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短編集  作者: 因美美果
6/12

短編・6

 騙し取った金で飲むワインは格別だ。


 雲から顔を出した月が妖しく光り、思わず笑みが零れた。


「ふふ、今頃血眼になって俺を探しているに違いない」


 騙した奴の青ざめた表情を想像しながら、空になったグラスにワインを注ぐ。

 他人の不幸は蜜の味――全くだ。

 これほどまでに甘美な肴があるだろうか。


 詐欺師を始めてもう十年以上が経過した。


 最初の頃は何度もバレて、何度も殴られた。

 殺されかけたことだって数知れず。

 しかし、今はこうして他人の金で高い酒を飲んでいる。


 たまたま見つけたこの破屋も、追手が嗅ぎつけてくる前に発たなければならない。

 今や俺も有名人――俺の人相が書かれたチラシが至る街に貼られているのだから。


 そのため、仕事の時はマスクを被って声を変える必要がある。

 特に、変声の会得には苦労したなあ。

 何度も失敗し、その度に逃げて――しかし、そのおかげで詐欺と逃げ足の能力はだいぶと向上した。


 楽をするための悪事は決して楽じゃない。

 しかし、最後に楽をできるというのだから、やめられない。

 度し難いが、汗くさい小銭なんて稼いでいられないのさ。


「さて、そろそろ発つかね」


 月に呟いてみたりして、ワイングラスを飲み干す。

 ボトルに残った分は、破屋の腐った床に零す。


「路銀の代わりだ。受け取ってくれ」


 空っぽのボトルを床に置き、大金を抱えたアタッシュケースだけを持ち、破屋を後にする。

 外に出ても、月は依然として妖しく光り続けている。


 辺り一帯は深い森で、さらにここは林道を外れてかなり進んだところ――こんなところに人が来ることはまず無いだろう。

 仮に追手が来てもすぐには見つからない。

 奴らが闇夜の森に怯えながら歩き彷徨っているうちに、俺は逃げてしまえる。


 さて、それじゃこれからどこへ行こうか。

 大きな詐欺をした後は、しばらくは鳴りを潜めた方が良い。

 普通の放浪者を演じて、次の仕事を考えるに限る。

 莫大な金もあることだし、焦る必要はない。

 しばらくは酒と女には困らないだろう。


 とりあえず森を抜けて大きな街へ行こうか。

 木を隠すならという奴さ。


 ――ガサッ。


 その時、背後の茂みが暴れ出した。

 追手がこんなに早く現れるはずがないから、おおよそ獣だろう。

 それもおっかない奴ではない――野兎か何かが正体としては妥当だろうか。


 少しの殺気も放たずに後ろから俺に近づけるのは、そもそも殺気を持たない小動物程度だ。

 何せこちとら敏腕詐欺師――人の顔色を窺い続けて十余年。

 今となっては空間丸ごとの気配の動きを察知できるようになってしまった。


 さあさあ可愛い野兎や、俺の胸に飛び込んでおいで。

 ひいては、皮を剥いでその肉を焼いてやろう。


 などと、本当に野兎だったなら、気楽に考えられたかもしれない。

 しかし、その時の俺はそんな戯言を頭の中で弄ぶ暇もなく、殺されかけた。


 飛び出してきたのは、野兎どころか熊よりもたちの悪い猛獣だった。


 振り返った先に待っていた景色は大鉈の刃で覆われていた。


「あ――」


 完全に殺されたと思った。

 しかし、振り下ろされた刃は、肩の肉を刺してすぐに離れていく。


「――!?」


 すぐに次の刃がやってきて、今度は右の太腿を真横に両断しにかかる。

 しかし、肉に1センチほど刺さったと思うと、すぐに引き抜かれる。


 俺は恐怖と戸惑いで腰を抜かした。

 冷えた土に尻もちを着き、目の前の猛獣を見上げる。


「あは、転んじゃいました」


 月明かりに薄く照らされた獣は酷く美しい女だった。

 およそ大鉈を振り回せそうにない細腕に、上物だったはずのドレスはズタズタに引き裂かれている。

 破れた服の隙間から彼女の白肌が見えていて、こんな状況でなければ勃っていただろう。


 女は澄んだ瞳を歪ませ、それ以上に口端を歪ませながら俺を見下す。


 見たところ追手ではなさそうだ。

 しかし、追手よりも厄介なのは間違いない。


 何なんだ一体。

 殺気も漂わせずに背後から忍び寄り、大鉈で一刀両断されると思ったら肉に溝を軽く作るだけ。

 死は未だ来ず、鋭い痛みだけが残っている。

 目的が分からない。


「何なんだよ、お前は」


 震える声で絞り出した言葉に、女はさらに目をきらきらと輝かせた。


「何故襲ってくるんだ。もしかして、いつだかの俺の被害者か? すまねえが、騙した奴の顔はいちいち覚えてねえんだ。殺すのだけは勘弁してくれ。丁度大金を持っているんだ。それで見逃してくれや、な?」


 しかし、女は笑みを崩さぬまま首を傾げる。


「何のことですか?」


 純朴な瞳で、彼女はそう訊ねる。

 俺に騙された被害者ではない?


「――ああ、分かったよ。指名手配のチラシを見たんだろ? 俺の首を差し出して報奨金が目当てか。だったら、それこそ話が早い。俺の首よりももっと高値の額をやる。そこのケースを持って行けよ。なあ、それで十分だろ!」


 それでも、女は恍惚とした表情のまま、俺を見てくる。

 片手で悠々と鉈を持ち、その切先で俺の頬をなぞる。

 血が顎へ伝うが、恐怖で痛みは感じられない。


「何の話か分からないですけれど、私はあなたの悲壮な顔が見たくてやっているんですよ?」

「…………は?」


 女はしゃがみ込み、俺に目線を合わせる。


「人を甚振ることで顕れる汚れた生への執着、それが見たくて――壊したくて、ただ人を殺しているのですよ?」


 女はぐっと顔を近づけて、視界一杯に彼女の大きな目が広がる。


 その時、彼女の正体が何となく分かった。

 街で俺の指名手配のチラシを見かける時、大抵その隣には決まってもう一つのチラシが貼ってあった。


 そこには、人相は描かれておらず、人物の特徴がただ一つ。

 ――凄惨な殺人鬼。


 姿を見た者は皆殺されたため、容姿については何も書かれていなかった。

 何十人と殺め続けている殺人鬼という話は聞いていたので、てっきり男だとばかり思っていた。


 しかし、彼女を目の前にして理解した。

 こいつこそが猟奇殺人犯だ。


「さあ、痛みに泣いて、死に怯える姿を見せてください」


 息が乱れ始め、女の温い吐息が鼻先に触れる。


 なるほど。

 中途半端に鉈で刺しては抜いてくるのは、甚振るためか。

 少しずつ傷をつくり、俺を嬲り殺す気なんだ。

 今までこいつに殺された奴も、そんな風に恐怖の淵に立たされながら死んでいったのだろう。


 しかし、俺はそいつらとは違う。

 無抵抗で黙って殺されるだけの凡人ではない。

 嘘や方便はお手の物だ。

 悪人はお前だけじゃないぜ?


