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短編集  作者: 因美美果
7/12

短編・7

 彼女もいない子供に友人は何よりだ。


 幼い頃に見た映画でそんな言葉があったことを思い出した。

 山ヒルとブルーベリーパイに怯え見たあの映画は今も誰かの前で二日間の旅を繰り返す。


 今ならよく分かる。

 僕にとってそれこそが真実だった。

 いっそのこと友人が彼女になってくれたら楽なのに。


「やっぱり賭けた方が面白いのかな」


 2が東を切りながら何の気無しに呟いた。


 晴れ空の下、校舎の屋上テラスで四人向き合いスマホでオンライン麻雀に興じている。

 勝ち負けはどうでも良い。

 この時間こそが何より至福を得られる。


「オンライン麻雀で賭けんのが一番ダサいだろ」


 3は最後の東を切り、苦笑混じりに言う。


「何で賭博麻雀って禁止なの?」


 僕は筒子の六を川に流して立直をかけながら、ふとした疑問を零した。

 その言葉に3が呆れ混じりに応える。


「4って眼鏡かけてるのに馬鹿だよね」


 何でそんなこと言われなきゃいけないんだ。


「法律で禁止されてるからでしょ」


 1はもっともらしく答えたが、僕だってそれくらいは知っている。

 僕が知りたいのはその先なのだ。

 煙草が合法でマリファナが違法なように、競馬が良くて賭博麻雀がいけないのは何故なのか。


「個人か公的機関かの差じゃないの?」


 と、3が新たな答えを出す。

 彼は高校生でありながら煙草を吸っているので、罪として一緒くたにすればマリファナを吸っているのと変わりないのかもしれない。


「JALってそもそも公的機関なの?」と、1が訳の分からないことを言った。

 恐らくJRAと勘違いしている。


「JALは航空会社だロン」

「うぎゃあ」


 2が語尾のようにロンを宣言し、当てられた僕は思わず呻いた。


「千六百点」

「安っ」

「そんなんで上がるなよ」


 結局2の逃げ切りで半荘が終わった。


 三位の3は大きく伸びをする。


「あーあ、部活面倒くせえ」


 僕ら四人はクラスは違えど同じ部活動で出会った。

 どこでどうなったのか、今はこうして授業をサボって麻雀に勤しんでいる。


 今日の放課後も部活動があるため、皆一様に気が滅入る。


「弓道の楽しみ方って何?」


 乾いた晩秋の青空を見ながらぼんやりとした口調で訊ねる。

「無えよ」と、3が淡白に答えた。


 その答えもその答えが返ってくることも分かり切っていた。


「サボりたいなあ」と、2は頬杖を突きながら溜め息まで吐くが「でも家に帰ったって良いことないしな」と、続けて言った。


 何となくで選んだ部だった。

 将来に役立てようとか、切磋琢磨して優勝を目指そうとか、そんな大志を持って入部したわけじゃなかった。


 それは2も3も1も同じでそうやって出会った仲だった。

 今となっては好きで参加している部活動でもない。

 けれど、帰ることさえ億劫だから仕方なく一緒にいる。


 みんな学校が嫌いで、けれど、家も嫌いで。

 どこに居たって居心地悪くて、どこに行ったって居場所じゃなくて。

 行き着いた場所じゃろくに息も吐けない日々なんだ。


 けれど、僕は少しだけ違っていた。

 部活動もそれほど苦ではない。

 家に帰ることもそこまで嫌ではない。


 今もこうして五限の授業を不真面目にサボっているけれど、その授業も欠席するほど嫌なものだとは感じていない。


 だったら、どうして僕は三人と一緒に暇を満喫しているのだろう。


「もう一回、半荘やるか」と、1がスマホを再び取り出す。

「でも、時間足らないよ」と、2が言う。


「六限出るの?」

「うん、六限は出ないとやばい」

「じゃあ、半々荘で」

「半々荘って何?」

「東風って言え」

「それも時間足らない」

「じゃあ、半々々荘で」

「半々々荘って何?」

「無えよ」


 結局五限が終わるまでだらだらと麻雀を続けた。


 2に倣って全員六限には出席することにし、それぞれの教室へと移動する。


「麻雀もずっとやってるとしんどくなってくるなあ」

「新しいゲーム見つけよう、タダの」

「じゃあ、部活で」

「じゃあね」


 気の抜けた挨拶に気怠く手を振って別れる。


 これが僕らの日常。

 いつ終わってもおかしくないし、いつ終わったって困りはしない。

 名残惜しさにもすぐに飽きる、そんな僕らだ。

 けれど、それでも僕らなりに失いたくない、僕らの友情なのだ。


 こんな僕らには劇的な別れも特別な成就もないだろうけれど、それがきっと相応しい。

 知らない間に離れて、報せもなくまた巡り合うのだ。



   〇   



 校舎を出て駅へ向かう朝潮橋の上、明るい空はとうに沈んでいた。

 東京湾から入り込んだ夜風が河を吹き抜け様に僕らの頬を叩く。


「どっか行こうぜ」


 帰路を辿る足を止めて3は突然そう言った。


 3は背が高く、出会った頃は少し近寄り難かった。

 低く重たい声は中学生の頃から吸っているという煙草のせいなのだろうか。

 実際近付いてみれば普通の人間で、少し社会に不満を抱いているただの青少年である。


 高校生の身でありながら酒も煙草も嗜む彼はいつも学ランの内ポケットにラッキーストライクを忍ばせている。

 この前はウィンストンを吸っていたのだが、そんなにころころと変わるものなのか。


「『どっか』ってどこ?」


 1が怪訝な顔で3に訊ねた。


 1は僕らのムードメーカーのような存在だった。

 お喋りな彼が居てくれたら比較的無口な僕らにも会話が生まれる。

 その分軽口なのが玉に瑕だが、言い触らされて困るような秘密もない。


 1は事あるごとに「遊びに行こう」「ご飯食べに行こう」と、サボりと部活でしか顔を合わす機会のない僕らに時間を作ってくれる。

 彼が居たからまとまりのない僕らも離れ離れにならずにいられるのだろう。


 だから、少し驚いたのはどこかへ行く提案をしたのが1ではなく3だったことだ。


 1に問われた3は開き直ったように答える。


「『どっか』って言ってんだから決まってねえよ」

「いつ? 冬休みも部活だぞ?」

「違う、今からだよ」

「は?」


 秋も終わりを告げ、次第に冬の匂いが鼻奥をくすぐり出す。


 3の言っていることがよく分からず、僕と1は思わず眉を顰めた。

 時刻は既に十九時を過ぎて、帰れば晩ご飯が待っている。

 3がどういうつもりなのかは全く分からないけれど、今からどこかへ行くような時間も体力も残っていない。


 ふてぶてしく言い切る3を置いて2の足取りは止まらない。

 端正な横顔がスマホを見ながら3に言い放つ。


「早く帰ろう。寒いし腹減ったよ」


 2はいつも気怠そうな目をしている。

 通学路でも校内でも見かける度に歩きスマホをしていて、こっそり画面を覗き込むとゲームか違法サイトで漫画を読んでいることが大半だ。


 彼は目立つことや前に出ることが苦手だと言うが、目立たずとも前に出ずとも彼の周りには勝手に人が集まってくる。

 顔も整っていて女子からもモテる。

 この間まで彼女がいたが先日別れたらしい。


 正直、彼に憧れることが度々ある。

 それは彼にとってとても失礼なことなのだろうけれど。


