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短編集  作者: 因美美果
5/12

短編・5

「やっぱ俺、東京行くわ」


 赤信号に立ち止まり、点字ブロックを踏みつける。

 あたしたちにそっぽを向く青信号が点滅した時、Bが言った。


 日の傾きが日に日に早くなり、もうすぐ冬がやって来ることを悟る。

 肌を撫でる風が冷たく、早まって巻いて来たマフラーが有り難かった。


「……ごめんな」


 Bはあたしを見ることなく謝った。

 信号が青に変わり、合図もなく同時に歩き出す。


 がっかりしていないと言えば、真っ赤な嘘になる。

 けれど、Bの進路をあたしなんかのために縛り付けたり、歪ませたりする権利は、あたしには無い。

 BにはBのやりたいことをやってほしいし、そんな風に心底申し訳なさそうな顔をしないでほしい。


 一緒に地元の大学に行く約束だって、Bと別れない理由を作りたかっただけに過ぎない。


 けれど、上京するとは、さすがに思っていなかった。

 東京には行ったことがないけれど、Bは何度かあると言っていた。

 子どもの頃と、この間の夏休みの二回。

 住むと考えるなら人が多過ぎると、嫌な顔をしながらそう話していたことを思い出した。

 それはもう良くなったのだろうか。


「いや、人混みが嫌なのは今も変わらないけどさ、その分、物にも困らないんだよな。一長一短なんだよ、結局」


 そんな風に賢ぶった顔をする。

 似合わないったらない。


 東京と偏に言っても、東京にはこことは比べものにならないほどの大学がある。

 Bは一体どの大学に行くつもりなのだろう。


「いや、大学には行かない。専門学校にした」


 専門学校?

