短編・11
「あんた、えらいたらい回しにされたね」
子どもに意地の悪いことを言ったって何も返ってこない。
たらい回しの意味もたらい回しされることの意味も、あの子は理解できていないだろうから、当然と言えば当然だ。
あたしの家に向かう道の途中。
淡いピンクのリュックを背負い、あの子がハクセキレイみたいに歩いている。
誰にも気付かれないように鼻歌を口遊んでいるけど、残念ながらあたしには丸聞こえだ。
あたしはあの子の服やら日用品やらが詰め込まれたバッグを肩から提げて、時々視線を下ろしてみたりする。
道幅の狭い住宅街にあたしとあの子の二人だけ。
白線があたしたちを分断して、この先の未来を描いているようだった。
曲がり角で折れた白線をあの子が跨げば、四辻を横切る一瞬だけあたしたちは同じ道を歩ける。
暗喩にも伏線にもならないようなありふれた光景。
あたしだって、小さい頃は母親とこうして歩いたことはある。
それでも、記念日になるかもしれない今日に限っては、そんなくだらないことがやけに気になった。
あたしの隣で小さな歩幅とたくさんの歩数で並びながら、ずっと前だけを見ているあの子。
それが酷く気丈に見えて、続けて言おうとした嫌味も引っ込んでしまった。
近いうちに実の両親の元へ帰れると、あの子は今でも考えているのだろうか。
あたしがこれから母親の代わりになるなんて、もっと言えば父親の代わりも務めなければならないなんて、あの子が知るはずもない。
そのことを伝えないままこれから二人で生活していくなんてできない。
だったら、どうやってそのことを伝えたものか。
何せ相手は嫌味もろくに理解できない子どもだ。
前の保護者たちはその説明の役目さえあたしに回してきやがった。
「なんか喋ったら?」
無理を承知で言ってみた。
案の定、あの子は何も喋らない。
子どもに話なんか求めて出てくる方が驚いてしまう。
そうでなくても大人しい子なんだ。
求める割にはあたしも特に話題なんて思い浮かばず、残りの家路を退屈そうに歩いた。
やがて見えてきたマンションの三階辺りを指差して「あそこがあたしの家」と言ってから少し間を置いて、すぐに加える。
「そんで、今日からあんたの家」
〇
あの子と初めて会ったのは、四、五年前だったと思う。
あたしもあんまり覚えていないけど、あの子はそれ以上に覚えていないだろう。
何せ赤ちゃんだったからね。
兄が結婚することになって、あたしたち家族と向こうの家族とで顔合わせをする為、食事をすることになった。
駅ビルの地下一階に構えた綺麗な和食屋で、その退屈な会食は開かれた。
その時には向こうの家の長男夫婦も来る予定だったんだけど、奥さんの方は体調を崩して来られなかった。
こっちとしてはどっちでも良かったけど、一回くらいはあの子の実母の顔を拝んでおけば良かった。
あたしが面倒を抱える羽目になった原因が、どんな面をしていたのか見てみたいわ。
何にしても、向こうの家族の中に結婚も分からない子どもが父親に抱かれて連れて来られたのだ。
それがあの子であることは、わざわざ説明するまでもないでしょう。
短い髪の毛をいじりながら、ぽかんとした顔で大人たちの視線を一身に浴びていた。
小さな目の割に大きな黒目で、気持ち悪く感じたことを覚えている。
その時はまだ一歳くらいで言葉は話せず、二足歩行の足取りもふわふわしていて危なっかしかった。
箸置きやコースターを手に取り、丸く小さな両手で弄んでいた。
高級な料理なんて口に合わないだろうと思ったけど、味のしない二十日大根までも平らげた様子から察するに、好き嫌いはないらしい。
大人でも時々つまらなくなる席で、いつぐずり出してもおかしくないのに、泣きも喚きもせず無垢な表情で大人しくしていた。
たまにあたしの方をじっと見て、あたしが視線を向けると気まずそうに目線を逸らしたりする。
かと思えば、あたしと目が合ったまま見つめ合い、しばらくして笑顔を零したりする。
掴み所のない振る舞いに、あたしも可愛いなんて思ってしまった。
まるで小動物を眺めるような目で。
あたしも、家族も、もしかしたらあの子の実の親でさえも、その時はまだあの子を人間だなんて思っていなかったのかもしれない。
今となってはどうでもいい話かもしれないけど、こうしてあの子があたしの元まで回されてきた事実だけを見れば、あの子を家族と思った人は一人もいなかった。
酷いことを言うようだけど、みんなが大好きなありのままってやつを言うなら、そういうことになる。
七十七億人が蔓延るこの世界で里子だの孤児だのは案外珍しいことじゃない。
そんな珍しくないことにさえ縁の無かった私には、無神経に言い捨てる資格もないんだろうけどね。
「狭いけど我慢してね。部屋は今度片すから」
部屋の中に入って気付いたのは、いつもの玄関も小さなあの子が増えただけで多少なりとも窮屈になるということだ。
女の割に靴は少ない方だと思うけど、それでもあの子のおもちゃみたいなサイズの靴を置くスペースを確保するだけで一苦労する。
玄関を上がってすぐの廊下には、昨日出し忘れた段ボールたちが数ヶ月前から何束も置いてある。
その廊下を通り抜けると、カウンターキッチンとリビングがお待ちかねだ。
真っ白いこの部屋にあの子を連れて帰ってきて最初に思ったのは、壁に落書きされないかの心配だった。
ふと右下を一瞥する。
知らない部屋に怯えもせず、かと言ってワクワクした様子もなく大人しくしている。
その姿を大人はお利口さんだと言うのかもしれない。
「さっきも言ったけどさ、ここはあんたん家なんだから、好きにして良いんだよ」
何の応答もないし、何の動きもない。
やっぱりと思いつつも気味の悪さも感じずにはいられなかった。
実家であの子を引き取ってからここまでの道のりの間、張り付いたようにずっとあたしの横に立っている。
一定の距離を保ち続け、あたかもそれを破ると酷い目に遭わされるみたいに。
肩から提げた荷物を下ろし、ひとまずソファに腰掛ける。
一人用のソファだから、あの子用の椅子も買ってやらなきゃいけないな。
そんな出費を考えたら、尻を着くのと同時に思わず溜め息を漏らしてしまった。
怖がらせてしまったかもと思いながらも、子どもの顔色をいちいち気にしている自分に嫌気が差した。
当の本人は何一つ顔色を変えず、その場から動かないままあたしを見ている。
「好きにして良いって言ってるのに」
それでも動かないなら、こっちからはもう何もできない。
ペットも初日は知らない場所に警戒して動かないものだ。
そう思ってすぐ、未だにあの子を小動物扱いしている自分に呆れてしまった。
〇
我が家にあの子がやってきて最初の夜。
夜ご飯は何が良いか訊ねると、寿司と答えてきた。
子どものくせになかなか値の張るものを注文してきやがる。
あたしも食べたかったから良いけどさ。
スーパーで買ってきた値引きシール付きの寿司二パックとかんぴょう巻きだけの一パックを、ダイニングテーブル代わりのローテーブルに並べる。
床にそのまま座り、お互い向かい合ってテーブルを挟む。
何となく割り箸を渡したけど、フォークとかの方が良かったかな。
何も言わずにパックの蓋を開けて、何も言わずに寿司に手を伸ばす。
そんなあたしを気にも留めず、あの子はあの子で礼儀正しく手を合わせて食べ始める。
その姿を見て勝手に責められたような気持ちになった。
既にいくらを頬張った口で「いただきます」と手を合わせる。
手を合わせたところで食への感謝なんて湧いてこない。
そもそも子どもの頃だってそんなの考えながら「いただきます」なんて言ったことはない。
それでも、子どもの無意味な健気さに付き合うのも大人の役目なんだろう。
向かいのあの子に目を遣ると、玉子寿司を一口で口に詰め込んでいた。
自分の「いただきます」にどことなく気恥ずかしさを覚えたあたしを見ながら微笑んでいる。
生意気なガキ。
初めて見た笑顔がこれだなんて。
「おいしい?」
そう訊ねると、笑ったまま頷いた。
小さな手で不器用に箸を握り、器用に寿司を口に運んでいる。
あまりに危うげな箸使いを見て思わず笑ってしまった。
すると、あの子は首を傾げてきょとんとしたままこちらを見つめる。
「箸、上手ね」
無闇矢鱈に褒め散らかすのは良くない気もするけど、褒めた言葉は引っ込められない。
口から出たのがみっともない嫌味じゃなかっただけマシだわ。
あの子だって嬉しそうにしているし。
食事を終えてしばらくしたらお風呂に入る。
いつもの量でお湯を張ったせいで、二人で浴槽に浸かると結構ぎりぎりだった。
細かいところだけど、こういった一つ一つを変えていかなきゃいけない。
浴槽自体も二人で入るには少し狭く感じる。
あの子もそれを分かっているのか、浴槽の隅っこに寄ってできるだけスペースを取らないようにしている。
子どものくせにこういう気遣いがちょくちょく見えるのが、あたしには嬉しく思えなかった。
並々のお湯に顎まで浸かって百まで数えるあの子が、早いところこの家で怯えずに暮らせるように願うばかりだ。
それとは関係なしに、ただの意地悪で関係のない数字を適当に呟く。
あたしの数字に惑わされてどこまで数えたか分からなくなったあの子が、あたしを見て可笑しそうに笑った。
〇
語らなければならないのは、あの子がどういった経緯であたしの元に来たのか、ということ。
他人からすればよくある話。
それでも、あの子にとっては他でもない自分の話。
もっとも当人は自身に起きている事の重大さを理解していないけど。
あの子の父親が経営する会社が倒産した。
これだけでも、何となくの事情がおおよそ把握できると思う。
けど、それだけじゃあの子があたしの元にまで回されてきた理由としては不十分だ。
借金塗れとなったあの子の父親は、崩れた会社の後始末に追われ、あの子を自分の両親、要はあの子の祖父母の家に託した。
全部が片付いた頃、あの子を迎えに来ると言い残して。
あの子の母親は以前から不倫していた愛人と、旦那の会社が倒れたと同時に逃げたらしい。
逃げられるまで妻の不倫に気付かなかった夫も夫だけどね。
何にしても、老後生活が始まって間もない老夫婦の家に、あの子は引き取られることになる。