「お、おい、ちょっと待てよ。お前の望みは何となく分かった。とにかく人を殺したいんだろ? それもなるだけ残酷に」

「ええ、そうですよ。引きつった眉とか、潤む瞳とか、震える命乞いとか、そういうのを拝みたいんです」

「ああ、そうだよな。なら、俺と取り引きしないか?」

「……命乞いですか? それなら、もっと絶望しながらやってください」


 そう言って、女は立ち上がり、鉈を振り上げる。


「おい待て待て! そうじゃない、お前にも得のある話だ。俺を殺さないでいれば、あとで何十倍にもなって返ってくるぜ」


 鉈は高々と掲げられたままだったが、振り下ろされることもなく、値踏みするような眼差しで「……続けてください」と、女は言った。

 会話に持ち込められたなら、こっちに分が傾く。


「実は、詐欺師なんだ。今や俺に欺けないものはないくらいのな。だから、口はだいぶ立つ方だと自負している。そこでだ、俺を生かしておいてくれたなら、お前が獲物を探す手間を省いてやろう」


 僅かながらに女の瞳の色が変わる。


「実際、人を殺すのは楽しいかもしれないが、楽じゃないだろう?」

「……そうですね」

「街のど真ん中ででかい得物を振り回すわけにもいかないし、奉行や憲兵を敵に回すのは不本意だろう? かと言って、こうして人気のない場所にやってきた奴を襲うのだって効率的じゃないはずだ。できることなら、お前だって毎日人と甚振りたいわけだろう?」

