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短編集  作者: 因美美果
8/12

短編・8

 変幻自在の仮面を外し、顕になったあなたの素顔に見惚れていた。

 風のように涼やかで、石のように冷ややかで、夜のように無愛想なあなたが綺麗で仕方がなかった。


 僕では遠く及ばないことくらい分かっているけれど、それでも、あなたに愛想笑いをさせない程度には、あなたの拠り所になりたかった。

 僕の思い違いであることは明らかだったのに、どうしてあんな風に思えたのだろう。


 あなたが僕を選ぶことも、あなたが素のまま笑わないことも、あるはずがないのに。



   〇   



 あなたは大女優で、僕はただのフリーターだ。


 釣り合わないことはもちろん、話すことも出会うことも叶わない。

 そういう未来もあったのだと思う。

 実際、そうやってお互い死んでいくのだと思っていた。


 だって、あなたのような可憐な人が、漫画喫茶なんかに来るとは思わないじゃないか。


 アルバイト先の漫画喫茶は、広い割に客の少ない店だった。

 従業員は勤務時間外であれば店内の漫画雑誌類を読み放題というのを目的に、勤務を始めた。

 基本的に怒らない社員と、真面目過ぎないパートナーにも恵まれ、昼から深夜までの勤務を日々努力している。


 二十一時を回り出した頃、コミックの返却ボックスが山積みとなっており、その量に嫌気が差しつつも漫画棚に戻す。


 いつの間にこんなに溜まっていたのかは知らないが、店内の客数に比べると冊数が異常に多い。

 きっと誰かが一気読みしている。

 どうでも良いことだし、文句を垂れることでもないのだが、何となく腹が立つ。


 返却ボックスと漫画棚とを三往復し、やっと最後の一冊を戻し終えた。

 近頃、腰が痛くてこういう労働は勘弁願いたい。


 ふと横に目を遣ると、二つ隣の棚の前で背伸びをしている女性がいる。

 一番上の段の漫画に手を伸ばしているが、全く届いていない。


 察しがつくだろうが、それがあなただった。


 決して身長が高くないあなたにとって、この店のやけに段数の多い棚は天敵と言える。

 そのくせに台の一つも無いので、足りない距離は背伸びでどうにかするしかない。

 つまり、あなたは為す術がなかった。


 近付くつもりはなかった。


 見て見ぬふりが罷り通るなら、惜しげもなく使わせてもらう。

 けれど、その横顔を知ってしまっていたことが、運の尽きだった。


 なるべく見ないように立ち去ろうとした時、初めてあなたがあなただと気付く。


 雑誌にせよ、CMにせよ、映画にせよ、あらゆるメディアで連日取り上げられ、あなたを見ない日はないくらい、あなたは大スターである。

 新進気鋭の女優として名はすぐに広まり、もちろんすぐに僕の目にも触れた。


 一目惚れだったのだと思う。


 芸能人に一目惚れなんて画面越しで一方的なもので、価値を計ってしまえば大したことではないのだろう。


 けれど、僕にとってはあなただけが全てになってしまった。


 とは言っても、崇拝したり、傾倒したりするわけではない。

 常日頃からあなたのことだけを考えるわけでもない。

 あなたのためにお金を稼いだり、稼いだお金をあなたに貢いだり、熱心にするわけでもない。


 ただ、あなたを何かしらで見た時に「あなた以上に素敵な人はいないよなあ」と、偉そうに思ったりする程度だ。


 中途半端で格好悪いけれど、あなたにお金を注ぎ込めるほどの余裕は、僕の暮らしにはない。

 結局は、自分のために使いたいお金しか持っていない。

 あなたよりも自分の方が大切なのだ。

 許されないことだとは、思っていないよ。


 今こうしてあなたを前にしても、その思いは変わらない。

 あなたのために死のうとも思えないし、あなたのために生きようとも思えない。