祖父母が言うには、最初は孫といつも居られて嬉しかったそうだ。
それも束の間、可愛い孫でも子育てが大変なことには変わりなかった。
二人の子どもを育てた祖父母も、苦楽の多かったあの頃には戻りたくないらしい。
結局あの子はそこで一ヶ月引き取られ、次に預けられたのはあたしの兄夫婦の家だった。
順番的には、あの子の母方の祖父母の家に預けられるべきだと思った。
実際に話をそこの夫妻にしたらしい。
が、向こうはあの子を預かることを拒否した。
今更子守なんてやってられないのか、単純に子どもが嫌いなのか、その理由はどうでもいい。
あの子の母親が不倫相手と駆け落ちして姿を眩ませた以上、その両親にも責任があると真正面からは言いづらいけど、いくらか協力してくれても良いはずだ。
ただこちらも、単純に面倒な気持ちは分かるから、おいそれと責め立てられない。
子どもの面倒を見る、とはよく言ったものだ。
どの道やる気のない人たちに親の代わりは任せられない。
こうした経緯で、あの子はあたしの兄と義姉の家に迎えられた。
予想はつくと思うけど、あの子があたしの元に居るということは、ここでも上手くいかなかったということだ。
兄と義姉の間には既にあの子の二歳下の娘が居た。
あたしの姪にあたるその子が上手くいなかった原因だ。
突如として家に居座り始めたあの子に、姪は随分と戸惑ったのだろう。
決して気の強い性格ではないけど、両親を取られるんじゃないかという不安が、姪にあの子を嫌う判断をさせた。
今まで自分だけを可愛がってくれた両親の愛を、突然知らない子と半分こにしなければならなくなった。
子どもにとってどれだけ嫌なことかは、誰でも想像がつくはずだ。
わがままを言うことこそ子どもの本懐だったりする。
そして、娘のわがままにデレつきながら聞いてしまうのが親だったりもする。
そうでなくとも、実の娘といつか他人に返す子どもとを天秤にかけたなら結果は言うまでもない。
あの子が居なくなって、姪はさぞかしご満悦だっただろう。
結局あの子はそこで半月引き取られ、次に預けられたのはあたしの両親の家だった。
うちの親もよく請け負ったもんだと思った。
しかし、できないことはするもんじゃないと、この時ほど強く感じたことはない。
あの子を憐れみ、あの子の父親に呆れ、あの子の母親に憤る両親だったから、引き取る際は快くあの子を迎えた。
それでも、還暦を過ぎた老夫婦に子守は今更難しいらしい。
やはりと言うか、あの子が自分の祖父母の家に引き取られた時と同様、あたしの両親は苦労に耐え兼ねてしまった。
元より年金暮らしの六十代二人には今更子ども一人を育て上げる体力も財力も無い。
行政や親戚などの周りからの援助はいくらかあるものの、そう言っても厳しいことには変わりない。
それはあの子の祖父母の家があの子を手放した理由と何ら変わりなく、実際仕方のないことでもある。
負債だらけの父親にとっても、孫が子になった祖父母にとっても、既に娘が居る夫婦にとっても、子どもが可愛いだけの老人にとっても、自分たちが生きていくためにはあの子は負担でしかない。
それはあたしにとっても例外ではなく、誰にとっても当たり前のことだ。
結局あの子はそこでもう半月引き取られ、次に預けられた家こそあたしのところだった。
数ヶ月前からあの子の不憫さを聞いていたため、遂にあたしにもその話が回ってきた時は酷く残念に思った。
色々と言ってやりたいこともあったし、正直なところあたしも子どもを預かるのはごめんだ。
期間が見えているならまだしも、依頼主がいつあの子を迎えに来るかさえ分からない。
あたしだって人一人育て上げる体力も財力も、何より知識が無い。
けど、両親もそんなことは重々承知しているだろう。
その上で頼み込んできやがったことに腹が立つ。
それでも子育ての経験が皆無のあたしに子どもを一人寄越してくるということは、余程他に頼める人が居ないに違いない。
あたしがここであの子の面倒を断れば、次にあの子が回されるのはおおよそ弟の元か相応の施設になる。
が、弟の元はまずあり得ない。
あいつは自分一人を生かすので精一杯なフリーターだ。
たとえ血迷っても親が弟の元にこの話を持ちかけるわけがない。
したとしたらイカれている。
どっちにしろ弟の方から断るだろうけど。
もう一つの施設に入れられるルートだけど、実際悪くない引き取り先ではあると思う。
そこであの子の世話をしてくれる人たちもあたしよりかは確実に役に立つ人間だろう。
預かる個々人の人柄までは分からないけど、基本的に安心できる場所のはず。
けど、それは大人からしたらの話。
子どもにとってその環境が喜ばしいものとは限らない。
バランスの良い栄養食が、ふかふかの布団が、似た境遇の友達が、子どもの面倒に小慣れた大人たちが、あの子の幸せを決定づけるとは限らない。
あたしだって偉そうなことは言えない。
あたしがあの子に幸せを保証してやれるわけでもない。
あたしがあの子を愛してやれるかも分からない。
ただ、あたしだけでもあの子を見捨てなかったら、あの子はほんの少しだけ大人を恨まなくて良くなるかもしれない。
自分が要らない子だと気付かなくて済むかもしれない。
〇
布団も一つしかないから、今日のところはあの子と寄り添いながら眠る。
実家からあの子の布団も送ってもらわなきゃ。
「寒くない?」
そう訊ねると、相変わらずの笑みで頷いた。
ずっと気を張っていたのか、今はすごく眠たい顔をしている。
結局今あの子がどういう状況に置かれているかの説明を、あたしはまだあの子にできずにいた。
こういうことは早く済ませておかないと、あたしも気持ちが悪いしあの子にも良いことがない。
これからはここがあの子の家になること。
これからはあたしがあの子の親になること。
父親があの子を迎えに来るのがいつになるのか分からないこと。
もしかしたら、そんな日はやって来ないかもしれないこと。
ずっと考えていたら隣から小さな寝息が聞こえてきた。
どっちにしろ、今夜はもう伝えられない。
かと言って、明日伝えられる自信もない。
先の苦労を考え出すと全く嫌になる。
あの子にとってはあたしじゃなくても同じだったんだろうな。
本当の両親が側に居ないのなら、あたしだろうが赤の他人だろうが同価値なんだろうな。
あたしがあの子を見過ごしたって、回され続けていればいつかは優しい人に引き止めてもらえる。
その頃にあの子の心がどれほど窶れているかは、また別の話だけど。
〇
こういう時、どうしたら良いんだろう。
夕方のスーパー、お菓子コーナーの棚の前であの子はじっと固まっている。
あたしが必要な商品を集め終え、重たいカゴを持ちながらあの子の元へ向かうと既にその状態だった。
あの子は膝を抱えるようにしゃがみ込み、ラムネ付きの指人形を物欲しそうに凝視している。
あたしにとっては指人形付きのラムネという感覚だけど。
横に来たあたしにも気付かないほどに魅了されている様子を見て、これは厄介なことになったと辟易してしまう。
指人形の一つや二つ、買ってやるのも親の役目だと言われるかもしれない。
あたしだって指人形の一つや二つ、買ってやりたい。
ただ、指人形の十や二十、極端に言えば百や二百となれば話は別。
今日の小さなお買い物を皮切りに、毎度あの子がこうして指人形を懇願していきたら、今後我が家が指人形だらけになってしまう。
なんてのは言い過ぎにしても、いつか要らなくなると分かっているものを買うのは、大人のあたしからすると複雑な気持ちだ。
もしもここであの子に我慢させることができたなら、あたしはずっと、あの子もゆくゆくは良かったと思うことができる。
大体おもちゃなら、兄や両親の家に預けられていた時に買ってもらったやつがうちにある。
あの子と一緒に我が家に迎え入れられた。
どういうつもりか分からないけど、あの子は頑なにそれらで遊ぼうとしない。
新しいおもちゃを買ってやるのは親の役目だろうけど、腑に落ちないところもあるから割り切れない。
子ども相手にこんな意地を張るなんて、しょうもない人間だと思われてしまうな。
自覚はあるから言わないで。
「欲しいの?」
立ったままの視線で見下ろし、座り込んで指人形付きのラムネを見つめるあの子に訊いてみる。
やっとあたしに気付いたあの子は、後ろめたさや申し訳なさ、もしかしたら恥ずかしささえ孕んだ瞳で小さく頷いた。
少し遠慮しているっぽいけど、あくまで正直に答えてくるところが可愛いと思い切れない。
あたしはそこで初めて腰を下ろし、あの子の目線になるべく近付く。
あの子は再び目線を目当ての商品に戻し、石のように動かなくなった。
どうやって買わない方向に持っていこうか考え、諭して諦めさせるか、頭から否定して我慢させるかなど、色々な御託が思い浮かぶ。
けど、それら全てが正しいとは思えず、結局生き残って口から出たのは考え得る中で一番弱々しい言葉だった。
「どうしても?」
今度は語気を強めて訊いてみる。
すると、さっきよりさらに小さく頷いた。
欲しい気持ちは覆らないらしい。
子どもというのは思い通りになってくれない。
別にここで買ってやらないこともできるし、それで泣き出すような子でもない。
だとしても、結局あたしの口から「ダメ」と拒んだり「また今度ね」と騙したりするような言葉も出てこなかった。
今はそういう気分になってしまったんだ。
「一個だけだからね」
そう言いながら、可愛いキャラクターが描かれた小さな箱を手に取った時、一緒に溜め息が漏れ出たのは自分でも無意識のことだった。
それがあの子にどう映ったのかは分からないけど、横目で見た顔は優しく綻んでいた。
〇
指人形が余程嬉しかったのか、買ってすぐに箱から中身を取り出し、帰路を辿る間もずっと指にはめて遊んでいた。
あの子の小さく短い指だとその指人形は緩く不安定で、家に着く頃にはどっかで落として失くしているんじゃないかと不安になる。
その場合、もう一回買ってやるつもりはない。
紛失は自己責任とさせてもらう。
ちなみに、指人形のキャラクターは何種類かあるらしく、あの子が指にはめて遊んでいるのは猫みたいなやつだった。
パッケージの中央をでっかく陣取っていたキャラクターだから、ハズレではなさそうだ。