「ふふ、それができたらこの世は楽園です」


 そんな血みどろの楽園があって堪るかよ。

 そんな本音は作り笑顔の下に隠し、嘘にさらなる拍車をかける。


「だよな。だったら、俺がその人間を誘き出してやる。お前の欲が飢えないように、好きな時に被害者を用意してやる」

「…………」

「安心しろ。もちろん後始末も完璧に熟す。足跡だって残さない。お前の安定した殺人ライフを保証してやる」

「……失敗したら?」

「お前の好きなように甚振ってくれて構わない。悲鳴も嗚咽も好きなだけ聞かせてやろう」


 女はしばらく思案する。

 その間も鉈の切先は天に向けられ、無垢な笑顔は絶えない。


 そして、「ふふっ」と、不気味に笑みを一つ零す。

 同時に、これ以上俺を切ることなく、鉈がゆっくりと下ろされる。


「良いでしょう。あなたの言葉を信じます」


 その言葉に、ひとまず胸を撫で下ろす。

 殺人鬼と出会しながら、なんとか命を繋いでやったぞ。


「それじゃあ」と、女は夜空を見上げながら、話を進める。


「早速ですけれど、一人獲物を用意してきてください」

「え、今から?」

「早く。あなたを食い損ねてお腹が空いているんです」



   〇   



 追ってくる憲兵から遠ざかることも含め、俺たちは早速山を下り、隣町を目指す。


 隣町までは二時間くらいの山道を歩くことになる。

 女に斬られた傷が一歩ずつ進む度に痛み、正直意識は朦朧としていた。


 手当てくらいさせてほしいが、「時間が惜しい」の一点張りで止血もさせてくれない。

 この調子だと、町に着く前にぽっくり逝ってしまうかもしれない。


 そんな風に回らない頭を転がしていると、遠くに小さく灯りが見えた。

 木々に囲まれた岩場で焚き火を熾し、切り株に腰掛け、何やらスープを啜っている。

 見た目はまだ若く、大きな荷物を脇に置いてあるところを見ると、どうやら旅商人のようだ。


 これは良い鴨を見つけたぞ。


 懐から小さな望遠鏡を取り出し、覗き込む。

 拡大された男は退屈に溜め息を吐いている。

 付け入る隙も十分。

 場所もこれっぽっちも人気はない。


 ――条件は十分だ。


「おい」と、女へ声をかける。


「あの男でも良いか?」


 女は俺の望遠鏡で男の顔を観察する。

 そして、にやりと笑みを零し、望遠鏡を返す。


「ええ、良いですよ」


 よし、決まりだ。


「それじゃあ、お前は今から売春婦だ」

「殺します」

「待て待て、鉈を仕舞え」


 血が足りなくなって、言葉も足りなくなってしまった。


「本当に体を売る必要はない。そういう体で、あいつを誘い込むんだ」

「なんだ、驚きました」

「人目のつかない所へ行ったら、後はお前の好きにしろ。火の始末は俺が済ましておく」

「分かりました」


 すると、女はすぐに男へ進み始める。


「ちょっと待て」


 俺は女の腕を掴み、引き止める。


「何ですか」

「気が早いぞ。まだ話は終わっていない」


 作戦はもっと綿密にしなければならない。

 人を騙すには人に信じられなければならないのだから。


「信じさせるとは?」

「お前が体を売り歩いている体でも良いが、お前を商品として俺が売っている方が信じさせるには良い」

「『良い』とは?」

「感覚の問題だ。理詰めされたらキリがない」

「はあ」


 だから、俺も演者として参加する。

 その上でも、流れる血は止めておかなければならない。

 持ち主が怪我人では商品の安全性を問われる。


「仕方ありませんね。早くしてください」


 ふう、ひとまず俺の失血死は回避できそうだ。

 包帯で止血を済ませて、血で汚れた衣服を着替える。

 これでとりあえず見た目の怪しい部分は消せた。


「さあ、早く行きましょう」

「待て、まだだ」

「はあ?」

「鉈を寄越せ」


 商品がどでかい鉈を持っているんじゃ、それこそ安全性もクソもない。

 これは必須だ。


「嫌です」

「…………」


 まあ、そりゃそうか。

 自分の得物が無いのでは、あの男を甚振るのも難しいだろう。


「いえ、そういうわけではありません。あんな細い男、その辺の木の枝でどうにでもなります」


 む、なら、何が問題だというのだろうか。


「あなたはまだ私の餌に過ぎません。あなたに鉈を渡して、逃げられる、もしくは逆らわれるのは不本意です」

「……確かに。しかし、その血錆塗れの鉈があるんじゃ、あいつも誘き出さないぞ」

「…………仕方ありませんね。今回はあなたに渡しておきましょう」


 ふう、やっとあの男に身代わりになってもらえる。


 「ちなみに」と、女は念を押すように俺に忠告する。


「逃げても無駄ですよ。あなたの今の怪我をした足では私からは逃げられないでしょうし」

「分かっているって」

「自分が非常食であることを深く自覚してくださいね」


 嫌な言い方だ。


 しかし、代わりと言ってはなんだが、良い情報が聞けた。

 確かに今の負傷した足では女から逃げることは不可能だろう。

 それは俺だって重々承知している。


 しかし、完治した足ならば、逃げられる可能性があるということだ。

 彼女の言葉もそれを示唆している。

 嫌味や脅しのつもりで言ったのだろうが、俺には十分なほどの希望の蜘蛛糸だ。


「ああ、じゃあ、さっさとやろうか」


 やっと満を持して、女に男を食わせられる。

 これで解放されるわけではないが、しばらくは命を繋げられた。


 全く厄介な奴に捕まっちまった。



   〇   



 商人の男の呻き声が夜に響いていた頃、俺は俺で商人の荷物を漁っていた。


「終わりました」


 背後から声をかけられ、振り返る。

 視線の先には、月明かりを受けた恍惚な笑みと血塗れの体が佇んでいた。


「おう、こっちも丁度盗み終えた。鉈も返す」

「ええ、どうも」


 遺体と荷物の処理を済ませ、俺らはその場を離れる。

 一応念入りに隠蔽したが、こんな山奥には誰も来ないだろう。

 旅商人なら消息も絶ちやすい。

 まさに好物件だ。


 しかし、女はそういうわけでもなかったらしく、妖艶な笑顔とは裏腹に「あまり良くなかったですね」と、愚痴を零す。『良い』とは何か。


「やっぱりあなたの方がよく泣きそうです。生への執着も強そうですし」

「どうもありがとう。だから、こうして生きている」


 全く嬉しくないお褒めの言葉を与り、とにかく次の町を目指す。

 今は憲兵どもの目もある。

 距離を稼がないと、徐々に追いつかれてしまう。


「しかし、見事なものですね」


 俺の後ろを歩いていた女は、真横に並びながら俺の顔を覗き込んだ。


「何がだ?」

「先程の詭弁方便の数々ですよ。あなたが喋るほどに、あの男の目付きがどんどんいやらしくなっていきました」


 まあ、誇張表現なんて詐欺の初歩だ。

 安いものを良くプロデュースし、高く売る。

 これで何年も生き長らえてきたんだ。


「安いものとは?」

「そりゃあ、この場合はお前……間違えた。間違えたから鉈は仕舞え」

「最低ですね」


 ふう、一命を取り留めた。

 落ち着きがあるから性格は穏やかかと思ったが、意外と怒りっぽいんだな。


「おや?」と、女は前方を見て、にやりと微笑む。

 彼女の視線の先を追うと、一人の兵士が歩いてきている。

 どうやら巡回中の警備兵らしい。


「あいつを食いたいのか?」


 さっきの男はいまいちだったらしいし、もう一人くらい殺させて安定させなければならない。

 憲兵の追跡も余裕はあるだろうから、あいつで良けりゃ騙すけれど。


 しかし、女は物惜しそうに首を横に振った。


「ああいう兵士は、殺した後に面倒になることが多いのです。組織に属していると身元もはっきりしていますし、監察で私の犯行だとバレます」

「なんだ、そんなことか」

「え?」


 そんな杞憂はしなくて良い。

 バレないための俺なのだろう。


「要は、犯人がお前だとバレなければ良いんだろう?」

「はい」

「だったら、山道を外れて転落死したとか、熊に襲われて食われたとか、何だって良いだろ」

「そうですけれど、どうやって?」

「隠蔽工作だよ。まあ、とにかく食わせてやるから」


 女は静かに微笑む。

 その時の笑顔は不気味でなくて、それが余計に気持ちが悪かった。



   〇   



 月の夜に女と出会ってから、四半年が経とうとしていた。


 彼女のために人を騙す生活も慣れてきてしまった。

 体の傷は疾うに完治しており、毎日快調である。


 女が餌となる人物を決め、俺が誘き寄せて女の餌皿まで運ぶ。

 女が殺人に悦楽している間に、餌の荷物から金や食糧、日用品を奪取し、隠蔽工作を済ませる。


 一連の流れは俺にとっては習慣化されつつあり、代わり映えしない毎日に退屈した。

 女はどんどんと運び込まれる快楽に一喜一憂しているようで、毎回変化する女の表情を見て「今回の奴はあんまりだったんだな」とか「今の奴は満足できたんだ」などと、勝手に考察することしか面白みが無くなってきていた。