 どうしてまた。


「別に。高い金を四年間払うのと二年間払うのとを考えたら、どう考えても後者だろ」


 あたしは思わず呆れてしまった。

 施設とか、カリキュラムとか、そもそも東京で一人暮らしをする経費とかも、視野に入れて考えているのだろうか、こいつは。

 こんな頭でお目当ての専門学校なんて受かるのかしら。


「もちろん全部計算した上でだよ。最後の決め手は、結局俺が行きたいかどうかなんだ」


 何食わぬ顔でそんなことを言うから、あたしも引き止めることなんてできなくなってしまった。

 そんなに行きたいなら、何も言うことはできない。

 そもそもあたしが口出しする権利はないのだけれど。


「Aは、変わらずあの大学に行くんだろ?」


 あの大学。

 Bと二人で行くことを約束していた、あの大学。


 どうだろうか。

 二人で行きたかったからこそ価値のある大学だったけれど、今は大して魅力も感じない。

 残ったメリットは、家から近いことくらいだ。


 正直、Bのためにレベルを下げてあげていたけれど、もう少し高望みしても良いのかもしれない。


「まあ、Aならこの辺の大学はどこでも行けるだろ」


 Bはへらへらしながらそう褒めてくれた。

 嬉しかったけれど、それだけじゃ満たされない穴がぽっかり空いてしまっていたことも確かだった。


 どこに行ったって、Bが居ないことは決して変わらない。

 あたしも東京の大学にでも行けば離れずに済むのだろうけれど、あたしの家はそんなに裕福じゃない。

 妹も弟もいる。

 下の子達が進路に不自由しないように、あたしは進学でお金をかけられない。


「それでAの進路が不自由になってるんじゃ、下の子も不本意なんじゃないのか?」


 その言葉に、あたしは少しむっとした。

 あたしだって本当はもっと良い大学に行きたいけれど、それで他人の華々しい将来が潰えるなんて、そんなの耐えられないわ。


「だから、その役目を弟妹に肩代わりしてもらうってことか?」


 棘のある言い方だと、本人も気付いているらしい。

 それでも、澄ました顔で何でもない風に言う。


 ……もしかして、Bってあたしのこと嫌いなのかしら。


「まさか」


 じゃあ、何でそんなこと言うのよ。

 あんたが上京するなんて言って、ただでさえダメージ受けてるのに。


「俺だって、お前にも一緒に東京に来てほしいんだよ」


 そんな恥ずかしいことを、Bは当たり前のことのように言ってしまう。

 それで喜んでしまうあたしも、大分安い人間だと思う。


 向こうで浮気しないでよ。


「どうだろう」


 おい。


 こんな冗談ばかり言うBこそ、あたしが好きになった彼なのだ。

 顔色一つ変えず、しょうもないことも、大切なことも、恥ずかしいことも、堂々と言う。

 今のは、冗談でないと困るのだけれど。


 あたしは何も言わずに、Bの右手を握る。

 Bも何も言わずに、あたしの左手を握り返す。


 ふと、Bはあたしのどこを好きになったのか、気になった。

 訊ねた後に、重たい女みたいに思われていないか心配になったけれど、Bは特にそういった素振りも見せず、淡白に一言で済ます。


「顔」


 あたしはそれにむっとするわけでもなく、素直に喜ぶ。


「あれ、怒られるかと思った」


 え、冗談なの?


「いや、本当だけど。嬉しいんだなって」


 だって、あたしの顔が好みなら、そうそう浮気なんてしないでしょ?

 ドッペルゲンガーでもいない限り。


「別に、Aが一番ってわけじゃないよ?」


 あれ?


