短編・2
西暦とやらが終わってから、今日で三十二万四千二百八日目。
排気ガスが充満するこの街が、世界最高かつ世界唯一の都市だということは、世界にとっては決して喜べる話ではないだろう。
荒廃した土地が日々増え続け、肩身が狭くなった都会は縦に縦にと建物を伸ばした。
歪な形のビル達が絡みつくダクトに支えられて屹立している。
そいつらのせいで、地べたにある俺らの街は日の光も届かない。
街の景色が心を侵食したのか、日陰者達でできたここら一帯はまさに掃き溜めであり、街はスラム街と化していた。
フリーター暮らしなんて今すぐに脱け出したいけれど、脱け出した先は息をすることすらできないほどの荒地だと言うのだから、自由も選択も無いも同然だ。
髪を切ることすら家賃と同等の金が要る。
そんな馬鹿馬鹿しい出費をするくらいなら自分で切る方がマシだが、そもそも身だしなみを気にする意味もない街なのだから、髪を切ることすら馬鹿馬鹿しい。
しかし、切らなきゃ切らないで邪魔になるので、ある程度になったら切ることにしている。
目安としては、髪の毛で自分の首を絞めれるようになる手前。
それまでは、どこで拾ったかも覚えていないゴムで髪を括る。
どうせなら綺麗なゴムを使いたかったが、文句は言っていられない。
髪ゴムすら家賃と同等の金が要る。
そう思えば、家賃は安い。
〇
俺の朝は早い。
日の出と共に自宅の格安アパートを出るが、部屋を出た目の前はこの間建った高層ビルがあるため、朝日なんて見えない。
まあ、そもそも日が昇ってくるのは反対側だから、どのみち見えない。
アパートの階段を下り、やっと道路へ出る。
早いとこエレベーターをつけてほしいが、ついたら家賃も値上がるだろうから、結局つけないでほしい。
自宅とバイト先のコンビニまでの距離は五百メートル程だ。
道中には汚い商店ばかりがあり、中には何年もシャッターを閉じたままの店もある。
大抵そういう店の前を早朝通りがかると、殴殺されたらしき死体がある。
別に珍しいことじゃない。
俺がああなっていてもおかしくない日常だ。
道沿いの屋並の中には、完全に潰れている店もある。
シャッターすら閉じていないままの状態で、割れたガラス戸から見える中には、どこからか流れてきた孤児が勝手に巣を作っている。
たまに大人が中の子どもを連れて行くのを目撃するが、引き取って養うなんて奇特な理由ではないだろう。
召使いにでもするのか、性処理にでも使うのか、何にしても明るい未来ではない。
ただ、それに気付いていてもそれを止める義理もないが。
しかし、心優しい人もいるようで、バイト帰りに中の様子を見ると、毎日誰かが孤児の子ども達に食べ物を置いていっているようだった。
初めて見た時は世の中捨てたもんじゃないなと思ったが、直後に子ども達がその中の一人の少女の食べ物を取り上げている場面を目撃して、すぐに前言撤回した。
しかも、それはその一度だけではなく、バイトから帰る度に同じ光景が繰り返されていた。
苛立ちがないと言えば嘘になる。
ただ、何度も言うが、それに気付いていてもそれを止める義理もない。
アルバイトは朝六時から始まり、夜十二時に終わる。
死体が転がるような街だけあって、強盗もままあることだ。
俺はそういう奴らに立ち向かえるような人間ではないため、そういう時は素直にレジの金を渡している。
そのうちに事務室から店長が出てきて、逃げられる前に強盗の頭をご自慢のショットガンでぶち抜いてくれるから、俺はその後始末をすれば良いだけなのだが。
もちろん法律はあるが、こんなスラム街には効果を示していない。
馬の耳に念仏とは上手く言ったもんだ。