 けれど、実物を見て、新たに感じることはある。

 あなたが僕のものになったら、どれだけ僕は幸せだろう、と。


「お取りしましょうか?」


 伸ばす手が一向に届かないあなたに、意を決して話しかけた。

 すると、びくりと驚いて、大きな瞳でこちらを見る。


 そんなに驚くことではないのに。

 こちらも脅かす気はないし。


 僕の声は届いているはずだけれど、返事がないどころか、口が開く気配すらない。

 仕方なく返答を待つのは諦め、本棚を見遣り新たに質問する。


「どの本でしょうか?」


 すると、あなたは指を差す。

 その仕草が世界中のどんな子猫よりも可愛かった。


 あなたが所望した本を取り、あなたへ手渡す。


「ごゆっくりどうぞ」


 僕は頭を下げ、その場から立ち去る。


 そこからは、先程までの閑散とした店内に、嘘のように客が入り始める。

 それでも、あなたに出会えた興奮がずっと冷め切らず、体の疲れも気にならずに退勤まで駆け抜けられた。


 終礼を終え、着替えを済ませて店を出る。

 勤務中にあなたが退店することはなかったので、深夜まで店内で過ごすのだろうか。


 店は商業会館の二階にあるため、階段を降りて出口へ向かう。

 ガラス扉の外、どうやら雨が降っているようで、建物を出た廂の下に誰かが立っていた。


 いつの間にか退店していたらしい。

 雨に足止めされるあなたが居た。


 天気予報を裏切って突然降り出した雨に、傘を持たないあなたは立ち往生する。

 生憎、僕は折り畳み傘を常に持ち歩いているので、問題ではなかった。


 けれど、あなたが雨に打たれるか止むまで立ち尽くすのを想像したら、その横を素通りするのも憚られる。

 それに、どちらかと言えば、あなたに話しかける絶好の機会だと思った。

 もしかしたら、相合い傘でもさせてもらえるかもしれない。

 それは無理でも、せめて傘を貸すくらいは。


 なんてことをたらたらと考え耽っていると、突然あなたは駆け出す。


 手を傘代わりにすることもせず、濡れることも厭わない。

 糸のように細い雨の中、遠ざかっていくあなたの背中から目が離せなかった。


 少しの間、そこに突っ立って、さっきまで居たはずのあなたのことを考える。

 夢が覚めた感覚なのに、熱はまだ冷め切っていなくて、ひたすら不思議な気分だった。



   〇   



 翌週、あなたはまた入店してきた。

 変装なのか、黒縁の可愛らしい眼鏡をかけている。


 そんなに居心地の良い空間ではないと思うのだけれど、余程漫画が好きなのだろうか。

 まあ、僕もあなたに会えるのなら、苦しいばかりのバイトも頑張れるというもの。


 二十一時過ぎ、店内が暇になってきたことと、コミックスの返却ボックスも空の状態なこともあり、漫画棚の辺りをしつこく見回りしてみる。

 目的は言うまでもないので言わない。


 すると、思惑通り、あなたを見つける。

 先週と同じ棚の前に立つあなたは、先週と同じように最上段の棚に手を伸ばしている。

 そして、やはり届かない。


「こちらですよね」


 僕があなたが求めているだろう漫画を取ると、あなたは驚きつつも小さく首を振った。

 どうやら僕が手に取った巻は既に読んだらしい。


 その後、やはり先週と同じようにあなたが所望の巻を指差し、あなたに渡す。


「ごゆっくりどうぞ」


 去り際、あなたが僕に頭を下げたのを見て、叫び出したい衝動に駆られた。

 こんなにも報われることはない。


 しかし、あなたと接してみて気付いたことがある。

 まだ二回しか会っていないので、データとしては不十分だが。


 どうやらあなたは人見知りらしい。

 いつも映画やドラマでは朗らかに笑い、溌剌としている演技をするから、そんなイメージはなかった。