あの子も嬉しそうにしているから、目星のキャラだったってことなのかな。
「欲しかったやつが出たの?」
無言の帰り道も退屈だし、ひとまず手近な質問で暇を埋める。
あの子の一人ままごとを聞き続けるのも悪くはないけど、あの子にも早くあたしに慣れてもらった方が良い。
が、返事がなかなか返ってこない。
答えやすい問いを投げたつもりだけど。
視線を下ろすと、あたしをじっと見つめたまま黙り込んでいる。
「……それが欲しかったキャラだったの?」
もう一度訊いてみるけど、反応は同じ。
どうやら質問の意図を理解していない。
さらに易しく訊いてみたところ、あの子はそもそも指人形のキャラクターが何種類もあることを知らなかったらしい。
単純にパッケージのキャラクターを気に入り、パッケージのキャラクターが手に入ると思ったのだと言う。
馬鹿な子だなあ。
「じゃあ、欲しかったのが出て良かったじゃん」
そう言うと、やっぱりいつも通り頷いて、また一人遊びを再開し出す。
今度は指人形に鼻歌を教えるつもりらしい。
大したハプニングも無ければ、笑い話にも昇華できない帰り道がやがて終わる。
玄関に入る時、あの子の手元を一瞥すると、変わらず猫のキャラクターが笑っていた。
後で聞いたら、犬だったけど。
〇
あの子を預かってから、あたしの母親から頻繁に連絡が来るようになった。
送られてくる内容は全部あの子の世話について。
ありがたい気持ちが半分、肩の荷が降りた前任者が高い位置からあれやこれやと指図してくるのはどうしたって腹が立つ。
この苛立ちは褒められたものではないにせよ、理解されないものでもないはずだ。
会社勤めに加えて保育園の送り迎えという新たなタスクは、そこまで余裕のなかった毎日をさらにきつく絞めつけてくる。
日頃の家事はあの子が加わった分、取られる時間も増えた。
特に食事はあの子がいる手前、適当に済ませるわけにもいかない。
考えることや気を回すことが増え、一人で休まる時間が削れていく。
共に長く過ごすほどに、あの子はデメリットでしかないのだと気付かされる。
そんな中でこの辛さから逃げた人に安全地帯から好き放題言われると、疲労と鬱憤でどうにかなりそうだった。
あの子を引き取ってから一ヶ月が過ぎた頃。
丁度大きな仕事が一段落つき、これから少しずつこの子の世話に専念できると心にも余裕ができかけていた。
あの子を寝かしつけ、家事をあらかた終え、やっと風呂に入れるという時に、突然ケータイがうるさく喚く。
受話器の向こうからはテレビの笑い声が薄く紛れ込んできていた。
「あんた、本当にちゃんとできてるんでしょうね?」
久しぶりの一言を軽く済ませ、母親は早速本題に入ってきた。
そもそも一昨日も電話してきたんだから、久しぶりでもない。
「ちゃんと髪もといてあげるのよ?」
「分かってるって……」
疲れ切った体にやたら気合の入った母親の声は相当堪える。
正直怒鳴ってしまいたいくらい鬱陶しいけど、搾りかすのような自制心で何とか抑え込む。
「あんまり長風呂させないようにね」
その話は一昨日されたばかりだ。
延々と続く子育て講座に何度も溜め息が出る。
いっそ母親が溜め息に気付いてくれたら良いのだけど、それさえ届かないらしい。
腹が立つことこの上ない。
もう風呂に入りたい。
眠りたい。
そんな最中、通話の向こうの声も朧になる中で、ふと飛び込んできた言葉に全部がどうでも良くなった。
ぎりぎりで相槌を打つあたしにはこれ以上の長話は限界だったのもあるだろう。
けど、どの道そこで吹っ切れていたはずだ。
それほどまでに、今のあたしには耐えられない言葉だった。
「今度、うちに連れてきなさいよ。その時に色々と教えてあげるし、お父さんもあの子に会いたがってるから。親孝行だと思ってさ」
血管が切れる感覚がした。
流れ込んでくる声の一つ一つがあまりにも気持ちが悪くて堪らない。
「年金暮らしのそっちとは違うから。恩着せがましいのよ。あんたたちが見捨てた子だってこと、忘れないでよ」
せき止められていた乱暴な言葉が、決壊した喉の奥から溢れ出る。
母親は酷く戸惑いながら訥々とした声は、あたしに何も伝わってこなかった。
何となく被害者面していることだけは分かる。
狼狽える様子を右耳で受け止め、本当にこの人はあたしの我慢に何も気付いていなかったんだなと呆れてしまう。
母親の声が次第に震え出し、遂には泣き出した。
その声を聞いてもやってしまったという後悔はなく、怒りばかりが褪めてしまったあたしは「もう連絡してこなくて良いから」と、一言だけ残して通話を切る。
しばらくケータイを握ったまま立ち尽くし、一つ舌打ちを吐く。
別に溜飲が下がったわけでもない。
親を泣かせた罪悪感もない。
ただただ一つを失った感覚だけが、心のど真ん中で気持ち悪くへばりつく。
後ろを振り返ると、あたしに残されたたった一つが布団を頭まで被って寝ていた。
いつもはこんな寝方していない。
「あんた、起きてるでしょ」
掛け布団がわざとらしく動く。
子どもの頃はこれでバレないと思っていたんだよね。
けど、ことごとく見抜かれるから母親はすごい人なんだと思った。
あたしが馬鹿なだけだったんだ。
あたしが賢しくなっただけなんだ。
「……電話、うるさかったよね。ごめんね」
そう言って洗面所へと移動する。
風呂に入っている時、隣の洗面所の引き戸が開く音がして、あの子がこっそり入ってきていた。
本人はそれもバレていないつもりなんだろうけど、いつかあの子も大人は賢しいと身をもって知る日が来る。
あたしの様子を窺いに来たのか、何にしても夜更かしはいけない。
「早く寝な」
風呂場から扉越しに言うと、引き戸がゆっくりと閉まる音が聞こえる。
それがやけに可笑しくて、初めて心の底からあの子を可愛いと思えた。
それからしばらくして、あたしたちは1LDKの部屋に引っ越した。
大人の電話に、1K子ども付きは向いていない。
〇
新しい我が家に移り、保育園が遠くなった代わりに近くのスーパーが何軒か増えた。
家賃が高くなった分、いくつものスーパーを使いこなして節約していかなくてはならない。
そういえば、指人形を買ってあげたあの一度以降、あの子がお菓子コーナーの棚の前で立ち止まることはなかった。
買い物中は犬の指人形で遊びながらあたしの横を付いてくる。
こっちとしては苦労しないけど、覚悟もしていただけに少し拍子抜けしてしまった。
仕事の方は相変わらずしんどい毎日だ。
あの子の送り迎えがあるので残業なんてできない。
それが周りの社員にはあまり良く思われていないことにも気付いている。
事情は会社にも話しているとはいえ、それを百パーセント理解してくれる人はいない。
他人事の苦労とは外からは軽く見られるもので「子どもを他の親戚に任せられないの?」とか「残業から逃げる理由にしてない?」とか、とやかく言われることばかりだった。
そういうことを言われる度に、あたしも部外者だったらこんな文句を言っていたに違いないと勝手に反省している。
もちろん腹も立てるけどね。
子持ちの社員を配慮してくれる部署に変えてもらえるよう、上司に申請しようかと考え出している。
それがダメなら思い切って会社ごと変えても良い。
思えばあたしも随分とあの子の母親らしくなってしまった。
あの子一人を諦めれば、他の全部が今まで通りで済んだのに。
あの子との毎日がいつ終わるかも分からないのに。
今日は日曜日、あたしたちはショッピングモールに来ていた。
仕事と家事の疲れを取るためにも本当は夕方まで寝たい気持ちもあるけど、あの子に水着を買ってあげなきゃならないんだから仕方がない。
「どれが良いの?」
保育園でプールが始まるからそのための水着だ。
基本的に条件は無いらしいので本人の好きなやつを選ばせる。
金を出す側ゆえについつい値札に目が行ってしまう。
見ていて思ったのは子どもの水着であっても侮れないということ。
というか、このご時世子ども用品は大体高い。
質が上がるのは良いことだけど、世の親にとっては良いことばかりじゃないだろうな。
どうせ高いならあの子が気に入ったやつを買うのが一番だ。
そうしてあの子があたしの元に持ってきたのは、圧倒的にダサいデザインのものだった。
「変えてきな」
何をどうして気に入ったのか、この店の中でも一際輝いてダサい。
作った本人も完成した水着に首を傾げたことだろう。
こんなものを買うくらいなら、指人形をいっぱい買ってやった方がまだマシだ。
いや、それも嫌だけど。
水着もダサさを理解しているのか、価格だけは弁えている。
少し落ち込んだ顔で水着を戻しに行くあの子の背中が、やけに哀愁を放っていた。
口答えしないのは楽だけど、そんな顔をされると後ろめたくもなってくる。
きっと後悔するから、今はあたしを恨んで変えてきなさい。
そして、後でちゃんと感謝しなさい。
しばらくして新たに検閲に運ばれてきたのは、何とも素晴らしい普っ通の水着だった。
フリルが可愛らしいパステルグリーンのワンピースタイプだ。
値段はそれなりに張るけど、さっきの水着と比べたら余程価値のある出費だろう。
ちゃんとしたのも選べるのね。
「良いじゃん。絶対こっちの方が良いよ」
あの子があたしの検閲に合わせて選んできた可能性もあったし、二番目に選ばれたこの水着があの子にとって二番手どころか、本当は最下位だという可能性もあった。
結局はあの子にしか分からないことだ。
けど、今あの子が少し照れ臭そうに笑っているのを見ると、決してこの水着が嫌なわけではないように思える。
本音がバレて恥ずかしい、みたいな表情をしている。
「じゃあ、これ買うね」
小さな水着を受け取ってレジに向かう。
すると、あの子は服の裾を引っ張ってあたしを引き止めた。
もしかして、やっぱりさっきのダサ水着の方が良いとか言うんじゃないでしょうね。
しかし、あの子が指を差して示した方向は忌々しい水着ではなく、大人用の水着コーナーが構えていた。
「……? 何?」
何が言いたいのか全く分からないけど、できる限り子どもの突飛な思考に合わせてみる。
大人用の水着が何だと言うのか。
あの子が欲しがっている、わけじゃない。
でも、大人の水着も見てみたいってこと?
何のために?