ここでは、馬だけじゃなく鹿の耳にも無意味らしいが。
法律家達も俺らのことを視野に入れて法律を作ってはいないし、地べたで起こっていることなんて気にしちゃいない。
だから、盗みの為の殺人も自衛の為の殺人も咎められることはない。
その方が楽なのも確かだ。
道徳なんて、潔癖症の奴らが身を守るためのものだ。
髪の毛すら満足に切れない俺らには関係ない。
そんなこんなで一日の勤務を終えたら、真っ直ぐ家に帰る。
店長は優しい人で、賞味期限が過ぎた食品や売れ残った日用品があると、無償でパートナーにくれる。
今日は食パンとジンジャーエールと歯ブラシを貰って帰ることにした。
弱々しい街灯が照らす夜道を歩く。
街灯の一つが明滅を繰り返し、今にも死にかかっていた。
例の潰れた店の前を通り、ふと横目で見る。
割れたガラス戸の奥は、変わり映えしない光景が予想通り待っていた。
子ども達はいつもの少女から食べ物を取り上げ、下品に乾パンをかじっている。
少女は初めて見た時から、大分痩せてしまっていた。
今日は、なんだかいつもより機嫌が悪かった。
でなければ、俺がこんなことをするはずがない。
いつもは通り過ぎるその店へ方向転換し、割れたガラス戸を開く。
そのまま迷いなく少女の目の前まで歩く。
子ども達は突然のことに声が出なくなり、乾パンをかじっていた少年も思わず咀嚼を止めた。
俺は少女の痩けた顔を見て、そのまま細い腕を掴んだ。
一瞬、折れてしまうんじゃないかと肝を冷やしたが、そのままの勢いで「俺がお前を養ってやる。うちに来い」と、言い放つ。
少女は呆然としたまま何も言わなかったが、静かに立ち上がった。
俺は少女の手を引いて歩き出し、いつもの帰路へと戻っていく。
店から出る途中「乾パンよりもずっと美味いものを食わせてやる」と、少女だけではなく、中の子ども達全員に聞こえるようにわざとらしく言う。
取り残された子ども達を睨むように一瞥し、その店を後にした。
最低だということは分かっている。
大人げないことも分かっている。
俺は不憫な少女を助けたかったんじゃない。
他人が与えた他人の飯を取り上げる砂利にムカついたから、当て付けるように少女をあの場から連れ出しただけだ。
善行じゃない。
偽善ですらない。
少女を利用して鬱憤を晴らしただけだ。
本当に、気分が悪い。
少なくとも、あの道は二度と通らないようにしよう。
〇
帰りの道中、俺らは一言も言葉を交わさなかった。
そもそも孤児だった少女が言葉を理解できているのかすら怪しい。
見た目的には生まれてから三千日目くらいだと思うが、このご時世だ、読み書きできない奴なんて腐る程いる。
というか、読み書きできない奴は大体腐った奴ばかりだ。
こいつがどうかは知らないが。
家に到着し、部屋へ入る。
俺はすぐにシャワーを浴びようと服を脱ぎ始めたが、家に自分以外の誰かがいるなんてしばらくなかったため、裸になることに一瞬躊躇した。
我が家には脱衣所なんてものはもちろん無いので、いつもシャワールームの扉の前で服を脱いでいる。
妙な恥ずかしさに襲われ、つい少女の方を見ると、少女は玄関から一歩も動かず、俺を見ていた。
なぜ動こうとしないのかは分からないが、何にしてもこの恥ずかしさは早いうちに払拭しないといけない。
俺は少女に「お前も一緒に入るか?」と、訊ねた。
しかし、うんともすんとも言わない。
やはり言葉は分からないのか。
脱ぎかけた服から手を離し、少女の方へ歩み寄る。
しゃがみ込んで少女の目線に合わせ「お前、言葉は分かるか?」と、訊ねる。
少女は静かに頷いた。
なんだ、分かるのか。
だったら、なぜさっきの質問には答えないのだろうか。
もしかして怯えているのか?