「部活でくたくたなんだから電車に乗ってからその話しよう」

「電車乗んなよ」


 相変わらずの気怠い調子で2はそう言った。

 しかし、3の意志は固いらしく全然折れようとしない。

 こいつは一度言い出すと利かない節がある。


「今日こそ絶対に帰らない」


 その言葉にはそれなりの重みがあった。


「どうせ今晩もあのカスどもが弄り合うんだ。向こうだって俺が家にいない方が気兼ねなくできんだろ」


 3の父親は彼が小学五年生の時に離婚し、その翌年に再婚した。

 実母は刑務所にいるようで、何の罪を犯したのかは知らない。


 しかし、新しい家族も長くは続かず、両親は再び離婚してしまった。

 その際家裁の世話にもなったらしく、その結果3の親権は再婚者の義母に託された。


 それから、しばらく3と義母との生活が続いた。

 酒と煙草はその時に無理矢理覚えさせられたそうだ。


 そして去年の春、3が高校に進学する頃に義母が新しい男を家に連れ込むようになったと言う。

 やってくる男は季節とともに移り変わり、今の男が何人目なのか3も数えることをやめてしまった。

 それから夜中に響き渡る喘ぎ声に耳を塞いで眠ることに努める毎日だという。


 それを知っているからこそ、彼の家に帰りたくない訳にも納得できた。

 これまで溜め続け膨らみ続けた不満が遂に今日爆発したのだとしてもおかしくはない。

 むしろよくここまでの一年半を耐え抜いたと思う。


「でも、なんで今日いきなり?」

「いきなりじゃない。蓄積だよ」

「え、俺らも帰らないってこと?」

「お前らだって大して帰りたい家じゃないだろう?」


「馬鹿言うなよ」と、3の言葉に強い口調で1が言い返す。

 その反応に3は驚いた半面、少しむっとした。


「3が帰りたくないのは分かるけどさ、俺は違うから」

「でも、お前の家だって無問題ってわけじゃないじゃん」


 3の少し配慮を欠いた言葉に、1の苛立ちに拍車がかかる。


「親父が心配する。帰らないともっと大事になるんだよ」

「お前、青痣増えてたよな? 昨日はお前の番だったのか?」

「! 黙れよ、他所の家に首突っ込むなよ」


 部活終わりの着替えの時、彼の肩に痛々しい青痣が増えていたのは鈍い僕でさえ気付いた。


 別に初めてのことじゃない。

 今更1の体に青痣が一つ増えていても、見慣れてしまった自分に嫌気が差すだけだ。

 今日だって見落とす可能性もあった。


 彼の体は青も紫も緑も雑多に混じった斑模様で飾られている。

 それを作っているのは彼の父親だ。


 1の家では珍しいことではないし、取り立てて悲しむことでもない。

 彼の兄も姉も妹も同じように暴力を振るわれ、同じような痣ができている。


 1の父親は無職で、昼前に起きては酒を飲み、酔いが回ると子ども達に乱暴をする。

 そうしてまた眠りこけ、昼過ぎに起きるとどこかへ出掛け、夜遅くにへべれけの状態で帰ってくるとやはり暴力を振るう。


 そんな毎日を耐え抜くために、1達兄弟はローテーションで殴られる日を決めているそうだ。


 父親は誰を殴っているかの判別もついていない。

 1の妹の名前を呼びながら1を殴りつけたりする。


 増えた青痣を見るに、昨日は1が殴られる番だったらしい。


 何より救い難いのは彼ら兄弟が父親を愛していることだ。


 僕には何故なのか分からない。

 けれど、1の父親を悪く言うと彼は真剣に怒るのだ。

 それが1なりの親子愛なのだと美談のように語りたくもない。


 ちなみに1の口から彼の母親の話は一度も聞いたことがない。

 それは恐らく彼自身も知らないことなんだろう。


「今日はお前が殴られる日じゃないんだろう? だったら、帰らなくたって良いじゃん」

「親父が待ってる。俺は帰る」

「待ってる? 酔った親父は誰を殴ってるかも分かってないんだろ? なのに誰を待つんだよ。それとも、人数くらいは分かるのか?」

「いい加減にしろよ。お前はお前の勝手にすれば良いけど、俺らを巻き込むなよ」

「俺も帰らない」


 ずっとスマホを見て先頭を歩き続けていた2が、突然そう宣言して振り向いた。

 思わぬ2の言動に、1はおろか3すらも驚いていた。

 もちろん僕も。


「おい、2、マジで言ってんの?」


 1は半笑い気味に声を零す。

 けれど、2は依然として何食わぬ顔のまま答える。


「うん、俺も帰りたくない」


 マイペースな2のことだから絶対に乗ってはこないだろうと、誰もが思っていた。

 今までもそうだったし、今回だってそうだと思っていた。

 それなのに、どうして今日に限って。


「別に俺だって今日に限った話じゃない。前々から思っていたし、帰りたいだなんて思ったことも一度もない」


 2の声はいつもの調子で、けれど今は本音の言葉なのだということは明らかだった。


 2の父親は大手企業の役員で、自分にも他人にも厳しい人だった。

 その厳しさは並大抵のものではなく、自身の子どもの教育にも及んでいた。

 心優しい2の母親は、夫の過剰な教育方針に苦しんでいく子ども達を思うあまり心を病んでしまった。

 今もどこかの大きな病院で療養しているそうだ。

 2が母親と最後に会ったのは小学生の頃だった。


 それでも2の父親は変わらず、子ども達に厳しく当たり続けた。

 2は父親を見限り言うことを聞かず、やがて家の中でも顔を合わせなくなった。

 父親も2を見捨て、2に当たるはずだった厳しさは2の妹に集中した。


 先月彼の妹が万引きをしたと、2は変わらない口調で話していた。


 3と2が家に帰らないと決め、思わぬ展開に1はたじろいだ。

 しかし、彼も意固地になってしまい「勝手にしろ」と、駅へ早足で歩き出す。


 僕らは離れていく彼の背中を見送る。

 1が想い続ける父親はどうせ今夜も我が子を殴って眠りこけるのだろう。

 殴らせてもらえる存在が彼の父親には本当に必要なのだろうか。

 それが本当に「待っている」ということなのだろうか。


「お前はどうすんの?」


 3は僕を見遣って訊ねる。

「どうすんの?」とは、つまり帰るか否かということだ。


 正直、僕は3と2のように家に帰りたくない理由もない。

 かと言って、1のように家に帰らなければと思うほどの使命感もない。

 帰ろうと思えるほどには安全で、帰らなくても良いと思えるほどには安心できる場所なのだ。


 だからこそ、


「俺も帰らない」


 と、答えた。


 2は僕を思ってなのだろう、気遣うように訊く。「良いの? 4は帰りたくないわけじゃないでしょ?」

 3も「4ん家は俺らみたいな訳ありじゃないだろ」と、言う。


 二人の言う通りだった。


 僕の家庭は三人のように問題を抱えているわけではない。


 父親は会社員で、母親もパートと家事を兼業する主婦で、兄は岩手県の大学に通う一人暮らしの大学院生で、姉は東京の大学で実家暮らしの大学生だ。


 それぞれ毎日忙しく、貧しくはない生活と裕福でもない生活とを絶えず繰り返している。


 家族と馬鹿話で笑い合えるし、夜ご飯も一緒に食べるし、皆でテレビを見たりもする。

 誰かの祝い事には祝福を送り、誰かの辛さには慰みを送り、誰かの不調はみんなで支える。


 仲が良くて、お互い感謝していて、家族が家族を大切にしている。

 そういう家庭に生まれた。


 3も2も1もそれを知っていた。