 商店街を抜けて、橋を渡って、河川敷を歩く。

 川面を照らす夕日が、徐々に夜に追いやられていく。

 そんな赤い日差しを浴びながら、Bは感慨深そうに口を開く。


「綺麗だなあ。この夕日もそのうち見れなくなるのか」


 名残惜しいなら、行かなくて良いのに。


「まあ、夕日なんて、どこで見ても一緒か」


 おい。



   〇   



 Bの意識が戻ったのは、彼が車に轢かれてから二週間後のことだった。


 信号のない交差点で、一人で歩いていたBは、荷物をたくさん積んだハイエースに轢かれたと、事故の翌日に彼の母親から聞かされた。

 運転手はBが突然飛び出してきたのだと、酒臭い息と共にそんな言い分を吐き散らしていたそうだ。


 彼の元へ駆けつけると、白い包帯と白いギプスに覆われて、白い病室の白いベッドに眠っていて、顔も死んでいるみたいに真っ白だった。


 それから、毎日Bの病室を訪れた。

 始めのうちは、学校もサボって彼に会いに行っていたが、彼の母親に「学校にはちゃんと行きなさい」と、優しく諭された。

 学校には登校するようにはなったが、帰りのホームルームが終わるや否や、Bの元へ走った。


 少しずつ巻かれる包帯の数が減り、徐々に露わになっていく彼の顔を見つめながら、毎日を過ごした。

 Bの眠る病室は四人部屋で、彼のベッドは入って右手側の窓際だった。

 たまに曇り空から晴れ間が差して、Bの血の気のない顔を光が照らす度、このままBは連れて行かれてしまうのではないかと思い、胸が詰まった。


 そうして、事故から二週間が過ぎた頃、またもBの母親から連絡があり、あたしは病院へ急いだ。


 荒々しく病室の扉を開け、窓際のベッドまで一直線に向かうと、そこには上体を起こしてあたしを見つめるBがいた。


 涙が止まらなかった。

 本当に良かった。


 あたしは思わずBに抱きつき、彼の胸に嗚咽を垂れ流す。

 早鳴るBの鼓動があたしの鼓膜を打ちつけて、生きている彼を感じられた。


 けれど、そんなあたしの肩をBの母親が掴んでBから離した。

 あたしはその行為の真意が分からず、呆気に取られてしまった。

 感動の瞬間に水を差され、戸惑いを隠し切れていないあたしに、Bは止めのような一言を放った。


「あの、あなたは、どなたでしょうか?」


 思わず涙も引っ込むほどだった。



   〇   



 Bが記憶を失くして、二ヶ月ほどが経過した。


 今後は経過観察ということで、通院をする形にはなるけれど、体の調子はすっかり良くなっている。

 あたしとの記憶は結局戻らず仕舞いだけれど。


 Bの記憶は全てが消え去ってしまったわけではない。

 言葉や知識などは頭の中に残っており、家族を含めた周りの人々や自身の人間関係は失くしてしまったのだという。


 今後の治療や生活次第では、戻ってくる記憶もあると言うが、果たしてどうだろうか。


 何にしても、あたしとの恋人だった時間も、そうなる前の時間も、彼は全部忘れてしまった。

 あたしがBの恋人である以前に、あたしの存在そのものも彼は持っていない。


「ごめんなさい。大切な人だったんですよね」


 Bが意識を取り戻してから、数日後のことだった。


 あたしの気持ちも大分落ち着いてきた頃に、再び彼の病室を訪れた。

 今までBと撮ってきた写真を掻き集め、携帯の中に入っていた写真も整理して、彼との思い出をできる限り抱えて臨んだその日、彼はあたしにそう言った。


『大切な人だったんですよね』


 言葉に詰まった。


 少しでも気を緩めたら、たちまち嗚咽や吐き気が漏れ出しそうで、自分の太ももをひたすら抓っていた。


 Bにとって大切なあたしは、もう居ないのだと思い知らされた。

 どれだけ楽しそうな写真を見せても、どれだけ幸せそうに思い出を話しても、彼にとっては知ることのない他人事なんだ。


 その日、家に帰ってすぐ、写真を破いて、携帯のデータを消した。


 自棄になったわけじゃない。

 あたしなりのけじめだった。

 出会ったばかりのBと一から関係を作り直す。


 あたしたちが恋人だったことは決して言わない。

 周りにもそのことは伝えた。


 Bはあたしの顔が好きだと言った。

 それなら大丈夫。

 整形するつもりもない。


 そうだ、大丈夫。

 また手を繋げる日が来る。



   〇   



 記憶を失くして以降、Bはあたしに頼りっ放しだった。

 通い続けて二年半以上が経つ高校も、彼にとっては知らない場所でしかなかった。


 以前の図太さや勇ましさは記憶と共に消え去り、今は繊細で弱々しい印象である。

 人が変わってしまったようで、あたしは違和感が絶えなかったけれど、仕方ないとしか言えない。

 誰にも責任は無い。

 ハイエースを恨むしかない。


 次第にクラスとも馴染んでいき、クラスメイトとも普通に話せるようにはなったが、それでも性格は別人のままだった。

 真っ先にあたしに頼るのも変わらずで、あたしが席を立つとBは不安な顔をしてすぐに追いかけてくる。

 そのことに呆れながらも、満更でもなく笑ってしまうことが、Bの内向的な性格に拍車をかけてしまった。


 だから、東京に行くと息を巻いていたのも過去の話で、彼は覚えてもいない。

 結局あたしとBは地元の大学に一緒に進学した。


 破られたはずの約束はいつの間にか叶えられていた。


 遅咲きの桜があたしとBの新たな春を祝うように咲き誇った。


 正直、嬉しかった。安心もした。

 Bとずっと一緒に居られることが、何よりも幸せだった。


 浅ましいことは百も承知だった。

 けれど、今のBは東京に行きたいわけじゃない。

 あたしと一緒の大学に行き、安心したいのだ。

 思い出せもしない夢を今のBに押しつけることの方が酷である。


 そう考えることで、醜く言い訳を繰り返して、自尊心を守り続けた。


 大学の入学式の日、スーツを身に纏い、あたしたちは並んで写真を撮った。


「こんなに人がいるんだね」


 会場を蠢く新入生を見渡しながら、Bは子どものように感嘆した。

 変わり果てた口調にも、さすがに慣れた。


 こんなに人がいれば、記憶喪失の人ももう一人くらいいるんじゃない?