それもそうか。
知らない大人にいきなり手を引かれて、知らない家に連れて来られたら、そりゃ怖いか。
まあ、俺だって心の底からこいつを助ける気じゃなかった。
手を引いたのは他の孤児に見せつけるためだ。
こいつを連れ出したのは結果論だ。
養うというのも勢いで言っただけ。
しかし、言った責任はある。
さすがに「嘘でした」で済まして少女を追い出せる程、良心が死んでいるわけでもない。
我ながら面倒なことをした。
そもそも子どもは好きじゃない。
愛情なんてまるで無い。
溜め息を一つ吐き「乱暴はしないよ。安心しろ。約束通り、お前を養ってやる」と、なるべく優しい声で言う。
何も答えないまま大きな瞳で見つめてくる少女に、俺は続けて「風呂、入るか?」と、訊ねる。
まあ、浴槽は無いが。
しかし、それでも返答はなかった。
本格的に苛ついてきた俺に、少女はやっと口を開いた。
「ふろってなに?」
正直、戸惑った。
突然声を出したと思ったら、そんな質問をされるとは。
そうか、風呂を知らないのか。
それなら答えられなくても仕方ない。
「体を綺麗にするとこだよ」と、大分噛み砕いて説明し「とりあえず入ってみろ」と、俺は再び服を脱ぎ始める。
少女の色褪せて黄ばみ切った衣服も脱がし、二人でシャワールームに入る。
子どもの裸なんてどうも思わないが、布一枚に隠されていた少女の体は、目を背けたくなる程に痩せこけていた。
俺はずっとこんな子の真横を何度も通り過ぎていたんだ。
少女の髪の毛は覚悟していた以上に酷く、何度も石鹸で洗っては流しを繰り返して、やっと指が通るようになった。
これは後で髪の毛を切ってやった方が良い。
それに石鹸も大分使ってしまった。
明日はコンビニで石鹸を貰ってこよう。二つくらい。
一枚のバスタオルで二人の体を拭き、部屋着に着替える。
少女が着ていた服はさすがに捨て、適当な俺のTシャツを着せた。
食パンを焼いてバターを塗って、それが今日の夕食だ。
乾パンよりもずっと美味いものとは言ったが、俺も貧乏には変わりない。
こんなものしか出せないとは心苦しい。
せめてもの償いとして、いつもはケチるバターも少女の分は多めに塗ってやった。
その分俺のはバターナイフに残ったカスみたいな部分を塗って我慢した。
しかし、そんなちんけな夕食を一口かじった少女の顔が静かに綻んだ時、味気ない食パンも悪くないと感じた。
ご飯を食べ終わり、皿を洗っている間、少女はずっと俺の横に突っ立っていた。
何をするでもなく、ただただ俺の横に突っ立っていた。
洗い物を済ませ、洗濯を始める。
朝は時間がないので、夜のうちに洗濯をするようにしている。
洗濯機を回している間に歯磨きをする。
と、そこであることに気付いた。
うちには歯ブラシが俺の分しかない。
少女にはどうしようか。
と、またそこであることに気付いた。
そういえば、今日コンビニで歯ブラシを貰ってきていた。
偶然にせよ、ラッキーだ。
そう思うと、歯ブラシを貰ったことも少女を連れ帰ったことも、何だか運命のように思えた。
しかし、ふとキッチン横の引き出しを開くと、以前に貰ってきていた歯ブラシのストックを見つけ、やっぱり違うかもと思った。
何はともあれ、少女に歯ブラシを渡すが、
「これなに?」
と、またも不思議そうな顔で訊ねる。
そうか、これも知らないのか。
仕方なく、俺が代わりに少女の歯を磨き「明日からは自分でやれよ」と、言った。
こうやって何でもやってあげたり、教えてあげたりしなければならないと思うと、またも溜め息を吐いてしまう。
洗濯機が終わりの合図を鳴き喚き、洗濯物をベランダに干す。
量は大したことないのですぐに終わる。