 全部ではなくとも、漠然と僕の家の温みに気付いてくれていた。

 その上で自分たちと比べることなく、羨むことなく、それが何より良いことなのだと安心してくれた。


 そして、今日まで一緒に居てくれている。


 僕も今日は帰りたくなかった。

 今日に限ってなどではない。

 明日も誰かが帰りを厭うなら、僕は明日も帰らないだろう。


「俺らに無理に付き合う必要ないぞ」


 2が青白い街灯に照らされて幽霊のように見えた。

 友達思いの彼だからそんな言葉も掛けてくれる。


 けれど、僕にはそれこそ必要なかった。


「うん、大丈夫。連絡だけしておくよ」

「怒られるんじゃねえの?」

「まあ、多分」


 深くなった黒い空に寒さを気付かされる。

 とりあえずこの橋の上から離れないと仕方ない。


「で、どこ行くの?」と、2が言う。

 3は少し唸った後、来た道の先を指差した。


「とりあえず学校戻って考えよう」



   〇   



「で、どうすんだ?」


 3はスマホを見ながら言う。


「お前が決めろよ」

「ケータイの充電無くなるぞ?」

「大丈夫だよ、モバイルバッテリーあるから」


 既に二十時を過ぎた頃である。

 下校時間はとっくに過ぎており、先生や警備員に見つかれば怒られる上にここには留まれない。

 今は空き教室で電気もつけず息を潜めている。


「腹減った」

「何か食いに行くか」

「何食うの、もんじゃ?」

「食えるか、あんな泥」

「腹も膨れないし、お菓子で晩飯済ませる気か?」


 僕の提案は二人に大バッシングを受け、再び悩む。


「月島の方にめぼしい食い物ないな」

「じゃあ、豊洲まで歩く?」

「豊洲こそめぼしい食い物ないだろ」

「ラーメンとかくらいか」

「ラーメンで良いじゃん」

「ラーメン食いてえ」


 しかし、ラーメンに使う金も、これからのことを考えるともったいない。


「まあ、晩飯は後で良いや。とりあえず3に聞きたいのはさ、これ、いつまで続ける気なの?」


 2は暗闇の中でいつもの調子で訊ねる。


「永遠にだよ、行けるとこまで」


 茶化すように言った3だったが、2にとっては邪魔だったらしく、


「いや、今要らないから、そういうの」


 と、冷たく遇らわれる。


「……こっちも半分はマジだよ。できる限り家から離れて、できることなら一生帰らない」

「学校はどうすんの? 明日は土曜だから授業はないけど、部活はあるぞ。それに、来週からはどうする気だ?」

「だから、学校もサボる、一生」


 暗い中では3の表情がよく分からないがどうやら本気らしい。

 馬鹿らしいとか、子供じみてるとかはさて置き。


「だから、お前らは別に付き合う必要ないぞ。俺には進路なんて無いようなもんだけど、お前らは違うだろ」

「別にそのことは気にしてないけど」


 僕は静かに二人の話を聞いているだけだった。

 ここで意見を言えるだけの、帰りたくない理由がない。

 二人に勝手に付いてきたようなものだから。


「でもさ、ここにもずっと留まれないし、どっかふらふらしてもいつかは親が捜索願いとか出すんじゃないの?」


 2が言うと、3は当たり前のように「俺の親がそんなことするかな」と、零す。

「俺ん家も出さないかも」と、2も呟く。

 すると、二人が同時に僕を見た。


「……4の家は……」

「一日帰らなくても出しそうだな」


 それは僕もそう思う。


「やっぱり4は帰ってもらって良いか?」

「こればっかりはな」


 二人とも冗談の言い方なので適当に話題を変える。


「明日から学校に行かないのは良いけど、今夜はどうすんの?」


 どこに行くにしても、見るからに制服を着た高校生三人が夜間に出歩いている様子を警察に見つかりでもしたら一発で補導行きである。

 あと三時間くらいは何とかなるかもしれないが、零時を回ったら警戒しないといけない。

 ホテルに逃げ込む金も無いし。


「そうだ、金も無い」と、2が言う。

 僕も大した金額は持ち合わせていない。


「4、いくら持ってる?」と、2に訊かれ財布を確認する。


「三千円と、七……八百……六百円」

「減るなよ」


 2の財布の中身も似たような金額だった。


 3が「口座から引き落とせないの?」と、訊くが「地元の地方銀行なんだよね」と、2が答えた。

 僕も同じく。


「仕方ない、しばらくは3の貯蓄で食い繋ぐしかないな」

「おい」

「結局のところ、夜はどうすんの?」


 その時、廊下の奥から足音が聞こえてきた。


「やばい、誰か来た」

「隠れろ」

「夜はどうすんの?」

「それ今じゃなきゃダメ?」


 咄嗟に机の陰に隠れて足音が去るのを待つ。

 懐中電灯らしき灯りがゆらゆらと揺れて、扉の硝子窓に人影が映る。

 見たところ警備員のようだった。


 まだ八時台だけれど、もう見回りを始めるのか。


 と、そのままやり過ごせるかに思えたが、警備員は扉の前で立ち止まり、やがて戸を開けた。

 教室に入ってくることはなかったが、懐中電灯で教室内を照らす。


 思わず僕らは顔を見合わせる。

 意外と早く訪れた危機に皆半笑いになっていた。


 目忙しく動く懐中電灯の光が机の後ろに隠れた僕らを一瞬照らし、警備員はそれを見逃さなかった。


「そこ、誰かいるの?」


 合図もなく3が走り出した。

 2もすぐに3に続いて廊下目指して飛び出す。

 僕も慌てながら置いて行かれないように二人を追いかけた。


「あっ、こら!」と、警備員の声を置いてけぼりにして、廊下を全速力で駆け抜ける。


 引き笑いが収まらず走りづらくて仕方がなかった。

 そのまま階段を駆け下り、校舎を後にする。


「あっぶねえ」

「顔バレてないよな?」

「大丈夫だろ、警備員だし顔知らんだろ」

「で、夜はどうすんの?」

「それもう良いって」



   〇   



 結局橋を渡って月島まで逃げてきた。

 通学路の途中にある公園に入り、ベンチでこれからの行動を練る。


「このまま制服で居たら確実に補導されるな」


 3がもっともらしく言うが、そんなことは分かり切っている。


「着替えるか?」と、2が提案する。


「今体操着しかないぞ」

「道着もあるよ」

「道着に着替えたとて」


 まだ夜ご飯も済ませていない。

 部活動でエネルギーを消費した今、この先に良い案が出てくるとも思えない。

 エネルギーを消費するような部活動じゃないのに。


「一回着替えに帰ってから再集合したほうがまだ良いんじゃない?」

「金も持ってこれるしな」

「帰りたくねえっつってんだろ」


 僕と2は賛成気味だったが、3が断固として却下する。


「どっか店に入ってオールするか?」

「高校生はすぐに追い出されるよ」


 補導を避けるのはなかなか難しそうだ。


「とりあえず人目のつかないところに行けば良いんじゃないの?」

「お巡りも大して真面目に巡回してないだろ」

「橋の下とかに隠れたら良いや」


 相変わらず短絡的で楽観的な思考である。


「良いのかなあ、こんなんで」


 こんな時にまでお気楽な彼らを見て僕は思わず声を漏らした。

 すると3は思いがけない、というか、企画倒れな発言をした。


「正直打つ手がないなら、最後は補導されても良いんだよね」

「何だよそれ?」