大きくなった時に着たいとか、そういうことかな。
けど、それもずっと先の話だ。
どっちかと言えば、あたしの方が見たい気持ちがあるけど。
「……あたしの水着?」
恐る恐るそう呟くと、あの子は静かに頷いた。
何だか色々な思いが込み上げてきて、何を考えたら良いのか分からなくなる。
けど、明確に分かるのは、あたしに水着は必要ないということ。
「今日はあんたの水着を買いに来たの。あたしのは要らないのよ」
それでも、あの子はあたしを見上げたまま向こうを指差して動かない。
何でこんな時だけ頑固なのよ。
「……見るだけね」
もっと利己的なわがままだったら、跳ね除けるのも簡単だったのに。
別にあたしは泳ぎになんて行きたくないし、行ったところであの子のお守りは付いて回る。
そう思うと、あたしが水着を買って利があるのはあの子だけで、案外利己的なわがままに変わりないのかもしれない。
〇
梅雨が明けて夏が始まるという時に、義姉に呼び出された。
以前の母親との電話で起こした反抗に対し、母親が兄へあたしをどうにかしてくれと頼んだらしい。
兄が義姉にそのことを話したことで、彼女からあたしに連絡が来た。
向こうが指定した喫茶店でアイスココアを飲みながら、彼女の到着を待っていた。
「あの子はどうしてるの?」
遅れてやってきた義姉はアイスカフェオレを注文した後、そう切り出した。
話をするだけならファミレスでドリンクバーを飲むだけでも良かったけど、義姉の面倒なところは何事にもこだわりを出そうとする点だ。
「家で留守番させてます」
現在時刻は三時過ぎ、あの子はおやつに置いていった貰い物のバウムクーヘンを食べていることだろう。
しかし、あたしの答えに義姉は難色を示し眉を顰める。
「大丈夫なの? 一人だと危ないし、可哀想じゃない?」
やたらとムカつく顔で放った言葉はあたしの内心を沸々と煮やし始めた。
あの子は一人でも危険なことはない。
危ない物は全部手の届かないところに移動させているし、普段から触らないように言い聞かせている。
それに、日頃あの子が家ですることは大抵決まっている。
長い長い昼寝をするか、慎ましいままごとをするか。
ままごとはあたしがあの子とは別の部屋にいると、母親を模した声がリビングから微かに聞こえてくる。
あたしの前では恥ずかしいのか、部屋に入ってきたあたしを見るなりままごとも中断する。
その様子を特別可愛いとも思わないけど、同じ指人形と毎日遊び続ける姿はなんだか痛々しく見えてしまう。
「子どもの世話が大変なのは分かるけど、お義母さんに当たっちゃダメだよ」
別のことを考えていて義姉の話を聞いていなかったけど、偉そうな口を利かれたことだけは分かった。
けど、また口答えすると面倒事が増えそうだから、今回は何も言わない。
大人しく頷いとけば良いや。
どうせ分かり切ったことしか言ってくれない。
店員がアイスカフェオレを運んできて、受け取ったそれを早速飲みながら義姉は話を続けた。
「まあ、辛いことが多いのも分かるよ。仕事も家事も育児も両立させるなんて大変だしね。私と違って女手一つだし、そりゃしんどいよね」
さっきまで説教垂れてたかと思えば、今度はこっちの肩を持つようなことを言い出した。
一体何が言いたいのか分からない。
そうして、義姉の話を聞き続けていると、おおよそ彼女の本意が読めてきた。
そこからは自分の毎日の子育てを通して感じる、旦那や娘への矮小な愚痴ばかりだった。
本当はあたしと母親の間にできた軋轢なんてどうでも良いんだ。
直す気も埋める気も更々ないらしい。
ただ、あたしを一児の母という同志として、自分の抱える不満不平に頷いてほしいだけなんだろう。
いや、不満を言っているかも怪しい。
聞いてみれば「旦那が」とか「家のローンが」とか、不満に見せかけた自慢話なのかもしれない。
考え過ぎと思われるかもしれない。
けど、一度考え出したら義姉のためにここに来たこと自体馬鹿らしく思えてくる。
それでも我慢はできた。
鼻を二、三発殴ってやりたいけど、母親の二の舞みたくなるのも面倒だから、頷くことだけに集中していた。
「でも、私は十分恵まれてるし、幸せなんだけどね」
その一言で、全部が本当にどうでも良くなった。
良い話にオチをつけて賢者タイムみたいな顔をしてそんなことを言い腐った義姉に、あたしはついに我慢できなかった。
新しい話に移ろうとする義姉に構わず、荷物を持って席を立つ。
突然の行動に戸惑う義姉の面を見下しながら、テーブルに千円札を置いて立ち去る。
「夕飯の支度があるので、すみませんけど失礼しますね。もし子育てが本当に辛いなら、カウンセリングに行かれた方が良いですよ」
頷いてほしいだけなら、あたしじゃなくてもできるでしょ。
義姉がどんな顔であたしの背中を見送っていたかは知るはずもないけど、きっと腹の立つ間抜けな顔をしていたに違いない。
そう決めつけないと、この気持ちのやり場がない。
正直、どうしてあの一言に腹が立ったのか自分でもよく分からなかった。
あの子が居なかったらただただくだらねえセリフだと聞き流せていたはずなのに。
早足で駅へ向かい、あの子が待つ我が家へ戻る。
こんなことに電車賃を掛けさせられたのもアホらしい。
せめて暴力を振るったり暴言を吐いたりしなかっただけでも、誰かに褒めてもらいたいくらいだ。
家に帰ると、あの子はいつものように一人で遊んでいた。
指人形と何を話していたのかは分からないけど、やっぱりあたしには聞かれたくない会話らしい。
「今からご飯作るから、ちょっと待ってて」
頷いて答えたあの子は指人形と寝室へ移動する。
閉じた扉の向こうから再びままごとの声が微かに聞こえてくる。
サラダ用のきゅうりを輪切りに刻みながら、包丁がまな板を叩く音がやけに心地良い。
寝室から漏れる声からすると、どうやらあの子も料理をしているようだ。
そっか。
義姉の言葉に腹が立ったのはそういうことなんだ。
あの子と居られて、あたしは今幸せなんだ。
あたしだって、幸せなんだ。
〇
お盆休みに入り、あたしにも久しぶりの長期休暇が訪れる。
一週間程度の休息でも仕事のことを考えなくて良いというのはありがたい。
とはいえ、思い切って毎日昼まで寝る、なんてこともできない。
あの子がいる以上、あたしには寝坊するという選択肢が端からない。
育ちが良いあの子は朝がとても早い。
それだけなら良いけど、自分の起床とともに漏れなくあたしも揺すり起こしてくる。
あの子が来て以来、平日休日関係なしに毎日三食摂る日々だ。
朝のNHKでやってる変なダンスも覚えてしまった。
そういうわけで健康的な毎日を送るようになったあたしは、本日あの子と一緒に市民プールに来ていた。
あの子の水着を買った時、結局一緒に買ってしまった水着を腐らせるのも癪だし。
今後ぶくぶく太って着られなくなったら、せっかくあの子とお揃いにしたパステルグリーンのビキニがもったいない。
何より、あの子があたしとプールに行きたいとせがんできた。
今までのわがままで一番推しが強かったもんだから、勢いに圧倒されてしまった。
「俺、要る?」
プールサイドの一角にレジャーシートを敷き終え、今はあの子に日焼け止めを塗ってあげている。
今回あたしがしんどくなった時のためのベンチ保護者として、弟を連行した。
それにあたしは美人な方だし、その上シンママなんて男が群がってくる危険性が非常に高い。
ムカつくことにあたしより痩せているこいつじゃ頼りないけど、居ないよりはマシなはずだ。
「大丈夫。本当にナンパが来ちゃったら、この子を連れて逃げて良いから」
「暑い……」
どうせやることなんかないんだから、姉に黙って協力しときなさいよ。
昼まで寝て、夜中までAV見るだけの休日よりずっと有意義でしょ。
「じゃあ、あたしたち遊んでくるから荷物見てて」
あの子の手を引きながら、渋い顔で睨みつけてくる弟にメンチを切り返す。
そんなあたしとは対照的に、あの子は弟に向かって小さな手を振る。
照れ臭いことが丸見えの弟は不細工な笑顔で手を振り返した。
分かり切っていたけど、今の時期のプールは当然人でごった返している。
特に、幼児用プールは他のプールに比べて小さいので余計に狭苦しく感じる。
ここに来る途中、浮き輪とか買っておくべきだったと後悔したけど、これだけ狭かったら浮き輪なんて浮かべる隙間もない。
「こりゃ泳ぐのも一苦労だな」
しかし、来たからには何とかして楽しまないと。
とりあえずプールの縁に近寄り、水を手に掬ってあの子の体に軽くかける。
急に冷水に浸かるのは危険だからと思って、体を慣らすためにしたことだった。
けど、触って初めて気付いたのは、浸かる人の多さと日差しの強さでプールの水は良い感じにぬるま湯になっていたこと。
ここを泳いでもあんまり気持ち良くなさそう。
むしろ雑菌塗れな感じがして、思わず顔を顰めてしまった。
一方で、あの子は突然水を浴びせられたのが遊びの始まりだと思ったのか、あたしの顔に水をかけてきた。
雑菌塗れとか考えた途端にこれだ。
そんなことはお構いなしにあの子は嬉しそうに次々と水をかけてくる。
腹が立つけど、喜べているならそれで良いや。
どうせあの子のために来た場所だ。
お返しに大人の手の大きさを恥ずかしげもなく使い、一度に大量の水をお見舞いしてやる。
拭われた顔には満面の笑みが浮かび、滴る雫が日の光を反射してとても綺麗だと思った。
「ようし。中に入ろう」
そう言ってあの子を抱き上げ、人波を縫ってプールの中心へ向かう。
一瞬できた隙間にすかさず腰を下ろし、あの子を着水させる。
水嵩は直立したあの子の肩より低いくらいで、大勢に揉まれてできた波はまだか弱いあの子の体幹を崩すには十分だった。
ふらついたあの子はあたしに抱き着くように寄りかかり、つま先を立てながら屈んでバランスを保っていた姿勢が尻餅を着く。
「わあ、ちょっともう」
胸に飛び込んできたあの子に笑いながら目を遣ると、水死体みたいに後頭部だけが水面から出ている。
転んだ拍子に顔が水中に沈んでしまっていた。
慌ててあの子を起こし、濡れた顔を拭う。
「大丈夫? 水飲んでない?」
肝を冷やしたあたしとは対照的に、あの子はいつもの澄んだ笑顔で頷いた。
そこからは周りに気を遣いながら、また慎ましい水の掛け合いだ。
せめて水に浮くおもちゃとか水鉄砲とか、色々持ってきたらもう少し遊び様もあったんだろうな。
あの子が転けたこともあるし、やっぱり浮き輪も必要だったかも。
しばらく遊んでいると、プール内の音声放送で休憩の指示がかかり、一度レジャーシートまで戻る。
丁度この子も疲れてきた頃だろうし、良いタイミングだ。
あたしたちが遊んでいる間、弟はずっとケータイを眺めていた。
「えらい楽しそうだな」
戻ってきたあたしたちに気付くなり、生意気な顔でそう愚痴を零してきた。
あの子はそんな嫌味を気にも留めず、弟にまた手を振った。
二回目は面倒くさいのか、弟は無表情で手を振り返した。
「タオル取って」
ラップタオルで体を拭き、体を冷やさないようにあの子の肩に巻きつける。
「水筒取って」
水筒には麦茶を入れて持ってきているので、それを一杯注いで飲ませる。
さっきので相当疲れたのかあたしの膝に頭を乗せ、気が付くと穏やかな顔で眠っていた。
十分ほど経ち、プールでの遊泳が再開される。
周りが続々と移動を始めるが、あたしたちはあの子の寝顔を眺め続けた。
「本当、楽しそうだったな」
改めて、弟があの子を見ながら言う。
その言葉に素直に頷いて、さっきのあの子の笑顔を反芻した。
「あんなに楽しそうな顔、初めて見たかも」
あの子があたしのところに来てから、雲のように優しく脆く綻んだ笑顔は何度も見てきた。
けど、声を上げてはしゃいで、飛び跳ねたり手を叩いたり、そういう風に喜ぶ姿を今日まで見れていなかった。
そんな姿を見ようとも思わなかったし、そんな姿を見れていないことに微塵も違和感を感じなかった。
勝手に、あの子は大人しくて大人びていて、たまに小生意気に思えるくらい賢いのだと決めつけていたのかもしれない。
そんなわけないのに。
他の家の子と何ら変わらない、普通の子どもなのに。
「うちの子は」なんて言えるほどあたしはあの子以外を知らないのに。
あの子が笑ったらこんなに綺麗だったなんて知らなかったんだ。
「まあ、この子もそうだけど、姉ちゃんも同じくらい楽しそうだったよ」
弟の澄まし顔に腹が立ったけど、言われてみればそれも発見だった。
あたしもあんなに笑ったのはいつ振りだったろう。
あの子に会う前だってあんなに楽しかったことなかった。
膝の上に浮かぶ寝顔がいつもとは違って見えた。
そんな心の声がいつのまにか溢れていたらしい。
「お互い救われてんだな」
そう言いながら弟はケータイを置き、傍らの指人形を摘まみ取る。
暇潰しに手に取ったのだろうが、およそおもちゃに向けるような目付きじゃない。
「ちゃんとこういうの買ってやってんだな」
あたしはあの子のまだ濡れた頭を撫でながら「それだけよ」と、答える。
「ケチだなあ」
「だって、別に欲しがらないんだもん」
そう言い返すと、疑るような、幻滅するような視線を送ってくる。
「本当だからね? それに前の家から持ってきたおもちゃもあるのに、それに触ろうともしないし」
疑われっ放しも癪だから弁明を試みてそう言うと、何故か弟はそれには頷いた。
「あー、それは何となく分かるけど」
「は? 何が」
「嫌いな大人から貰ったおもちゃなんて気持ち悪いだろ」
「…………」
何よそれ、と思ったけど、あながち間違っていないのかもしれない。
あの子が祖父母やあたしの両親、兄夫婦たちのことを嫌いや気持ち悪いとまで思っているかは分からない。
けど、あの子があの埃被ったおもちゃたちに呪いめいたものを感じている可能性も否定できなかった。
子どもなんて何考えてんのか分からないんだから。
「要らないなら売れば? 最近のおもちゃなら高く売れるだろ」
「……いいわよ、いつか必要になるかもしれないし」
「あっそ」と、指人形を置きながら立ち上がる。
「どっか行くの?」
「ちょっと泳いでくる。このままだと熱射病になる」
離れていく細い背中に軽い提案を投げた。
「この子が起きたら、あんたも一緒に遊ぶ?」
弟は振り返りながら首を横に振り、案の定の答えを返してきた。
「いい。子ども嫌いだから」
兄が結婚する時の会食で、弟は険しい顔でずっとあの子に怯えていた。
知らない人との食事も子どもがいる空間も苦手な彼にとって、あの場所は地獄だったろう。
そう思うと、弟が今日あたしたちに付き合ってくれたことに感謝しなければならない。
〇
秋口にあの子の祖父母から連絡が来た。
連絡だけは送ってくる親戚だ。
要件はあの子にランドセルを買ってあげたいとのこと。
あの子も来年から小学生になる。
忘れていたけどそろそろランドセルを買わなくちゃいけない。
そう考えていた矢先、向こうからの電話があり、何回か無視したけどしつこさに負けてしまった。
そうして通話を始めるや否や、こっちの丁寧な挨拶も聞き終える前にべらべらと捲し立てて喋り出す。
「孫のためだし、買ってあげたくて」
笑い混じりの声で照れ臭そうに言うじじいに「はあ」と適当な相槌を打つ。
腹が立たないはずがない。
今まで色々なことに腹を立ててきたあたしだけど、これはなかなか上位に食い込んでくる。
何が孫のためだ。
それなら生活ごと、あの子に懸けてみろってんだよ。
良いとこ取りみたいに金で解決できることばかり関わってきやがって。
こっちが感謝するとでも思ったか?