 と、以前のBになら、言ってやれていた。

 今のBにそんなことを言ったら、仕返しの言葉なんて来るはずもなく、ただただ悲しい顔をされるだけだろう。

 嫌いじゃなかったあのノリも、今では一言も許されない。


 けれど、今の彼がいなければ、そもそもあたしの隣には誰もいなかったのだ。

 あの頃が寂しいなんて思っちゃいない。


 入学おめでとう。


 何の気なしにそう言うと、


「Aさんも、おめでとう」


 と、あどけない笑顔が返ってきた。


 ふと、彼のネクタイが緩んでいることに気付き、何も言わずに直す。

 Bの照れ笑いが何よりも愛おしかった。

 何年後だろうと、何十年後だろうと、いつまでもこんな風にできたらと、願わずにはいられなかった。



   〇   



 それから一ヶ月が経過した。


 高校の時と違い、お互い「はじめまして」で始まったBの大学生活は、好調に進み出した。

 気の合う友人を見つけ、サークルにも参加し、あたしを頼る頻度は大分減っていた。


 Bが入部した写真サークルは自分から入りたいと言った。

 思えば、今のBが自分から何かをしたいと言ったのは初めてな気がする。


 にしても、写真に興味があるなんて知らなかった。

 もしかして、以前のBが行きたがっていた東京の専門学校って、写真系の学校だったのかな。


 心配も相まってあたしもサークルに入ろうかとも思ったけれど、それではいつまでも『あたし離れ』できないと思い、込み上げる我を抑えて身を引いた。


 それでも同じ学部の同じ学科ではあるため、授業や休み時間は常に一緒にいる。

 大半は何人かのグループの中で一緒に過ごしているが、二人きりでいることもしばしばあった。


 今も空きコマの暇な時間を空き教室で二人で潰している。

 広い教室に二人きりの状況に、思わず頬が熱くなるような照れ臭さを感じた。


 最近の出来事を楽しげに話すBの顔が、前よりも大人びたような気がした。

 隣に座るBがあたしのよく知るBの延長線上にいた人だなんて、まるで信じられなかった。

 Bが上京していても、こんな風に大人になっていってしまったのだろうか。


 会話が少し途切れた時、彼の表情を少し堅くなった。

 そして、抑え気味の声で言う。


「僕らは、付き合ってはいないんだよね」


 一瞬、思考が止まる。

 そして、すぐ様笑顔を作り、はきはきと答える。

 何でもない風に、何もなかったかのように、彼の目を見て頷く。


 そうだよ。


 その一言に、全身の力を奪われた。


「ああ、だよね。良かった」


 良かった?