「帰りたくないのは本当だけど、いつまでも帰らずにいられるわけじゃないのも当たり前だし」


 それはそうだ。

 高校生が家出をしたとて、いつまでも逃げられるわけじゃない。

 当然だが親は勝手に心配をするし、学校だって不審に思う。

 僕らにはまだ心配されるだけの価値がある。

 他人は僕らを放っておいてはくれない。


 それは3でなくとも、僕も2も分かっている。

 分かった上で3を気遣う意味でも言わないようにしていた。

 それがまさか言い出しっぺの3の口から出てくるとは。


「けど、できる限り一日でも長く逃げたいんだ。どうせあと一年半はあいつらの喘ぎ声を聞かなくちゃいけないなら、二、三日くらい大目に見てほしいぜ」


 その言葉を聞いて僕は無性に恥ずかしくなった。

 抱えた苦しみに彼なりに抗って戦って、そうして選んだこの逃亡に、僕はなんて軽い気持ちで付いてきたのだろうか。

 僕が抱えた理由はどれほど語るに値しない小さなものなのだろうか。


 その差を見せつけられたようで思わず俯いてしまった。


 その時、2のケータイから着信音が鳴り響いた。


 僕らは彼の父親からの着信かと思い、身構える。

 しかし、2はケータイの画面を僕らに見せて杞憂であったことを示す。


「1だ」

「何だ、びっくりしたなあ」

「何の用?」


 2が着信を受け取り、ケータイを耳に当てる。


「もしもし」と、2が応える。

「スピーカーにしてよ」と、3が促す。

「本当に何の用だ?」と、僕は呟く。


「ああ、うん」

「スピーカー早よ」

「1、何だって?」

「うん、まだいるよ」

「スピーカーまだ?」

「1、何だって?」

「えと、十番出口のすぐ側の公園」

「スピーカー」

「1、何だって?」

「うるせえなお前ら」


 2は通話をやっとスピーカーモードにし、ガサついた音声で1の声が聞こえる。


「1、どうした?」

『今からそこ行くから』

「へ?」



   〇   



 到着した1は制服のままだった。


 腫れた頬に加え、額からは血が流れたのだろう、今はもう赤黒く固まっているが、痛々しい傷口が髪の毛の隙間から垣間見える。

 おかげで頬の湿りと充血した目が霞み、見落としかけた。


 そんな姿で現れた彼を前に、僕らはかける言葉に戸惑った。

 それよりもまず怪我の手当てが先決だ。

 1のハンカチを公園の水場で濡らし彼の額に当てる。

 僕もハンカチを持っていたので、同じように冷水で濡らして今度は1の頬に当てる。


「どうしたの?」


 手当てを済ませ、とりあえず戻ってきたわけを訊ねる。


「……親父に空き缶を投げつけられた」


 それから僕らは彼の話を黙って聞いていた。


 こんなことがあったらしい。


 1が帰宅すると彼の姉が既に殴られていた。

 彼は「ただいま」も言わず、自分の部屋へ移動する。


 父親と姉の横を通り過ぎる時、思わず溜め息を吐いた。

 それが父親の耳に入り、しょうもない逆鱗に触れてしまったのだ。


 父親は手近にあった発泡酒の空き缶を1に投げつけた。

 それが1の顳顬に直撃し、血が出る始末だった。

 1は傷口を押さえながら父親を睨む。


 普段なら目を合わせずにそのまま部屋へ駆け込んでいただろうが今日は違った。


 今日の1は父親のために家に帰ることを選んでいた。

 それなのに父親はいつも通りに乱暴を振るう。


 それが1にはいつも以上に理不尽に思えた。

 もっと言えば、裏切られたように感じた。


 1の目付きが気に食わなかった父親はターゲットを彼に変える。

 回らない呂律で怒号を撒き散らしながら1の頬を引っ叩いた。


 1は床に倒れ込み、痛みに潤む目で父親に叫んだ。


 何でだよ。

 お前のために帰ってきたのに。


 彼の言葉は父親には届かなかった。

 声だけが鼓膜を鳴らし、雑音として父親の気分を害するだけだった。


 父親から返ってきたのはあくまでも罵倒や文句のみ。

 失望した1はケータイだけを持って家を飛び出した。


 話している途中、声が震え出す彼に何を言えば良いかずっと考えていた。

 けれど、選んだ言葉は全て口から出る前に相応しくない気がして喉で支えてしまう。


「あいつのためにって思ったんだ。ずっとそうだと思って、殴られるのもあいつのためだと思えたんだ」


 そんなわけないと僕らは深く考えなくても分かる。

 だから1が虐待に前向きに耐えていることが、正直言うと気味が悪かったし、彼が父親を疑わないことが理解できなかった。


 けれど、彼にとっても同じような気持ちだったのだろう。

 僕だって親が毎日僕を養ってくれるのは何故なのかと訊かれてもきっと答えられない。

 質問の意味さえ理解できない。


 親だから、保護者だから、それは答えではない。

 親だって子どもを養う理由をいちいち深く考えたりしない。

 僕にとっても、親にとっても、僕らはお互いそういう存在なんだ。


 それと同じくらい1にとっては当たり前のことなんだろう。

 それと同じくらい1にとっては疑いようのないことなんだろう。


 だから今日の出来事は彼の心を、彼の信心を打ち砕いた。

 都合が良かったからなのか、或いは、怖かったからなのか。

 何にしても今まで確かめようともしなかった父親の自分たち子どもへの思いを、今日初めて疑ってしまった。


 そして裏切られた。

 勝手に信じて、勝手に裏切られた。


 そこまで話し、彼はついに泣き出してしまった。

 必死に堪えようと俯くけれど、抑えようもなく零れ出る声は夜の公園に静かに消えていく。

 遠くに見える歩行者たちが1の嗚咽に振り向きもせず過ぎていくことに、言いようのない苛立ちを覚えた。


 2が黙ったまま1の背中を摩り続ける。

 数時間前に1に厳しく言い放っていた3も今は口を閉じたままでいる。


 こういう時、どんな言葉を選ぶのが正解なのか分からない。

 そもそも言葉をかけてあげること自体、彼の求めていることなのかそれすらも分からない。


 しばらく彼の啜り泣く声に耳を傾け、やがて静々と情動が収まっていく。


「……ごめんな、急に来て、雰囲気壊して」


 顔を上げた1はいつものへらっとした笑顔で謝る。


「気にすんな」

「雰囲気できあがってもなかったし」

「どうせ戻ってくると思ったし」


 僕らは僕らなりに選んだ言葉で彼を励ます。

 どれが正解だったかは分からないけれど、1はいつも通りに笑った。


「で、これからどうする?」


 2が改めて言う。


「1もご飯食べてないよね?」

「うん、みんなも?」

「そう、金無えからよ」


 コンビニで軽く済ませるか、ファミレスに入ってドリンクバーで閉店ぎりぎりまで粘るか。


「もんじゃは?」と、1が言うと、やはり3と2がすかさず反論する。


「馬鹿、人の食いもんじゃねえって」

「コスパ悪いし」


 コスパの悪さは分からなくもない。


「ラーメン食いてえなあ」

「そりゃそうだけど」

「2っていつもラーメン食いたがってるよね」

「大体の人はそうだろ」


 そんな無駄話で時間を潰しても腹は減る一方だ。


 結局ファミレスでぎりぎりまでドリンクバーに決定した。

 とはいえ、もう既に遅い時間なので粘っても三時間も居られない。


「あそこって喫煙席あったっけ?」

「ない」

「喫煙所も?」

「多分なかったと思う」

「マジかよお。やっぱ場所変えない?」