実際、感謝するだろうけど。
今あたしは猛烈に悩んでいた。
あの子が小学校に上がる以上、もちろんランドセルの購入も免れない。
しかし、困ったことにランドセルというのはお高いのだ。
あたしの頃がどうだったかなんて覚えていないけど、間違いなく価格は高騰している。
六年間安心して使うなら、最低でも五万円は必要。
高級ブランドのものだと十万円以上の値札を当たり前のようにぶら下げていやがる。
現状、裕福な暮らしでもなければ貯金にゆとりがあるわけでもない。
そんな中でのランドセル購入はあまりに大きな出費だ。
家計簿を睨んで頭を抱えていたその時、突然その出費が浮くという話を持ちかけられた。
あの人たちに恩を着せられるのは吐きたくなるほどムカつくけど、実際メリットの方が多い。
情けない金銭問題と情けない意地っ張りがせめぎ合い、見るに堪えない葛藤があたしの中で暴れ回る。
「今度の日曜が丁度空いてるから、みんなでランドセル見に行こう」
こっちの話もろくに聞かず、その上予定まで勝手に組んできた。
別に空いてるから良いけど。
結局お金の誘惑に負けて、今週の日曜日にあの子の祖父母と一緒に買い物をすることになってしまった。
正直、一緒にいる時間も相当地獄だ。
何を話せば良いのか。
通話を切り、思わず溜め息を吐く。
相変わらず指人形でがちゃがちゃ遊んでいるあの子へ向き直り、日曜日の予定を伝える。
「次の日曜日さ、あんたのおじいちゃんおばあちゃんと一緒にランドセル買いに行くから。せっかくだから、高くて良いやつ買ってもらおう」
ままごとを中断して頷いたあの子だったけど、いつもより小さい頷きが少し気になった。
そして、指人形を床に置いたあの子はあたしに勢いよく抱き着いてくる。
「どうしたの、いきなり」
何も答えないけど、腰に回した両手は一向に離そうとせず、それ以上問い質す気にもなれなかった。
小さな頭を撫でて、時計の刻む音に耳を傾け続ける。
後から思えば、想像するに容易いことだった。
〇
日曜日がやってきて、向こうが指定してきたショッピングモールまで電車に乗って向かう。
本当はあたしたちの地元で済ませたかったけど、年寄りということを理由に県を跨いだ向こうの地元まで移動する羽目になった。
ランドセルには及ばずとも、電車賃も馬鹿にならない。
改札を抜けると、案内表示板の前で仲睦まじく談笑している老夫婦を見つける。
近付くと向こうもこちらに気付き、祖母の方が元気いっぱいに手を振った。
あの子に目線を合わすように腰を下ろし、猫撫で声で笑いかける。
「こんにちは。久しぶりだねえ」
化けの皮が剥がれる前の魔女みたいだと思いながら、あの子を見るとあたしの足に引っ付きながら会釈を返した。
緊張しているのか、はたまた怯えているのか。
もしくはそのどちらもか。
祖父の方も中腰で目線を下げ、デレついた表情で話しかける。
「前より大きくなったね」
そう言ってあの子の頭に手を伸ばす。
あの子は思わずビクついて二人との間にさらに距離を取る。
その姿を見た二人は「まだ緊張してるのかな」と、機嫌を損ねずへらへら笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
ちっとも動く気配がない二人に呆れつつ、あたしはあの子の手を繋いだまま歩き出す。
しかし、すぐにその足は止められた。
「ああ、その前に軽くご飯にしよう」
既に昼時だから、確かに昼食にするのも良いだろう。
本題はランドセルだけど、少しでも長く孫と一緒に居たい気持ちも分かる。
もちろんあたしは早く帰りたいけど。
ファミレスに到着し、ボックス席に案内される。
あたしとあの子が隣同士に、祖父母の二人は向かいに座った。
メニューを開き、色取り取りの料理にあの子の目が輝く。
そういえば、あの子とファミレスに来たのは初めてかもしれない。
何やかんやで自炊を心掛けていたから、こういうところであの子とご飯を食べるのは新鮮だ。
あの子がうちに来る前はあたしも外食ばかりだったのに。
とは言え、うちの両親とか目の前にいるあの子の祖父母があの子を外食に連れて行ったりしていただろうし、あの子にとっての初外食でもないから、さして記念日のように思う意味もない。
あの子は子どもらしくお子様ランチを頼み、あたしはランチのアボカドサラダで手頃に済ませる。
この会計を誰が払うか分からないので、ひとまず安価なもので逃げておこう。
祖父母の二人もなんか好きなのを注文し、料理の到着を待つ。
「ランドセルはどういうのが良いかな」
祖父が一人で楽しそうに呟いた。
祖母もそれに対し「そうねえ」と、ご機嫌そうに相槌を打つ。
「あんたはどういうのが良い?」
あたしはあの子に訊ねる。
あの子が何か言いかけたが、その前に「女の子なら赤が良いんじゃないのか?」と、何も分かっていない祖父が割って入ってきた。
すると、祖母の方も「そうよねえ。そうしましょうか」と、話を進めようとする。
このままではまずいと、あたしは頑張って微笑みながら、勝手に盛り上がるアホ夫婦を宥める。
「まあまあ。今は色んな色がありますから、この子が好きなのを選ばせてあげた方が良いですよ」
すると、さも自分の発言がなかったことになったかのように、祖母は調子良く意見を変えてきた。
「そうよねえ。好きなのを選んだ方が良いわよね」
あたしも老いたらこうなってしまうのか?