 今の生活なら、食うに困らない金が手に入るし、騙した相手に報復されるような危険もないため、安定していると言えばそうなのだが、やはりつまらない。

 以前の生活のように、金持ちの厳重な懐から如何にして大金を騙し取るかという、刺激的かつ充足的な日々が欲しい。

 殺人鬼の働き蟻となって、女王蟻を太らせるだけの生活は気に食わないし、性に合わない。


 やはりどこかでタイミングを図り、こいつから逃げ離れなければならない。

 幸い、体はいつでもとんずらする準備ができている。

 あとは機会さえ来てしまえば、こんな生活からおさらばできるのだが。


「聞いていますか?」


 そんな企てに耽っていると、女は眉をひそめながら、顔を近づけてきた。

 俺は突然の接近に思わず後ろに退いてしまう。


「大丈夫だよ。あの男だろ?」


 日の当たらない路地裏から大通りの街頭に寄りかかる男を指差す。

 少し小太りの中年で、如何にも騙しやすそうな奴だった。


「あんなのが良いのか?」

「うるさいですね。今日は野太い悲鳴が聞きたいのです」

「変態め」


 女の餌を調達し続けて半月、様々な人間が食われる様を見てきた。

 女は基本的にどんな人物も楽しんで殺してしまう。

 老若男女も聖人君子も極悪非道も健常者も障害者も金持ちも貧困も関係なく、より凄惨に悲鳴を上げる者を好む。


 一度、育ちの良さそうな少女を所望してきたことがあった。

 さすがに俺には調達できないと断ったが。

 別に子どもを殺人鬼の餌にするのが気が引けたわけではない。

 倫理観など詐欺師として生きていく上でどぶに捨てた。


 単純に、子どもは騙しづらい上に、保護者がいると大事にされやすくなる。

 スラムを彷徨っている孤児とかであれば何とかなっただろうが、生憎彼女のご所望はそうではなかった。

 女も鉈を向けながらも俺の巧みな説得の末、どうにか献立の変更を受け入れてくれた。


 ともかく、今は目の前の餌を調達しなければ。

 全くいつまでこんな生活が続くのかと思うと、それだけで疲弊してしまう。

 あの時、交渉条件に期限を設けておけば良かった。

 いや、その期限が切れれば、俺が餌にされるだけか。


 いっそのこと飯に毒でも盛るか、寝首を掻くか。

 しかし、そんな隙もなく、女は飯を自分で作り、眠るのは俺が眠った後だ。

 男女の筋力差に物を合わせて、正面から始末できるような相手でもない。

 手も足もぐうの音も出ないほど、全くもって非の打ち所がない殺人鬼だ。


「やっぱり聞いてないでしょう」


 そう言って、女は両掌で俺の頬をパチンと挟む。

 そのまま頬を摘んで引っ張りやがる。


「痛い痛い」


 女は「罰です」などとほざきながら、くすくすと微笑んだ。

 何だか最近、彼女のこうした笑顔が増えてきた気がする。

 前までは人を切り刻むことでしか喜ばなかったのに、他愛もないことで普通の女の子のように顔を綻ばせるようになった。

 最初は俺と一定の距離を取って、触れ合うことも避けていたが、今では戯れに肌を触れ合わせてくる。

 彼女の殺戮による食事が終わると、狂気的なオーラが消え、俺の背中に抱き着いてきたりもする。

 俺から触れようとすると激怒するが、きっと最初なら激怒もせずにただ鉈を突きつけてきただろう。


 これが何かしらの進展なのかは分からないし、それで情が湧くかと言えばそういうわけでもない。

 意味や理屈だけで語るのはナンセンスだが、彼女が俺に対して気を許してきてくれたことをそのまま安心と捉えるわけにもいかない。


「で、何の話だっけ」

「やっぱり聞いてないじゃないですか」


 彼女は自身が着ているスカートの裾を持ち上げて、気品高いお嬢様のようなポーズを取る。


「この服、とても素敵です。着心地も良いですし」

「ああ、そうかよ」


 女が着ていたボロボロのドレスは、あまりにも目立ってしまう。

 そこに加えて大鉈をぶら下げている。

 本人の美貌もあるのだろうが、とにかく人の目を惹くのはよろしくない。


 彼女自身は気にしていないようだが、俺としてはいつ職質されるかと冷や冷やしていた。

 そんなスリルは求めていない。

 ついに我慢ならなくなった俺は、仕方なく適当な服を見繕ってプレゼントしてやったのだ。

 面倒のかかる女で苦労している。


「こんなちゃんとした服は久しぶりです」

「そういや、前の服はどうしたんだ?」

「あれは捨てました」

「ふうん……大事なもんじゃなかったのか?」

「いえ、ただのボロ布です。他に着るものがなかったから着ていただけです」


 破れや解れが酷かったが、かなりの上等なドレスだったから、それなりに思い入れでもあるのだと勝手に思っていた。

 布自体にも価値はあったから、俺の目には値打ちが付いていたが、こんな女にその価値が分かるとも思えない。

 本人がボロ布だと言うのなら、ボロ布なのだろう。


 どこで仕入れたとか、気になることはそれなりにあったが、タブーだとしたら後が怖いので、それ以上は訊かない。

 そもそも殺人鬼の地雷線など分かるはずもない。


「まあ、鉈を振り回していれば、いつかはその服もボロ布になるんだろうな」


 などと、適当に相槌を打ってみた。

 何も考えず間を埋めるために零した言葉のはずだった。

 しかし、彼女は過敏に反応する。


「別に、前の服は鉈を振り回してボロボロになったわけじゃないです」


 淡々と静かに返ってきた声だったが、確かに力が込もっている。

 憂さや苛立ちではないのだろうが、怒りのような感情。

 人の感情を寸分の狂いなく読み解いてきた俺にも、分かり兼ねてしまった。


「それに、私、この服をプレゼントしてもらって、とても喜んでいるんです。大事にするつもりです」


 どこか意地けていて、少し照れていて、不思議とこちらまで気恥ずかしくなってくる。

 今まで誰にもそんなこと言われたことはなかったし、まさかこいつの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。