そして、やはりその間も、少女はずっと俺の横に立っている。
何をしたいのかは分からないが、何も言わないのでとりあえずこちらも何も言わない。
やることをし終え、糸が切れたようにベッドに倒れる。
眠い目を擦り、少女を見遣ると、少女は反対側の壁に寄りかかって膝を抱えて座り込んでいた。
正直、一緒のベッドで寝るのは勘弁願いたい。
睡眠だけが至福のひと時なのに、狭いベッドに二人で寝るなんて冗談じゃない。
俺は少女に毛布を一枚差し出し「これに包まって寝ろ」と、言う。
少女は黙ってそれを受け取り、言う通りに毛布に包まる。
俺は電気を消し「おやすみ」も言わずに眠る。
既に時計は二時を迎えようとしていた。
バイトがある日は五時起きなので、たった三時間程の睡眠だが、今のところ続けられているのだから問題ない。
その代わり、休みの日はずっと眠る。
だからこそ、睡眠は快適な状態でしたいのだ。
と、そんなことを考えながら寝ようとしていたその時、ベッドが軽く軋む音がして、掛け布団の中に一瞬冷たい空気が入り込む。
嫌な気がして瞼を開けると、少女が俺のテリトリーを侵していた。
俺の服を掴みながら、ベッドの上に横たわっている。
俺は「おい」と、少し凄むように言う。
少女は暗闇の俺の見つめ、起き上がった。
「一人で寝ろ。狭いだろ」と、厳しい口調で言う。
実際、苛立っていた。
歯磨きやら何やらと、自分のことで精一杯の生活なのに、こいつの分まで面倒を見なければならないことに、舌打ちをしたい気分だった。
全部自分が招いたことなのに。
「ごめんなさい」
少女は震えた声で謝り、大きな目を潤ませていた。
けれど、唇を噛み締めて涙を堪える少女を見て、すぐに情けない自分を痛感した。
それと同時に、少女の知る由もない過去を垣間見た気がした。
泣くことも許されなかったのだろう。
俺は頭を掻き、溜め息を吐く。
そして「やっぱり良いよ。一緒に寝よう」と、優しい声で言った。
少女の顔がどんなだったかは見なかったが、俺に抱きついて眠るその体はとても温かかった。
少女は寝付きも寝相も良く、狭いベッドに二人で眠るのも思っていたより嫌ではなかった。
これで翌日に、おねしょさえしていなかったら、本当に良かったのだが。
〇
寝小便をして、少女は謝り続けた。
俺が何か言うと、俺が溜め息を吐くと、俺が「もう良いよ」と、言っても、少女は頻りに謝り続けた。
どうすれば良いんだ。
ベランダに汚れた布団や着せていたTシャツを干し、家を出る。
思わぬハプニングで遅刻寸前だ。
少女には昼食と夕食を作っておき「適当に食べて、先に寝てろ」と、伝えた。
その際も、少女は返事の代わりに謝罪をした。
ダッシュでバイト先へ向かい、思わずいつもの道を通りそうになったが、寸前で道を変えた。
ぎりぎりバイトは間に合い、そのまま夜の十二時まで駆け抜ける。
特に問題もなく終わり、帰りにシュークリームとジンジャーエールと石鹸二つを貰った。
帰路もあの店の前は避けて辿り、家に到着する。
部屋を開けると、まだ電気が点いていた。
少女が消し忘れたのだろう。
今は既に一時に近い。
昨日はイレギュラーだったが、本来なら子どもは寝ている時間だ。
と、部屋の中へ入ると、ベッドに少女はおらず、ベッドに寄りかかって床の上に座っていた。
頭を何度もかくんと倒しては起こしており、睡魔と必死に戦っている。
そんな必要はない。
早く寝たら良いのに。
少女は俺に気付き、眠い眼を擦り、
「ごめんなさい」
と、やはり謝った。
俺は呆れながら「何でまだ起きてるんだ。眠いなら寝てて良いんだぞ」と、言った。
しかし、少女は謝るばかりで、埒が明かない。
と、そこでベッドを見て思い出す。
布団類は干しっぱなしだった。