 けれど、僕の声掛けや質問に声ではなくジェスチャーで返してくるあたり、口での会話は得意じゃないらしい。

 仏頂面で、正直愛想も感じられないし。


 けれど、才能やセンスのある人はえてしてコミュニケーションが苦手だったりするものだ。

 それくらいの欠点がある方が、色気も出るというもの。

 バラエティ番組で一切見かけないのは、きっとそういう理由もあるのだろう。


 天才に隠された一面を発見し、僕は得意げな気分になる。

 僕だけが知っている、なんてはずはないのに、まるで僕だけが気付けたことのように感じてしまった。

 あなたが僕だけに見せてくれたかのように感じてしまった。


 その日はそれきりあなたとの絡みもなく、退勤後もあなたを見かけることはなかった。


 翌日は早番からの出勤で、眠け眼を擦りながらカウンターに立つ。

 店内の稼働は一際落ち着いていて、いよいよ潰れてしまうんじゃないかと、不謹慎ながらワクワクした。


 そんなことを考えて暇を潰していると、まだ早朝にも関わらず、あなたは当然のように現れた。

 眼鏡に加え、マスクもしていて、徐々に変装の厚みが増している。


 にしても、余程漫画が好きなんだな。

 まさか朝から来ていたとは。


 そういう趣味があったとは聞いたことがなかったけれど、漫画好きなんて珍しくもない。

 取り立てて個性だと呼ぶことでもない。


「いらっしゃいませ」


 いつもよりとびきり丁寧に挨拶をし、会員証を確認する。


 ここまでは特に会話がなくても成り立つ作業だが、ここからは所望のブースの注文を取らなくてはならない。

 番号を言ってもらうなり、部屋のタイプを言ってもらうなり、客側の発言を必要とする。


「ご希望のお部屋はございますか?」


 持ち合わせていた朗らかさを惜しみなく使い果たし、あなたに訊ねるが、返答はない。

 ただ、返答する気がないわけじゃないらしく、口籠って返答できないらしい。


 迷っているのか、声を出すのが困難なのか、どちらにしてもこの注文の取り方は、あなたにとって都合が悪い。


 幸運なのは、あなたの性格を僕が知っていたということ。


 機転と言えるほど大したことではないが、案内用の紙を提示する。

 そこに部屋のタイプが記されているので、それを指差してもらう。

 その後はこっちで希望通りのブースを取れば良いだけだ。


 今まで対応したのがどの店員かは分からないが、これまでとは違う入店対応をお気に召したのか、あなたは初めて口を開いた。


「ありがとうございます」


 どんなに素敵な声だったかとか、どれだけ心地の良い感謝だったかとか、そんなことは正直どうだって良い。


 言葉にした途端に価値を失くしてしまいそうで、心の中で喜びを叫ぶことすらしなかった。


 どうしてあなたはこうも簡単に僕を喜ばせてしまえるのか。

 お礼くらい僕にも言えるはずなのに、どうしてこの価値は僕には無いのだろう。


 暇な時間が続くも、夕方にかけてはそれなりに入退店が激しくなる。

 それも二時間くらいの辛抱で、二十一時頃になれば結局のところ店内散歩しかやることがない。


 返却ボックスにあった三冊の漫画をゆっくりと時間をかけて本棚に戻していると、突然後ろから小突かれる。


 振り返ると、あなたが大きな瞳で僕を見つめていた。


 しかし、あなたは何も話そうとせず、やはり口籠らせている。


「如何なさいましたか?」


 一日中の労働で疲れは溜まっているが、丁寧さだけは忘れずに声に含ませる。


 すると、あなたは本棚の高い位置を指差した。


 それは、あなたが毎度手を伸ばすも届かずに困っていた、例の一番上の段だった。


 察しがついた僕は、あなたが所望する漫画を取る。

 毎回同じ作品を読んでいるけれど、読むのは遅い方なのだろうか。

 巻数も多いわけじゃない作品だし。