 好意であげた服でもないのに、そんな普通に喜びやがって。

 たまに垣間見える彼女の純粋さがとてもむず痒い。


「…………早いところ済ませようぜ」


 酷く不恰好であっただろう。

 下手くそに話を切り替え、小太りの男へ向けて歩く。

 こんな調子狂わされた状態で騙せるのだろうか。


 わざといつもより早足で歩き、彼女を置いてけぼりにできれば良いのに、などと詮無いことを考えてしまった。



   〇   



 標的の男に声を掛け、いつものように女を売春婦として誘い込む。

 軽々と乗ってきた男を近くの人気のない空き家に連れ込む。

 玄関先で荷物を預かり、二人は奥の部屋へと入っていく。

 部屋には事前に女お気に入りの鉈を設置済みのため、特に問題なく食事が始まるだろう。

 その間に、俺もいつも通り荷物を物色するだけだ。


 しかし、しばらく荷物を漁っていて、少し違和感を感じ始めた。

 いつまで経っても、男の野太い悲鳴が聞こえてこない。

 おかしいと思いつつも荷物の物色を続けていたが、しばらくしてやっと聞こえてきた声は女の消え入るような啜り泣きだった。


 不審に思い、扉をそっと開き、隙間から中の様子を窺う。


 そこには、腕を押さえつけられ、衣服を乱雑に脱がされた女が、下半身裸体の男に馬乗りになられながら、殴られている光景が待ち構えていた。

 愛用の鉈は女の手の届かない位置に寂しく置かれている。


 女は悲鳴も上げず、けれど、必死に抵抗を続けている。

 しかし、今までの狂気的な気迫はどこにもなく、されるがままに殴られ続けていた。


 この時、俺の脳裏に過ったのは、絶好の機会という言葉だけだった。


 今なら、確実に逃げられる。

 女は小太りの男に陵辱されている間に、俺は急いでここを離れれば良い。

 事が済む頃には、女も満身創痍だろうし、俺を追うこともできないだろう。


 半月の間、女に食われないように必死に餌を運び続けてきた。

 それもここで解放される。

 俺にとっては十分に長い月日だった。

 退屈で自分のためにもならない、なのに悪事という何と救いようのない日々だったことか。


 世間が恐れた極悪人の最期としては、何とも惨めで呆気ないものだが、きっとそんなものなのだろう。

 いつかは俺もこんな風に情けない終わり方をするのだろうか。

 それは少し嫌だな。


 部屋の扉を閉め直し、荷物をまとめて逃げ足を進める。

 隣の部屋からは絶えず女の呻き泣く声が漏れてきた。

 言葉にならない嗚咽や悲鳴が続き、女が悦んで聞いていたのは耳障りなものなのかと思い、どこか勝手に落胆していた。


「いかないで」


 ドアノブに手をかけた時、はっきりとした言葉が耳を震わせてしまった。

 誰に宛てて言っているのか、俺には分かり兼ねる。

 言葉の意味を考え出せば、理屈や都合を超えた単なる情が衝迫してくる。


 頭で理解してはいけない。

 感覚で受け取ってはいけない。

 耳に残してはいけない。

 詐欺師の俺が騙されてはいけない。


 けれど、心の中で唱えてみた虚言の数々は、抑えようのない本音に尽く看破されてしまった。

 詐欺師の俺が騙されてはいけない。

 相手が俺であっても、例外ではない。


 荷物を投げ捨て、扉を抜け出した先に待っているのは、自由の広がる外ではない。

 今まさに男が女を犯そうとしている暗い部屋である。


 走りながら懐からナイフを取り出し、男の首筋に勢いそのままに突き刺す。

 頸動脈から大きく噴き出す血飛沫を浴びながら、首にナイフを刺したまま男の頭を足裏で押し退ける。


 小太りの男は既に死に、ただの肉塊と化してしまった。

 俺も女も返り血を大量に浴び、視界も赤く覚束ない。

 血と死臭の生臭さがすぐに部屋を充満する。

 居心地は最悪だったが、しばらく動く気になれず、その場に座り込んでいた。


 正気を取り戻せたのは、日が沈んで完全に夜が満ちた頃だった。

 浴びた返り血は既に固まり、全身にべっとりとこびりついている。

 簡単な後始末を済ませ、できる限り血を落とし、駄目になった服は潔く捨てる。

 女はとっくに泣き止んだが、何か言葉を発するわけでもなく、ただただ黙って俯いている。

 彼女の手を引き、投げ捨てた荷物を拾い上げ、空き家を後にした。


 街灯から逃げるように夜道を辿り、街を抜けて歩き続ける。

 何も話しかけることはないし、何か話しかけられることもない。

 俺が彼女の手を引き、彼女が俺の後を歩く。

 いつまで経っても血の匂いは付いてきて、歩き続けても離れなくて、逃げられないのだと知った。

 これが罪ということなのだろう。


 そうして歩き続け、夜が廻るまで歩き続け、朝焼けが足下を照らし出しても歩き続け、日が頭上を跨いでも歩き続け、止まれば何かに追いつかれそうな気がして、歩き続けた。

何日経ったのか、一日も経っていないのか、それすら判然としない意識の中で、月が光を降らす夜空にふと立ち止まった。


 気が付けば、俺が月夜にワインを飲んだあの破屋に辿り着いていた。


 中に入ると、高級ワインの空瓶が未だに置いてあり、木床からは葡萄の酸い香りが漂っている気がした。


 ようやく女の手を離す気になり、腐った床に疲弊してへたり込む。

 倣うように女も隣に座り、やはり黙り込む。


 月が明けた夜空にワインの空瓶が光った。

 それを見て、あの日の味を思い出すが、血の味に隠れてもう出てこない。

 苦く苦しく受け入れ難い罰の味が舌も頭も痺れさせる。


 反芻するだけで吐き気がしてくる。

 早く忘れたくて、荷物から水を取り出し、口に流し込む。

 そこでやっと自分が喉が渇いていたことに気が付いた。

 ついでに腹が減っていることにも。


 食糧が入った麻袋からパン二斤とグラス二つを用意し、グラスの中に水を注ぐ。

 パンを一つ差し出し、女はそれを静かに受け取る。

 そう言えば、これが初めて二人一緒の食事なのだな。


 特別でもなく、豪勢でもなく、記念でもなく、けじめでもない。

 成り行きのままに訪れた一緒の食卓だが、悪い気分はしない。


 彼女は受け取るや否や、勢いよくパンに齧りつき、水で一気に飲み干す。

 そうしてまた荒々しくパンを頬張り出す。


 それを見ながら、俺もパンを齧り、ゆっくりと噛む。

 味も分からないくらい疲れ切っているが、とても幸福な気分であることは理解できた。


「美味いな」


 きっと美味いはずだと言い聞かせるように、声にして彼女へそう言った。

 彼女は依然パンを口に詰めながら、強く大きく頷く。


 あの日のワインの味は、もう気にならなかった。



   〇   



「母親に虐待をされていました」


 ぽつりぽつりと語り始められた昔話、或いは身の上話は、甘美さなど欠片も感じない不幸話だった。

 他人の不幸は蜜の味と言っていた俺だが、人間らしくなったのか、もしくは女が他人ではなくなったのか。

 どっちにしろ俺の変化だ。


「物心つく前からです。毎日毎日、何に怒っているのか分からないまま、殴られて、首を絞められて、水瓶に顔を沈められて、また殴られて」


 食事は疾うに終わっており、ただ緩やかに時間だけが流れる。


「家にはいつも働いていない男が一人いました。母親と毎晩弄り合っているようでしたが、父親ではないと思います。彼は私に何もしなかったです。声もかけず、殴りもせず助けもせず、見向きもせず、まるで居ない人間のようにすら扱ってくれませんでした」


 別に聞きたかったわけではない。

 気にならなかったとは言わないが、聞いて良いものか分からなかった。

 以前は、下手なことを聞いて、鉈でも向けられて怪我するのが嫌だったから。

 今は、下手なことを聞いて、傷付かれるのが嫌だから。

 踏み込めない臆病さは前も今も変わらない。


「もう何年も前に二人とも殺しました。いつか本当に殺されると思ったので、あの鉈で殺しました。ああ、あの鉈、置いてきてしまいましたね。それならそれで良いです」


 俺自身からはきっといつまでも踏み込めなかっただろう。

 けれど、彼女から話してくれるのなら、それに耳を塞ぐことはしない。

 情けなくてごめんな。


「二人とも、手が動かなくなって、私に乱暴できなくなりました。足が動かなくなって、私から逃げられなくなりました。今まで受けてきた痛みとか怖さとか、全部返すつもりでゆっくりゆっくり甚振りました」


 話し続ける彼女の唇が僅かに震えていることに気付いた。

 きっと話しながらその時の記憶を思い出して、怯えているのだろう。

 こんな些細なことに気が付けたのも、散々培ってきた詐欺師の力のおかげだなんて、今になって忌々しく感じる。

 もっと早く小さな苦しみを見つけるために使ってやれていたら良かったのに。

 なんて言う資格もないし、以前の俺がそういう使い方を知っていても使わなかっただろう。


 度し難い。それは今もだが。


「その時に気付いたんです。母親もこんな気持ちで私を虐げていたのだろうと。子どものように泣く二人の声が、私を何でもできるように思わせてくれました。とても心地が良くて、気持ちが良くて、物足りなくて仕方がありませんでした」


 彼女の歪められた理由を聞き、ふと自分のことを思い浮かべてみた。

 俺はどうして詐欺師になったんだっけ。

 物心ついた時には既に盗みで生計を立てていたが。


「けれど、嫌な記憶をどれだけ深くに埋め隠しても、強く伸びた根は剥がれることはないんです。一発殴られただけで、瞬く間に土から芽を出すんです。何もできませんでした。怖くて動けなくて、助けを呼ぼうにも声を上げたら母親にもっと殴られたものだから、喉が言うことを利かなくて」