そうか、そのせいか。
俺はすぐに干していた洗濯物全てを取り込み、ベッドをいつもの状態に直す。
「悪いな。もう寝られるぞ」と、少女に言う。
しかし、それでも少女はベッドに入ろうとしなかった。
いよいよ訳が分からない。
こちらも困り果て、少し厳しい口調で「どうして寝ないんだ? 理由があるなら言え」と、訊ねる。
そして、謝罪以外の答えがそこでやっと返ってきた。
「寝たら、おねしょしちゃうから」
泣き出しそうな声だった。
思わず何も言葉が出てこなかった。
迷惑をかけないために、俺のために、少女は睡魔に抗っていた。
俺は溜め息を吐き、その場に座り込む。
「別に、寝る前にトイレに行けば大丈夫だよ」と、少女の頭を撫でた。
そこで気が付いた。
少女の頭が少しベタついている。
まだシャワーを浴びていないらしい。
確かに、シャワーを浴びておけとは言ってなかった。
仕方ない。
ついでだから、今日も一緒に入るか。
昨日とは違い、少女の髪はそれなりに洗いやすくなっていた。
俺が夕食を食べている間、少女にはバイトで貰ったシュークリームをあげた。
ご飯を食べ終えて皿を洗い、洗濯機を回し、歯を磨いている間も、少女は相変わらず俺の横に佇んでいた。
歯磨きの際には、少女も歯を磨いていた。
「磨いてなかったのか?」と、訊ねると、首を振った。
まあ、シュークリーム食ったし、良いか。
洗濯物を干し、忘れずに少女をトイレに行かせ、電気を消し、一つのベッドで眠る。
少女の頭を撫でながら、一日中密かに考えていたことを改めて決心する。
「あのな」と、少女に語りかける。
「今度から早めに帰ることにするよ。九時くらいにバイト上がって、二人で一緒にご飯食べて、一緒に歯磨いて、一緒に寝よう。色々倹約しなきゃいけなくなるけど、まあ、大丈夫だろう。安心しろ。約束通り、養ってやるから」そう言ってから、俺は眠った。
少女はそれきり、おねしょをしなくなった。
〇
少女と暮らし始めて、今日で千五百四十八日目。
つまり、西暦とやらが終わってから、今日で三十二万五千七百五十六日目。
長いこと時間が経過した。
あんなにも小さかった少女は、成長期をとっくに迎え、美少女へと変貌した。
にしても、成長が早かったので、気になって本人に訊くと、少女は俺と出会った時には、生まれてから四千日近く経過していたらしい。
見た目が幼かったため見誤ったが、思っていたよりも大人だった。
本人も他人から聞いた話だと、はっきり把握はしていないらしいが。
おどおどして無口だったのも遠い過去の話、今でははきはきと話し、朗らかによく笑う。
相変わらず狭い格安アパートの一室で二人で暮らしているが、それでもちゃんと生きられている。
昼間は俺はコンビニでバイトをし、少女は家で家事や料理、編み物をしてくれている。
コンビニでのバイトもやることは変わり映えしないが、あの頃よりいくらか給料が上がったのと、少女が弁当を作って持たせてくれるようになったことが、何より嬉しい変化だ。
夜は二人で一緒に夕食を食べて、一緒に歯を磨いて、狭いベッドで一緒に寝ている。
一人で暮らしていた時は、休みは寝て過ぎるものだったが、今はたまに二人で散歩をし、たまに新しい料理を二人で作り、夜になれば二人で身を寄せ合う。
髪の毛が伸びれば、俺の髪は少女が切り、少女の髪は俺が切る。
汚いゴムはもう長いこと使っていない。
初めは少女のことなんてどうでも良かった。
子ども達にムカついて、少女を連れ出すことで溜飲を下げたいだけだった。
助ける気なんてさらさらなかった。
愛情なんてまるで無かった。
正直、今も本心は分からない。
愛情ではない気がする。
そう言ってやりたい気もする。