 その後は同じ展開で、僕が頭を下げて立ち去るだけだ。

 あなたも同じように頭を下げてくれる。


 回数だけで言えば、まだ三回しか接していない。


 けれど、今日あなたの方から僕を頼ってくれたことは、僕にとって死んでも良いやと思えるほどのことだった。


 相変わらず仮面のように無愛想な表情だけれど、それこそが仮面を外したあなたなのだと知ればこそ、あなたが綺麗で仕方がない。



   〇   



 幾日が経過し、今日も朝からの出勤だ。


 普段よりも少し忙しい二十一時を迎えた。

 まだ残っている清掃を放っといて、コミックスの棚戻し作業で一息吐く。


 すると、震えた声で「すみません」と、背後から聞こえてきた。

 静かな店内にさえ消え入るような細い声に振り返る。


 おおよその期待通り、あなたが立っていた。


「はい、どうされましたか?」と、笑顔で応えると、あなたは怯えるように声を紡ぐ。


 もはやいつも通りになりつつあるが、所望の漫画を取って渡す。

 僕にとっては嬉しいいつも通りだが、あなたからすれば早いところ台を設置してほしいだろう。


 僕が一礼して立ち去ろうとすると、いつもなら頭を下げ返してくれるあなたが立ち尽くしていて、もしかしたらまだ何かあるのかもと考えた。

 僕も去る足を止め、あなたの様子を窺う。


 やがてあなたの口が開き、覚束ない声が僕の耳に確と響いた。


「毎回、ありがとうございます」


 その一言を言いたいだけだったらしい。

 その一言に勇気を振り絞って、喉を震わせてくれたのだ。


 余程緊張したのだろうし、言い終えて余程安心したのだろう。

 仏頂面のあなたの頬が、僕の目の前で初めて綻んだ。


 惚れ直したと言えるほど、傲慢なこともないだろう。

 僕はあなたのことをちゃんと知らなかったんだ。


 今になって、やっと一目惚れができた。

 今まで見惚れていたあなたの魅力が、どれほど小さなものだったか、思い知らされた。


「いえいえ、いつでもお申し付けください」


 気持ちが悪いくらい、にやけていたことだろう。

 なるべく早く立ち去りたかった。

 あなたの前では、せめて格好つけていたい。


 あなたの微笑みがずっと離れず、それからの仕事は酷く粗末なものだっただろう。

 退勤する頃には、一日中働いた疲れよりも、あなたとの一瞬でのしかかった心労でくたびれていた。


 そう言えば、夜から雨が降る予報だったが、あなたは傘を持ってきているのだろうか。

 結構な土砂降りになるらしいし、以前のように駆け抜けるだけじゃどうにもならないだろう。


 傘さえ持っていればそれで済むのだけれど。


 一度考え出すと、嫌な思考は止まらなくなった。


 急いで着替え、傘を持って出口へ駆ける。

 外へ近づくほど、雨粒とアスファルトが弾け合う音が大きくなる。


 会館出入口のガラス扉の奥、廂の下には雨雲を見上げてあなたが立ち尽くしていた。


 内心ラッキーと思ってしまう。

 それが何より嫌な思考の正体だ。


 ガラス扉を開け、あなたの背中に近寄る。

 一本しかない折り畳み傘を取り出し、口を開く。


 けれど、声は思うように出てこない。

 今になって、声をかけて良いものか、分からなくなってしまった。


 迷う余地もないはずなのに、決意は鈍ったまま奮えない。

 その上、あなたと相合傘をするチャンスだ。

 下心しかないし、偽善でしかないが、こんな時に美しさなんて気にしていられない。


 傘も折り畳みの一本しかない。

 相合傘がどうと言うより、僕だって土砂降りに打たれたくない。


 これは決して間違ったことじゃない。

 欲の有無は問題じゃない。

 二人が雨に打たれない方法はこれしかない。


 そうやって無駄な思考で一瞬を費やしていると、あなたは雨の中に飛び出そうとした。


 まさかこの雨の中さえも駆けて帰るつもりか?