「どっちみち制服で煙草はまずいだろ」


 嘆く3には構わず、ファミレスまでの大したことのない距離を歩く。

 くだらない話で過ぎるこの道が終わらなければ良いのにと、心の奥で心底思ってしまった。



   〇   



「立直ぃ!」

「嘘だ」

「ふざけんなや」

「追っかけ立直ぃい役満チャぁンス!」

「まさか、字一色?」

「本当だ」

「字牌切れねえ」

「へへへ」

「あ、ロン」

「うぎゃあ」


 僕の役満は結局2に奪われた。


「千点」

「安っ」

「立直単品?」


 ドリンクバーに飲み物を注ぎに行き、帰ってくると三人とも真面目風な顔で僕を待っていた。


「4、早く席着け」

「何、また半荘?」

「半荘でも半々荘でもない」

「半々荘って何?」

「これからどうするかって話」


 これからも何も、帰らないということしか決まっていないが、それ以上何を決めたら良いのか。


「とりあえず熱海に行こうってところまでは決まったんだけど」

「良いじゃん」

「止めろよ」


 適当に肯定したが、運賃が手持ちで足りるならどこだって構わない。

 熱海も夜逃げの行き先としては悪くない。


「熱海かあ」

「俺、熱海初めてだよ」

「温泉以外に何があるんだろう」


 ノリで話が進んでいく僕らに1が戸惑いながら訊ねる。


「そんな小旅行みたいな感じで家出すんの?」

「どうせなら楽しい方が良いじゃん」


 3はお気楽に答える。


「でも移動費で財布が飛んじまうな」

「3の口座があるから」

「おい」


 家出するならなるべく東京から離れた方が良いのだろうが、そうなるとやはり金が足らない。

 本当に3の貯金を崩すわけにもいかないし。


「最悪ヒッチハイクとかかな」

「高校生四人を誰が乗せてくれんだよ」

「手持ちを全額交通費だけに充てたら、どこまで行けるかな」

「分からん、名古屋くらい?」

「4、ちょっと調べて」

「電池無くなっちゃうよ」

「麻雀なんかやってるからだろ」

「何で麻雀なんかやってんだよ」

「状況分かってんのか?」

「すごいなお前ら」


 調べると、僕らの手持ち金を合わせて四人で割っても名古屋までは届かなかった。


「本当に熱海が妥当っぽいな」

「マジ? 意外と行けるもんだな」


 しかし、見切り発車で喋り続けて本当に熱海まで行こうとしている。

 このままだとかなり大事になりそうで、僕の中で少しずつ焦りが芽生え始めてきた。


「上手く行ったら、学校どんくらいサボることになるかな」


 不意に零れた言葉のトーンは僕が思っていたよりも低く、三人にもその声色の感情を読み取られてしまう。


「……まあ、一週間くらい?」

「ホテルに泊まる金も無いから適当に野宿だけどな」


 一週間、か。

 もちろんその間に僕らの親が何もしないはずがない。

 学校にも行かず家にも帰っていないことが発覚すれば、すぐに警察沙汰になる。

 警察から逃げ隠れする点では犯罪者と何ら変わらない。

 それも込みで上手く行けばの一週間なのだろう。


「停学、とかになるのかな」


 そう言ったのは1だった。

 僕の不安が移ってしまったのだろうか。


「向こうに着いて帰りたくなったら帰れば良いよ」

「熱海から徒歩でか?」

「その時は金貸すよ」


 3は飲み物を取りに立ち上がりながらそう言った。

 ケチな彼の口から出た言葉とは思えない。


「もちろん今降りても良いし」と、ストローの紙袋をくしゃくしゃにしながら2が言う。


 帰りたいとはやはり思わない。

 停学になるくらいなら今すぐ帰ってやろうなんて気持ちはない。


 ただ僕らの家出がいつか終わった時、報いのように襲いかかる面倒事を思うと、少し臆病になってしまう。

 熱海に行こうと名古屋に行こうとずっと遠い場所に行こうと、東京に連れ戻された僕らはその先も生きていかなければならない。


「じゃあ、本当に帰らない覚悟でもするか」


 ドリンクバーから帰ってきた3は微笑み混じりに言う。


「どういう意味?」

「さっきも言ったけどさ、正直なところいつかは家に帰らなきゃって思ってるだろ?」


 まあ実際問題、心配する大人たちから死ぬまで逃げられるとも思っていない。

 いつかは、というか、早いうちに家出は失敗するんだろうとみんなどこかで思っている。

 或いは諦めている。


「それに心のどこかで帰れる場所があること自体が何となくやる気の出ない理由だと思うんだよ」

「……まあ、家に帰らされても殺されるわけじゃないし」

「帰ったら帰ったで今まで通りに暮らすだけだからな」

「だから、腹括って帰ったら死ぬ覚悟で逃げてやろうってこと」


 そう言い切った3に対し、僕たちはただ黙って彼を見つめていた。

 しかし、その視線は決して嘲笑や呆れの類じゃない。


 馬鹿みたいな提案だと思った。

 3らしく大胆で、3らしくない幼稚な考えだと感じた。

 家出を実行すること自体が幼稚でないとは言い切れないけれど。


 自信に満ちた不敵な笑みを浮かべて彼はコーラを飲む。


 そんな3を見て、僕らは誰も笑わなかった。

 馬鹿にすることができなかった。


「……要するに、家族も学校も今の生活も全部捨てて、死ぬまで帰らないでいよう、ってこと?」


 2の問いに3が当たり前のような顔で頷く。


「どっかの田舎か漁港までどうにか行ってさ、そこでどうにか金稼いでさ、野垂れ死ぬか何とかなるまで隠れていようぜ」


 それは聞けば聞くほどアホらしい、とても魅力的な提案だった。


 冷静に考えたらそんなことはやらない方が良い。

 真面目に学校に通って、家族に支えてもらって、普通に就職して生きた方が良い。


 冷静でない今の頭でもどちらを取るべきかなんて一目瞭然だ。

 けれど、もしも本当に馬鹿みたいに苦労する僕らだけの生活ができるなら。


 どうか叶えてみたい。


 帰りたくないだけだった。

 僕に関しては帰りたくないわけでもなかった。

 なのに、今は安心できる人生さえかなぐり捨てようとしている。


 ファミレスで馬鹿話の延長線上に生まれた計画は、人生を懸けたいくらい素敵な旅へと生まれ変わった。


「本気でできると思ってる?」


 2が相変わらずの気怠い笑みで訊く。


「警察に見つかんなきゃ良い話だろ?」


 3がふざけた口調で嘯く。


「熱海はまたの機会だな」


 僕は明るんだ声色で言う。


「どこだって良いよ。最高じゃん」


 1が少しだけ腫れの引いた頬で笑う。


 彼女もいない子供に友人は何よりだ。


 幼い頃に見た映画でそんな言葉があったことを思い出した。

 無謀にも始まった僕らの旅路は線路が示してくれちゃいない。

 死体も勲章も待っていない終着点はそもそも決まってすらいない。


 それで良い。


「どっか行こうぜ」の一言から二度と帰らない決意までした。

 友人だけが全てじゃないと理解している頭でも、今はどうしても三人だけが特別だった。



   〇   



 ファミレスを出て清澄通りを北へ進む。


 ドリンクバーで満たした水っ腹はすぐにトイレで空になった。


 時間は零時を回り、お巡りさんには警戒しなければならない時間帯である。

 とりあえず今は東京を出ることを目標に、埼玉方面目指して歩いている。


「こっちで合ってんの?」

「知らん。北に進めば埼玉着くだろ」