ただの都合の良い召使いができたんだと、言い捨てていたい気もする。
そうしておけば、いざと言う時、傷付かないで済む気がする。
「好き」
少女は毎日、俺にそう言ってキスをした。
俺も嫌じゃなかった。
今日は休みの日だった。
十時くらいまで眠り、もぞもぞと布団から這い出る。
特に何をする予定もないけれど、とりあえずパンツ一枚では寒いので、服を着た。
そして、顔を洗ってから、朝ごはんを作る。
とは言っても、食パンを焼いてバターを塗るだけのものだ。
思えば、俺は成長していないな。
少女はまだ寝ている。
いつもは休みの日だろうと早起きなのだが、今日はまだ微睡んでいる。
わざわざ起こすつもりもないが、一応パンは二枚焼いておこう。
それだけじゃ寂しいので、フライパンを出して油を引く。
卵二つと余っていたウインナー全部をフライパンに落とし、菜箸で適当に転がす。
その時、後ろから抱きつかれた。
背中の感触が妙に温かくて、少女がパンツ一枚のままであることに気が付いた。
俺は少し振り返って「おはよう」と、言った。
「おはよう」
少女も、とろけた眼でそう言った。
「服を着てこい」と、言い、少女は微笑みながら頷いて、俺から離れた。
バタートーストとスクランブルエッグとウインナーを二人分の皿に移し、二人で食べる。
遅めの朝ごはん、ブランチでも良いかもしれない、それを二人で味わう。
食べ終わって、二人で皿を洗って、洗濯機を回す。
ベランダに出て、洗濯物を干す。
曇り空が忌々しかったけれど、晴れていようとどのみち高層ビルに塞がれてよく見えないのだから、恨む意味も然程ない。
そうして、テレビをつけて二人でぼんやり見る。
少女が来る前は無かったのだが、俺がバイトに行っている間、少女が暇になるので、中古品店で小さいものを買った。
流れるのは基本的に上部で暮らす金持ち達が作る金持ち達向けの番組だが、アニメや映画はそれなりに面白い。
ただ今のような昼の時間帯は、ニュースやワイドショーばかりで退屈してしまう。
ここ最近、二人ともテレビを見ていなかったので、何だか勝手にがっかりしてしまった。
誰かが死んだとか、誰かが結婚したとか、どうでも良いニュースやどうにもならないニュースに眠気を誘われていると、少女が突然俺の服の裾を引っ張った。
「ねえ、これ」
なんだよと思いながら、少女が指差すテレビに目を向けると、睡魔も思わず逃げ出すような、目を見張るニュースが流れていた。
今まで上流階級の者しか相手にしてこなかった政府及び各党が、議会での激論の末、スラム街と化した下層部の街への本格的な統治に乗り出した。
住民の生活レベルの向上や治安統制を目的とし、反社会的組織や危険思想団体の撲滅、戸籍情報のないホームレスや孤児の保護、街の一斉改築などの活動を行なっていく方針であると、八日前に議会で可決されていた。
そして、その活動開始が本日正午より行われると、綺麗なスーツを着たアナウンサーが、微笑み混じりにそう言った。
議会がそう決めたらしい。
俺達のことを、俺達のいないところで、勝手にそう決めたらしい。
このことについてインタビューを受けた上部に暮らす金持ち達は、こぞって『立派なこと』だとか『素晴らしい改革』だとか、誇らしげに語っている。
『戸籍情報のないホームレスや孤児の保護』。
それは少女にも当てはまることだった。
少女は戸籍登録も住民登録もしていない。
医者にかかることも無かったし、どこに集められているのかも分からない住民税も払わずに済むと思っていた。
どうせ誰にも咎められないし、周りもそんな奴ばかりだ。
そもそもこの地区の役所なんて、何千日も前にチンピラの溜まり場になってしまった。