 けれど、間違いなく走り出す体勢だ。


 風邪を引いたらどうするんだ。


「あの!」


 理由をこねくり回すばかりだった声は、時さえ来ればあっという間に大声を発した。

 あなたはさぞびっくりしたことだろう。


 そりゃもう、駆け出す足も止まるほど。


 勢いよく振り返ったあなたは、髪をふわりと揺らして大きな目を丸くしていた。

 驚きのあまりなのか、それともいつも通りなのか、あなたは何も言わない。


 僕は折り畳み傘を半ば押し付けるようにあなたに渡す。

 あなたも勢いのまま受け取るが、同時に戸惑いも抱える。


「それ、使ってください」


 あなたは固まったまま僕を見つめ続ける。

 その視線に正気を取り戻され、一気に恥ずかしさが込み上げてくる。


 恥ずかしいことはしていないはずなのだけれど、あまりにも格好悪くて、居ても立っても居られなくなってしまった。


 逃げるようにその場から走り出し、勢いのまま土砂降りの中を駆け抜ける。

 顔に張りつく髪の毛先から、重たく足に纏わる靴下まで、一瞬でびしょ濡れだ。


 結局、相合傘もできず、濡れて帰る羽目になった。

 下心も偽善も全て言い訳に使って、恥も外聞もなく御託を並べたくせに、迎えたのはこんな結末だなんて。


 僕は何がしたかったのか。

 馬鹿なのかな。


 けれど、こっちの方が余程最善だと思う。

 少なくとも、相合傘よりは納得のできる選択だ。



   〇   



 しっかりと風邪を引いた。


 だからこそ、あなたを救えたと一人で悦に浸ることもできる。


「ごほっ」


 誰が称賛してくれるわけでもない。

 咳をしても一人、とは本当によく言ったものだと、常々感じる。


 あれからバイトも休みを貰い続け、かれこれ一週間くらい出勤していない。

 思いの外、風邪が重症化してしまい、熱と鼻水が一向に引かない。


 あなたは変わらず店に来ているのだろうか。

 こんなにもバイトに出たいと思ったことはない。


 あなたに会いたい。

 届かない手を伸ばして漫画を取ろうとするあなたを、いつものように助けたい。


 こんなことを思う日が来るとは思わなかったけれど、今の僕にとってあなたは大スター以上に身近で大切な存在なんだ。


 眩む視界で時計に目を遣ると、時刻は二十一時を回っていた。


 今日もまた虚しい夜が来る。

 万年床の上で過ごす夜も、もう飽きてしまった。


 風邪の治らない明日なんて要らないよ。



   〇   



 久しぶりに出勤したその日、あなたは店に来なかった。


 いつもよりも念入りに漫画棚周辺を掃除していたのだけれど、それも徒労に終わってしまった。

 その上、背の小さい中年男性に呼び止められ、棚上段に手が届かない、台くらい設置しろと、クレームをつけられる始末。


 空の心でひたすら謝るが、できれば台は置きたくない。

 唯一のあなたとの接点が無くなってしまう。

 あなたにとっては知らんこっちゃないだろうし、いつまでも僕に頼るのは面倒だろうけれど。


 中年男性の嫌な顔が退勤までこびりつき、腹の奥がむかむかとして気持ち悪い。

 こんな日はさっさと帰って風呂に入って死ぬほど酒飲んで忘れよう。


 けれど、変な感じだ。

 あなたに会ったのは、ほんの数週間前で、それまでは今日みたいな面白くない毎日だったのに。

 以前なら、こんなにも苛つきもくたびれもしなかったのに。

 あなたと会えないだけで、僕はこんなにも脆くなってしまったのか。


 あなたの方はどうだろう。

 僕と同じなはずはないだろうけれど、少しくらいは気の許せる人間になれているのだろうか。


 そう思いながら早足で会館を出ると、出口にあなたが立っていた。


 あまりに脈絡なく現れたものだから、あなたが視界に入ってきて思わずびくついてしまった。

 どちらかと言えば、現れたのは僕の方で、あなたは誰かを待つように待ち惚けているようだけれど。


 視線を落としてみると、あなたの両手はよく見覚えのあるものを持っている。

 それは、先日僕が貸した折り畳み傘だった。