「北はこっちで合ってんの?」

「知らん」

「君たち」


 と、車輪の回る音が後ろから近づいて、嫌な気配を纏った声を掛けられた。

 振り向くと白い自転車に跨った警官が僕らを訝しげに見ている。


「こんな時間まで何してるの?」


 体中の毛穴が開いて心臓が早鳴る。

 声が出ずに逃げる準備をしかけた時、3が澄ました顔で答える。


「すいません。今帰るところなんです」


 警官も信じ切った顔ではないにしても、向こうも大事にはしたくない様子である。

「あまり遅くまで出歩かないように」と、忠告だけして自転車を漕いで遠く離れていく。


「……許してくれるもんだな」


 僕は3に感心しつつ、そんな言葉を零す。


「向こうも大概職務怠慢だよな」


 3は得意げな顔で小さくなった警官の影から目を離した。


 観念して駅へ向かうわけもなく、依然として清澄通りを歩く。

 途中の大通りの信号を渡り街中へ入っていく。


 もんじゃストリートを素通りしてさらに人気のない道へ入る。


「この辺あんまり来たことないな」

「まあな、用もないし」


 僕は何度か来たことがあった。

 高校入学し立ての頃、一人で佃町や隣の霊岸島をぶらぶら散歩したことを思い出す。


 しばらく歩くと佃公園に出る。


「寒っ」

「あ、銭湯だ」

「浴びていきたいなあ」

「この時間開いてんの?」


 ひとまずベンチに腰掛け雑談に花を咲かせる。

 道のりは全く進んでいないが、そもそもそういう家出なのだ。

 家にさえ辿り着かなければどこだって良い。

 まあ、いつかは誰もいない場所で僕らだけで生きられたら最高だけれど。


 スマホの電池もおいそれと消費することができないので、今は喋って寒さを紛らわせるしかない。


 青白い街灯の下、雲一つない夜空のくせして星の一つも見えない。

 誰もいない空と街に僕らだけの時間がただただ流れる。

 何よりもイカした空気が初冬の冷気を溶かしていく。



   〇   



「ここなら吸えそうだな」

「煙草吸うなら風下に行けよ」


「先週のあのアレ、あの、アレ読んだ?」

「読んだ」

「何で分かったの」


「くさっ」

「文句言うなら風上に行けよ」


「展開予想通り過ぎないか?」

「それが王道ってことよ」


「俺にも一本試しにちょうだい」

「嫌だよ。シケモクだってやらねえよ」


「今朝さ、鳩が道の真ん中で死んでてさ」

「その話やめない?」

「立ったまま死んでて」

「嘘じゃん」


「煙草ってファッション?」

「最初はな、今は中毒」


「動物の死体ってちょいちょい見るよな」

「田舎に行けばもっと見るのかな」


「あれ、腕時計なんかしてったっけ?」

「うん、こないだ親が買ってきてくれた」

「どこのやつ?」

「知らない」


「喉渇いた」

「あ、水筒あるよ」

「マジ? 貰っても良い?」


「厚着してくりゃ良かった」

「本当にな」

「学ラン貸してくんない?」

「良いわけねえだろ」


「最近、飽きてきちゃった」

「ゲーム?」

「全部」


「温泉街って結局どこのが一番良いの?」

「俺、温泉が嫌いだからなあ」


「オススメの映画ない?」

「ある、コレ」

「へえー……今やってんの?」

「ううん、二、三年前の」

「……オススメの違法映画サイトない?」


「野球って楽しいの?」

「やったことないから」

「あれ? やってなかったっけ?」

「俺、バスケだもん」


「明日雨かも」

「ええ、傘買わなきゃ」

「そういや折り畳みあるんだった」


「『鶏が先か、卵が先か』って話あるじゃん」

「うん」

「あれってどっちが先?」


「図書室で本でも借りりゃ良かったな」

「家出するから返せないじゃん」

「だからだよ」


「昨日、アイス買ったんだけどさ」

「アタリでも出たか?」

「いや、落とした」

「…………」

「あとハズレだった」

「…………」


「すっかり肉まんが美味い季節だなあ」

「黒胡麻まんって知ってる?」

「何それ、美味いの?」

「ゲロ吐くくらい美味い」

「……美味いの?」


「席替えってしてる?」

「してない」

「だよな、うちの高校って席替えしないよな」


「ゲロで思い出したんだけどさ」

「ゲロで思い出すな」

「うちに新しい扇風機来た」

「ゲロは?」


「寝起きの悪さで世界獲れるかも」

「マジで? ライバルじゃん」

「ダブルス組んだら最強だな」


「何でこの時期に扇風機?」

「今、暖風も出せるのがあるんだよ」

「へえー」

「あんまりあったかくないけど」


「この前のテストどんな感じだった?」

「次こそはって感じ」

「次もやる気でいない?」


「俺も扇風機で思い出したんだけどさ」

「扇風機で思い出すな」

「それは良いだろ」

「で、何?」

「羽なし扇風機って実際どうなの?」

「それは買ってみないと分かんない」


「ナスの一番美味い食べ方決めよう」

「揚げナス」

「そうなんだよ」


「唐揚げと竜田揚げの違いって何?」

「分かんない」

「俺たち何にも知らないな」


「今日が一番楽しいかも」

「そういうもんだよ」


「頑なに変顔しない女子ってどう思う?」

「別にどうとも」

「ああ……そっか」

「気に食わない顔だな」

「悪口言い合いたかった」


「ポリエステルとポリリズムの違いって何?」

「適当に喋り過ぎじゃない?」

「自分でも何言ってるか分かんない時ある」

「気をつけろよ」


「脳内麻雀やろう」

「親が天保で終わりだろ」


「誕生日来ねえかなあ」

「いつだっけ?」

「こんな時間まで何してるの?」

「え?」

「ちょっと交番まで来て」



   〇   



 気付けば時刻は二時を回っていた。


 確実に長居し過ぎた。

 当然警官に見つかれば補導は免れない。


 話がまるで途切れず、僕らとしては珍しいことだった。

 こんなにも話し込むのはいつ振りだろう。

 まるで今日が僕らの最後の夜のように思えた。


 その警官はファミレスを出た直後に声をかけられたのとは別の人で、少し若い見た目である。

 自転車から降り、押しながら近寄ってくる。


「ああ、すいません。もう帰ります」


 3が相変わらずの澄まし顔のまま平気で嘘を吐く。


 しかし、その警官は全く見逃す気配もなく3の言葉を無視して言う。


「ずっと座り込んで話してたじゃない。どうせ帰る気ないんでしょ」


 強い口調に少し苛立ちを覚えた。

 図星なだけに余計に腹が立つ。


 けれど、3も落ち着きを失わず何とか粘ろうとしている。


「いや、本当にもう帰るので大丈夫です」

「終電もないけど?」

「家、この辺なので」


 もちろん嘘だ。


 それでも警官は僕らを一向に信じようともしない。

 多分、僕らの言葉で信疑を選んではいない。

 端から信じようという選択は彼の中にはない。

 僕らを見つけた時点で僕らを補導しようという使命感でいっぱいなのだろう。

 それが彼なりの正義感なのかもしれない。


「とりあえず交番まで来てもらうよ」


 そう言って警官は自転車を止める。

 それを合図に僕らは駆け出した。


 駆け出すついでに3が警官の自転車を蹴倒す。


「おい、こら待て!」


 警官の怒号が夜の佃町に響き渡る。