 両親の顔なんて分からない。

 何となく俺の顔から想像するだけだった。

 親が居なかったから、虐待を受けずに済んだのか。

 親が居たなら、真っ当に生きられたのか。

 隣の芝をどう見るかは俺の都合なのだろうけれど、少なくとも彼女の前では何も言えない。


「全く油断していました。あの男が暴力込みのプレイをご所望だったとは思いもよらず、先手を打たれるなんて。今まで一度も反撃されたことなかったから、痛みにはめっぽう弱くなってしまいました。まあ、元々強くはないのですけれど」


 両親は居なかったが、俺にも親の代わりは居た。

 暴力は振るうし、盗んできたものは全部取り上げられるのだが、代わりに盗みや騙しの技術を教えてくれた。

 そのせいで生き延びられたとも言えるし、そのおかげで死に切れなかったとも言える。

 気持ち良く生きていく道など残されなかったが、でなけりゃ死ぬしかなかったのだろう。

 それでも、最後は自分でその道を選び、悪事に意気揚々と手を染めてここまで生きてきたのだ。

 文句など、誰に言えるだろうか。


「あの時、舌を噛み切ってしまおうと思ったんです。愛していない人に犯されるくらいなら、命なんて要らないと本気で思いました」


 彼女が抱える苦しみに比べて、一体俺は何に耐えてきたのだろう。

 楽がしたいがために詐欺を続け、一度は見捨てようと決めた彼女を、中途半端に助けたりして。

 のうのうと生きるだけの鼓動に、一体何の意味があるのだろう。


「だから、助けてくれてありがとうございます。私はあなたが良かったのです」


 そう言って、俺の首元にそっと腕を回す。


「せっかく素敵な洋服をくれたのに、汚してしまってごめんなさい。大事にすると言ったのに、嘘を吐いてしまってごめんなさい」


 抱き着く彼女の顔が見えず、何と言えば良いのか、言葉に詰まった。

 何を言っても良くならない未来しか見えなくて、結局何も言えなかった。

 女が俺のあげた服を脱がされ襲われている姿を見ても、女から逃げることしか考えていなかった。


 感謝しないでくれ。

 謝罪しないでくれ。

 俺が受けるべき罰はそんなに甘いものではないんだ。


「あの日、あなたを殺そうとして良かった。殺さなくて良かった」

「…………やめてくれよ」


 やっと出てきた応えに自分でも落胆する。

 どうしてこんな時でさえ逃げようとしてしまうのだろう。


「逃げようとしたんだ。お前との交渉を破棄して、見捨てようとしたんだ」

「だったら、何で助けに戻ってくれたんですか?」

「自分に騙されたくなかったんだ。それだけなんだ」

「別に良いですよ。今はこうしていられています」


 女が体重を強くかけてきて、されるがままにゆっくりと押し倒される。

 寝転びながら向き合って、月に照らされた女の表情は悪戯っぽく、無邪気な笑みで、彼女はもう殺人鬼ではなかった。

 俺は一体どんな顔をしているのだろう。

 不恰好な不細工に仕上がっているだろうか。


 互いの息が鼻先を撫で合い、心も言葉も既に互いを許していた。


「今すぐお前に殺されたいよ」

「私にあなたは殺せません」


 罪を数え合うのももう飽きた。

 どうせお互い大罪人には変わりない。


 結局、女からは逃げられなかった。

 せめて手放さないように、彼女の背中に手を添える。

 思えば初めて触れることを許された。



   〇   



 月の夜に女と抱き合ってから、四半月が経とうとしていた。


 あれから、俺は騙しを止め、女は殺しを止め、二人で破屋を少しずつ修繕していた。

 誰のものかも分からない荒屋のため、いつか家主が現れてしまったら出て行かざるを得ないが、それは起こらないことを望むばかりだ。


 少しずつ森から材料を集めて直した家は、雨風を凌ぎ、釜を炊き、冬を越せるほどには蘇った。

 それでも、二人で暮らすにはまだまだ問題が山積みである。

 食糧は森の獣や山菜を掻き集め、なんとか ここまで食い繋いできたが、直に冬がやってくる。

 蓄えも無ければ、ろくに暖を取ることもできない状況だ。

 いずれは来ると思っていたが、そろそろ金を稼ぐために働きに出なければならないだろう。


 生まれてこの方盗みと騙ししかしてこなかった。

 真面目に汗水流して日銭を稼ぐなど、できれば今もしたくないのだが、彼女の笑顔を見ればそんな弱音も吐くわけにはいかない。

 それに、こうして街へ出て働きにいくことが決まれば、あとはもう前に進むだけだった。

 真っ当に生きることを覚悟してしまえば、体は勝手に付いてきてくれるものだ。


 職場は既に決まっており、今日が出勤初日ということである。

 炭坑夫というずっと逃げてきた肉体労働だが、つべこべ愚痴を垂らすのは家に帰って彼女を抱き締めてからにしよう。


 扉を開け、まだ明るみ切っていない森へと踏み出す。

 秋も終わりへと向かい、日の出前は当然冷え込む。


「あー、寒いなあ」


 白息が澄んだ森の空気に溶けて、今朝の気温が俺に容赦ないことを悟る。

 後ろから女も出てきて、見送りをしてくれるらしい。


「風邪、引かないようにしてくださいね」

「ああ、気を付けるよ。……この恰好、普通の炭坑夫に見えるよな?」

「ええ、ばっちりです。私が繕ったんですから」

「良かった。じゃあ、行ってくる」


 軽く手を振り、俺は職場へ歩き出す。

 女も手を振り返し、小さく鼻を啜った。

 寒いから、早く中に戻った方が良いだろうに。

 けれど、少しでも長く見送られたい気持ちがどうしても勝って、その気遣いは声にならなかった。


 ああ、楽して生きたい。

 願わくば彼女と一緒に。

 けれど、叶うはずもないと知っているから、楽を捨てられた。

 それはきっと幸運なことなんだろうな。


 と、歩き始めて少ししたところで足が止まる。

 女が追いかけて、後ろから抱き着いてきたのだ。


「いかないで」


 その言葉が嬉しくて、振り返りながら彼女を強く抱き返す。


「心配するなよ。夜には帰ってこられるから」


 冬の気配に冷たく尖った空気を、互いに包み合って溶かしていく。

 死ぬまでこうしていられたら、どんなに素敵なことだろうか。

 いっそこのまま死ねられたなら、どれだけ心地良いことだろうか。


「嘘じゃないですか?」

「嘘じゃない。詐欺師はとっくに止めた」

「約束ですよ」

「今度こそ守るよ」


 彼女に、或いは、自分に誓って、腕を解く。

 離れた時に見せた彼女の微笑みが赤らんだのは、きっと寒さのせいだろう。


 女を背にして歩き出す。

 見えない背後で扉の閉まる音がし、それに安堵したり、落胆したりする自分がいた。

 自戒のために頬を軽く叩く。

 惚気た頭にゆっくりと寒さが染み込んでいく。



   〇   



 気が付くと、もう日付が変わっていた。


 日が暮れる頃には帰れると思っていたのだが、どうやら思っていた以上に労働とはしんどいらしい。

 家に帰る頃には、夜明け前になるだろう。


 しかし、その時間には炭坑へ出勤するために、家を出なければならない頃だ。

 寝る間もなく次の朝がやってきてしまう。


 他の炭坑夫たちは炭坑近くに建つ宿舎で眠り、翌日の採掘労働に明け暮れる。

 宿舎のベッドはまだ余っているらしいし、できれば俺もそうした方が良いよなあ。

 今日はもう宿舎に泊まらせてもらおうかな。


 なんて考えを弄ばせてみるが、足は既に帰路を辿り出している。

 明日は不眠で働くことになるだろうが、嘆いてもいられない。

 俺と女が穏やかに暮らすための礎なのだ。

 楽しく暮らすための努力は、悪事などとは比べられないほど楽じゃない。

 けれど、それほど嫌じゃない。


 今は早く彼女の顔を見たかった。

 約束もしてしまった。

 もう嘘は吐けない。


 街道を歩き、我が家まであと少しの所まで来た。


 と、その時、後ろから声を掛けられる。

 振り返ると、上等なコートと軍帽に身を包んだ男数人が立っていた。

 男たちは俺の指名手配書を片手に、俺と紙に描かれた人相を照らし合わせている。


 ああ、これが罰か。

 罪はどこにも消えていなかった。

 俺が騙しを止めようが、真面目に汗水垂らそうが、重ねた罪は見逃しちゃくれないんだ。

 そりゃそうか。


 世間を欺いた極悪人の最後としては、何とも惨めで呆気ないものだが、きっとそんなものなのだろう。

 俺にはどうしようもないくらいお似合いな終わり方だ。

 嫌で嫌で堪らない。


 ごめんな。

 また、約束を守れなかったよ。



   〇   



 日のない朝に男を見送ってから、四半年が経とうとしていました。


 二人で越すために彼が働きに出た冬を、私一人で越せてしまいました。

 凌いで迎えた一人の春に何の価値がありましょう。


 僅かに備蓄していた食糧も底を尽き、冬の半分はひたすらに眠りながら彼の帰りを待つ日々でした。

 夢も見ず、けれど、浅い眠りを何度も繰り返し、期待して目を開いても決して彼は居ませんでした。


 北風が唸る夜明けも、雪雲に隠れた曙光の朝も、霜を融かす日和の正午も、霰に打たれる屋根音の午後も、冬の星座が待ち合わせる夕も、白梅が落ちる冬の晩も、春に起きる月の未明も。