何とも労しいな。
しばらくして料理が到着し、あたしとあの子は手を合わせて食べ始める。
その光景を見て、祖母は「仲良しねえ」と微笑んだ。
そこからは大人たちの世間話で食卓が埋まる。
生活補助の話やそれに関わるお金の話、息子の現在と借金返済の進捗など、ここでするべきではない話も無神経な口から垂れ流れてくる。
あの子は黙々と旗の刺さったチキンライスを食べているけど、つまらない食事だっただろう。
時々出てくる父親の名前に反応して、祖父母の顔を一瞥する。
あたしはその姿に耐えられなくて、話題を無理矢理に変える。
「この間、この子とプールに行ったんです。泳ぎが上手くてびっくりしましたよ」
そう言って頭を撫でてやると、照れ臭そうに俯いた。
「保育園でも足が速くて褒められたんですって。運動神経良いみたいで」
すると、先ほどまで辛気臭い話で勝手に落ち込んでいた祖父母の表情も、皺だらけの笑顔に豹変する。
なんとかあの子にとってつまらない外食は避けられたようだ。
機嫌が良くなった祖父はさらに質問を投げる。
「保育園は楽しい?」
あの子は笑いはせず、黙って頷きを返す。
すると、祖母が顔をあの子に近付けて、甘ったるい声と笑みで訊ねた。
「何が一番楽しい?」
別に難しくもない、普通の質問だった。
どちらかと言えば、答えやすくて楽しい部類の問いのはずだった。
この質問であの子の口がぴたりと閉じるとは、あたしだって思っていなかった。
突然、魔女に呪いをかけられたかのように動かなくなり、苦しさを堪えるような表情で俯いた。
その姿にあたしたち大人はみっともなく狼狽える。
「どうしたの?」
あたしが訊ねると、あの子は何も答えずにあたしの袖を掴むだけだった。
何だろう。
体調が悪いのかとも考え、あの子の食べかけのプレートに目を遣る。
いつもに比べて、食事も進んでいないようだ。
普段は好き嫌いもせず、たくさん食べる子なのに。
顔色も少し悪いようだし、とりあえずトイレに連れて行こう。
「すみません、ちょっとお手洗いに」
そう言って、あの子を抱きかかえて席を立つ。
祖父母も不安げな顔を浮かべて頷いた。
小走りで、かつ、腕の中のあの子があまり揺れないようにトイレへ駆け込む。
到着したところであの子を下ろし、扉の鍵を閉める。
「お腹痛い? それとも吐きそう?」
便座に座らずに膝を突いて顔を便器に向けたのを見て、答えを待たず背中を摩ってやる。
そうして、すぐにあの子の小さな口から、消化され切っていないチキンライスが胃液を纏って流れ出てきた。
見ているだけでも苦しそうだった。
食べたものを全て出し切る頃には、すっかり涙目になっていた。
実際、涙も流れている。
あの子が落ち着くまで、ひたすら背中を摩りながら「偉いね」「頑張ったね」と繰り返す。
他に何かしてあげられないか考えるけど、結局何も出てきやしなかった。
やがて吐き気も治まり、トイレットペーパーで汚れた口周りを拭き取る。
水場で口を濯がせ、ハンカチで濡れた目と頬を拭った。
そうして、一つ訊ねる。
「おじいちゃんとおばあちゃんのこと、苦手?」
少し間を置いて、やがて頷きが返ってくる。
「そっか」
まだ少し潤んだ目尻を指で拭う。
頬に添えた手に柔く温い感触が伝ってきた。
「帰ろうか」
トイレから二人の元へ戻り、何よりも先に頭を下げた。
あの子の体調が崩れないと話し、今日はお開きにしてもらう。
二人とも残念そうにしていたけど、仕方ないと惜しむように笑った。
ファミレスを出た後、二人は駅まで見送ってくれ、あたしたちが改札を抜けてからも手を振り続けていた。
その後、改めてあたしだけが向こうの家へ出向き、ランドセルの件を話し合った。
ランドセルはあたしたちで購入するということ。
もちろんお金もこちらだけで支払うということ。
そう決めた理由が、あの子が祖父母のことを苦手に思っているからということ。
分かってはいたけど、すんなり納得してはもらえなかった。
孫に苦手と思われていることを知り、二人は当然ショックだっただろう。
苦手ならば余計に好きになってほしいと、もっと一緒に居る機会を増やそうとも提案してきた。
その気持ちも分かる。
けど、それで追い詰められていくのはあの子なんだ。
だから、今は少しだけ待ってほしい。
あの子が慣れるまで我慢してほしい。
あの二人だって他人事じゃない。
あの子に少なからず我慢をさせた結果が、あたしとあの子の今の生活なんだから。
何より、定期的に会うことを約束させようとはするものの、もう一度一緒に暮らそうという提案は二人の口から一向に出てこなかったことが、あたしに譲歩するという選択を無くさせた。
子育てするには難しい年齢ということも分かっている。
年金だけでは子どもを大人にするだけの資金になり得ないことも理解している。
二人があたしのことをどう思っているかは知らない。
善意を賃金に雇われてくれたシッターだと思っているのか、自分たちから孫を引き離そうとする敵だと思っているのか。
何でも良いけど、あのファミレスであの子が掴んだのはあたしだったんだ。
いくら文句を言われようと、あたしは動かない。
だから、ひたすら頭を下げていた。
貶す言葉もただの悪口もたくさん頭に浮かぶけど、歯を食い縛ってそれらを全部口の中で閉じ込めた。
誠意だけで何とかなるなら、それが一番だと思った。
二人はやっぱり最後まで納得のいかない顔をしていた。
叱られるようなことを言われた気もするし、帰りの電車も良い気分で揺られていたわけではない。
きっとこの先こんなことばかりなんだろう。
いくらあの子のためとは言え、先の苦労に溜め息も漏れ出てしまう。
けど、心の中で唱えた「あの子のため」という言葉がやけに心地良くて、何だか笑えた。
〇
「家の中ではランドセルやめなさい」
晩ご飯を食べ終え、あたしが食器を洗っていると、姿見の前であの子はランドセルを背負ってポーズを決めている。
相当嬉しかったのか、この間ショッピングモールで買ってからというもの、ずっとこんな調子だ。
気持ちは分かるけど、入学前に汚したり傷つけたりでもしたら大変だ。
何より高級品だし。
あの子が選んだのは所々に花や蝶の模様が刺繍された、綺麗な青色のランドセルだった。
女の子が青色はどうなんだろうとも思ったけど、その考えも古いんだろうなとすぐに改める。
何よりあの子が気に入っているんだからそれで良いんだ。
背負った感じも似合っているし、収納や強度などの機能面も十分らしい。
その分、並のものより値は張った。
でもまあ、一生に一度の買い物だしね。
うちの母親はこれを三回も買ったのか。
「壊しても知らないからね」
少し低い声で脅かすと、慌てた顔でランドセルを下ろし寝室へと戻しに行く。
なんか分かりやすくなってきたな。
それとも、あたしが分かってきたのだろうか。
ふと時計を見ると、短針は九時に近付いてきていた。
そろそろ風呂に入らないと。
丁度皿を洗い終えたあたしは、寝室から出てきたあの子を抱き上げる。
抱き上げる意味はないけど、無意味なことをしたくなるのは子どもだけじゃない。
「お風呂、入ろっか」
腕の中であの子が頷く。
あたしが頭を洗っている間、既に全身を洗い終えたあの子は湯船に浸かりながらあたしに向けて息を吹きかけてきた。
この前、あたしがあの子にやったいたずらを真似ているのだろう。
「さぶっ」と、あたしが身震いすると、あの子は嬉しそうに綻ぶ。
あたしも体の隅々まで洗い終え、湯船に浸かる。
給湯温度はあの子がのぼせないように温めに設定している。
浴槽に凭れて息を深く吐くと、あの子はあたしの胸に凭れかかって同じように息を吐いた。
少し思いついたあたしは手で水鉄砲を作り、さっきの仕返しに気の抜けた表情のあの子へ水を発射する。
驚いて顔を拭うあの子を見て機嫌良く笑う。
あの子もあたしの方へ振り返り、愉快そうに笑顔を見せた。
風呂から上がり、あの子が布団に就いた時には十時を少し過ぎる頃だった。
穏やかな寝顔を見届け、静かに寝室から出る。
リビングのソファに腰掛け、どこを見るでもなくぼんやりと考え事に耽る。
一人掛け用のソファはこの部屋に引っ越してきたのと同時に処分し、代わりに二人並んで座れるソファを我が家に迎え入れた。
あの子との生活が始まってから、既に半年が経過した。
何の計画も立てずに引き取ったけど、今やあたしの中心があの子になっている。
あたしにとってそのことが何より嬉しかったりもする。
けど、未だに遂げられていないあたしの役目をふと思い返した。
一体いつになったら、あたしはあの子に真実を告げるのだろう。
あの子の両親がもう戻ってこないかもしれないこと。
あの子が大人になるまで、もしかしたら大人になった後でさえ、あの子の親はあたしのままかもしれないこと。
半年も経ってしまったんだ。
あの子自身も気付いていたっておかしくない。
けど、そのことが言葉にしてはっきりと伝えてやることからあたしが逃げて良い理由にはならない。
あの子が幸せになるためには、このまま淡い期待を抱かせ続けるよりも、諦めさせる一言を言ってやる方が良いのかもしれない。
あたしと一緒に居る今がどうしてでき上がったのかを、ちゃんと理解させてあげることも必要なんだ。
それが幸せだなんて言い切れないけど。
でも、一つだけあたしの中で答えの出ない問いがある。
頭の中をずっと駆け回るそれは、考えるだけで苦しくなる言葉だった。
もしも。
もしもあの子の親が本当に戻ってきた時、あたしはどうするべきなんだろう。
一体どうするつもりなんだろう。
あたしの幸せはどうなるんだろう。
〇
誰かと過ごすクリスマスなんて何年振りだろうか。
心が燃えるような熱い夜にはならないけど、温かさでは負けていない。
何より寂しくないことがありがたい。
一人だけだと買う気にもならなかったケーキは、今年も買うことはなかった。
今まさにあたしとあの子で制作中だ。
二人でホールケーキを食べるのも大変だから、最初はそれぞれ好きなショートケーキを買おうかと思っていた。
ホールケーキでも余った分は翌日に食べても良いけど、そんなに日持ちもしないし味も落ちていくし。
小さめのブッシュ・ド・ノエルも良さそうだと考え、あたしの中で色々と案を出してはこねくり回していた。
いっそ自分たちで作ってしまおうかと思いつき、妙にしっくり来る。
子どもの頃に母親と弟とでクリスマスケーキを作ったことを思い出し、あの時のやけに楽しかった記憶がそうさせたのかもしれない。
色々と材料を買い集め、キッチンに食材や必要な容器を並べる。
スポンジや生クリーム、ホイップに彩り綺麗なフルーツたち、チョコペンも忘れてはいない。
これだけの材料を揃えると、もはやホールケーキ一つ買った方が安く済むかもしれない。
けど、今日はそういう日じゃない。
財布も手間も気に留めず、ただただ楽しい時間を作る。
あたしの横で目を輝かせているあの子のために、日頃の倹約が今日こそ活きる。
あの子も母親から送られてきた子ども用のエプロンを着て料理に参加する。
あの電話以来、両親とは話していないけど、突然送られてきた荷物を開けた時は、そのうち謝らなければいけないと反省した。
今あの子が着ているエプロンはもちろん、他にも洋服や昔あたしが遊んでいたおもちゃなんかも入っていた。
ケーキの作り方をサイトで検索し、料理を開始する。
あの子も小さな台をキッチンに運んできて、手伝ってくれるようだ。
まずは飾りつけ用のフルーツをそれぞれ切り分ける。
イチゴやキウイ、バナナ、それに缶詰のミカンなど、錚々たる面々がキッチンに勢揃いしていると、あたしでもワクワクしてしまう。
イチゴのヘタ取りやバナナの皮剥きはあの子にお願いし、包丁を扱うところはあたしがやっているところをあの子が横から眺める。
調理しながら、昔作ったフルーツのオブジェを少しずつ思い出した。
イチゴは半分に切り、二分したイチゴの間と尖った方のイチゴの先端にホイップクリームを付け、サンタクロースを象る。
キウイはツリーの形に、バナナは星型に、それぞれ切り分ける。
ミカンはクリームと一緒に半分に切ったスポンジの中に敷き詰める。
あたしがミカンを一切れつまみ食いすると、あの子は驚きつつも可笑しそうな表情でこちらを見た。
あたしも笑いながらミカンを一切れあの子の口に差し出す。
嬉しそうに食むあの子の顔を見て、ふと穏やかで切ない気持ちに満たされた。
スポンジにクリームを塗るのに相当手間取り、所々スポンジが見えた不恰好なケーキになってしまった。
何とかフルーツのオブジェとチョコペンで誤魔化し、遠目から見ると美味しそうにはなった。
記念に写真を撮りながら、昔もこんな出来だったなあと、突然ノスタルジーが襲いかかる。
カメラに映り込むあの子のはにかみを見て、すぐに今に救われたけど。
食卓の真ん中にケーキを据え、周りをフライドチキンやお洒落なサラダで囲う。
手を合わせ、食への感謝を心に浮かべ、料理をいただく。
「おいしい?」
期待通り、笑顔と大きな頷きが返ってくる。
首を横に振るはずないのは分かっているけど、この瞬間がどうしても嬉しくて堪らない。
親というのも、結構分かりやすい生き物なんだな。
喜楽を噛み締めた夕食を終え、時刻はすでに零時を過ぎた頃。
あの子はもちろんとうに就寝している。
あたしもそろそろ寝ようと、寝室に向かう前に台所の戸棚を開く。
鍋や洗剤の詰め替えパックの奥に匿われていた、リボン付きの包装箱を取り出した。