 やがてあなたも僕に気が付き、一つ小さく会釈する。

 相変わらずの無表情のまま、折り畳み傘を差し出す。


「先日はありがとうございました。助かりました」


 僕はなぜだか戸惑ってしまい、上手く言葉が出てこなかった。

 いつもと立場が逆転してしまっている。


 差し出された傘をゆっくりと受け取り、その間に返答の言葉を考える。


「……いえ、こちらこそ、わざわざ届けてもらって……ありがとうございます」


 やけに重たい疲れに、背中もだらしなく猫の真似をする。

 もっとしゃきっとしたいのに、今ばかりは格好つける余裕もない。

 けれど、それで良いと思ってしまった。


 こんなにも安らぐ一日の終わりなら、忘れるための酒なんて必要ない。


「……今から、お店に?」


 このまま別れるのが何だか惜しくて、他愛もない質問をする。

 あなたは静かに首を横に振るだけだった。

 その答えが何より嬉しかった。

 僕の折り畳み傘を返すためだけに、店頭まで足を運んでくれたのだ。


 気持ち悪いと言われるだろうけれど、一度でもあなたが僕のために歩いてくれたことに、心が打ち震えていた。


 それから、僕らは並んで帰路を辿った。

 何か話をしたのだろうけれど、ずっと夢心地で何も覚えていないし、何も思い出せない。

 気付いた時には別れ道であなたと手を振り合っていた。


 こんなにも幸せな夜があっただろうか。

 僕はクレームを言われただけなのに。


 帰宅し、寝ようと万年床に潜り込むが、どうしても嬉しさで体が強張って眠れなかった。

 酒で無理矢理寝ようかとも思案したけれど、すぐに却下する。


 忘れ難い日には間違いないだろうけれど、それ以上に忘れたくない日なのだ。



   〇   



 あなたと並んで歩いた日から、一ヶ月が経った。


 幸い、あの日のことは忘れていない。

 酒に頼らなくて良かった。


 あの日以降もあなたはほぼ毎日来店している。

 仕事は案外昼のうちだけなのだろうか。


 相変わらず店側は漫画棚用の台を設置しようとせず、あなたの代わりに漫画を取る二十一時台である。


 さらに、僕の退勤と帰りが重なった時は、一緒に帰るようにまでなっている。

 自分でも驚くほどの進展である。


 初めて一緒に帰った時は、緊張で何も覚えていなかったけれど、今は記憶を保ったまま会話ができるようになった。

 当たり前のことが何より難しい。


 話の内容は好きな漫画の話や、最近ハマっているものなど、まさしく他愛もないことばかりだ。

 ほとんど無表情のあなただけれど、たまに笑ってくれたりもする。

 その度に胸が躍る僕は、やはり安い人間なのだろうか。


 僕があなたのファンであることは話していない。

 プライベートな時間に仕事の話はしたくないだろうし、何よりファンと知られたら距離を置かれるかもしれない。

 僕はあくまでも客と店員の関係で居たいのだ。


 色々と面倒ごとも多い芸能界だと思うからこそ、せめてあなたにとって気を遣わなくて済む人間になりたい。

 せめて拠り所になってみせたい。


 今日も今日とて仕事を終え、退勤する。

 出口へ向かう階段の途中、丁度あなたと鉢合わせた。


 お互い顔を見合わせ、それ以上は何も言わない。

 その一瞬こそに報われる。


 適当に話題を考え、適当に話し始める。

 あなたは耳を傾けているだけのことが多い。

 僕の独り言みたいな話を隣で静かに聞いてくれるだけでも、気が晴れる。


 けれど、しばらく歩いていて、今日はあなたの雰囲気がいつもと違うような気がした。


 何だか疲れているようだった。

 感情の起伏がまるで見られないあなただけれど、それでも、聡いわけじゃない僕でも気付けるくらいに、疲弊しているようだった。

 もしかして、仕事で何かあったのだろうか。


 けれど、おいそれと訳を訊ねて良いものかも分からない。

 恐る恐る様子を窺ってみる。


「今日はお疲れですか?」


 すると、少し無表情が石のように硬くなる。

 どうやら図星らしい。