 それは若干のショックを受けざるを得ないけれど。


「あ、いや、そうじゃなくて、前に訊かれたんだ。いつも一緒にいるから『二人は付き合ってるの?』って」


 ああ、なるほど。


「その時は反射的に否定したんだけど、僕が記憶を失くす前はどうだったのかなって思って」


 そっか。それで確認したかったんだ。


「うん、ごめんね。いきなり変なことを訊いて」


 別に気にしないでほしい。

 それでも、Bが大切なことには変わりない。


「うん」


 それは、今もだから、安心して。


「……うん」


 実際、あたしも訊かれることが多々ある。

 そして、同じくあたしも首を横に振っている。


 だから、お互い様。

 気になんてしないし、第一あたしが決めたこと。


 それからまた他愛もない話を続ける。

 チャイムが鳴って、Bは授業のために教室を出て行った。

 その後はそのままサークル活動があるので、あたしは彼の背中を見送ってから、帰路に着く。


 その日以降、Bのサークルが忙しくなり、休み時間や空きコマも会うことが難しくなった。



   〇   



 夏休みに入ってすぐ、Bから連絡があった。


 前期の授業が終了し、大した成績を修めるわけでもなく、不真面目に単位を落とすわけでもない。

 Bは夏になってもサークルが忙しく、会う機会は日に日に減っていった。


 Bの居ないまま休みに突入し、昼に起きてはだらけて過ごす毎日だった。


 そんな時、夕日が駆け足で沈もうとする様をぼんやりと眺めていると、携帯が喚いた。

 Bからのチャットだった。


『今、時間あったら会える? 話したいことがあるんだ』


 返事を返し、指定された場所にすぐ様駆けつける。

 大学の近くにある公園に彼はいた。

 街灯に照らされたベンチに腰掛けている。


 息を整えて声を掛けると、鈍い反応でこちらを見た。

 何だかいつもと様子が違うように見えて、あたしは心の中で身構える。

 彼の隣に腰掛け、膝の上に握り合わせた手を置いた。


「ありがとう、来てくれて」


 お礼なんてとんでもない。

 久し振りに二人で話せることがこんなにも嬉しいことだったなんて。


「急に呼び出して、ごめんね」


 ううん、謝らないでほしい。

 ずっと話したかった。

 最近ずっと話せていなかったから。


「そっか、そうだったね」


 うん。


「……で、話、なんだけど」


 うん。


「聞いてほしいことがあって」


 うん。


「僕が最近サークルに毎日行っていた理由でもあるんだけど」


 うん。


「好きな人ができたんだ」


 うん。

 うん?


「サークルに好きな人ができたんだ。だから、その相談をしたかったんだ。こんなこと話せるの、Aさんしか居ないから」



   〇   



 あたしのアドバイスがしっかりと役に立ったらしく、Bの恋は美しく成就した。


 キザ過ぎない演出、さりげない気配り、気の利いた言葉はほんの少しで、真っ直ぐな気持ちは真っ直ぐに伝える。

 それらは、あたしがいつか彼にしてほしかった全てだった。


 めちゃくちゃにズレたアドバイスをしてやろうとも思った。

 Bが告白するよりも先に、あたしから思いの丈を伝えようかとも思った。


 けれど、邪魔だけはしたくはなかった。

 邪魔者にだけはなりたくなかった。

 それすらも体の良い言い訳で、本当は役に立たない奴だと思われたくなかっただけなのかもしれない。

 もう何が本心か分からない。


「ありがとう。全部Aさんのおかげだよ」


 お礼と共に向けられた無垢な笑顔は何も覚えていない。

 あたしは上手に笑えていただろうか。


 二人が結ばれた後、Bに恋人を紹介された。

 対面したその子は、とても感じが良く、可愛らしい人柄だった。

 二人が並んで笑っている光景があまりにお似合いで、胸の奥が冷たく燃えていくような感覚がした。


 そこはあたしが居るはずの場所だった。

 それはあたしに与えられるはずの勲章だった。


 忘れられて、押し殺して、ずっと待っていたあたしが、選ばれなかったのはなぜなんだろう。


 あたしの顔が好きなんじゃなかったの?

 あれは嘘だったの?

 それとも変わってしまったの?

 本当はあたしがBの恋人だったんだよ。

 今も好きだよ。

 ずっと隠してきたけれど、本当に好きだよ。

 Bのために隠してきたの。

 Bがあたしに縛られないように隠してきたの。

 だから、いつかはBに選んでほしかったの。

 またBに選んだほしかったの。

 何であたしじゃダメなの?

 何であたしじゃなかったの?


 その全ての答えは、言われるまでもなく見えていた。

 こんな気持ちを抱える人がこの世にどれほどいるのだろうか。

 こんなに鮮烈な痛みがこの世にどれだけ溢れているのだろうか。

 こんなありふれた痛みが、あたしだけのものなわけがない。

 