これが何かは言うまでもないから言わない。
箱の中身は明日になってからのお楽しみだが、これを手に入れるまでにはそれなりの苦労も伴った。
サンタクロースから何を貰うのかあの子に訊くと、あたしには頑なに教えてくれない。
だから、サンタクロースへの手紙を書かせ、間違いが無いかの校閲を装い、やっとあの子が欲しいものの情報を入手した。
包装箱は枕元にこっそり置くなんてリスキーな行為はせず、テーブルにクリスマスカードを添えて置いておく。
クリスマス最後の任務を終え、寝室に入る。
あの子はぐっすりと眠って、あたしも布団に潜り込む。
その直前に、あることに気が付いた。
あの子の布団の横に、サンタクロースへの手紙が置いてある。
これは、どうしたら良いんだろう。
今のうちに回収して、また戸棚の奥にでも仕舞っておくか。
音を立てないように気を付けながら、寝室から静かに持ち出す。
戸棚を閉め、これで本当に全ての任務を終えた。
寝室に戻り、布団に入って目を閉じる。
隣の穏やかな寝顔が明日の朝にはどれだけ弾けるか思い浮かべたら、喜びで力が抜けずなかなか寝付けなかった。
〇
あの子の母親と会うことになった。
もう二月だと言うのに、寒さは猛威を振るい続ける。
日本も本格的に四季が揺らぎ始めたなとほくそ笑んでいたら、あたしも笑っていられなくなってしまった。
最初に、あの子の祖母から連絡が届いた。
あの子の母親が一度あたしと話がしたいと祖母宛てに連絡があったそうだ。
あたしはその話を聞き、そもそもよくもまあのこのこと戻ってこれたなと、彼女の肝の強さに感心してしまった。
不倫をした挙げ句、夫と娘を見捨てて逃げ出したくせに。
話は今度の日曜日、あの子の祖母に仲介役として入ってもらう。
あの子は連れてこないでほしいということだった。
突然居なくなった母親と再会したら混乱してしまうだろうから、ということらしい。
それに関しては、あたしも同意だった。
あたしは今回の件をあの子に話さえしていない。
話してはいけないような気もするし、話すのが怖いというのもある。
結局、あの子がうちに来た経緯も話せてあげられていない。
向こうの目的が何なのかは分からない。
けど、行かないわけにもいかない。
思えば面識さえないのだから、どう話したら良いかも不安だ。
ただ言えることは、あの子にとって一番良い選択をするということだけ。
たとえ自分自身を蔑ろにしてでも。
当日、向こうが指定してきたカフェに向かうと既に二人があたしの到着を待っていた。
ここに来る前にあたしの実家へ寄り、あの子をあたしの両親に預けてきた。
それと一緒に、あの時の電話の件も謝った。
両親にも今日のことは話していない。
どう言えば良いか分からなかった。
とにかく今のあたしは内心空っぽだった。
何となく、今の生活が終わるんだろうと気付いている。
恐怖ではない。
ただただ大きな虚無感が心の中を真っ黒く埋め尽くしている。
「こっちです」
声のした方へ振り返ると目当ての人が呆気なく見つかる。
窓際の席から手を振り、憚るような笑顔を浮かべていた。
何てことない、普通の女性だった。
不倫なんてしそうもない綺麗でお淑やかな人だ。
先に到着していた二人は四人席で対角線になるように座っている。
どこに座るか一瞬たじろいだけど、とりあえず手前側の祖母の隣に座り、あの子の母親と向かい合う。
挨拶を軽く済ませ、コーヒーを注文し、改めて目の前の女性を見つめる。
会って話したいという連絡が来た時は正直首を討ってやるような気持ちでいたけど、日が経つにつれてその気持ちも弱り始めた。
今ではもう戦うどころか、既に負けたような気さえしている。
「あの子はどうですか?」
独り言のような小さな声で彼女はそう訊ねてきた。
穏やかで心地良い音が鼓膜に優しく響いてくる。
「とても良い子ですよ。手もかからなくて、一緒に居て楽しいです」
「そうですか」安心した表情で少し俯き、目線をティーカップに移す。
「……こんなこと、聞いて良いか分からないんですけど、どうして不倫したんですか?」
聞かないままでいようとも思っていた。
けど、実際に会ってみて、本人を見てみて、不思議で仕方がなかった。
こんなに真っ当そうな人が夫子を見捨てて不倫を働くなんて、疑わしくなってしまった。
気を悪くされるかと不安になったが、また少し俯いて呆気なく答える。
本人からしたら、きっともう何度も聞かれ尽くしたことなんだろう。
「大層な理由なんてないです。本当に、ただ私が情けないばかりに」
その言葉を聞いて、それ以上問い詰める気にもなれなかった。
もともとそんな気はないけど、本人が一番後悔しているんだろうと、彼女の声色から伝わってきてしまった。
いっそ被害者面してくれたら、あたしも憎めたんだけどな。
それから、彼女は家を出てからのことをゆっくりと話してくれた。
不倫相手とは家を出てすぐに別れたこと。
行く宛てを失くし、ずっと遠い場所へ逃げ出したこと。
そこで遂に行き倒れ、金も底を尽きたこと。
スナックやらショーパブやらの水商売で雇ってもらい、何とか食い繋いだこと。
それでも耐えられなくなり、結局自分の実家に帰ったこと。
しばらく引きこもり、最近やっと再就職し自立したこと。
つい先日、夫、つまりはあの子の父親と会い、離婚をしたこと。
聞いてみれば毛程も面白くない話だった。
不倫をした女性が自業自得の苦労を背負い、周りにもそれなりの迷惑をかけただけのことだった。
話している間、彼女はわざとらしく反省の色を見せてくるわけでも、天の悪戯や不可抗力のせいだと被害者面をするわけでもなく、淡々と起きた出来事を語り続けた。
少しも同情なんてしてやらないけど、今更責め立てる気にもなれない。
自分の話をし終え、そうして彼女は本題に入った。
あたしを呼んだ理由を話し始めた。
「もう一度、あの子とやり直したいんです。あの子の母親にもう一度なりたいんです」
そう言って下げられた頭を、あたしはどんな目で見ていただろう。
心の中で何人もの別人の自分が声を重ねて一斉に叫ぶ。
あの子を渡してはいけないという声。
彼女に託すべきという声。
とりあえず殴りつけてしまえという声。
全て許してやれという声。
今すぐ立ち去ってしまおうという声。
もう答えは出ているんだろうという声。
それをぼんやりと聞いているあたしは、自分自身が果たしてどれなのか見失ってしまった。
「今までずっとあの子の面倒を見て、大変な思いも楽しい思いもしてきたはずのあなたに、こんな都合の良いことを言える立場ではないことも分かっています」
彼女の言葉が何もかも間違っていなくて、それがあたしを納得させ、追い詰める。
この人は正しい人なんだと思ってしまった。
不倫をした人間に対する印象としては誤っているだろうけど。
「あなたが、そしてあの子が私を許してくれるなら、どうかお願いします」
もう一度深く下げられた頭に、あたしの思考も底の方まで落ちていく。
あたしはあの子が居なくなったらどうなるんだろう。
それはずっと考えていた。
考えて、最後まで答えは出てくれなかった。
けど、あの子のことなら少しだけ分かる気がする。
彼女がもう二度と間違いを犯さないと決めつけるには業が深すぎるけど、あたしだってこの先道を踏み外さないとは言い切れない。
結局あの子が歩む未来はあたしと彼女とでは大して変わらないのだろう。
どっちに付いて行こうと苦労もあれば喜びだって手に入る。
ただ、あたしはあの子を産んでやれていない。
長い間黙り続けるあたしを見て、呼吸の音すら気になるような静けさに堪え兼ねた頃、彼女は笑い混じりにやっと顔を上げた。
「ごめんなさい。やっぱり勝手すぎますよね」
ふと零れ落ちた微笑みがあの子にそっくりで、残酷なくらいに理解する。
ああ、本当にあの子の親なんだ。
後から思えば、それが決め手だったのだろう。
「いえ、こちらこそお願いします。あの子にとっても、あなたの方がきっと良い」
肉を絶つような決断だった。
なのに、泣きたい気持ちはなかった。
それくらい腑に落ちてしまえた。
けど、冷静に考えてみれば当然の選択だ。
彼女があの子と一緒に過ごしてきた日々は生まれてから五年以上。
たとえ途中から離れてしまっても、あの子にとっては大切な母親なんだ。
対して、あたしは一年にも満たない月日。
苦楽をそれなりに積み重ねても、やっぱりあたしは二番手にしかなれない。
あの子にとってもあたしにとっても、血と時間はあまりにも大きい。
あたしとは対照的に、諦めかけた願いが遂げられた彼女は呆然とした表情で涙が溢れて仕方ない様子だった。
ずっと黙っていた祖母もいつの間にかもらい泣きしている。
そんな二人を見ていると可笑しさが込み上げてきて、諦めた後悔さえ少しだけ薄らいだ。
〇
「あんたのお母さんがさ、また一緒に暮らそうって」
風呂上がりにあの子の髪をときながら、小さなつむじに話しかける。
あの子はゆっくりと振り返り、分かり兼ねた顔で見つめてきた。
あたしはなるべくいつもの笑顔を浮かべ「まだといてる途中でしょ」と、あの子の頭を正面に戻す。
あたしの下手くそな作り笑顔を見られたくないし、あの子の正直な顔も見たくなかった。
「今日、実はね、あんたのお母さんと会ってきたの」
上手いこと声が出ず、活気のない声ばかり口から零れる。
「急に居なくなってごめんねって謝ってたよ。でも、これからは一緒に暮らせるんだって。嬉しいね」
返事は何も返ってこない。
突然のことで混乱しているのかな。
「今度うちに会いに来てくれるって。たくさん遊んでくれるって」
既に髪の毛はとき終えていた。
なのに、櫛をいつまでも離せない。
「その日はあんたとお母さんと二人で、向こうのお家に泊まりに行きなよ。きっと楽しいよ」
あの子の頭を軽く撫で、櫛を洗面所に戻しに立ち上がる。
鼻を啜ったけど、泣いていたわけじゃない。
「今のうちから荷物もまとめなきゃね」
洗面所から戻ると、既にあの子は寝室へ移動していた。
驚いたのか、まだ信じられないのか、何にしても会いさえすれば実感も湧くだろう。
あの子が母親に抱き着く姿が目に浮かぶ。
その光景を少し後ろで眺めているあたしも一緒に。
あたしだけが残ったリビングを見渡し、だだっ広い密室に閉じ込められたような気持ちになった。
こんなにも広くて息苦しい場所があるなんて、あの子と出会わなければ知ることもなかったんだろう。
それを不幸だとも言いたくはないけど。
〇
遂にこの日がやってきた。
テレビを見ながら、あの子の母親の到着を待つ。
十分ほど前に駅に着いたという連絡を受けたので、そろそろ我が家に着く頃だろう。
淡いピンクのリュックにティッシュやら指人形やらを詰め終え、その横にはニットキャップを置き、いつでも出かける準備はできている。
インターホンが甲高く鳴り響き、構えていたはずの心臓をいとも容易く打ち鳴らす。
インターホンの画面に映った女性を確認し、エントランスの扉を開ける。
「どうぞ」
穏やかな声で招き入れると、彼女はカメラ越しに頭を下げた。
ソファでテレビをぼんやりと眺めるあの子へ近寄り、しゃがみ込んで目線を合わせる。
「お母さん、来たよ。準備しようか」
頷いたあの子に微笑みを返し、テレビを消す。
いつも見ていた子ども番組は丁度始まったところだったらしい。
ハンカチを持っているかの確認をし、笑顔でグッドサインを出す。
帽子を被るのは後で良いか。
リュックを背負わせたところで玄関のインターホンが鳴った。
受話器を取り、応答する。
「今行きます」
あの子の手を引き、扉を開く。
目が合ってすぐ、彼女は案の定頭を下げた。
「こんにちは」
その姿を見て、勝手に安心している自分がいた。
あたしも笑顔で挨拶を返す。
それと同時に、あの子の背中を押して前に出す。
「こんにちは。ほら、お母さん来てくれたよ」
しかし、あの子はあたしの足に掴まったまま、なかなか前に出ようとしなかった。
まだ緊張しているのかもしれない。
「久し振り」彼女も膝を突いてあの子に少し顔を近付ける。
「勝手に居なくなって、ごめんね。もう、あんなことしないから」
彼女は既に涙ぐんでいて、嘘のない本心はあの子にも伝わったんだと思う。
後ろに下がろうとする小さな足の力が緩み、一歩一歩少しずつ前に踏み出した。
お別れがすぐ側まで来ている。
首を絞めるような冷たい感触が走った。
「今日は色んな所に行こう。おいしいものもたくさん食べて、眠くなるまでたくさん話そう。ここであったこと、たくさん聞かせて」
あの子は何も答えないまま、二人はしばらく見つめ合う。
ふと、あの子があたしを見上げた。
あの子にとって何者でもないあたしと目が合う。
彼女と同じように膝を突き、こちらを見続けるあの子に笑いかける。
「ほら、行ってきな。やっと会えたんだから」
内心、泣きそうな思いだった。
もどかしくもあった。
何なら腹も立っていた。
あんたは今幸せの前に立っているのよ。
一度離れていった幸せをもう一度掴みかけているのよ。
それは滅多にないことなのよ。
こっちの気も知らないで、いつまでここに居るつもりなのよ。
このままここに居られると、あたしがいつまでも吹っ切れられないじゃない。
「行きな。ね?」
そう言って笑ったあたしに、あの子は首を横に振った。
「……は?」
夢を見ているのかと思った。
それさえ疑った。
あの子に抵抗されるなんて、夢にも思わなかったから。
何で?