そんなところに行く意味もないし、チンピラが戸籍登録してくれるとも思えない。
どうしようもなかったのだと思う。
けれど、政府はそんなことを配慮することもなく、動き出した。
もう手遅れだった。
俺がお縄にかけられてしまうかは知らない。
実際、俺がやったのは、飢えていた孤児を保護しただけだ。
もしかしたら、お咎めはないかもしれない。
けれど、少女と離れ離れになることは、どうしたって避けられないだろう。
アナウンサーは続けて、下層部のこの街の統制活動に警察や特殊部隊を投入すると政府が発表したことを告げた。
やがてここら一帯は、訳の分からない連中によって埋め尽くされるだろう。
このスラム街で横柄に振る舞ってきた輩達には不都合な話であり、反抗的な行動も容易く想像できる。
それ故の武力投入なのだろう。
疑問はない。
理に適っている。
そうか。
もうそろそろでお別れなんだな。
「嫌」
少女はそう言った。
俺の服の裾を強く引っ張って、そう言った。
「離れたくない」
少女の震える手を、俺はそっと引き剥がした。
その行動に困惑する少女の瞳を冷たく見つめながら「やっとおさらばだな」と、言った。
やっぱり、愛情はまるで無かった。
一瞬の憂さ晴らしのせいで背負わされた、重たい荷物でしかなかった。
退屈凌ぎになったこともあった。
けれど、それ以上の価値は無かった。
俺は立ち上がり、少女の荷物をまとめ始める。
「どうして、私は好きだよ」
少女の言葉に振り返ることなく「俺はうんざりだったよ」と、言った。
子どもは好きじゃない。
それは今もずっと変わらない。
「心配すんな。ニュースによれば、里親は政府の審査を合格したちゃんとした人達らしい。ここよりずっと広い家で、俺よりずっと良い人達だよ」と、少女の荷物を掻き集めながら言う。
「ここが良い。あなたが良い」
その言葉には、何も答えない。
少女の荷物を適当な鞄に詰め、立ち尽くす少女に「ほら」と、差し出す。
少女は唇を噛みしめながら、一向に受け取ろうとしない。
俺は苛立ち、鞄を少女の胸に押しつけ、無理矢理持たせた。
「家事とか料理とかやってくれたのは、感謝してるよ」と、告げ、それきり黙った。
その時、外から何人もの人が階段を上る音がして、すぐ後にうちのインターホンが鳴った。
ここに越してから、思えば初めてインターホンが使われたような気がする。
警察にせよ、特殊部隊にせよ、何にしても政府関係の人間であることは確かだった。
少女を引き渡して、事情を説明して、それで俺が捕まるかどうかは、向こうの判断次第だ。
情状酌量なんて期待しない方が良い。
扉を開けると、五人の男が待ち構えていた。
皺一つないスーツに上等なコートに身を包み、ジャケットの内ポケットから、警察手帳を見せてきた。
例の改革の件を説明し、身分証明書の提示やいくつかの質疑応答をさせられる。
最後に、部屋を見せてくれと言われ、断ったらどうなるのだろうとつまらないことを考えながら、警察達を部屋へ入れる。
警察は中にいた少女を見て、俺を問い質した。
俺は素直に事情を説明し「保護してあげてください。不憫な子なので、優しくしてあげてください」と、言った。
警察達は顔を見合わせ、いくつか言葉を交わし、少女にも話しかける。
赤く腫らした少女の目は、もう潤んではいなかった。
少女は本当のことを事細かに話し、何なら俺を持ち上げるような風に警察の質問に答えた。
警察側も怪しい視線で俺を一瞥したが、特に何も言うことなく少女の保護を請け負った。
俺の部屋の調査が終わり、警察側の五人のうち三人は俺の事情聴取で残ることになり、残りの二人は少女を上部の警察署へ一旦連れて行くことになった。