 何度起きても、彼は居ませんでした。


 嘘じゃないと言ってくれました。

 あれは嘘だったのでしょうか。


 分かりません。

 どうして帰ってこないのでしょうか。

 他に良い女性を見つけてしまったのでしょうか。

 私との生活はやっぱり嫌になってしまったのでしょうか。

 初めから逃げ出すつもりだったのでしょうか。

 今もどこかで私のために働いてくれているのでしょうか。

 彼に恨みを持った人に殺されてしまったのでしょうか。

 詐欺師の方がやっぱり良かったのでしょうか。


 分かりません。

 分かりません。


「分かんないよ。いかないでよお」


 あの日から遠く離れるほどに、彼の温みがどんどん消えてしまいます。

 冬はもう終わったというのに、昨日より寒くて仕方がありません。


 けれど、生きなければならないのです。

 ここに居続けなければならないのです。

 いつか帰ってくる彼を待たなければならないのです。


 嘘を吐かれたなんて思いません。

 約束を破られたなんて思いません。

 だって、彼は詐欺師を止めたのですから。


 これが私の罰なら、これで良いのです。

 罪とも釣り合わない、履き違えられた罰ですが。

 殺した人たちが許してくれるはずもありませんが。


 日を重ねる度、傷は増えていきます。

 傷が増える度、私はみっともなく泣くのでしょう。


 悪人が改心したところで、誰が認めてくれるでしょうか。

 罪にいくら詫びたところで、罪が許してくれるでしょうか。

 取り返しのつかない私達は、反省すらさせてもらえないのでしょうか。


 それはやっぱり、仕方のないことなのでしょうか。



   〇   



 月の夜に女との約束を破ってから、四半世紀と四半年が経とうとしていた。


 あの夜、俺は憲兵たちに捕まり、そのまま留置所で拘束された。

 そして、最高裁では詐欺師の改心は認められず、情状酌量の余地なしとされ、重犯罪者が投獄されるという北部の牢獄へ送られた。


 今までずっと憲兵に声すら掛けられなかったのに、何故あの時見つかってしまったのかと言えば、変装を一切していなかったから。

 正直に生きると決めて素顔を晒した途端、お縄にかけられてしまった。

 真面目に心を入れ替えて生きることも許されない。

 そうさせたのは、全部自分なのだからどうしようもない。


 それにしても都合よく憲兵に見つかっちまったもんだ。

 炭坑や街の誰かが通報したのか、或いは、本当に都合よく見つかっただけなのか。

 俺にとっては都合悪く、だが。


 どっちにしろ捕まったことには変わりない。

 極悪人が捕まったことに文句を垂れる気もない。

 俺が罪を犯したのも、真っ当な道を塞いだのも、あっけなく捕まったのも、あいつとの約束を破ったのも、全部俺のせいなのだから。


 そこからが長かった。

 けれど、早かった。

 悔やむ時間は残されていなかったのだから。


 懲役二百五十年。


 長過ぎて刑期が終わるまで生きられない。

 それくらい生きられるとしても、そんな長く生きたくなんかない。

 後悔するには十分過ぎる時間だろう。

 けれど、彼女に会うためには一刻を争う。


 二百五十年の人間では生きて乗り越えることが不可能な時間。

 これにどう抗うのか。


 方法はただ一つ、信用を得ること。

 つまり、減刑に減刑を重ね、二百五十年を残りの寿命内に収まる数字まで縮めること。


 刑務官に態度を変え、いつでも社会復帰ができることを見せつける。

 何なら、俺をこの牢獄に閉じ込めておくことは社会にとっての損失であると知らしめるくらいの更生振りを見せつける。


 元が詐欺師なために、見せかけの更生ではないかと疑われ、思いの外時間が掛かった。

 そればかりは自分の業を呪うしかない。


 第一、減刑のための過剰な更生なら、それは偽善であり、ある種の詐欺ではないかと言われるかもしれない。

 そうかもしれない。

 だが、それなら、そうで良い。

 俺は単に早く釈放されたいわけじゃない。

 また詐欺で楽に生きたいわけじゃない。

 ただ彼女に会いたいだけなんだ。

 その後は、今度こそ真面目に生きるさ。


 嘘と言われようと、詭弁と言われようと、信じてもらえなかろうと、嘘を吐いたまま別れるわけにはいかないんだ。

 運命的な出会いでもない。

 感動的な愛でもない。

 許しが欲しいんじゃない。

 祝福が欲しいんじゃない。


 ただ改心したなら、改心したなりに報われたいんだ。


 懲役二百五十年を二十五年にまで縮め、ようやく釈放を迎えた。

 北の大地も春を迎え、暖かい空気が心を撫でる。


 馬車に何日も揺られ、ようやく降りる頃には尻の皮も随分と硬くなっていた。

 街道を歩き、帰り損ねた道を辿る。

 林道を途中外れ、懐かしい森へと歩みを進める。


 変わり果てたような気もするが、そもそも以前の森を思い出せない。

 服役中は坑道開拓の労働もあり、石しか見ていなかった。

 あのまま炭坑夫として働いていてもやることは同じだったというのに、虚しいばかり。

 それこそが罰だと言われたら、納得せざるを得ないが。


 しばらく歩き、少し迷いながら、そうしてやっと見えてきた。

 面影たっぷりの、けれど、廃れ切った我が家に着いた。


 一番最初に訪れた時よりも、さらに風化している。

 およそ人が住んでいるとは思えないほどの有り様である。


 その時に、嫌な考えが頭の中で蠢き始める。