どうして嫌がるんだ?
死にかけの笑顔と言葉を振り絞るのに、あたしがどれだけ心を押し殺しているかも知らずに。
本当、生意気なガキ。
それでも、あたしはあの子に救われた気がしたんだ。
「何で? きっと楽しいよ。今日だけじゃない。これからずっと楽しい毎日になるのよ?」
それでも、あの子は首を横に振り続ける。
しかめた眉で、わがままな顔で、強く強く拒み続ける。
「どうしてよ。あんたの本当の母親なのよ? ずっと一緒に居たんだから分かるでしょ? 何で? お母さんのこと嫌いなの?」
その問いにも首を横に振る。
涙を流しながら否定するあの子に、あたしも訳が分からなかった。
「そうでしょ? だったら何で? 何でよ。本当の母親なのに、何で? あたしにはなれないのよ」
それでもなお、あの子は頑なに認めようとしない。
あたしの言うことに頷こうとしない。
黙り続ける彼女の顔は見れなかった。
この状況で、あたしはどんな顔をして見たら良いのだろう。
「何でよ……何なのよ」
もはや否定や拒否しか返ってこないと悟る。
声も弱り出すけど、それでも訴えるしかなかった。
一歩ずつあたしへ歩み寄り胸に抱き着いてくるあの子を見て、最後の力も消え失せてしまった。
抑えようもない涙を流しながら、それでも泣きじゃくる声を抑え込んでいる。
あたしの胴に腕を回し、服を掴んで離さない。
自分でも既に気付いているのかもしれない。
結局あの子が歩む未来はあたしと彼女とでは大して変わらないのだろう。
どっちに付いて行こうと苦労もあれば喜びだって手に入る。
今も変わらずそう思っている。
あの子にとってもあたしにとっても、血と時間はあまりにも大きい。
今も変わらずそう思っている。
けど、もし血も時間も、人でさえも関係ないのなら。
彼女にできて、あたしにできないことって何なんだろう。
分からない。
きっとあたしには分からない。
あたしが選ばれる理由なんて分かるはずない。
「やっぱり、あなたじゃなきゃダメみたいです」
声を零した彼女を見上げたら、赤く腫らした目を残して涙はとうに居なくなっていた。
悔しい感情ではない、諦めたような表情だけを浮かべている。
それはまるで、さっきまでのあたしを見ているようだった。
あたしが何か言う前に彼女は立ち上がる。
玄関の敷居を跨ぎこちらへ振り返ると、笑顔がぽつりと浮かんでいた。
手を振りながら明るんだ一言だけを残した。
「元気でね」
あの子は決して動かず、首だけを彼女の方へ向ける。
強く頷いた我が子を見て、笑みを絶やさず立ち去った。
あたしが奪ったと言えばそうかもしれない。
あの子が見捨てたと言えばそうかもしれない。
誤った人生からやり直しを取り上げたと責められれば、あたしたちは何も言えない。
それでも、今だけはあたしを選んでくれたこの子がこんなにも愛おしい。
二人だけになった玄関で、この子をやっと抱き締めた。
この子があたしを掴んだように、あたしもこの子が良かったんだ。
〇
「俺、要る?」
広々とした校庭にレジャーシートを敷き、あたし手製の重箱弁当をみんなで食べる。
せっかくの運動会で恥ずかしい昼食は出せないから、気合を入れて作ったわ。
ただ豪勢に見せようとすると必然的に量も増えていくので、胃の小さな女性二人では持て余してしまう。
そのために、貧乏暮らしで腹を空かせた成人男性を一人招集したというわけだ。
「おいしいでしょ。文句言わず食いな」
弟の紙皿に唐揚げを二個よそいながら笑顔で睨みつける。
関係ないけど冷凍食品ってすごいわね。
赤が顔を見せる運動帽を首にかけ、この子は卵焼きを頬張っている。
それはあたしが作ったやつだ。
「おいしい?」
微笑みながら訊ねると、笑顔の頷きが返ってくる。
赤く滲んだ膝の絆創膏に目を遣り、勲章だと思い込む。
その時の光景は親として心臓が止まるような思いだったけど、今笑っているこの子に何より安堵している。
徒競走の順位なんて何だって良いんだから。
周りを見てみると、両親ともが参観している家庭や祖父母まで来ている大所帯、片親の家族もちらほら見えれば、複数の家族が一緒にお弁当を食べていたりもする。
みんな楽しそうな顔をしていて、他人の家庭なんかに興味を示す暇はない。
そう思い少し安心していた。
昼休みが半分ほどになった頃、この子は満足したのか箸を置いて手を合わせた。
口の中はまだもぐもぐしている。
おしぼりで口を拭いてやっていると、あたしたちのレジャーシートに女の子が二人近付いてきていた。
あたしが二人の方に目を遣ると、少し強張りながら「こんにちは」と、声を揃えて挨拶した。
あたしも優しく頬を綻ばせて応える。
「こんにちは」
すると、突然この子が慌てたようにおしぼりを押し退けた。
何かと思ったけど、すぐに二人がこの子の友達なのだと気付く。
親に口を拭かれるのを友達に見られたら、恥ずかしがるのも無理はない。
でも、そっか。
この子にも本当に友達ができていたんだなあ。
家で話してはくれているけど、こうして会ったのは初めてだった。
「友達?」
そう訊ねると、この子は照れ臭そうに頷いた。
あたしは二人の方へ向き直り「仲良くしてくれてありがとうね」と、笑いかける。
二人の照れ臭そうな笑顔を見て、親としての一つの役割を終えたような気がした。
何となく弟の方を見ると、女の子たちに猫背を向けて怯えを隠すようにおにぎりを食べていた。
相変わらず子ども嫌いは直っていないらしい。
立ち上がったこの子は二人に近寄り、すぐにあたしへ振り返った。
その瞳だけで何が言いたいのかは察しがつく。
「うん、行ってきな。気を付けてね」
一層綻んだ顔を見せ、三人並んだ少女の背中が駆け足で離れていく。
見送るあたしの目には哀愁ばかりが沈んでいただろう。
「早速の親離れで悲しいか」
そんなあたしを横目で見ていた弟が生意気な口振りで言ってきた。
「別に。そんなんじゃないわよ」
強がりで言ったわけではない。
本当に、そういうことではないんだと思う。
ただ突然現れた嬉しさを真正面から受け止め切れなかったんだ。
「ふうん……辛み苦しみも醍醐味か」
そう言ってお茶を啜る弟を何となく殴る。
「何だよ」
「いや、ムカついたから」
「よく親やれてんな」
あんたが分かり切ったことを腹立つ言い方するからよ。
でも、本当にこの先はそういうことばかりなんだろうな。
飲み込めない辛さとか、抱え切れない喜びとか、忘れられない切なさとか。
そういうたくさんに出会っていくんだろう。
それがあたしの望んだ行く末なんだから、しんみりする必要はないんだけどさ。
「そういえば、あの子の父親、債務の方はもう何年かかかりそうだってな」
突然弟の口から飛び出してきた言葉に少し戸惑う。
そうしてすぐに言葉の意味を理解し、安心している自分に気付いた。
それが弟にもバレてしまったのだろう。
「……まあ、何にせよ大事なのはあの子の幸せだからな。姉ちゃんのおかげであの子の父親も安心できてる部分はあるだろうし」
やっぱり分かり切ったことしか言ってくれない。
それがどこか安心できた。
あたしの今は間違いじゃないと、肯いてもらえているようで。
それを弟にされているのは少し癪だけど。
「分かってるわよ。あんたに言われなくてもね」
そう言ってお茶を一気に飲み干す。
弟もそんなあたしを見て小馬鹿にするみたいに笑った。
こういう笑い方しかできない子なんだけどね。
「あんまり気にしすぎるなよ。他人の幸不幸は後で良いんだからさ」
やっぱり生意気な口を利かれて少しふてくされる。
目を逸らした拍子に遠くを見遣ると、鉄棒の側で談笑しているこの子を見つけた。
向こうもあたしに気付き、小さな微笑みを送る。
返事として手を振り返した時、温かく包まれるような気持ちになった。
晩春の日差しがまばらな雲間から降り落ちている。
今日が小さく晴れてくれたことが、あたしは何より嬉しかった。
『炉』