 けれど、あなたは無理をし続けた。


「いえ、全然。お気遣いありがとうございます」


 そう言って、綺麗な笑みを零す。


 いつもより流暢に返ってきた言葉も、騙すように浮かべた笑顔も、今だけは悲しかった。


 やっぱり僕では頼りないのかな。


 その後、それ以上踏み込めるはずもなく、いつもの別れ道でそれぞれの帰路を辿る。


 家に着いて、万年床で目を閉じても、あなたのあの笑顔が離れなかった。

 僕が見せてほしいのは、あんな笑顔じゃないんだ。


 その後、一週間ほどあなたは店に来なかった。

 代わりに、ネットニュースやワイドショーでは、芸能活動引退の見出しとともに、あなたの姿が絶えなかった。



   〇   



 引退の理由は深く明かされなかった。


 どよめく世間と同様に、僕もまたあなたがスターの舞台から降りることに戸惑っている。


 けれど、その一方で納得もしていた。

 あの疲れた笑顔の正体は、それが原因だったのだろう。


 最後まで僕には教えてくれなかった。

 当たり前だ。

 芸能界のことなんて一つも知らない男に、何を話せばことが解決するだろうか。


 あなたが女優業を辞めても、毎日は変わらずに進み続ける。

 当然、僕のシフトにも変化はない。


 あなたの報道が流れてからも、あなたは店に現れなかった。

 一ヶ月、二ヶ月と経ち、三ヶ月目には数えるのも億劫になった。


 引退というのは宣言した途端にできるものではないのだろう。

 たくさんの人のもとへ足を運ばなければならないだろうし、同じ数だけたくさん頭を下げなければならないだろう。


 おかしな話だ。

 芸能界とは、居るだけで責任が生まれるらしい。


 けれど、幾月が経過して、再びあなたが店に来た時、それらも全て解決したということなのだろう。


 二十一時を過ぎた店内、漫画棚の前にあなたと一人の男性が並んで立っていた。


 和気藹々とした会話には、あなたがしっかりと存在していて、笑い声さえ湯水のように溢れ出る。


 仮面のようだと感じたあの無表情は、実際は仮面で間違いなかったのだろう。

 僕が見られる度に喜んでいた愛想笑いは、今あなたが浮かべる笑顔に比べたら、残酷なまでに薄いものだった。


 どうして勘違いできたのだろう。


 テレビの前でずっと憧れていたあなたを見て、舞い上がってしまった。

 出会えただけで、満足してしまった。

 見たことなかったあなたの仏頂面こそが、あなたの素顔だと思ってしまった。


 そんなはずないのに。

 ただ僕が気の許せる人間ではなかったに過ぎない。

 本気で笑ってやれるほどの価値が無かったに過ぎない。

 あなただって当たり前に笑うんだ。

 心の底から、満たされるように。


 その証拠が今のあなただ。


 隣の男性にしか見せたくない顔なのだろう。

 こんな風にうっかり垣間見られてしまうのは、あなたにとって決して嬉しくないだろう。

 僕だって、できれば見たくなかったよ。


 綻ぶあなたが漫画棚の最上段を指差し、隣の男性も応じて優しく手渡す。


 二人で幸せになるためには、芸能界という箱はあなたにとって生きづらかったのかも知れない。


 そこに僕が居たかったなんて、夢みたいなことは思わない。

 もともとは僕が居た場所だったのだから。


 どうせなら、初めから二人で店に来てくれていたら良かったのに。

 そうしたら、僕のお粗末な一目惚れも早いうちに挫けられていた。


 やっぱりあの日は酒に頼るべきだった。

 今からでも間に合うだろうか。


 笑うあなたを視界から遠ざけたくて、僕はすぐにその場から立ち去る。

 去り際、あなたと一瞬目が合った。


 だからと言って、わざわざ仏頂面を浮かべることもなく、幸せに微笑んだまま僕から目を逸らす。


 立ち去ってからもあなたの笑顔が離れなかった。

 僕では引き出せなかったあの顔が、どうしても綺麗で仕方がなかった。

 

『仮面』

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