 それでも、言ってやりたい。

 全部ぶち撒けてやりたい。

 今まで溜め込んできた想いを、一滴も残すことなくBに浴びせてやりたい。

 幸せそうに笑うあんたの隣に、こんなにも苦しんでいる人間が居ることを分からせてやりたい。


 けれど、たくさんの言葉の一つも、言うことはできなかった。

 溢れ返るほどのありふれた辛さは、嫌われたくないというただ一つの気持ちに封じ込められた。


 結局あたしはBが好きだから、せめて汚れたくない。

 死んでしまったあたしとの思い出が蘇ることなんてないのなら、せめて今だけは綺麗なままでいたい。

 こんなに苦しむあたしには、これからもBと笑って話せるだけの関係がどうしても手放せなかった。


 渇望した特別な関係は手に入らなかった。

 残ったのが平凡な関係なら、もうそれでも良い。


 恋人じゃない。

 彼にとっては悲劇のヒロインですらない。


 ただの友達で良い。

 何でもない『Aさん』で良い。



   〇   



 夏休みはとうに明けて、葉を落とした木々が冬の訪れに備えていた。


 今日はもう授業が終わっていて、後は家に帰るだけ。

 けれど、帰る気力も湧かなくて、仕方なく誰もいない空き教室で、机に突っ伏していた。


 Bが交通事故に遭ったのは、去年の今頃だった。


 一体何があたしとBを引き剥がしたのだろうか。

 一体どうしていたら、あたしとBは一緒に居られたのだろうか。


 Bに好きだと言っていたら、Bは今の恋人を捨ててあたしを選んでくれたのかな。

 Bの恋が実らないようなアドバイスをしていたら、いつかはあたしにチャンスが巡ってきたのかな。

 Bを無理矢理にでも上京させていたら、Bに恋人なんてできていなかったのかな。

 Bに恋人同士だったことを明かしていたら、Bと恋人のままでいられたのかな。

 Bをどうにかして事故から助けていたら、そもそも忘れられずに済んだのかな。

 Bと一緒に上京することにしていたら、何かが変わって事故も起こらなかったのかな。

 Bの上京を必死に止めていたら、事故も起こらず離れることもなかったのかな。

 Bと恋人にならなかったら、こんなことにはならなかったのかな。

 Bを好きにならなかったら、こんなことにはならなかったのかな。

 Bと出会わなかったら、こんなことにはならなかったのかな。


 あたしは全部間違えてきたのかな。

 あたしは何か悪いことをしたのかな。

 でなければ、あたしが報われなかった理由は何なのかな。


「あれ、Aさんだ」


 心地の良い声に顔を上げると、一つも悪意のない笑顔が教室の外からこちらを見ていた。

 隣には案の定彼の恋人がいて、素敵な微笑みを浮かべて手を振っていた。


 二人も空きコマらしく、教室に入ってきて、あたしの隣に腰掛ける。


「何してたの?」


 別に、何にも。

 傷付いた風は見せず、愛想の良い声で淡々と答える。


「そっか。この後は授業?」


 ううん、帰るのが面倒になっちゃって。


「あはは、そういう時もあるよね」


 二人はこの後は?


「授業。テストがあるから勉強してたんだけど」


 うん。


「二人でいると、どうしても談笑しちゃって」


 ふふ、良いじゃん、楽しくて。


「まあね」


 でも、良かったよ、本当。


「ん、何が?」


 なんか、二人が嬉しそうで。


「うん、本当にありがとう」


 いえいえ。


「Aさんの時は、今度は僕が応援するよ」


 うん、よろしくね。


「あ、そろそろ授業よ」


「ああ、本当だ。じゃあ、Aさん、またね」


「バイバイ、またね」


 うん、二人とも、またね。


「結局全然勉強しなかったね」


「ね、大丈夫かな」


 B。


「ん、何?」


 好きよ。

 とは、言わなかった。


「…………? どうしたの?」


 ううん、テスト、頑張って。


「うん、どうにか頑張る」


 その言葉に黙って手を振った。


 心に抱えた悲痛な言葉を、声に出して伝えていたら、Bはどんな顔をしたのかな。

 また一つ、間違えてしまったのかな。


 二人の声が聞こえなくなって、やっと教室を出る気になった。

 それでも、普通に帰路を辿ることにまた嫌気が差して、最寄駅に着くと、少し遠回りをして帰った。

 途中、烏が頭上を通って、驚いて声を上げてしまった。

 閑静な住宅地にあたしの声が甲高く響く。

 赤くなった耳に、冬のせいだと、一人で勝手に言い訳をしてみた。

 

『岐路』

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