警察署に行った後は、保護施設に預けられ、そこから里親が決まり次第、そこへ行くことになると言う。
実質、今この瞬間が、俺と少女にとって、最後の時だった。
部屋を出て、玄関の前で、俺と少女は目を見合わせた。
寂しそうな笑顔で、少女は言う。
「会いに行くよ」
その声は、一つも震えていなかった。
その言葉には何も触れず「じゃあな、元気でやれよ」と、それだけ応える。
こんな時でさえ、心は案外穏やかだ。
急過ぎたのか、それとも本当に何とも思っていないのか。
少女は背を向けて歩き出した。
最後まで、寂しそうな笑顔で。
結局俺は何がしたかったんだろう。
少女を救うつもりなんてさらさら無かった。
大したこともしないまま、なあなあに一緒に暮らして、最後は少女を裏切るような真似をして。
少女の背中が視界から完全に消える。
少女は警察と階段を下りて行き、遠のいていく足音が刻まれる度に、心がざわざわと騒めき出す。
静かに湧き上がる情動が、嗚咽を吐かせようとしてきたが、唇を噛み締めて押し殺す。
少女もこんな気持ちだったのだろうか。
いや、そんなわけないか。
俺は少女のように、耐えてきたわけじゃない。
少女の痛みはこんなものじゃなかったはずだ。
結局のところ、俺は自分が傷付かないために心を殺しているだけなんだ。
警察と詳しい事情聴取を再開するため、部屋へと促された。
部屋に入る直前、何の気なしに外の廊下の柵から、階下のアパート前の道を見た。
そこには、こちらを見上げ、手を振る少女がいた。
それは、間違いなく俺が愛した少女だった。
部屋に入ろうとしていた足は、すぐ様廊下へと飛び出し、一直線に階段を目指す。
警察の怒鳴り声が背後から聞こえたが、そんなことはお構いなしに一段飛ばしで階段を駆け下りた。
アパートから道へ出て、警察に連れて行かれる少女を一直線に目指す。
少女がこちらに気付いて振り返ると、その大きな瞳には涙が浮かんでいた。
それを、強く強く、抱き締めた。
少女に何度も謝り、堪えていた嗚咽を情けない程に垂れ流す。
少女は応えるように俺を抱き締めた。
そして、なぜか笑った。
「ありがとう。助けてくれてありがとう」
その言葉には、首を振るしかなかった。
俺はお前を助けようとしたんじゃない。
愛しようとしたわけじゃない。
成り行きだった。
巻き込んだだけだった。
最後の最後まで、酷いことをした。
助けられたのは、俺の方なんだ。
ありがとうを言わなければならないのは、俺の方なんだ。
ごめんよ。
お前の幸せを叶えてやれなくて、ごめんよ。
お前との約束を叶えてやれなくて、ごめんよ。
助けてやれなくて、ごめんよ。
あの時、助けなくて、ごめんよ。
「でも、私が助けられたことは、嘘じゃないよ」
少女は笑った。
「好きだよ」と、繰り返すばかりの俺に笑ってくれた。
後を追ってきた警察は今やっと追いつき、肩を引っ張って少女から俺を引き剥がした。
結局、未練がましく傷付いて終わる別れになってしまった。
最悪だ。
一体誰のせいなのだろうか。
嗚咽は止まったが、涙は流れ続ける。
朧な視界に映る少女は朗らかに笑い続ける。
手を振って、少女は再び歩き出した。
俺に背を向けて、歩き出した。
涙が止まった頃には、その背中も見えなくなっていた。
溜め息を一つ吐いて、警察と部屋へ歩き始める。
忌々しい曇り空から晴れ間が差して、少女のいない道を照らした。
それが何より忌々しかった。
部屋に戻り、今度こそ事情聴取を再開する。
ふと、部屋の隅に落ちていた髪ゴムを見つけ、拾い上げる。
こんな所にあったのかと思ったが、別に探していたわけでもなかった。
警察に席に着くよう急かされ、黙って従う。
汚れ切った髪ゴムはゴミ箱へ放った。
『芽生』