなかったこと、聞けなかったことが、箍が外れた口から垂れ流される。


「どうしてだよ。何でそんなにお母さんを見捨てられないんだよ」


 それだけがずっと分からない。

 君を苦しめているのは、君の母親だけじゃない。

 けれど、君の母親も間違いなく君を苦しめている。

 飛べるはずの君にいつまでも寄りかかっているのは、君の母親に他ならないんだ。


 それなのに、君はどうしてそれを許してしまうんだ。

 どうして僕は君に必要ないんだ。


 君のために生きたい僕は、僕を要らない君にどうしたら受け取ってもらえるんだ。


「お母さんは、とっくにあたしを必要としてないよ」


 いつの間にか、僕は泣いていたらしい。

 それに気付いたのは、君の言葉で冷静になれたからだろう。


「お母さんは好きな会社に行けば良いって言ってくれたの」


 僕は混乱していた。

 耳から入った君の言葉が行き場を失う。

 頭は既に理解することをやめてしまった。


「あたしが離れられないだけなの」


 君は笑っている。

 どこにも視線を向けずに零れた笑みは、まるで自分に向けられているように見えた。


「お母さんが心配なフリして、実のところはお母さんを信じ切れないだけなの。だから、いつまでも離れられずにいる」


 僕の顔を見て、より一層君は笑った。

 僕の泣き顔はさぞ滑稽だろうけれど、そういうわけじゃない。


「寄りかかってるのは、あたし」


 ただの自虐のくせに、あまりに綺麗に笑うから、僕も泣いていることがおかしく思えてしまった。


「あたしのこと、大事にしてくれてありがとう。本当に、全部嬉しいの」


 距離を詰め、僕の手を取る。


「ごめんね。そうしてあげたい人が、あたしにとってはお母さんなんだ」


 僕にとっての君が、君にとっては君の母親。

 だとしたら、飛ばないことを選んだ君に、いつまでも寄りかかっているのは。


 やっと腑に落ちた。

 君が君の母親を見捨てられない理由も、君が縛られている理由も。


 涙はもう流れない。

 落ち切らない涙を拭い、君に倣って笑ってみせる。


「ごめん、色々変なこと言って。神奈川で頑張るよ」


 君は頷いて、握った手を離さずに再び歩き出す。


 桜は散りも咲きもせず、空は雨降りも晴れもしない。


 僕が君のために生きようとしていたこと。

 振り返ればこんなにも馬鹿馬鹿しいことはない。


 そして、僕ができなかったことをずっとやっている君は、相当な大馬鹿者なのかもしれない。

 僕にとっては、それが何より羨ましかった。



   〇   



 ずっと前のことだ。


 高校生になって幾月が経ち、ほど前からはマフラーを巻いて登校する毎日だった。


 特に部活動に入っていたわけではない僕は、帰ってもやることがないので、ホームルームが終わっても教室で本を読んで過ごしていた。

 同級生が部活に行くなり帰るなりして去っていく教室は、やがて僕一人になる。

 一人だけの教室で暗くなるまで本を読み、日が沈んだら帰路を辿る。


 その日も教室で本を読んでいた。

 自分の机に突っ伏して、文庫本を遅読ながら読み進める。

 その日は、外国の中編集を家から持ってきた。


 どうしてか、眠たい一日だったことを覚えている。

 敷き詰められたたくさんの文字が徐々にぼやけていき、あくびをする度に瞼が重たくなる。


 いつの間にか寝落ちしていた。


 次に起きた時、窓の外は真っ暗で、月も星も厚い雲に遮られていた。


 時計に目を向けると、短針は七の手前まで来ていた。

 そろそろ帰らなきゃと思い、席を立ち上がって初めて気が付く。


 その日はいつもと違い、僕だけの教室の中に、君も居た。


 君も自分の机に突っ伏して、静かに寝息を立ている。

 下校時間が迫っているが、穏やかに眠る君に声をかけるかどうか少し迷ってしまった。


 それまで君とは同じクラスではあるけれど、親しい仲ではなかった。

 お互い存在を知っているだけで、決してそれ以上の関係ではない。

 趣味も、好きなご飯も、名前の由来も、何も知らない。


 それに、君はいつも帰りのホームルームが終わると、誰よりも早く下校する。

 それだけに、今日こうして教室に残っているのは、何か事情があるのではないかと思った。


 だから、気安く話しかけて良いものか分からず、眠る君の横で動けずにいた。

 今思えば、ただ見惚れていたのかもしれない。


 その時、先生が教室に入ってきて、帰るように促される。

 何の教科の先生かは知らないけれど、とりあえず返事をする。


 先生が立ち去った後、君にもう一度目を遣る。

 今の会話の音量にも目を覚まさず、ぐっすりと眠ったままである。


 けれど、このまま置いて行くこともできず、結局声をかけた。


 いくら呼んでも起きないので、肩を揺すってみる。

 すると、薄く高い声が小さく漏れ出て、うっすらと瞼が開く。


 顔をあげた君と目が合い、少し言葉に詰まる。


「もう下校時間だよ」


 何故かものすごく緊張したことを覚えている。

 何とか絞り出した言葉を聞くと、君は柔らかく笑う。


「ありがとう」


 その後、何がどうなったのか、一緒に帰ることになった。


 自転車通学の君は自転車を押しながら、一緒に並んで歩く。

 僕は電車通学なので、駅までの短い距離でお別れだ。


「どうして今日は残ってたの?」


 僕はそう問う。

 君は寂しい顔で俯いた。


「今日は家に一人だから、帰りたくなくて」


 それだけを答えて、あとは黙り込む。

 僕も追求するようなことはしない。

 初めの問いすら、訊いて良いものだったかも分からない。


「そういえば何を読んでいたの?」


 君は寂しさを笑顔で隠し、そう訊ねた。

 僕は鞄から本を取り出し、君に見せる。


「面白そうだね」


 君は笑顔を一層明るませる。

 それを見て、何だか息がしづらくなった。


「良かったら、貸すよ」


 君に本を差し出す。

 よくは覚えていないが、その時出した手はきっと震えていただろう。


「良いの? ありがとう」


 乾いた空の下、手袋していない手指が赤かった。

 気付けば、頬も、鼻先も、大きな瞳も少しだけ、赤く染まっている。

 それがあまりに綺麗で、季節がこのまま止まればと、思ってしまった。

 春が来なければと、思ってしまった。


 駅に到着し、君は自転車に跨る。


「またね」


 手を振り合い、ペダルを漕ぐ君が遠く離れていく。

 それを見つめながら、マフラーを鼻まで上げてなるべく顔を隠した。


 君はあの本をとても気に入ってくれた。

 僕には難しい物語ばかりだったから、丁度良いやとプレゼントした。

 今もう一度読み返せば、理解できるかもしれない。


 あの日に抱えた心を忘れたことなどない。

 君と並んで歩きたいと、初めはただそれだけだった。


 君が僕を必要としなくても、構わなかったんだ。

 

『冬』

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