 後ろなど見ている暇もないが、恐らく自転車で追いかけてきていることだろう。


 自転車を倒したのがどれだけの時間稼ぎになったかは分からない。

 数秒稼いだとてきっと僕らは逃げられない。


 それでも何とか走らなきゃ。

 始まったばかりなんだ。


 先頭を走る2は清澄通りへと戻っている。


「狭い路地とか無いの?」


 と、1が叫ぶ。


「知らないよ、それより信号渡ろう」


 月島署佃交番の横を通り過ぎ、目の前の横断歩道に駆け込む。

 幸い清澄通りに架かる横断歩道は今まさに点滅していた。


 僕らが信号を渡り切った時には信号は既に赤に変わっており、後ろの警官は大通りの向かい側で往来する車に立ち塞がれて身動きが取れずにいた。

 しかし、すぐに進路を変えて別の信号からこちらへ来ようとしている。


「今のうちだ」

「どこに逃げる?」

「とりあえず晴海の方に行こう」


 朝潮大橋に繋がる新富晴海線沿いの歩道を走り晴海埠頭を目指す。

 緩やかな坂道とはいえ駆け上がるには堪える道で、みんな既に全力疾走とは言えない歩みだった。


 息切れした声で「とりあえず時間稼げたろ」と、3が夜空に顔を向ける。

 冷気が肺に入り、針で突かれるような痛みが呼吸に伴う。


「晴海のどこに逃げ込むよ?」と、2が後ろを確認しつつ言う。

 直後、血相変えた2が突然速度を上げて走り出す。


 僕らは背後を一瞥し、自転車を漕ぐ警官が二人追いかけてきていることに気付いた。


「言えよ!」

「喋ってる暇ない」

「早く逃げろ!」


 もう追いついてきた。

 しかも一人増えてるし。

 きっと交番の横を通った時、一人目の警官が協力を仰いだんだ。


 朝潮大橋から望む河は街灯の灯りで煌めく。

 僕らの横を簡単に追い抜いていく車が旅路を邪魔するように排気ガスを吹きつけてくる。


 このままでは捕まってしまう。

 警官たちとの差が十数メートルまで縮まった。


 と、その時、朝潮大橋から高架下へ降りる狭い階段がすぐそこに見えた。


「2、そこ降りて!」


 一番後ろを走る1が先頭の2に向けて叫ぶ。

 2は言葉通りに階段へ入り込んだ。

 それに続いて僕らは階段を駆け降りる。


 自転車に乗る警官たちは自転車から降りないと追いかけられない。

 今度こそ逃げられるかもしれない。

 あとは若々しい僕らの走力でどうにか警官を突き放して、


「うわあっ!」


 と、そんな考えに耽っていると、突然そんな声が前方から飛んできた。


 一瞬何が起こったのか分からなかった。


 階段を駆け降りていた2が足を滑らせて転げ落ちていく。

 見たままの状況だけを伝えたら、そういうことなのだろう。

 或いは、それだけが全てだと言われるかもしれない。


 体の至る箇所を階段にぶつける度に2は鈍い呻き声を上げる。

 やっと下まで着いた彼は立ち上がることもできずその場で蹲った。


 理解することができなかった。

 もしかしたら、彼が死んでしまうのではと思ったのかもしれない。

 そうじゃなくても、心臓が動くだけで呼吸器と点滴が無ければ死んでしまう体になるのではと思ったのかもしれない。

 たとえそれ以外だとしても、取り返しのつかないことになるのではと思ったのかもしれない。


 つまり理解したくなかった。


 2の元まで急いで駆け降り、彼の安否を三人で確かめる。

 息の仕方を忘れてしまったかのように胸が詰まる。


「おい、大丈夫か?」

「2、起きて」

「い……てえ……」


 どうやら酷い外傷は見られないがまだ安心できない。

 見えない服の下に酷い怪我があるかもしれない。


 それにどうやら足を強く痛め、立ち上がることもできないようだった。

 骨折している可能性は十分にあるし、最悪の場合靭帯が切れていたり神経系に問題が起きているかもしれない。


「ごめん」と、2は小さく謝る。

 僕らは首を横に振って彼の声を掻き消すようにたくさん謝った。


 僕らの家出はもはやここまでだった。



   〇   



 警官たちもすぐに階段を駆け降りて2に声をかける。

 一人が救急に電話をかけ、一人は2を背負い、大通りまで移動する。


 救急車が到着し、無傷の僕らも2と一緒に近くの総合病院へ付いていく。

 その後家族にも連絡が行き、それぞれ迎えがやってきた。


 2が診察を受けている間に警官に事情を話し、それが終わってからはただ2の無事を祈った。

 待合室には時計の音だけが鳴り響いて、やけにうるさく感じる。

 3も1も床や天井をずっと見つめたまま黙っている。


 僕の母親が病院へ到着した頃には、2の診断はとっくに済んでいた。

 結果的に左足首を捻挫した程度で、命にも今後の人生にも別条はないそうだ。

 僕らが慌てふためいて息もできなかったあの焦燥は、全治二週間で片付いてしまった。


 とはいえ、2が階段から転落した瞬間に僕らの旅は終わっていた。

 それはみんな分かっていたことで、それ故にみんながみんなに謝ったのだ。


 母親は僕を見るなり僕の頬を叩いて怒鳴った。

 冷えた手の平がやけに温く感じた。


 そのままその手に引かれ病院の外へ連れ出される。

 脇の駐車場まで移動し、そこからはお説教の始まりだ。


 真夜中に大声で叱りつける母親の目は既に赤く腫れていて、それでも尚涙を流し続けている。

 僕はすっかり疲弊していたし、母親も混乱しながら怒鳴るから、何を言われているのか全く頭に入ってこない。

 ただただ、遠くまで見つめていたはずの僕らの未来がこんなにも早く現れてしまったことだけが頭の中で渦巻いていた。


 病院内へ戻ると、いつの間にか3の母親が来ていたらしく、3を抱き締めながら泣きじゃくっている。

 3は抱き返すことこそしないけれど、驚いた表情で、同時に泣き出しそうな表情で母親に抱かれている。

 まるで初めて愛情を貰ったように目を丸くして瞠っていた。


 1の父親は案の定来なかったけれど、代わりに彼の兄が迎えに来た。

 何も言わずに1の頭を撫で、僕と3の母親に頭を下げて謝った。


 三時になる直前、2の父親が現れた。

 しっかりとスーツを着込んでおり、髪型もばっちり決まっている。

 僕らは2の父親に謝罪をする。

 嫌味のようなことを言われた気もするが、それよりもどこか青ざめた顔がやけに気になった。



   〇   



 翌週、いつも通りに登校し、いつも通りに授業を受け、いつも通りに五限をサボる。


 いつも通りに屋上テラスで四人向き合い、充電満タンのスマホで麻雀を満喫する。


「倍満確定だぜ」

「クソが」

「ツモ切りが続くな」

「立直ぃ」

「てめえ」

「ああもう楽しくない」

「んふふ、余裕だからドラ流しちゃお」

「ツモ切りで何言ってんの」

「それそれそれロぉン!」

「うぎゃあ」

「俺の倍満があ」


 いつも通りに2に当てられる。


「二万四千点」

「高っ」

「お前も倍満かい」

「4、飛ぶじゃん」


 先週のことがあり、警察から学校にも連絡が行った。


 今朝のホームルーム後、学年主任から呼び出された僕らは分かり切ったことしか言われないお叱りを受けた。

 部活に出たらきっと顧問の先生からも何か言われるだろう。


 他の生徒には何も伝わっていないようで、松葉杖を突いて登校した2にみんな興味津々の様子だった。