 思えば、今までの四半世紀の間、そのことを考えなかったことの方が、おかしいのかもしれない。


 どうして女が待ってくれていると思えたのだろう。


 俺がどれだけ会いたいと願おうと、彼女はずっと裏切られ続けたのだ。

 あの日から二十五年間、ずっと約束を破られ続けたのだ。


 彼女がこんな隙間風に苦しむ荒屋にどうして居続けてくれよう。

 俺の稼ぎを頼りに待っていた彼女が、何も訪れないこの廃屋で冬を越せるはずもない。

 ここに居続けたのなら、彼女はあの冬で凍え死んでいる。


 生きていてくれるのだとしたら、きっと街に出て自ら働いているだろう。

 もしかしたら、俺なんかよりもずっと良い人と出会って、子どももできて、豊かに暮らしているかもしれない。

 あんなに綺麗なんだ、十分に叶えられる幸せだ。


 何にしても、間に合わなかったんだろう。

 当たり前だ。

 二十五年という月日は、俺を忘れるには十分過ぎる月日だ。

 俺を諦める理由なんて山程ある。


 そんな思いを抱えて、黒ずんだ扉をノックする。

 案の定、返事はなかった。


 こんな扉に鍵などあるはずもなく、ドアノブに手をかけて、扉を開いた。


 中には誰も居ない。


 家具の一つも無い部屋には、死体も無い。

 その事実に少し安堵した。

 少なくとも、ここで彼女が死んだわけではないのだ。

 もちろん山の中で息絶えた可能性もある。

 けれど、彼女が報われなかった可能性が一つ消えた。


 そう思うと一気に気が抜け、崩れるように床に座り込む。

 年老いた体が、移動の疲れにやっと気づいてしまったらしい。


 思えば、もう半世紀以上の時を生きた。

 薬に寄りかかるようになってしまったが、それでも十分に長生きした方だろう。


「そうか、お前にはもう会えないか」


 不思議と泣きたいとは思わない。

 これ以上尽くせる最善はなかったはずだ。

 その上で、間に合わなかった。

 諦めとは言いたくないが、仕方がないのだろう。


 悲しさや寂しさはある。

 だが、きっとそれにも価値はある。

 美談などではもちろんない。

 だが、無駄な時間とも言い切れない。


 極悪人が改心した先の最後としては、それなりだろう。


 ふと、後ろの扉が軋み、同時に風が止んだ。

 詐欺師の頃なら、気配にもっと早く気付けたのだろうが、今となっては長物だ。


 遅かれ早かれ、どうせ目が合うのだから。


 後ろを振り返ると、少し皺のできた美しい彼女が立っていた。

 花束を抱えた女は、目を丸くして、言葉を失っていた。

 俺も言わなければならないことは分かり切っているのに、口が開いたまま舌が動かない。


「…………老いたな」


 やっと出てきた言葉は、考え得る中で一番最悪のものだった。

 しかし、彼女は怒りもせず、小さく笑う。


「あなたこそ」


 それを見て、つられて笑う。


「ごめんな」

「私こそ」

「俺、捕まったんだ」

「知ってます。街で聞きましたから」

「そうか……よく待ってくれてたな」

「いえ、私もここをすぐに出て行きました」


 その言葉に少し狼狽し、そらした目線の先に、彼女の胸元のロザリオが見えた。


「お前、シスターになったのか?」

「ええ、今は修道院で暮らしています。私なりの償い方です。あなたが罪と向き合うのに、私だけ待ち惚けているわけにはいきませんから」

「……俺は自分の意思じゃない。成り行きだ」

「成り行きでもです」


「でも」と、女は後ろめたそうに俯く。


「私の償い方は正しかったのか分かりません。法に基づいた裁きでは、私の場合、絞首台は免れられませんから。私はどうしても生きたかったのです」

「…………」

「だから、殺した分の命を救うことに決めたのです。修道女となり、身寄りのない子どもや、貧困の家族に食べ物を分け、暴力を無くすために活動し続けました」


 俺は今更泣きたくなった。

 自分の不甲斐なさに嫌気が差す。

 彼女は彼女なりに戦ったのだ。

 俺なんかよりも立派な方法で。


「……俺もそうしたら良かった。俺の償いだってきっと正しいものではないんだ。誰かが決めた罰であって、騙した人たちが納得するような償いではないんだ」

「そうでしょうか。改心した心のまま罪と向き合うのは辛いことです。今のあなたが生きることを誰かが咎めるとは思えません」


 年を取ると、視界がぼやけて仕方がない。

 よく分からないが、体も熱い。

 せっかく顔を見たいのに、顔を見られたくなくて俯いてしまう。


「私は嘘を吐かれたなんて思っていません」

「でも、嘘になったのは本当だ」

「私だって、ここでずっと待ち続けられませんでした。今日、この家の掃除に来なければ、あなたに嘘を吐くことになっていました」


 彼女は膝を突いて、俺の手を取る。


「許してください」

「俺の方こそ」


「良かった」と、少女のような笑顔が零れる。

 それが懐かしくて、いつまでも見ていたかった。


「あの日、お前に殺されかけて良かった。逃げなくて良かった」


 罪を忘れたわけじゃない。

 全部を返せたわけじゃない。

 お前なんか死んでしまえと、言う人ももちろん居るだろう。

 今生きている俺や彼女を認められない人も当たり前に居るだろう。

 居てくれた方がきっと良い。

 それでも、俺は俺なりに取り戻したかった。


 改心したなりの意味が欲しかった。

 要するに、人生報われたかった。

 

『正道』

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