 相変わらずたくさんの人に囲われた2を見て、少し羨ましく感じた自分にすぐ幻滅する。


「あーあ、結局どこにも行けなかったな」


 3が伸びをしながら退屈そうにぼやく。


「でもまあ、早いうちに阻止されただけ良いんじゃない?」


 1は晴れた空をぼんやりと眺めて言った。


「今度は普通にどっか行こうよ」


 みんなを見遣り僕は軽い気持ちで提案してみた。


「そういえばさ」


 2は僕の方を見て不意に訊ねる。


「結局4は何で帰らなかったの?」


 今更そんなことを聞いてくるか。

 その疑問は2だけが抱えていたわけではないらしく、3も「俺も思った」と、同調する。


「別に、帰らなくても良いかなって思っただけだよ」

「何で?」


 曖昧な答えで濁そうと思ったけれど1がさらに問い質してくる。


 正直追求されると答えるのが恥ずかしいから、このまま永久に訊かれたくなかった。

 少し躊躇い、自分なりに勇気を振り絞って理由を明かす。

 なるべく、何でもない風を装って。


「みんなと一緒に居られるなら、帰るよりもそっちの方が良かったんだ」


 内心熟れたリンゴのように赤面していて、声を発する口は気を抜くと口角が上がりそうになる。


 けれど、それ以上に言い表しようのない思いだった。

 いつかは変わる思いだろうし、いつまでも変わらない思いだろうけれど、数時間のあの夜にずっと変わらず抱えていた思いだった。


 家に帰りたくなかったからじゃない。

 親や大人に抗いたかったからじゃない。


 家出だろうと逃亡だろうと放浪だろうとどこへ行こうと、みんなと居たいだけだった。


「それだけだよ」


 それだけが僕なりの帰りたくない理由だった。


「気持ちわりい」

「恥ずかしくないの?」

「ひゃー」


 それなりに意を決した僕の気も知らず、三人揃って照れもにやけもせず茶化してくる。

 そんな彼らを見て、僕は心の底から安心していた。



   〇   



 あの短い夜から幾年が流れた。


 あの後、みんなの家庭事情も生活環境もそれなりに変化していった。


 3は前ほど家庭の文句を言わなくなった。

 あの夜、迎えに来た母親が本気で彼を心配していたことを知り、彼自身にも何か思うところを与えたのだろう。


 後から聞いたが、警察から連絡を受けた時、彼の母親は捜索願いを届け出ようとしていた直前だったらしい。

 母親も以前のように彼氏を家に連れ込まなくなり、お互い話す時間が増えたと言う。


 酒と煙草は一向にやめられなかったが、成人した今となってはもう時効だろう。


 高校卒業後は地元の自動車の専門学校に入り、今は自動車店のディーラーをしている。

 休みの日はツーリングで色々な所へ行っているそうだが、熱海にはまだ行ったことがないらしい。

 温泉嫌いじゃ仕方がない。


 1の父親はあの日以降も変わらず虐待を続けたが、遂に耐え兼ねた1が強く反抗した。

 それによりその日の父親の暴力がエスカレートし、1は病院に搬送された。

 命に別条はなかったが、それを皮切りに市役所や保健所が介入し、最終的に父親は刑務所に入れられた。

 1たち兄弟は今まで虐待を黙認してきた父方の祖父母の家に引き取られ、兄弟で協力し合ってお互いを支えてきた。


 その後、大学へ進学した1は建築を学び、持ち前のコミュニケーション能力もふんだんに活かし、希望の建築会社に就職した。

 良縁にも恵まれ、妻のお腹には彼らの子どもがいる。


 2の父親はあの夜以降随分と丸くなったそうだ。

 夜遅くになっても帰らなかったことより、息子が怪我をしたという連絡の方に相当不安を煽られたらしい。

 荘厳な性格は相変わらずだが、気を遣って話しかけてくれたり学校行事にも来てくれるようになったと言う。


 2自身は変わり果てた父親への接し方が分からず、前の方が楽だったと照れ臭そうに話していた。

 彼のああいう笑顔を見たのはその時が初めてだった。


 高校卒業後、第一志望の学部に落ちた2は同大学の福島県のキャンパスの学部へ進み、東京の実家を出た。

 余程一人暮らしを気に入ったらしく、あまりこちらへは帰ってこなかった。


 その後は厳しい就活を乗り越え、無事に大手企業に就職する。

 職場環境に合わなかったらしく、その企業を離職した当時は珍しく弱気になっていた。

 新しい職場では良好な関係とより高額な給料を手に入れ、今となっては全てが順調そうである。


 僕はあの日から何も変わっていない。

 それの良し悪しは分からないけれど、変わらず家族と仲が良いのは少なくとも咎められることじゃないはずだ。

 叱られたり、感謝されたり、時には悲しませたり、僕なりに忙しい日々だった。


 デザインの分野を勉強しようと進学した大学では本当にデザインのことをただただ勉強しただけで、友人などはろくにできなかった。

 たまに帰ってくる2に合わせ、皆で会える日を待ち遠しく思いながら頑張り続けた。

 それなりに努力して、大体は怠けた四年間である。

 卒業後は結局デザインとは離れ、ブラックともホワイトとも言えない企業に勤め、今も僕なりに必死に生きている。


 もしあの日、僕らの家出が成功していたら今よりも幸せだったのかもしれない。

 家族と一生分かり合えなかったみんなと一緒に、今も楽しく暮らしていたのかもしれない。


「帰りたくない」と、橋の上から始まった無計画な僕らの旅は最後までどこへも行けずに終わってしまった。


 どこかへ行きたかったわけじゃない。

 ただひたすらに帰れる場所に居たくなかった。

 みんなと居られるなら、きっと今でもそれを選ぶ。


 あの日全てを捨てて四人だけで遠くへ行ってしまおうと決意したことを、僕らは誰にも話していない。

 親にも兄弟にも警官にも決して話さないでいようと、言葉も交わさず僕らは誓い合った。


 何でなのかは分からない。

 けれど、話してやりたくなかったのだ。

 僕らだけが抱え、遂げることのできなかった一つの幸福を、他人に触れさせたくなかったのだ。


 そして、やがて僕らの内輪でもその話をしなくなった。

 若気の至りのようで恥ずかしいだけなのかもしれない。

 けれど、静かに仕舞っておきたい気持ちもあるのだ。

 あの日がどれだけ楽しい夜だったか褪せないように綴じておきたいのだ。


 今も時間が合えば四人で集まる。

 案外お互い離れ難く思っているのか、1が「集まろう」と、声をかけるとすんなり日程が決まる。

 会えば楽しく話をするし、別れの間際はやはり名残惜しい。


 一度結んだ縁は意外と固く解けないようにできている。

 それとも僕らが親友であるが故にと、胸を張って言っても良いのだろうか。

 だとしたら、それこそが僕の誇りだ。



   〇   



 彼女もいない子供に友人は何よりだ。


 幼い頃に見た映画でそんな言葉があったことを忘れたことなどない。

 二日どころか一日と保たなかった僕らの旅は今も遠く後ろで手を振っている。

 死体も勲章も得られなかったけれど、それで良かったと今は思える。


 僕らはどこかに行きたかったわけじゃない。

 僕は帰りたくなかったわけじゃない。


 僕にとって特別な三人が僕にとっての全てじゃないけれど、あの日の世界の真ん中は間違いなく僕らだった。

 

『金曜日』

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